第三章 ケルベロス嬢1
「お誕生日おめでとう、茜ちゃん」
深い皺をくしゃりとして、祖母はそう少女に微笑みを見せた。祖母の言葉に続いて、今度は祖父が「お誕生日おめでとう」と少女に微笑みを浮かべる。
少女と祖父母が囲んでいるテーブルには、フライドチキンやビーフシチュー、ピザや寿司など、まとまりのない料理が多く並べられていた。少女が好きだろう料理を祖父母が選んでくれたのだろう。実際のところは少女に特別好きな料理などなく、ここに並べられた料理も平凡な評価でしかない。だがその祖父母の気持ちには感謝していた。
料理を一通り食べ終えたところで、祖母が冷蔵庫から大きなケーキを取り出し、テーブルの中心に置いた。少女の歳の数だけロウソクをケーキに立てて火をつける。ニコニコと笑みを浮かべる祖父母に、少女は多少躊躇いながらロウソクの火を吹き消した。
「これは私たち二人からのプレゼントよ。そしてこれが――」
少女にリボンで飾られた包みを渡し、祖母がさらにもうひとつ包みを取り出す。
「茜ちゃんのお母さんから。誕生日には帰れないけど、せめてプレゼントだけでもって」
そう話しながら、祖母は変わらず微笑みを浮かべていた。祖父もそうだ。だが少女は気付いていた。ニコニコと柔らかく微笑んでいる祖父母。その二人の表情に――
僅かな陰りが覗いていることに。
身内だけの誕生日会を終えて、少女は二つのプレゼントを持ち、自室へと戻った。ベッドに腰掛けて、祖父母からのプレゼントを開ける。中身はヌイグルミであった。子供たちの間で流行しているゲームの、その物語に登場するモンスターだ。
ヌイグルミをベッド脇に置いて、今度は母親からと渡されたプレゼントを開く。中身はやはりヌイグルミであった。祖父母のくれたヌイグルミとは異なるものだが、それもまた祖父母がくれたヌイグルミ同様、ゲームに登場するモンスターであった。
何とも詰めが甘い。
祖父母が購入したのだろう母親からのプレゼントもベッド脇に置いて、少女はごろんとベッドに横になった。そして小さな疲労感に促されるまま、栗色の瞳を静かに閉じる。
特に何も思わない。裏切られたなど感じない。初めから分かっていたことだ。娘を捨てた母親が、娘の誕生日にプレゼントを贈ることなどない。そんなこと馬鹿でもない限り分かることだ。そして少女は馬鹿ではない。全てを理解して受け入れていた。
そのまま少し眠っていたらしい。目を覚ました少女は、ベッドから下りて部屋を出た。喉が渇いたのだ。廊下を歩いていると、リビングから祖父母の会話が聞こえてきた。
「子供の誕生日にも姿を見せないだなんて、一体何を考えているのかしら?」
祖母の責めるようなその口調に、少女は歩く足を思わず止めた。祖父が「あまり大きな声を出すな。茜に聞こえるぞ」と祖母を窘めて、力のない溜息を吐く。
「何か理由があるのかも知れん。何も事情を知らないで責めるのは良くないだろう」
「私もね、彼女が悪い人だとは思わないわ。息子から彼女を紹介された時も、とても明るくて素直な子だと思ったものよ。だけど、子供の誕生日に連絡のひとつもあげられない理由って何なの? 今の時代、手紙でも電話でも連絡する手段は沢山あるでしょ?」
「それは俺にも分からん。だがあるいはそれが、息子の話していた彼女の『事情』というやつなのかも知れん。それが理由で、二人は正式に婚姻すら結んでいないのだろ?」
祖父のこの言葉に祖母が沈黙する。重苦しい静寂の中で、カチカチと時計の秒針が刻む音が虚しく響く。しばらくして、祖母が躊躇うような口調で呟く。
「やっぱり、二人を別れさせるべきだったのかも知れないわ」
「止めろ。今更それを話してどうする?」
「でも……これじゃあ茜ちゃんが可哀想よ。この前の家庭訪問の時にね、先生に言われたの。茜ちゃんは小学校で友達を作らず、一人でいることが多いって。きっとお母さんのことで塞ぎ込んでしまっているのよ。子供にこんな悲しい思いをさせるなんて……」
「それでも、茜の母親は彼女だけなんだ。あまり悪く言うものじゃない」
「せめて父親が……あの子が生きていたら」
「それこそ……どうしようもないことだ」
まだ二人の会話は続くのかも知れない。だがすでに興味の失せていた少女は、踵を返して自室へと歩いていく。いつの間にか喉の渇きもなくなっていたのだ。
(馬鹿馬鹿しい)
廊下を歩きながら胸中で呟く。学校でいつも一人なのは、周りが馬鹿ばかりだからだ。互いのご機嫌を伺いながら、当たり障りのない会話で辛うじて結ばれた友人関係。脆弱な関係性から弾かれることを常に怯えて、歯の浮くようなおべんちゃらを並べる彼らと、どうして無理に関わらなければならないのか。
(馬鹿は嫌いなのよ)
一人でいるのはそれを望んでいるからだ。母親に捨てられたからと、塞ぎ込んでいるなどあり得ない。母親のことなどどうとも思わない。初めから何も期待していない。
(あたしは馬鹿じゃない。お母さんが戻ってこないことなんて、知ってるんだから)
少女の胸元でチャリと音が鳴る。母親から渡された安物のネックレス。その細い鎖の先につながれた、ガラス細工のペンダント。胸元で揺れるそのペンダントを――
少女はきゅっと右手で握りしめた。
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「おい、茜。もう街に着いたぞ。いい加減に起きろって、お前は」
ゆさゆさと体を揺さぶられて、芹沢茜は栗色の瞳をゆっくりと開いた。眠気眼の視界に映し出されたものは、頭に小さな王冠を乗せた、つぶらな瞳のトカゲであった。
ピクリと眉を揺らす。だがすぐにそれが、デフォルメされたドラゴンの着ぐるみ、リュウオウくんであるということを思い出し、茜は小さく嘆息した。毛先のカールした栗色の髪を指先で掻きながら、茜は欠伸混じりに着ぐるみの中身に話し掛ける。
「最悪の寝心地だったわ」
「お前……背負われているだけの分際で、寝心地まで要求すんじゃねえよ」
背中を振り返りながら、つぶらな瞳を半眼にするリュウオウくんと、その中身――流王真治。正面で担いでいる巨大なリュックサックをパンパンと不満げに叩く彼だが、茜はそれを特に気にすることもなく、背負われたままの姿勢で周囲を見回した。
「それで……ここがコボルトの話していた、ケルベロスの街なの?」
視界に連なる重厚壮麗な建物の数々。隙間なく敷き詰められた石畳に、緻密な計算により積み上げられた石造りの住居。天を衝くように高くそびえる尖塔に、文明の高さが伺える通りに並んだガス灯。街の中を行き通う人の数も多く、リザードマン村と比較して、この街の規模が桁違いであることが窺えた。
「種族名で呼ぶな。俺のことはジョゼフ・コボルト、ないし永遠の恋人と呼べ」
眠気眼に街の中を見回す茜に、そんな頭の悪い言葉が掛けられる。視線を街並みから外して、右横に移動させる。真治の右隣に立っているボサボサ髪の少年――
ジョゼフ・コボルトが偉そうに胸を反った。
「いかにも、ここがケルベロスの管理する都市だ。魔界でも十指に入る大都会だな」
「私も十年前にお父さんと観光したことがあるんですけど、やっぱりすごいですよね」
ジョゼフに続いて、何とも無邪気な声が聞こえてきた。茜はジョゼフから視線を外し、今度は左横に視線を移動させた。真治の左隣に立っている碧い髪の女性――
アリエル・リザードマンが上機嫌に微笑む。
「東西南北に向かう街道と通じていることから流通の拠点にもなっていて、都市を管理しているケルベロス族のみならず、多くの種族がこの街で暮らしているそうですよ」
尻尾をふりふりと左右に揺らしながら、そう都市の解説をするアリエル。彼女の言葉を証明するように、通りを歩いている人々は非常にバラエティーに富んでいた。二足歩行する狼のような者や獅子の頭部をした者、全身が岩で作られた者や地面を転がり移動する蟲など、その種類は多岐に渡っている。
だが全体的な割合としては、狼の姿をした者が半数近くを絞めているようだ。その検証結果から、この種族がこの都市を管理しているケルベロス族なのだろうと推測する。因みにアリエルのように人の姿に酷似した者もいないわけではないが、その数は非常に少なく一割にも満たない。隔世遺伝体という特別な個体はやはり希少であるらしい。
「んでよ、この街のどこにいんだよ? その何とかって奴はよ」
待ちきれない子供のように、真治が声を弾ませてそうジョゼフに尋ねた。着ぐるみのつぶらな瞳をキラキラと輝かせる彼に、ジョゼフが「何とかではない」と頭を振る。
「マリーズ・ケルベロス。ケルベロス嬢とも呼ばれる、この街の統治者だ」
「何だっていいんだよ。とにかく、そいつが喧嘩の強え奴なんだろ?」
「強いなんてものか。ランキング8位の化物だぞ。お前も魔族ならば敬意を払うがいい」
ジョゼフの苦言に耳も貸さず、真治が「8位か」と嬉々と独りごちる。
「女となるとちとやりづれえが、相手が魔族だってなら気にすることもねえか。かああ、楽しみだなオイ! ダニエルのオッサンみてえに、魔法とか使うんかな!?」
「シンジさんならきっと負けませんよ。私も応援していますからね」
両拳を握りエールを送るアリエル。頬を僅かに紅潮させている彼女だが、その彼女の様子に気付くこともなく、真治が「任せとけ!」と安請け合いして両腕をグルグルと回す。楽観的な真治に嘆息を漏らしつつ、茜はジョゼフを一瞥して冷たく告げる。
「ご苦労さん。もう道案内は必要ないから消えてちょうだい。目障りだから」
「二日間もの旅路をともにした者に対して、もう少し優しい言葉は掛けられんのか?」
文句を述べながらも傷付いた様子のないジョゼフに、茜はふんとそっぽを向いた。
リザードマン村で、ジョゼフからケルベロスの情報を得た茜と真治は、その日は旅支度に当てて、翌日にケルベロス都市に向けて出立をした。一日かけて森を抜けて近くの村で一泊――村の名前は訊いていない――、そこから街道を徒歩で移動すること五時間、今日の昼過ぎにようやくケルベロス都市に到着したのである。
日頃運動することのない身としては、非常に苦痛な旅路であった。その疲労と苛立ちから舌を鳴らしつつ、茜は淡々とジョゼフに悪態を吐く。
「こんな過酷な旅をともにしたからって、殺意以外の感情なんて芽生えないわよ。どうせ情報を寄こすなら、もっと近くにいる奴のものにしなさいよね」
「これでも近いほうだ。他のランキング上位者は、この数十倍の距離はあるぞ」
「そもそも茜。お前はずっと俺に背負われているばかりで、自分で歩いてないだろうが」
生意気にも正論を吐いてくる真治に、茜は「なに文句言ってんの?」と頭を振る。
「女子高校生を背負えるだなんて、男子高校生には最高の喜びでしょ?」
「人の肩に涎を垂らす女を背負って、どうして喜ばなきゃならねえんだ?」
「これからはあたし用に、常に居心地の良いベッドか椅子でも背中に担いでなさい」
「人様の背中を快適な空間にカスタマイズしようとすんじゃねえよ」
「何にしろ、アンタももうあたし達に用なんてないでしょ。そもそもアンタ、オレアンダー森林に何か用事があったんじゃないの? その用事はどうなったのよ」
栗色の瞳を細めて、ジョゼフにそう尋ねる茜。彼女の指摘に「その点については問題ない」とジョゼフが肩をクイッとすくめた。
「俺の推測では、俺が調査しようとした事柄と貴様たち二人は密接に関係している」
「は? どういう意味よそれ?」
「時に貴様たち、セーレを知っているか?」
唐突に話題を切り替えるジョゼフに、疑問符を浮かべる茜と、三頭身の大きな頭を傾げさせる真治。二人のこの反応に、ジョゼフがさらに言葉を加える。
「序列70位の悪魔セーレだ。悪魔については俺たちコボルトもその全容を把握しているわけではないが、まだ三百歳を超えたばかりの若い悪魔で、絶大な魔力を誇る存在だ」
「……知らないわね。アンタが森で調査していたことって、その悪魔についてなの?」
こちらの疑問には答えず、探るような目つきで茜を見つめるジョゼフ。まるでこちらの心の奥底を見透かそうとしているようだ。ひどく真剣な面持ちの少年に、茜も油断なく栗色の瞳を細める。しばらくして、ジョゼフが息を吸い、重々しく口を開いた。
「……上から99、56、84」
訝しく眉をひそめる。すると唐突に「ひっ!」と奇妙な声が鳴った。声の出所に振り返ると、そこには顔を赤くしているアリエルの姿があった。意味が分からず首を傾げる茜。アリエルが自分の体を抱きしめて、慄くように震えた声で呟く。
「それ……私のスリーサイズ。どうして知ってるんですか?」
「俺ぐらいの猛者となれば、服の上から見ただけで分かるものだ」
ふんぞり返るジョゼフ。どうやら先程の少年の真剣な目つきは、アリエルのスリーサイズを計るためのものだったらしい。何とも馬鹿らしい事実に、茜は深く溜息を吐く。
「まあ知らぬなら別に構わん。だがもうしばらくは同行させてもらう。俺たちコボルト族は未知を探求する種族だ。俺たちにとって無知とは罪。悪魔セーレを別にしても、貴様たちという未知なる存在もまた、捨ておくわけにはいかんからな」
どうやらこちらの意思など無関係らしい。苛立たしく溜息を吐く茜。一見ふざけているようで、この少年は油断ならない。自分さえも少年の口車に乗せられて、気色悪い言葉を言わされた苦い経験があるのだ。
(何を調べているのか知らないけど、面倒事になるなら早めに手を打たないとね)
そう気を引き締める。するとここで「あの……」とアリエルが、遠慮がちに声を掛けてきた。アリエルに振り返ると、彼女が顔に赤らみを残したまま眉尻を落とす。
「私も……まだ一緒にいて構いませんか? あの、決して邪魔にはならないので」
表情に不安の色を浮かべてそう尋ねてくるアリエルに、茜はふと眉根を寄せる。
アリエルが旅に同行しているのは、旅費の工面をしてもらうためだ。下着泥棒の一件で村を破壊した真治。だが「魔族らしくて良い!」となぞの高評価を下したダニエルは、ケルベロス都市までの旅費をアリエルに持たせ、彼女を旅に同行させたのだ。
無一文のこちらとしては、ダニエルの申し出を断る理由などない。だがお金を渡すだけで済むところを、わざわざ財布代わりに娘を旅に同行させるなど奇妙なことだ。そう初めは疑問に感じていた茜だが――
頬を赤らめてチラチラと真治を見やるアリエルに、いい加減その真意に気付いていた。
「もちろん構わねえよ。アリエルにも俺が喧嘩に勝つところ見せてやっからな」
「ありがとうございます。シンジさんの素敵な姿を私もちゃんと目に焼き付けます」
不安の色を打ち消して、アリエルがパアと表情を華やがせる。アリエルの熱を帯びた視線になどまるで気付かず、おだてる彼女に調子づいてヘンテコなポーズを決める真治。彼の見事なまでの滑稽な姿に、茜はこめかみを押さえて溜息を吐いた。
(ホント……面倒事はごめんなんだけど)
とりあえず、はしゃいでいる真治を一発殴りつけ、茜は彼の背中から地面に降りた。