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Beside You  作者: 藤原 秋
Bsside You 3 ~始まりの魔法都市~
16/33

01

 魔人(ディーヴァ)と呼ばれる強大な力を誇る種族が存在し、特異な能力(チカラ)を秘めた生物達が跋扈(ばっこ)する世界―――。


 力無き人々はそれらの脅威に対抗する為、様々な武具を造り出し、呪術と呼ばれるチカラを編み出した。


 呪術とは、己の持つ魔力を源に様々な現象を具現化する魔法のチカラ―――それを操る能力を持つ者達を総称して、“呪術師”と呼ぶ。


 ひとくちに呪術師と言っても、その系統は実に様々である。火水風土の四大元素に基づいた力を振るう者、神に祈りを捧げることで病気やケガを癒す者、逆に邪神に祈りを捧げ他人に災いを及ぼす者など、多種多様だが、彼らに共通するのは、呪紋(じゅもん)と呼ばれる紋様を描くことによってその力を発動する点だ。


 魔法都市アヴェリアは、その呪術師達の聖地と呼ばれる魔法文明の発達した独立都市で、世界中から多くの呪術師達が集ってくる。街は選ばれた高位の呪術師達によって形成される評議会により運営され、独自の魔法技術の探究を観念形態(イデオロギー)に、日々新しい呪紋(じゅもん)の研究や開発が行われている。


 その恩恵を受けた人々の暮らしぶりは豊かで、夜でも街を煌々と照らし出す魔法の明りはアヴェリアの精華であり、象徴であるとも言える。








 レイオール・ウォルシュは祭りで賑わう街中を一人闊歩(かっぽ)していた。


 はしばみ色の髪に、同色の瞳。甘めな顔立ちをした快活そうな少年だ。


 上質な素材で作られた白の長衣(ローヴ)の上から上品な光沢のある緑の外套(がいとう)を羽織った、一見呪術師のような装いの彼の腰に装備されているのは、杖の類ではなく、優美な細工の施された細身の剣だった。


 家族連れや恋人同士が目立つ、年に一度の祭りの人込みの中で、彼のようにこうして一人で歩いている者は珍しい。


 だが、噴水広場と呼ばれる場所まで来た時、彼は自分と同じように一人でいる少女を見かけた。


 噴水を取り囲むようにして設置された劇場型のベンチに一人腰を下ろして、どこかの露店で買ってきたらしいサンドイッチを幸せそうにほおばっている少女は、緩やかなクセのある長い銀色の髪に大きなすみれ色の瞳が印象的だった。彼女は青空の下で涼やかな音を立てて飛び散る水飛沫と、噴水の中央に佇む背中合わせの双子の女神の彫像を眩しげに瞳を細めて見やっている。


 ―――可愛い。


 彼女をひと目見た瞬間、レイオールの心は躍った。


 もろ好みだ。


 脊髄反射的に、彼は少女のもとへと足を進めていた。








「こんにちは」


 ローストした甘辛い味付けの鶏肉と色とりどりの野菜を豪快に挟んだサンドイッチを食べていたフユラは、頭上から降ってきたその声に顔を上げた。


 見覚えのない、彼女より少し年上だと思われる、品の良さそうな身なりをした少年がそこに佇んでいる。彼は彼女を軽く覗き込むようにして、優しそうな笑顔をこちらに向けていた。


「……。こんにちは」


 とりあえず声を返すと、少年は無駄のない動きで彼女の隣に腰を下ろしてきた。


「一人? それとも誰かと待ち合わせ?」

「連れがいるけど、今は一人」

「連れ? 彼氏?」

「ううん」


 首を振りながら、フユラはふと考えた。自分とガラルドとの間柄を第三者に説明する場合、どう言い表すのが適当なのだろう?


 ガラルドなら間違いなく保護者と被保護者の関係だと答えるだろう。間違いではないのだが、それではフユラ的に何となく寂しい。


 旅の連れ? 仲間? 運命共同体?


 思い当たる言葉は色々あれど、どれもいまいちしっくりこない。どれもが当てはまると言えるけれど、そんな単純な言葉だけでは言い表せない関係なのだとフユラは思った。


 彼女の心理に差し込んだそんなささやかな疑問など知るはずもなく、少年は人懐っこく話しかけてくる。


「その人、すぐに戻ってくるの?」

「ううん。後で落ち合う約束になっているから……」


 素直に言ってしまってからフユラは気が付いた。しまった。今のは嘘でもすぐに連れが来ると言うべきところだった。


「じゃあ、良かったらそれまでオレと一緒に祭りを見て回らない? 丁度暇していたところだったんだ。急に友達の都合が悪くなっちゃって」


 案の定、相手はフユラを誘ってきた。典型的なナンパだ。


 強面のガラルドが側にいる限りは絶対にないことなのだが、この手の声を掛けてくる者は彼女の成長と共に増加傾向にあった。特に大きな都市ではその率が高く、一人で行動する時には気を付けるようにと保護者の青年から口酸っぱく言われている。実は今朝もそれを言われたばかりだったのだ。


「ごめん、あまり時間がないから一人でさっと見て回りたいの」


 やんわりと断ってみたものの、ナンパ男はまるで動じず、にこやかな表情のまま親切心を装って話しかけてくる。


「君、この街の人じゃないでしょ? 時間がないなら余計、地元の人間に案内してもらった方が効率よく回れるよ」


 仕方なく、フユラは少しきつい口調で言った。


「知らない人とは一緒に行動しない主義なの」


 彼女的にはこれできっぱりと断ったつもりだったのだが、ナンパ男は折れなかった。


「あ、もしかして警戒してる? オレ、レイオール・ウォルシュ。十七才。この街で一応名士って言われている人の息子。ほら、これでもう知らない人じゃないよね」


 レイオールはにっこり笑って、困ったように眉根を寄せる少女を見やった。


 ひと目見て好みだとは思ったが、近くで見た彼女は彼の予想を上回る可愛らしさだった。こんなに可愛い()は見たことがない。あと数年もすれば、世界中の男がかしずかずにはいられないような美しい女性へと変貌することだろう。


 この機会に、どうにかして仲良くなりたい。だが、彼の思いとは裏腹に、少女の態度はつれなかった。


「そういうの、『知ってる人』には入らないのよ」


 にべもなく()ねられたレイオールは瞳を瞬かせた。


 父親の知名度と潤沢な資金、それに自身の甘い顔立ちと人懐っこく快活な性格のおかげで、レイオールは生まれてこの方、女性関係に不自由したことがなかった。もちろん、ナンパも失敗した経験がない。


 この街の住人ならば誰でも『ウォルシュ』の名に少なからぬ反応を示す。特に年上のお姉様方には効果絶大だ。仮にこの街の住人でないとしても、『名士の息子』という言葉を出せば、ほとんどの女は疑いながらもささやかな反応を示すということを、レイオールは自身の経験から知っていた。


 しかし目の前の少女はその言葉にも彼自身の容姿にも全く興味がない様子で、黙々とサンドイッチを食べる作業に戻ってしまった。


「じゃ、ここでちょっと話そうか? そしたら『知ってる人』になれるかな?」


 これまでにない反応に内心戸惑いながらも、この少女の興味をどうやって引こうかとめげずに頭を巡らせていると、レイオールをしつこいと判断したらしい彼女はサンドイッチの残りを口に詰め込み、ベンチから立ち上がってしまった。


「―――あ、待って」


 レイオールはあせった。こんなパターンは初めてだ。このまま立ち去られてしまってはレイオール自身の沽券に関わる。だが追い縋るのは彼のプライドが許さない。


 ―――どうせこのまま、二度と会うこともないのなら。


 足早に立ち去ろうとしていた少女の腕を掴み、レイオールは振り返った彼女の桜色の唇をかすめるようにして奪った。一度重ねて、形の良い唇の端にわずかについていたサンドイッチのタレを舌先で軽くなめ取り、微笑みかける。


「タレ、ついてる」


 キスはどんな女性の思考能力も一瞬止める力を持っている、とレイオールは思っている。そして彼は自らのキスの魔力に少なからぬ自信を持っていた。不意を突いた口付けの後、蠱惑的(こわくてき)なレイオールの眼差しに捉えられ、その後のキスで落ちなかった女はいない。


「キスするの、初めて?」


 突然の出来事に愕然としている少女にそう囁きながらとどめの口付けにかかろうとしたレイオールの端麗な顔は、渾身の力を込めて突き出された彼女の拳によって、見事にそっくり返った。


「―――なっ、にすんの、変態っ!!」


 右腕を真っ直ぐに突き出したまま、左手で口元を覆うようにして少女―――フユラが叫ぶ。


 自身の唇に残る感触が、信じられなかった。


 ―――キスされた。


 羞恥、怒り、動揺―――押し寄せるさまざまな感情に、フユラは顔を真っ赤に染め上げ全身をわななかせたが、ショックでそれ以上の言葉が出てこない。せめてもの抗議に潤んだ瞳で精一杯目の前の少年をにらみつけると、その場を逃げ出すようにして走り去った。


「いっ……て、ぇ……」


 衆人の注目を集める中、したたかに殴られてしまったレイオールは、熱い痛みを訴える顔面を手で押さえながら、人込みに紛れ見えなくなっていく少女の後ろ姿を見送った。


 どうせこれでもう二度と会うことも出来ないのなら、せめて良き思い出にと彼女の唇をせしめたのだが、手痛い代償を払うことになった上、変態呼ばわりまでされてしまった。


 いや、悪いのはあくまでレイオールなのだが。


 見事な正拳突きを繰り出して走り去った少女の姿は、もう見えない。


 初めての経験は、ほろ苦い思いと共に忘れ難い何かをレイオールの心の中に残した。


 ―――もう一度会って、リトライしたいな。


 唇を重ねた瞬間の、驚きに見開かれた大きなすみれ色の瞳を思い出しながら、彼はそんな自分勝手なことを思った。








 ―――最低、最低、最低ッ!


 晴れやかな楽曲の流れる街中を怒りに任せて足早に駆け抜けながら、フユラは手の甲で乱暴に唇を拭った。


 油断した。バカだ。ガラルドにもああいう男には気を付けろって言われていたのに。


 素直に受け答えなんかしていないで、無視してさっさと立ち去るべきだった。


 フユラは先程の自分の行動を激しく後悔したが、どれだけ後悔してみても、現実に起こってしまった出来事はなかったことにはならない。


 拭っても拭ってもそこからレイオールの感触が消えず、自分の唇が穢れている気がして、フユラはたまらず、再度口元を拭った。


「痛っ……」


 あまりにもこすり過ぎて、唇が切れた。


 血の味がじわりと広がるのを感じる。と同時に無性に悲しくなってきて、フユラはすみれ色の瞳を潤ませた。


 周囲の人々が笑いながら楽しそうに行き交っていく中、こんな気持ちの自分だけがひどく浮き立っているような気がして、余計に落ち込んでしまう。




『……オレ以外の奴にするんじゃねーぞ。分かったか?』




 おぼろげに耳に甦る、遠い日のガラルドの声。


 それは昔、キスの意味がまだ良く分かっていなかった頃、幼い彼女が誰彼構わずキスをすることがないようにと、戒める意味で保護者の青年が口にした言葉だったが、フユラは物心がついてからもずっと、彼以外の誰かとキスをしたいとは思わなかった。多分、その思いはこれからも変わることがない。


 ―――なのに、今日。自分から望んでしたわけではないが、こんなことになってしまうなんて。


 フユラはうつむき、そっと自身の唇に触れた。


 ガラルド以外の男の人にキスされてしまった、その事実がただひどく悲しかった。








 ―――祭典期間中、当館は休館となります。


 巨大なライブラリーの入口に立て掛けられたその掲示板を見た時、ガラルドは盛大に顔をしかめ、ガラの悪い声を上げた。


「あぁ!?」


 彼と同じ目的でそこを訪れたらしい何人かがその掲示を見て、残念そうに帰っていく。開館は祭典終了後、つまりは三日後になってしまうらしい。


「くそ……冗談じゃねーぞ、ここまで来て三日も足止めかよ……」


 舌打ち混じりに呟いたもののどうしようもなく、ガラルドは腹立たしい思いで(きびす)を返すしかなかった。


 思わぬ空白の時間が出来てしまった。さて、どうするか。


 良く晴れ渡った空に輝いている太陽の位置はまだ高い。朝早くから張り切って出掛けたフユラはまだ一人で祭りを見物して回っている頃だろう。


『気が変わったらガラルドも行こうね』


 わずかな期待を込めてそう言っていた昨日の少女の言葉が思い出される。


「しょうがねー……ま、今日くらいは付き合ってやってもいいか……」


 大仰に溜め息をついて、不承不承ながら人込みの中を歩く覚悟を決めたガラルドは、フユラのもとへ向かおうとして彼女の気配を探り―――奇妙なことに気が付いた。


 探った先のフユラの気配、その位置が妙に宿屋に近い気がする。てっきり、遠くの方まで足を延ばしているものと思っていたのだが……。


 宿屋まで戻ってきたガラルドは、やはりフユラの気配がその中から感じられることに内心首を傾げた。


 まだ昼を少し回ったくらいの時刻だ。見物好きのフユラがこんなに早く宿に戻っているのはおかしい。今朝はあんなに張り切って出掛けていったのに。


 何か、あったのか?


 ガラルドは眉をひそめたが、彼女の身に危険が迫るような重大な事態は起こっていないはずだ。そんなことがあれば、どんなに離れた場所にいたとしても彼が気付かないはずがない。


 不審に思いながら宿の三階に上がり宿泊している部屋のドアを開けると、椅子に座りテーブルの上に突っ伏すようにしていたフユラが驚いたように顔を上げてこちらを見た。


 その目が、赤い。


 彼女が泣いていたのだと分かってガラルドは小さな衝撃を受けたが、表面上はそれを出すことなく、静かにドアを閉めて少女のもとに歩み寄り、問いかけた。


「……どうした?」

「ガラルド……ううん、何でも……」


 ない、と言いかけて、それには無理があると思ったのか、フユラは口を閉ざして気まずそうに視線を逸らした。


 その唇に切れた痕があることに気が付いたガラルドは、少女の(おとがい)に手を掛けて顔を上向かせると、切れ長の瞳を細めた。


「これは? どうした?」


 言葉に詰まり、フユラが瞳を彷徨(さまよ)わせる。


「フユラ?」


 (いぶか)しみながら名前を呼ぶと、少女は観念したように吐息をつき、言いにくそうに事情を話し始めた。


「……。実は……」


 フユラの口から語られた内容は、ガラルドが予想だにしていなかったものだった。


 ―――声を掛けてきたナンパ男に、突然キスをされた。


 ガラルドはまず茫然とし、その意味を飲み込むまでに少々時間がかかった。次に、相手の男に対する言いようのない殺意が胸の底から湧いてくるのを覚えた。


 フユラはうつむいて、瞳を伏せ、怒られるのを覚悟した様子でガラルドの言葉を待っている。赤く腫れ、血が滲んだ痕のある桜色の唇が痛々しかった。


 ガラルドは自らを落ち着かせるようにひとつ息をつくと、フユラの頭に手を置いて、ふんわりとした銀色の髪をなでた。


「―――落ち込むな、お前は悪くない。おかしいのはその男だ」


 冷静を装って紡ぎ出した声は、たぎる感情に煽られてわずかにぶれていた。


「落ち込むなって……無理だよ」


 フユラは小さく呟いて、涙で潤んだ大きな瞳をガラルドに向けた。怒られると思っていたのに優しい言葉を掛けられて、大きな手で頭をなでられて、その反動で感情が溢れそうになっている。


 眉根を寄せ、すみれ色の瞳からぽろぽろ大粒の涙をこぼしながら、けれどそれをどうにか(こら)えようとして、フユラは懸命に口元を引き結んだ。


 互いを繋ぐ呪印のせいだろうか―――その感情の昂りはダイレクトにガラルドにも伝わり、視覚から伝わる彼女の様子と共鳴して、その瞬間、彼自身知る由もなかった、無意識下に、深層意識の底に封じ込められていた、何かの堰を決壊させた。


 熱いものが胸の奥底からせり上がってくる。自身にも説明のつかない、制御の利かない、未知の何か。


 (ほとばし)るそれに突き動かされるようにして、ガラルドは知らず腰を折っていた。フユラが腰掛けた椅子の背もたれに左腕を掛けると、何事かとこちらを見つめる彼女の頬を右手で(すく)い上げるようにして、その唇におもむろに自らの唇を重ねる。


「―――!?」


 あまりにも突然の、思いがけないガラルドの行動に、涙に濡れたすみれ色の瞳を見開き、フユラが身体を硬直させる。


 一度唇を合わせて離し、ガラルドは触れるか触れないかという距離で、摩擦で赤くなったフユラの唇の輪郭を自らの唇でそっとなぞった。わずかに血の味がする箇所を労わるように何度かたどり、それからついばむような口付けに変えて、何度も、何度もキスを落とす。


 フユラの唇は微かな熱を帯びていたが、瑞々しく吸いつくような質感で、健気な弾力を彼に伝えてきた。このままずっと触れていたいような衝動に駆られる。ガラルドは無心に彼女の唇を求め、重ね続けた。


 一方のフユラは、戸惑いながらもガラルドから与えられる熱に翻弄され、急激に高鳴る鼓動と上昇する体温とに眩暈を覚えながら、それを享受するのにいっぱいいっぱいだった。


 至近距離に見える、保護者の青年の精悍な顔。閉じられた瞼。どうしてこんなことが起こっているのか、何が何だか分からなくて、頭がふわふわする。


 優しくて温かい、労わるようなキス―――ガラルドとは何度かキスをしたことがあるが、これまでのそれは互いの唇を合わせる程度のもので―――こんなふうにキスをされるのは初めてだった。


 触れ合う唇が心地良くて、緊張しているのに身体から力が抜けていくような、不思議な感覚を味わう。ガラルドの熱に確かな安心感を覚えながら、同時に胸の奥が切なくしなるような、生まれて初めての感覚を知り、フユラはきゅっと目をつぶった。


 頬が熱い。


 いったいどうなってしまうんだろう―――このまま身も心も、ガラルドに蕩けさせられてしまいそうな気がした。


 甘い熱に煽られて、きつく結ばれていたフユラの唇が花のようにほころび始める。その下唇を、ガラルドの唇がそっと咥えた。ついばむような口付けがしっとりと押し包むようなものへと変わり、これまでより少しだけ深くなったそれに、より深く彼に口付けられているのだと感じ、フユラの胸が震える。唇から伝わる甘い痺れに、気が遠くなりそうだった。


 フユラの頬を包み込むようにしていたガラルドの右手はいつの間にか彼女の首の後ろに差し入れられ、優しく後頭部を支えるような形になっていた。


「んっ……」


 縋るようにガラルドの衣服を掴んだフユラから、鼻にかかった吐息が漏れる。


 そこで、ガラルドは我に返った。


 ハッ、と目を見開き、フユラの両肩を押さえるようにして、彼女から身体を離す。


 白い頬を上気させ呼吸をわずかに乱しながら、艶を含んだ瞳で彼を見つめる、見たことのない表情のフユラがそこにはいた。


 ドクン、とガラルドの心臓が妖しい鼓動を立てる。


「ガラルド……」


 微かに色香を纏った声で名前を呼ばれ、ガラルドの頬にさっと赤味が差す。彼は反射的に視線を逸らして立ち上がると、彼女に顔を見られないよう背を向け、ぶっきらぼうに呟いた。


「……オレの感触が残っていた方が、まだマシだろ」


 言ってしまった傍から、自分が吐いた台詞に額を押さえたくなる。


 ちょっと待て、何なんだそれは。どうかしている、寒過ぎる自分の発言に卒倒しそうだ。


 それよりも何よりも、自分の行動が信じられない。自分は今、フユラにいったい何をしていた!? 二才の頃から面倒を見ている、この子供に対して何を!?


 自尊心、既存概念、世間の良識、様々なものに打ちのめされて、ガラルドは心の中でよろめいた。言い訳の出来ない、耐え難い慙愧(ざんき)の念に囚われる。


 背を向けて立ったままのガラルドの背後で、フユラは無言だった。彼女はガラルド以上に動揺していたのだ―――彼とは全く反対の意味で。


 その為に、部屋は居心地の悪い沈黙に包まれた。


「―――ちょっと、出てくる」


 この場にいることがいたたまれなくなったガラルドは、フユラにそう言い置くと逃げるようにして部屋を後にした。いや、事実彼は逃げたのだ。混乱して、どうしたら良いのか分からなかった。


 彼が出て行ったドアを見つめながら、フユラは未だ冷めやらぬ余韻に震える胸をそっと手で押さえた。


 とくとくと響く自身の鼓動の音を聞きながら、どう言ったらいいのか分からない幸福な感情に包まれて、そっと吐息をつく。


 子供の頃から抱いている保護者の青年に対する無償の親愛に、いつからか微妙な変化が生じてきていること、それが今、如実に自分の中に表れているのだということを、この時の彼女はまだ意識できていなかった。








 ―――何やってんだ、オレは!?


 ところ構わず頭を打ちつけたくなるような後悔の念に苛まれながら、ガラルドは憤然とした足取りで行く当てもなくアヴェリアの街を彷徨い歩いていた。


 すれ違う人々は殺気に近いオーラを纏った異様な雰囲気のガラルドにビクつき、彼の近くをことごとく避けて通った。その為、大勢の人々で賑わう通りにいながらにして、彼は思うままに往来を練り歩くことが出来たのだが、今の彼にはそんな些細な現象に気が付く余裕などなかった。


 自分の行動が、信じられない。


 フユラの話を聞いて、相手の男に対し言いようのない殺意を抱いたことは覚えている。フユラはよほど嫌だったのだろう、こすり過ぎて赤く腫れ、血が滲んだ痕のある桜色の唇が痛々しかった。


 その唇を引き結び、懸命に泣くのを(こら)えようとしていた彼女の顔。それでも堪えきれずにすみれ色の瞳からこぼれ落ちた、涙。


 それを見た瞬間―――タガが、外れた。


 そうとしか、言いようがない。


 これが見ず知らずの男に娘を奪われた父親の心境というやつなのだろうか。いや、そんな父親がいたとしたら変態だ。実の父親なら相手の男に憤りこそすれ、間違っても娘の唇を奪うような真似はしないだろう。


 その解釈からいくと、フユラの保護者を自負するガラルドは変態ということになってしまう。


 ―――オレは、絶対にロリコンじゃ……!


 ない、と力を込めて、ガラルドは自分に言い聞かせる。


 彼がムキになるのには理由(わけ)があった。


 意識しないようにしていても、ガラルドの頭の片隅には常にどこかに、未来のフユラ―――ハルヒが残していった言葉に対する、強迫観念めいた思いがあった。


 普段は考えないようにしているし、そもそも有り得ない、馬鹿馬鹿しい話だと思っている。


 だが、ふとした瞬間にチラつくそれが、必要以上に自分の心を頑なにさせているのだという事実に、彼はまだ気が付いていなかった。


 先程の自分の行動を、フユラはいったいどう思っているだろう。嫌がってはいなかった、とは思うが―――……。


 深い深い溜め息が唇からもれる。


「―――ったく……どうかしてる。最低だ……」


 二才だったフユラは、もう十五才なのだ。


 他の男から異性として、恋愛対象として見られるような年齢なのだ。


 来年は十六才―――世間的には成人と認められ、結婚も出来るようになる年齢だ。


 二才の頃から彼女を見守ってきた者としては複雑な心境だが、それが現実だ。あんなふうに衝動的に口付けていいわけがない。


 苦りきった表情で角を曲がったガラルドは、急にきつくなった香水の香りにふと顔を上げた。


 いつの間にか歓楽街の入口に差し掛かっていた。通りの両脇に立ち並ぶのは夜の営業が主体の店だったが、祭りの観光客を当て込んでいるのか、まだ明るいうちから半分くらいの店が開いていて、何人かの商売女達が軒先に立っている。


 アヴェリアのようなお堅いイメージのある都市でも、やはりこういうところは必要とされるものらしい。インテリだろうが筋肉バカだろうが、男の根本的な部分は変わらないということなのだろう。


 皮肉っぽく思うと同時に、そういえばこういう場所からずいぶん長らく遠ざかっているものだと、どこか他人事のようにガラルドは考えた。


 フユラと出会う以前、ある事件がきっかけで素人は面倒くさいという結論に至ってから、ガラルドは生理的欲求を満たす為に時折こういう店に足を運んだ時期があった。恋愛気質ゼロの彼には、それを商売とする玄人の女で充分だったのだ。が、フユラと旅をするようになってからはトンとご無沙汰になっている。考えてみれば、しばらくろくに女を抱いていない。


 ―――まさかオレは、欲求不満なのか?


 今更ながらそんな考えが脳裏をよぎり、ガラルドは青ざめた。


 だからか? だから無意識のうちに、あんな行動に出ちまったのか?


 だとしたら、そんな自分に心底ゾッとする。


 それでは、自分が心から軽蔑する人面獣心のあの男―――苦い記憶の中で最低最悪の烙印を押した自身の血肉を分けた実の父親、あの野獣と同類ではないか。


 冗談じゃねぇ……!


 ガラルドは心の中で憤慨した。


 そんなことがあってたまるか。本能の赴くままに女を蹂躙(じゅうりん)するようなあんな男と、自分とは違う。


 フユラは大切な存在なのだ。呪術によって運命を繋がれているからとか、そんなことではなく、この世で唯一、守りたいと思える存在―――心から大切と思える特別な存在なのだ。


 その想いに(よこしま)な気持ちなど、微塵もない。


 この想いに、嘘はない……!


 強く、そう思った時だった。


「お兄さん、難しい顔してどうしたの? アタシと遊んでヤなコトはパーッと忘れない?」


 お門違いの甘ったるい声がかけられ顔を上げると、内心の葛藤でいつも以上に強面になっているだろう彼に、恐いもの知らずの商売女が話しかけてきていた。


 豊満な身体のラインを強調する露出度の高い服を身に着け、フルメイクを施した、いかにもという外見の女だ。強い香水を纏った商売女は上目遣いにガラルドを見上げると、嫣然(えんぜん)と笑って、誘うように長い髪をかきあげてみせた。


 見た目はそう悪くはない。しかし、どうにも食指が動かないというか、そういう気分になれなかった。


 だが、これ以上妙な真似を犯さない為にも、予防線の意味を込めてここで女を抱いておいた方がいいのだろうか。


 ガラルドが真剣にそんなことを考えた時だった。


「―――離せ! 何するんだ!」


 通りの一角からけたたましい声が上がった。


 そちらに視線をやると、ガラの悪そうな三人の男に引きずられるようにしてやってきた一人の少年が、必死にその手を振りほどこうとしているところだった。


 はしばみ色の髪をした、身なりの良さそうな少年だ。


「やだぁ、ウォルシュのお坊ちゃんじゃない」


 それを見た商売女が驚いたように口元を押さえた。


「ウォルシュ?」


 聞き覚えのある名前にガラルドが反応する。


「あの子のお父さん、この街で一、二を争う有力者なの。スッゴい偉い人なのよー。でもあのお坊ちゃん気さくで、アタシ達みたいな女にも優しくてさ。時々お小遣いなんかもくれるの。ただ、女にちょっとだらしないトコがあってねー。いつかトラブルに巻き込まれるんじゃないかってアタシも心配していたんだけど……」


 その言葉を肯定するように、ガラの悪い男の声が響く。


「これから何されるか分かんねーのか、お坊ちゃん? 良く考えてみろよ……心当たり、あんだろ? 人の店の女に金渡して、勝手にこの街から逃がしてくれちゃって。アイツ、ウチの店でナンバーワンだったんだぜ? まだまだ稼いでもらわなきゃ困るってのに」

「ライラのことか!? あれはお前らが汚い手を使って、あの()を無理矢理に!」

「何だよそれ? アイツが勝手に借金こさえてたんだろ? ま、話は店の中で聞かせてもらおうか。オーナーも待ってんだよ」

「クソッ……離せ! 離せってば!」


 少年の必死の抵抗も虚しく、男達によって強引に薄暗い路地の奥に連れ込まれていく。その先にはどうやら彼らの店があるらしい。


「やだぁ、何かスッゴいヤバい雰囲気。どうしよう……!?」


 商売女はあせった様子で辺りを見回した。彼女と同じように他の商売女達も心配そうに少年の方を見やってはいるが、どうすることも出来ない。まばらに通りを行き交う客の男達は全員見て見ぬ振りを決め込んでいる。


 ウォルシュといえば、以前ゼルタニアという街の酒場で仕入れた情報、それにハルヒの話にも出てきた、この街の主要人物だ。商売女の話からすると、あの少年はおそらくその息子ということで間違いないだろう。


 ならばここで恩を売っておいた方が良さそうだ。


「あっ、お兄さん……!?」


 商売女に背を向けてウォルシュ少年の救出に向かったガラルドは、狭い路地を曲がったところで、今にも彼を店の中に連れ込もうとしていた男達の話を耳にし、ぴたりとその足を止めた。


「観念しろよ。お坊ちゃんが、調子に乗ってっからこんな目に遭うんだよ。何でもかんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだぜ?」

「あの可愛い女の子に続いて、オレ達が社会勉強ってヤツを教えてやるよ。感謝しな」

「へへ……ダッセー。無理矢理キスして殴られて、そこをオレ達に見つかっちまうなんてな。人込みの中で目立ってくれて助かったぜ」


 ―――無理矢理キスして、殴られる……?


 そのキーワードにガラルドの片眉が跳ね上がった。


 似たような話をほんの先程連れの少女から聞かされたばかりだ。


 ―――まさか……!?


 険悪な表情になり、再び少年のもとに向かって歩き始めたガラルドの目的は、直前のものとはその内容が大きく変わっていた。

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