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Beside You  作者: 藤原 秋
Beside You 2 ~君の居る場所~
12/33

04

 翌日の早朝。朝露に濡れる大地を踏みしめて、一行は問題の場所の前に(たたず)んでいた。


「思ったより、霧が深いな……」


 それを見上げ、ガラルドが小さく舌打ちする。その隣で、同じようにそれを見上げたフユラが相槌(あいづち)を打った。


「真っ白、だね……」


 彼らの目の前に広がるのは、深い霧に覆われた、レウラの丘へと続く、森。白い息吹に抱かれ、ぼんやりと色の滲んだ森は、ようとしてその全容が知れない。


「ようやく、ここまで―――……」


 かすれた声でそう(つぶや)いたシュリは、感極まった様子で震える息を吐き出した。手にした木製の杖も、微かに震えている。


「感動すんのは、目的地にたどり着いてからにするんだな」


 ガラルドにそう言われたシュリは微苦笑して頷いた。


「あぁ……そうだね」


 どういう理由があるのかは分からないが、シュリは何かを隠している―――昨夜の彼女の言動から、ガラルドはそう確信していた。締め上げて吐かせないのは、こういう性格の人物が非常に頑固であるということを、彼なりの経験上から学んでいる為だ。例え殺されても口を割らない、これはそういう(たぐい)の人種だ。


 老婆の様子にそれとなく目を配りながら、ガラルドは目の前の森に注意を戻した。


 すっぽりと霧に包み込まれた森は不気味な雰囲気を(かも)し出しているものの、ここから様子を(うかが)っている限りは、特別な力の気配は感じない。それが逆に気にかかった。


 何十年もこんな状態が続いているのだ、それなりの力を持った何者かがこの現象を引き起こしているに違いないのだが―――……。


 万が一の可能性も視野に入れていたガラルドだったが、これでは判断が付きかねた。もちろんそれは天文学的な確率の数字であって、そうである可能性は限りなくゼロに近い。


 そして彼の性格上、何かから『逃げる』ということは基本的に嫌いだった。


「……行くぞ。用心しろ」


 表情を引き締めて、ガラルドは歩き始めた。大きく頷いたフユラとシュリがその後に続く。


 森に足を踏み入れると、途端に濃霧で視界が遮られた。ひどい濃度だ。腕を伸ばした指の先でさえ、白く(かす)んで見える。


 今日は薄日が差している空模様だったのだが、霧は太陽の光を阻むほど深く、入口から遠ざかるにつれて、辺りは次第に薄暗い様相を呈してきた。


「はぐれるなよ」

「う、うん……ガラルド、ゆっくり歩いてね。シュリさん、手ぇ繋ご!」


 暗い森が怖いフユラはそう言って、隣の老婆の手を取った。そのすみれ色の瞳が、驚きに見開かれる。


「わ! シュリさん、手、冷たいね」

「わたしは冷え性なんだよ。フユラの手は温かくて、いいね」


 二人と距離が離れないように留意しながら、ガラルドは注意深く辺りの様子を探った。嫌な静けさだ。森に住まう生物達の気配が、まるで感じられない。


 それに―――森に足を踏み入れてから、全身に纏わりつくような不快感があった。第三者の気配は感じられないが、まるで、誰かに見張られているかのような……。


 宿屋の食堂の給仕係の話では、この森に足を踏み入れると、どこからか、この世のものとは思えない怖ろしい声が聞こえてくるということだったが―――……。


「怖い声、別に聞こえてこないね……」


 フユラも同じことを思ったらしく、そう言ってきょろりと辺りを見回した。


「もう少し奥に行ってからの話なのかもな……前見ていろ、フユラ」

「うん……わ!」


 突然目の前に現れた枝葉にぶつかりそうになり、フユラは慌ててそれを()けた。濃霧で視界が極端に狭まっている為、よそ見をしているとこういうことになってしまう。


「うぅ~、ヤだな、こういうカンジ……」

「おや、怖がっているのかい? フユラ」

「こ、怖くないよ! ただ、こういう薄暗い雰囲気が苦手っていうか、何ていうかさー……」


 まるで森全体が息をひそめているかのような、不自然な静けさ。そして、太陽の光の届かない、薄暗い道。


 こういった状況は、フユラの中の暗い何かを刺激する。彼女の中で遠い昔に封印された、暗い何かを-―――。


 しばらく歩き続けていると、霧のせいで全身がしっとりと濡れてきた。歩けど歩けど景色の変わらない真っ白な世界に、無限回廊を歩いているような錯覚すら覚えてくる。


「シュリさん、大丈夫?」


 手を繋いだ老婆の顔を見やりながらフユラが尋ねた。


 視界が遮られ、木の根やら何やらがあちらこちらから張り出した足場の悪い道は、老人には苛酷な状況だ。


「ちょっと疲れてきたけどね、なぁに、まだまだ……」


 シュリはそう言って強がったが、その息は上がっており、見るからに辛そうな様子だ。


「……少し休むか」


 ガラルドが足を止めると、頑固なシュリはかぶりを振って大丈夫だと言い張った。


「ヤセ我慢してんじゃねー。体力回復させてさっさと歩いた方が効率的だろうが」


 そう言われて納得したのか、老婆はようやく首を縦に振ると、その場にへたり込むようにして腰を下ろした。


「けっこう奥まで来たよね。小さい森だって聞いていたけど……同じトコぐるぐる回っちゃったりしてるのかなぁ」


 霧で濡れた顔をタオルで拭きながら辺りを見渡すフユラに、ガラルドが答えた。


「オレの方向感覚が狂わされてなけりゃ、今のトコは真っ直ぐ進んでいるはずだ」

「いつも思うけど、ガラルドのそういうのってスゴいよね。あたしなんかもう、どこをどう歩いているのかサッパリ……」

「お前とは格が違うんだ」


 憎まれ口を叩く保護者の青年の暗い緋色の瞳が、ほんのりと輝いていることにフユラは気が付いた。視界の悪さを補う為、獣の夜目のように、目の能力が自然と切り替わっているのだ。


 濡れた薄茶色の前髪の隙間から覗く、(ほの)かな光を帯びた切れ長の暗い緋色の瞳-----頬を伝う水滴もそのままに、周囲の警戒に当たるガラルドの厳しい横顔は、何だかいつもと少し違って見えて……フユラは彼の横顔に、しばし見とれた。


 こんな言い方をしたらガラルドは嫌な顔をするだろうが、綺麗だと、そう思ったのだ。


 まるで、研ぎ澄まされた刃物みたい―――……。


 しばらくの間木の幹に背をもたれるようにして座り込んでいたシュリは、左手首のブレスレットに触れ、ひとつ深呼吸すると、杖を支えにして立ち上がった。


「……待たせたね。さぁ、行こうか」

「もう大丈夫?」

「あぁ。気を遣ってくれてありがとう」


 鷹揚(おうよう)に頷くシュリの手を、フユラは微笑んで握りしめた。老婆の細いしわがれた手は、相変わらず冷たかった。


「―――行くぞ」


 短い休憩を終え、一行が再び歩き始めた、その時だった。



 オォォォォオォォォォォ……。



 呼吸音とも威嚇ともつかない不気味な低い声がどこからともなく、異様な振動を伴って、忽然(こつぜん)と辺りに響き渡ったのだ!


 ガラルドの両眼が鋭さを帯びる。フユラとシュリはハッと息を飲んで、辺りを見回した。


「これが……例の声?」

「どこから聞こえてくるんだい……?」


 底冷えするような響きは森の木々にぶつかって反響し、その出所が判然としない。


「ようやく話に聞いた場所までたどりついたってコトか。ここから先に進んで帰って来たヤツは、いねーんだったな。この先は、未知の領域ってワケだ……」


 全神経を辺りに集中させながら、ガラルドは背中の大振りの剣を抜いた。


 声の主の気配は掴めないが、首筋の辺りがチリチリする。これは、敵意だ。間違いなく何者かが近くにいて、自分達の様子を窺っている。このまま引き返せばよし、さもなくば、襲いかかってくるつもりだろう。


 魔人(ディーヴァ)ならばこんなまわりくどいことはすまい。天文学的な確率が外れて、その意味では安堵(あんど)したが、自分に気配を悟らせないほどの相手だ。やっかいな敵には違いない。


 視線はそのままに、ガラルドは左手を後ろ手に向けると、精神を集中させた。白く輝く呪紋(じゅもん)が浮かび、それが弾けると、フユラとシュリの周囲をゆっくりと取り巻く。


 最上級の守護の呪術だ。


「保護者、お前さんも呪術を……」


 驚きに目を見開くシュリに、ガラルドは唇の端を上げてみせた。


「オレの場合はオマケみたいなモンだがな。人は見かけによらねーっていう、いい見本だ。―――フユラ、サポートとババアの保護を頼む」

「……うん!」


 緊張した面持ちのフユラが頷くのを確認してから、ガラルドは剣を構え、歩き始めた。


 オォォォオォォォォォ……。


 不気味な声が大気を震わせる中、一歩、二歩―――白い闇に包まれたその先へと、足を進めていく。


 その時、霧を取り巻く空気が変わった。


 声が止み、木立が揺れた。枝葉をなびかせ、森の中を突然の旋風が駆け抜ける!


 ザザァッ……!


「何……!? 急に、風が……!」


 緩やかな長い銀色の髪を風に巻き上げられながら、フユラが小さく声を上げる。右手にロッドを構え、左手で顔をかばうようにしながら薄目を開けた少女の目に、驚くべき光景が映った。


「霧が……!?」


 にわかに突風が吹いたのではない。霧自身が動いて、この気流を生み出しているのだ。森中の霧が凄まじい勢いでひとつの場所に流れ込み、集束していく……!


 悪寒のようなものがフユラの背筋を突き上げた。強大なチカラが、そこから溢れ出すのを感じたのだ。同時に、ガラルドの身体に異変が起こった。


 ドクン、と鍛え抜かれた肉体が脈動し、彼の中に眠るもうひとつの血が目覚め始める。


 フユラは息を飲んだ。変現(メタモルフォーゼ)と呼ばれる現象が始まったのだ。


 細胞が配列を変え、筋肉が、骨が、人外のモノへと変化していく。耳は先端が尖り、薄茶色の髪からは色素が抜け、瞳は燃えるような紅蓮の宝玉と化した。犬歯と爪が異様に発達し、頬や腕など体表には深緑の紋様が浮き出る。


 人として有り得ないその光景に、背後のシュリが愕然とするのが分かった。


 フユラ自身、ガラルドのこの姿を目にするのは二度目だった。初めてその姿を目にしたのは、彼がセラフィスという魔人(ディーヴァ)と戦い、敗れたあの時―――幼かった彼女が記憶として(とど)めていたのは、その事実のみ、だったのだが。


 暗い森と強大なチカラ、という条件が、彼女の中の眠れる記憶を引きずり起こす。


 おぼろげな過去の映像の中、ところどころ鮮明に浮かび上がってくる、炎と鮮血に彩られた記憶の断片。思い出さないように無意識のうちに制御していた生々しい映像が、記憶の深淵(しんえん)から流れ込んでくる。


 フユラ自身の意識としてはなかったが、それは、彼女が初めて恐怖という感情を覚えた時の記憶でもあったのだ。


 フユラは戦慄(せんりつ)した。シュリの前で変現(メタモルフォーゼ)をしなければならない、とガラルドが判断するほど、目の前で形を成そうとしているチカラは強大なのだ。


 事実、形を成していくそこから感じられるチカラは、その脅威をみるみるうちに増していく。本能というべきものが警鐘を鳴らす、その怖ろしい感覚は、彼女の過去の記憶と重なった。


 ガラルドが変現(メタモルフォーゼ)を終えるとほぼ同時に、霧の集まりはその正体を現した。




「霧の……(ドラゴン)……」




 それを見上げ、震える声で、フユラが呟く。


 深い霧を陽炎のように纏った、冷たい水色の瞳を持つ巨大な白竜。霧の消え去った森に、見る者を畏怖(いふ)させる強大なオーラを放つ、霧竜(ミストドラゴン)が出現していた。


「監視されているような視線を感じるのに、その気配が掴めなかったワケだ……」


 紅蓮の瞳をギラつかせながら、ガラルドは大振りの剣を構えた。


「―――どけ。その先の丘に、オレ達は用事がある」


 フユラの中で、嫌な胸の鼓動が激しく高鳴り始めた。


 思い出してしまった生々しい過去の記憶が、頭の中をフラッシュバックする。



 迫り来る、黒炎―――激しい炎に身を焼かれながら、剣を手に立ち向かっていったガラルド。


 腹部を貫かれ、腕を捻じり折られ、鮮血に染まりながら―――自分を守る為、圧倒的な力を持つ者の前に立ちはだかった、悲愴なまでの後ろ姿―――その返り血を浴びて、真紅に染まった、秀麗な顔立ちの残酷な天使。


 むせ返るような、ガラルドの血の匂い。


 そして―――血溜まりの中に崩れ落ち、固く瞳を閉ざした、青ざめた彼の横顔―――。


 全身から血の気が引くのを、フユラは感じた。


 ―――ガラルドを、失うかもしれない。


 魂に刻印された、あの時の忘れざる恐怖が、急激に現実味を帯びてその鎌首をもたげてくる。


 恐ろしい予感に打ち震えるフユラの前で、霧竜(ミストドラゴン)の口内に霧の息吹が生み出された。爆風のような霧のブレスが、ガラルドに向かって吐き出される!


「!」


 ガラルドはそれを素早くかわしたが、ブレスが当たった部分の木や草が一瞬にしてその場から消え去った。溶けたり吹き飛んだりしたわけではなく、消失したのだ。


 目を疑うような光景に、フユラとシュリの口から悲鳴とも(あえ)ぎともつかない声が漏れる。


「当たったら最期、ってワケか……」


 ガラルドは皮肉げに口元を歪めると、運命を共有する少女に呼びかけた。


「―――フユラ、雷撃だ」

「!」


 その声に反応し、フユラが宙空に呪紋を描き出す。


 ガラルドを失いたくない―――その一心で、彼女は必死だった。澄み切ったすみれ色の瞳が燃えるような輝きを放ち、左手の護符が微かに軋む。少女の身体から沸き立つような魔力の波動を、シュリは感じた。


 全身全霊を込めたフユラの強力な雷撃が、霧竜(ミストドラゴン)に炸裂する!


 それと同時に、ガラルドは宙に跳んでいた。雷撃を受け、一瞬動きの止まった白い竜に向かって、大振りの剣を振りかぶる!


 霧竜(ミストドラゴン)の水色の瞳がカッ、と見開かれた。身体を穿(うが)つ雷撃の余波を振り払い、霧の息吹を蓄えた巨大な口を開く!


「ガラルドッ!!」


 フユラの口から、絶叫が(ほとばし)る!


 ガラルドの紅蓮の瞳が燃え立つような光を放ち、それに呼応した大振りの剣が蒼白い光を帯び、(うな)りを上げる! 鬼神の如きスピードで振り下ろされた白刃は、霧のブレスが吐き出される直前に白竜の顔面に炸裂し、激甚(げきじん)の衝撃をもって強大な敵を一撃で(ほふ)り去った。


 剣圧が霧散した霧竜(ミストドラゴン)の身体を突き抜け、背後に広がる森を地響きと共に両断する!



 ド、ド、ドオォォォン!



 木々が薙ぎ倒され、衝撃波が巻き起こる。千切れ飛んだ枝葉が舞い、土煙がもうもうと辺りに立ち込めた。


 宙に散った霧竜(ミストドラゴン)残滓(ざんし)が、まるで空気に溶け込むようにして立ち消えてゆき―――霧の支配から解放された森は、数十年ぶりの姿を白日の下に晒し出した。


 木漏れ日の下、茫然と立ち尽くすフユラとシュリを、剣を肩に担いだガラルドが振り返る。


 全くの無傷、だ。


 その戦いぶりに圧倒されたのか、シュリがへたりとその場に座り込んだ。


「……今までで一番の雷撃だったな」


 珍しく褒め言葉を口にしながら、ガラルドはフユラの元に歩み寄った。茫然としたままの少女は、無傷で生還を果たした青年の顔を見つめたまま、動くことが出来ない。その身体が微かに震えていることに、ガラルドは気が付いた。


「―――フユラ?」


 異変を感じ取った半魔の青年が、運命を共有する少女の名を呼ぶ。ビクリ、と反応したそのすみれ色の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。


「お……おい……!?」


 ぎょっとするガラルドの前で、フユラの桜色の唇から、嗚咽混じりのかすれた声が漏れた。


「あ……あたしのせいで、ガラルド、また、危ない目にっ……」


 一見する分には、圧倒的に見えた戦いだったかもしれない。けれど、変現(メタモルフォーゼ)しなければ勝てる相手ではなかったのだ。一瞬の隙が生死を分ける、これはそういう戦いだった。


 圧勝したように見せているのは、ガラルドの優しさだ。どんな重傷を負ってもおかしくない、まかり間違えば、彼は今、ここにいなかったのかもしれない、これはそういう戦いだった―――それに、フユラは気が付いていた。


 今回の依頼のきっかけを作ったのは、自分だ。シュリと知り合えたことは良かったと思っているし、彼女の願いを叶えてあげたいと、心から思う。けれど、それが結果的にガラルドを危険な目に合わせることになってしまった。


 フユラが許せないのは、ガラルドに頼りきっていた自分自身だ。悪気がなかったとはいえ、自分が首を突っ込んだことで生じた依頼であるにも関わらず、無意識のうちに彼に甘え、結果的に全てを彼に頼り押し付けてしまっていた。振り返ってみると、これまでにも似たようなことが多々あったのだ。


 自分の行動に、自分で責任を持つという意識がなかった。それに気が付き、そんな自身に、フユラは心底嫌気が差していた。


 ガラルドはずっと、自分を命懸けで守ってくれていたのに。


 あの時も、あの時も―――傷だらけに、なりながら……。


 彼は決して、無敵ではないのだ。


 それを自分は、知っていたはずなのに。


「それなのに、あたし―――」


 自分のワガママで、ガラルドを殺してしまうところだった。


 脳裏に浮かんだのは、ガラルドが初めて口付けてくれた時の記憶。


 言葉に出来ない想いを託して、生死の狭間で交わされた口付けは、熱く、優しく、けれど鉄の味がして―――恐ろしい別れの予感を、幼い彼女の胸に刻み込んだ。


 ドクン、とフユラの細い身体が脈打ち、激しく震えだす。


 唇に甦るガラルドの血の味が、彼女の中の何かのバランスを大きく崩していた。


「! フユラ!」


 ガラルドが顔色を変え、少女の両肩を強く掴んだ。


「どうした……!? 落ち着け!」

「ごめんな、さ―――……」


 フユラの左手の護符が軋み、少女の身体から溢れようとする魔力の奔流が波動となって、長い銀色の髪を、外套を、空へと(いざな)う。


 チカラが、暴走しかけている―――。


 ガラルドは息を飲み、虚ろな瞳の少女の名を呼んだ。


「フユラ! フユラ、落ち着け!」


 何故かは分からないが、彼女はトランス状態に陥っていた。このまま左腕の護符が弾き飛べば、それを感じ取ったセラフィスが間違いなくやってくる。


「フユラ!」

「あの時、の……ガラルドの、血の、味……」


 少女が悲鳴のような声で(あえ)ぎ、大粒の涙をこぼす。ガラルドは直感的に、彼女が何を思い出しているのか悟った。


「死んじゃう……あたしのせい、でっ……! イヤだ、怖い、怖……!」


 恐慌状態に陥るフユラの頬をガラルドは両手で挟みこみ、強引に口付けた。ビクリと震える少女の身体を抱き寄せ、きつく抱きしめる。


 すみれ色の瞳を見開いたフユラの身体から、徐々に力が抜けていく。それと共に、暴走しかけていた魔力の波動も次第に弱まっていった。


「―――血の味が、するか?」


 唇を離し、ガラルドは腕の中の少女にそう問いかけた。何も考えることが出来ず、ただ見つめ返すだけのフユラのふんわりとした銀色の髪に触れ、もう一度、少女の唇に唇を重ねる。


 温かく、優しい口付け―――触れ合った唇から、血の味はしなかった。生きている、ガラルドの熱を感じる。


 柔らかく髪に触れる、大きな手。自分をすっぽりと包み込む、広くたくましい胸。


 こんなふうに彼に抱きしめられたのは、いつ以来のことだろう―――。


 大きな安堵(あんど)感に満たされて、ようやくフユラの身体の震えは止まった。


 それを確認したガラルドが、ゆっくりと唇を離す。


 その時だった。



「オホン、えー、オホン」



 わざとらしいシュリの咳払いが響き、我に返ったガラルドは慌ててフユラから腕を離した。


「……お前さん達、完全にわたしの存在を忘れていたね」

「そ、そんなんじゃねぇ!」

「年寄りにあんまり見せつけるもんじゃないよ」

「そんなんじゃねぇ、っつってんだろーが!」


 珍しく赤くなってそう怒鳴りつけたガラルドは、ふてくされた表情でフユラを振り返り―――言いにくそうに口を開いた。


「……あの時のお前に、そんなに怖い思いをさせてたんだな、オレは」

「え……」

「この姿を見て、あの時のコト、思い出しちまったんだろ。あの変態魔人(ディーヴァ)にメッタクソやられちまったからな、オレ。お前の目の前で」

「……」


 ガラルドはひとつ吐息をつくと、フユラの左の手首を取り、護符のついたリストバンドを確認した。歪んではいるが、壊れてはいない。ギリギリ、どうにか間に合ったようだ。


「今度はそう簡単にやられたりしねーよ。あの変態ヤローからお前を守るって決めたんだ……あれから、オレなりに努力してきた。あの頃のオレとは違う」


 真摯な紅蓮の瞳に正面から見据えられ、フユラは自分の胸がとくん、と高鳴るのを感じた。


「ガラルド……」


 運命を共有する青年の名を呼び、ゴシゴシと涙の跡を拭いた少女の顔から、太陽のような笑みがこぼれる。


「うん……うん! あたしも、努力する! あたしだって、何も出来なかったあの頃とは違うもん……努力して、強くなる! ガラルドと一緒に、生きていく為に!」

「……あぁ」


 少しだけ優しい目になったガラルドの耳に、溜め息混じりのシュリの声がこれみよがしに流れ込んできた。


「は~ぁ、言った側からまーた置いてけぼりかい……」

「あのなぁ、ババア―――」


 キレ気味にシュリを振り返ったガラルドは、ハタとあることに気が付いて、遅ればせながらこう尋ねた。


「―――おい、オレの姿……見えているよな?」

「バカにしてんのかい。わたしの目は老眼だけど、近くの細かいモノ以外はしっかりと見ることが出来るんだよ」

「……驚かねーのかよ」


 ためらいがちにそう聞くと、シュリは唇の端を上げて、半魔の青年を見やった。


「驚かなかったと言ったら嘘になるけどね。わたしくらいの年になると、色んな心構えの素地が出来ていて、案外何でも受け入れられるものなんだよ。お前さん達にも、わたしにも―――人にはそれぞれ、事情ってものがある。人生経験の賜物でね、多少のことで取り乱したりしないよ」


 思いがけない言葉を受けたガラルドは、驚嘆して小柄な老婆を見やった。


 どんなに年を重ねても、そう出来ない者の、どれほど多いことか……彼は、身をもって知っている。


「単に神経が鈍くなっているだけじゃねーのか」


 照れ隠しにそう(うそぶ)くと、シュリはニヤリと笑って、こう切り返してきた。


「まぁ、そんなわたしでも、さっきのお前さん達の公開キスには驚いたけどね」

「な゛っ……」

「果たして二回もする必要があったのかねぇ。年寄りには、目の毒だよ」

「て、てめぇッ……」


 これは、完全にガラルドの負けだった。


「キス……」


 そう呟いて、フユラはそっと自らの唇に指を当てた。


 冷静に考えたらスゴいコトだったのだ、と今更ながら気が付いて、白い頬がカァーッと上気する。



 唇にはまだ、ガラルドの優しい口付けの余韻(よいん)がほんのりと残っていた。

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