交錯
若い女が、頬から血を流している。
一糸まとわぬ姿で、女は泣き叫んでいた。その周囲には、笑っている人たちがいる。数人の男と、ひとりの女だ。その女は、ひときわ大きな声で笑っている。
あれは、誰だ?
大人の人たち?
周りの人はみな、自分よりも遥かに大きい。そんな人たちが、泣いたり笑ったりしている。
そこには、負の感情が渦巻いていた。莉亜夢が、生まれて初めて見る人間の狂気――
嫌だ。
こんなとこ、嫌だ!
母さん助けて!
ここから連れ出してよう!
牧村莉亜夢は、ようやく目を覚ました。恐ろしく気分が悪いが、今はそれどころではない。
昨日の女……あれは、いったい何だったのだろう。頬に長い傷痕のある顔。自分に、敵意を抱いているようだった。
(覚えてないの? 私と君は、前に会ってるんだよ)
もちろん覚えているわけがない。だが、記憶の片隅にある映像にも、頬から血を流している女がいた。かつて、どこかで会っていたのか。
その時、莉亜夢の頭にひらめくものがあった。もし、自分が幼い頃に会っていた人物だとすると、母とも会っているはずだ。
もしや、母もあの現場にいたのか?
その考えが頭を掠めた瞬間、莉亜夢はぞっとなった。若い女が、頬から血を流し泣いている……そんな場面を、母は幼い息子を連れ見物していたというのか。
いずれにしても、母に聞いてみるしかない。莉亜夢は、部屋を出て行った。
台所では、母がつまらなさそうな顔でスマホをいじっている。莉亜夢の存在には気づいているはずだが、見ようともしない。普段なら、莉亜夢の方も母とは目を合わせないようにしていた。
だが、今日は別だ。この件だけは、はっきりさせなくてはならない。
「ねえ母さん、頬に傷のある女の人を知ってる?」
莉亜夢の言葉に、母はびくりと反応した。顔を上げ、引き攣った表情で彼を見つめる。
「な、何を言ってるの?」
その声は震えていた。明らかに動揺している。やはり、あの映像は本物の記憶だったのだろうか。莉亜夢は、さらに言葉を続けた。
「頬に長い傷痕のある女と、昨日会ったんだ。その人は、いきなり話しかけてきた。僕のことを、知ってるみたいだった。母さんは、何か知ってるの?」
「知るわけないでしょ。その女、頭おかしいんじゃないの? 今度来たら、警察呼びな」
母の声は上ずっている。何かを隠しているのは間違いない。では、何を隠しているのだ?
やはり、あの女は母の知り合いなのでは?
「母さん、本当に知らないの? ねえ、よく考えてみてよ」
莉亜夢は、なおも尋ねる。だが次の瞬間、その問いを発したことを後悔した。母の表情が、一気に険しくなったからだ。
「知らないって言ってるでしょ! しつこいんだよ! んな下らないこと言ってる暇あったら、さっさと学校行け! この役立たずが!」
ヒステリックに喚き散らす母に、莉亜夢は悲しげな表情で俯いた。しかし、母の言葉は止まらない。
「だいたいね、あんたのせいで、あたしがどんな思いしてるか分かってんの!? せっかくいい高校に受かったのに休んでんじゃないよ! このまま辞めちまう気かよ! あたしはね、ニート息子を食わせてやるほどお人よしじゃないんだ!」
いたたまれなくなった莉亜夢は、母から目を逸らし部屋に逃げ込む。それでも、母の罵声は続いていた。
ドア越しに聞こえてくる母の言葉は、一切の容赦がなかった。
「お前さえいなけりゃ、あたしの人生は違ってたんだよ! お前は、この家のガンなんだよ! このクズ!」
さらに母は、とどめの言葉を吐いた――
「お前なんか、産むんじゃなかった!」
莉亜夢はベッドに座りこみ、虚ろな表情で床を見つめていた。母から浴びせられた言葉は、彼の心に深く突き刺さっている。
(お前なんか、産むんじゃなかった!)
自分は、産まれない方がよかったのか。
だったら、なぜ産んだんだ? 産んでくれと、頼んだ覚えはないのに。
自分は、いない方がいいのか。
もう、死んだ方がいいのかな。
「莉亜夢くん」
不意に、声が聞こえた。言うまでもなく、母のものではない。莉亜夢は、声のした方を見る。
いつの間に来たのだろう。部屋の隅に、アヤスがいた。相も変わらず不気味な姿で、ウネウネと動いている。だが不思議なことに、莉亜夢は歪んだ笑みを浮かべていた。
「お前、ノックくらいしろよ」
「なんで?」
ずずずず、という音と共に、アヤスが近づいて来た。こんな生き物が存在するはずがない、これは幻覚だ……以前の莉亜夢ならば、必死で己に言い聞かせていたはずだった。
しかし今の莉亜夢は、アヤスをまっすぐ見つめている。その目には、恐れも怒りも不快感もない。むしろ、親しみのようなものがあった。
「僕は、この家のガンなんだってさ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
「ガンって、ガン細胞? それって、悪口なの?」
「当たり前だよ。そんなことも知らないのか」
「ふふふ、面白いね。人間のガン細胞って、ものすごく強いのよ。薬使って殺しても、また再生する。そんなガン細胞を悪口として使うなんて、センスなさすぎ」
「へえ、よく知ってるね」
「たいしたことないよ。ちょっと調べれば、誰でも分かるから」
アヤスは、くすくす笑った……いや、笑ったような声が聞こえた。つられて、莉亜夢も笑う。彼は今、この奇怪な生き物に不思議な感情を抱いていた。この世界の、どこにも存在していないはずのもの。ありえないはずの存在。
では、こいつは何なんろう?
「アヤス、君は何なんだ? 現実に存在しているのか?」
「何でもいいじゃない。君が幻覚だと思いたければ幻覚、君が現実だと思いたければ現実。存在しているかどうかなんて、君の頭で好きに考えればいいの」
からかうような口調で言いながら、アヤスは近づいてきた。
その言葉は正しいのかもしれない、と莉亜夢は思った。彼の現実は、あまりにも辛いものだ。
そもそも莉亜夢が学校に行かなくなった、いや行けなくなった理由は母にある。なのに、その母に学校に行かないことで罵られ、挙げ句に――
(お前なんか、産むんじゃなかった!)
気がつくと、莉亜夢の目から涙がこぼれていた。すると、何かが彼の手に触れる。
アヤスの触手だった。
「莉亜夢くん、君は勘違いしている。この世界は、君の見ている幻かもしれないものなんだよ。君が死ねば、君の見ている世界も消滅する。だったら、何を気にするの?」
・・・
有村朝夫がそれを聞いたのは、学校内でのなにげない会話だった。
「知ってる? 最近、このあたりでヤンキー狩ってる奴がいるんだって」
「ああ、聞いた聞いた。俺の先輩もボコられたって」
話しているのは、廊下ですれ違った二人組。どちらも、朝夫とは無関係な生徒だ。朝夫は、思わず振り返っていた。
二人の話は、まだ続いている。
「でもさ、そいつら狙われてるって聞いたぜ。そろそろやられるんじゃないか」
「そうなの?」
「うん。このへんのヤンキーが探してるんだって……」
後の話は聞き取れなかった、それだけ分かれば充分だ。朝夫は立ち止まり、不敵な笑みを浮かべる。ヤンキーが、自分たちを探しているとは。
上等だよ。
返り討ちにしてやるから、いつでも来な。
学校が終わり、朝夫は真幌公園へと寄ってみた。かつての同級生、牧村と再会した場所だ。ひょっとしたら、彼とまた会えるかもしれない……そんな気持ちからだった。
だが、牧村はいなかった。もっとも、朝夫も再会には期待していなかったが。もとより、彼には関係のないことだ。
いや、関係ないとは言いきれない。少なくとも、朝夫は彼がイジメに遭っていたことを知っている。
(おい朝夫、それはお前のせいじゃないだろう。さっきも言ったけどさ、俺たちはスーパーマンじゃないんだ)
清田隆介の言葉を思い出す。確かに、自分はスーパーマンではない。それでも悔いは残る。助けられたかもしれない者を、助けられなかったのだから。
あの時と、同じように。
朝夫がまだ小学生の時、近所の公園にひとりのホームレスが住んでいた。
年齢は五十代より上……少なくとも、小学生から見れば大変な年寄りに見える年齢だったのは間違いない。髪は抜け落ち前歯は一本もなく、汚い服でうろうろしていた。だが、付近の住民たちに迷惑をかけないよう、常に気を配っていた。少なくとも、朝夫はそう聞いている。
ある日のことだ。朝夫が塾の帰りに、その公園を通りかかった。すると、数人の不良少年が騒いでいる光景が目に入る。彼らは花火を鳴らしゴミを撒き散らし、大きな声で楽しげに話していたのだ。その様は、動物園の猿のようだった。
朝夫は、はっきりと不快感を覚えた。だが、小学生の彼にどうこう出来る問題ではない。不良少年たちも、飽きたら他の場所に行くか帰るかするだろう。それに、近所の誰かが警察に通報してくれるはず……朝夫は、そう考えて自分を納得させ、知らん顔をして通り過ぎた。
その翌日、テレビのニュースに件の公園が登場する。ホームレスが遺体となって発見されたというのだ。体のあちこちに痣や傷痕があり、服は血で染まり、顔は苦痛で歪んでいる。誰の目にも、他殺体にしか見えないだろう。
現場となった公園はしばらく立入禁止となり、刑事が近所で聞き込みをしていた。
ほどなくして、犯人が逮捕される。それは、前日に公園で騒いでいた不良少年たちであった。花火を注意され、かっとなって袋だたきにしたと供述したらしい。当時、まだ日本にいた朝夫の父は、吐き捨てるような口調で言った。
「ホームレスの分際で人に注意なんかするから、こんなことになるんだよ。だいたい、あいつらだって公園に住むこと自体が法律違反じゃねえか」
だが、朝夫はそんな風には思えなかった。
ホームレスであろうが何であろうが、悪いことには悪いと言った、その行為は尊いものではないのだろうか? 少なくとも、見て見ぬふりをするよりはマシだ。しかも、あのホームレスは付近の住民に迷惑をかけないよう生活していたと聞いている。
公園でひっそり生活していたホームレスと、公園で騒ぎ花火をしてゴミまで撒き散らしていた不良たち。どちらが悪いは、考えるまでもないはずだ。
にもかかわらず、父はホームレスのしたことを非難していた。それも、汚いものを語るかのごとき口調で。
仕事がないからか?
格好が汚いからか?
住む場所がないからか?
さらに朝夫を驚かせたのは、父が続けて放った言葉だった。
「こいつら全員、未成年だからな。少年院に三年か四年ぶち込まれるだけだろ」
嘘だろ?
人ひとり殺して、三年から四年?
法律って、何だ?
もうひとつ、朝夫を悩ませるものがある。
あの不良少年たちが騒いでいるのを目撃しながら、自分は何もしなかったことだ。当時、小学生だったとはいえ、警察に通報するくらいは出来た。実際、その考えが頭を掠めてもいた。だが結局は、面倒くさいという思いが先立ち、あっさりとその場を離れた。
結果、人かひとり死んだ。
やがて成長するにつれ、朝夫は法律というものを信じなくなった。権力者の都合次第で、あっさり変わってしまう。だが、罪を犯した者には、相応の報いがあるべきなのだ。少なくとも、人を殺した人間が、たった三年の刑で済んでいいはずがない。
しかも警察という連中は、いて欲しい時に限っていてくれない。市民は何か事件に巻き込まれた場合、自分で自分の身を守るしかないのだ。
朝夫は密かに体を鍛え、格闘のための技術を学んだ。自信をつけるため、夜の町でヤンキーを狩るようにもなった。彼は一見すると、メガネをかけたひ弱そうな少年である。朝夫と肩がぶつかれば「おいコラ!」などと因縁をつける者もいる。
そこで、朝夫は闘い方を学んでいった。ほとんどのヤンキーは、まず脅し文句で威圧し、相手を萎縮させる。だが朝夫は、相手が能書きを言い始めた瞬間に先制攻撃をくらわす。それだけで、ほとんどの相手は怯み、朝夫に一方的に叩きのめされていった。
相手の数が多い時は、走って逃げる。それだけで、たいていの場合は片が付いた。ヤンキーという人種は不健康な生活を送っており、持久力や心肺機能は一般人より低い。少し走っただけで息切れしてしまい、朝夫の餌食となるだけだった。
学校では真面目な生徒、だが町に出れば喧嘩に明け暮れるという二重生活を送る朝夫。やがて父と母が、ビジネスの海外展開のため生活の場を中国に移し、朝夫はひとり暮らしを始める。欣也や隆介と知り合ったのも、この頃だ。
それと同時に、彼らの活動も本格的なものになっていく。朝夫は二人と共に、町に巣くうヤンキーやチンピラといった連中を次々と狩っていく。
自身の信じる正義を貫くために。
そんなことを繰り返していくうち、朝夫ら三人の戦う技術は磨かれていく。その上、彼らは有名人になっていた。
・・・
「おいおい、泣くなよ……ああ、わかったわかった。今から家まで行くから……何? 今日は外がいいのか? じゃあ、いつものところでいいな……」
井上和義は事務所の椅子に座り、携帯電話に向かい話し続けていた。同じ部屋にいる板倉恭司は、無表情で下を向いている。
やがて井上は電話を切り、大げさな動きでため息を吐いた。
「悪いな板倉、ちょいと野暮用が出来ちまったんだよ。あとは頼んだぜ」
井上は、すまなさそうな表情で言った。野暮用とは何であるか、板倉恭司には既にわかっている。彼の話し方からして、愛人に間違いないだろう。
「わかりました。任せてください」
「そうか。助かるよ。いやあ、まいったまいった」
言いながら、井上は恭司の肩を叩いた。意味ありげな表情で、顔を近づけてくる。
「お前も、面倒な女には気をつけろよ」
「はい」
井上は、面倒くさそうな表情を浮かべて事務所を出て行った。この男、妻も子供もいる。家庭を顧みないわけでもない。休みの日には家族サービスもしているし、妻との仲が冷えきっているということでもなさそうだ。
その一方で、愛人とも上手くやっている。恭司は、その愛人を何度か見たことがあった。三十代の前半で子持ちと聞いていたが、そうは見えない。二十代といっても、充分に通用するだろう。
愛人は美しい顔をしているが、ただ綺麗とか、美人という言葉では表現しきれない不思議な雰囲気を漂わせている。寂しげな瞳と秘密を抱えていそうな暗い表情、肉感的な体つきは若者受けはしないだろう。少なくとも、モデルのようなスタイルで自信たっぷりな顔つきの本妻とは異なるタイプだ。
しかし愛人には、一定の年齢を過ぎた男性を強く引き付ける奇妙な魅力があるのは間違いない。井上もまた、その魅力にやられてしまったようだった。ぶつぶつ言いながらも、彼女のところに足繁く通っている点からも明らかだ。いわゆる床上手なのか、あるいは他の何かがあるのか。いずれにせよ、遊び慣れているはずの井上が、すっかりハマっているのは間違いない。
もっとも、恭司にはどうでもいい話である。彼はポケットから携帯電話を取り出すと、タイ語で何やら話し始めた。
しばらくタイ語で話した後、恭司は電話を切った。と同時に、事務所に入ってきた者がいる。
「あ、どうも板倉さん。井上さんはいないんですか?」
キョロキョロしながら聞いてきたのは、金髪に革のジャンパー姿の青年だ。不健康そうに痩せた体つきであり、目つきも悪い。凶暴そうな顔つきだが、恭司を見る目には媚びるような色がある。
恭司は、この男を知っていた。末端の組員である島田隆文だ。組員と言っても、チンピラに毛の生えたような存在だが。二十二歳の恭司よりひとつ年上ではあるが、立場は恭司の方が遥かに上である。
「ちょっと用事が出来たらしい。今日は、もう来ないよ」
「えっ、じゃあ、また愛人とこですか。あの人も好きだなあ」
ヘラヘラ笑う島田を、恭司は冷たい表情で見つめる。ゴミクズでも見るような目だ。
「口には気をつけた方がいいぞ。それより、いいところに来てくれた。あとのことは任せたぜ。俺も、今から行かなきゃならん場所があるからな」
そう言うと、恭司はドアに向かい歩き出す。だが、島田が近寄って来た。恭司の前で、神妙な面持ちで口を開く。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですけどお、大丈夫なんですか?」
「……何が?」
聞き返す恭司に、島田は案ずるような表情で顔を近づけてくる。
「期限は、あと三日ですよね? 青島は見つかったんですか? 俺、心配で心配で――」
「だから何だ? それが、お前に何の関係があるんだ?」
低い声で聞き返す恭司に、島田は引き攣った表情になる。
「えっと、いや、その、俺はただ――」
「分かってんだよ。お前、関根の兄貴に言われて来たんだろうが。板倉が青島を見つけたかどうか、調べてこいってな」
恭司の口調は静かなものだった。が、その迫力に気圧され、島田は震えながら目を逸らした。
「関根の兄貴に言っとけ、青島はまだ見つかってないってな。あと、こうも言っとけ。青島を見つけたら、すぐに知らせるってな」
そう言うと、恭司は事務所を出て行った。
夜の繁華街には、人が溢れていた。
そんな中を、恭司はひとりで歩いて行く。いつもなら、工藤憐が隣にいるはずなのだが、今日は家に残してある。
誰も彼も皆、浮かれた表情をしている。そんな中、恭司は冷酷な光を目に宿し、人混みの中を進んで行く。
やがて、彼は目当ての場所に辿り着いた。人通りのない路地裏にある、四階建ての古ぼけたビルだ。一階にはバーらしき店がある。外国語の看板がかかっているが、ひっそりと静まり返っている。中は暗く、営業しているのかどうかも分からない。もっとも、耳を澄ませば微かに人の話し声は聞こえてくる。
恭司は何のためらいもなく、扉を開け中に入って行った。狭く薄暗い店内は、ソファーとテーブルが置かれているだけだ。飲食店らしい雰囲気はなく、数人の男たちがひそひそ話している。
しかし、恭司が入っていった途端、話し声はピタリとやむ。
店内にいた者たちの視線が、恭司に集中した。
・・・
「えっ、本当っスか!? 矢部さん、病院送りにされたんですか?」
立花欣也の言葉に、片桐隆は顔をしかめて頷いた。
「そうなんだよ。矢部の奴、いきなりコーヒーぶっかけられて、顔を消火器でぶん殴られてなあ……俺も止めに入ろうとしたんだけどよ、別の奴らにフクロにされちまったよ」
「クソ、許せねえな」
拳を握りしめ、欣也は呟くように言った。片桐の方は、神妙な顔つきでウンウンと頷く。
欣也と片桐は今、真幌駅の前にあるファミリーレストランに来ていた。二人は以前からの知り合いであり、近頃は片桐の仕事を欣也が手伝うようにもなっている。まともな仕事ではないが、金は悪くない。
そんな彼らの話題に上がっているのは、矢部達敏である。かつてプロの総合格闘家であり、欣也の先輩に当たる男だ。中学生の時、格闘技のジムに入会した欣也に、格闘技のイロハと礼儀をみっちり教えこんだのが矢部である。
やがて矢部は、クラッシャー矢部のリングネームでプロ格闘家としてデビューした。百八十五センチで百十キロの日本人離れした体格や、強烈な打撃技でKOを量産していくスタイルでマスコミからも注目される。
破竹の勢いで勝ち進み、順調にスター街道を歩いていた矢部だった。だが、悲劇が訪れる。試合中のアクシデントで左目の視力を失い、引退することとなったのだ。その後は、片桐のボディーガードを務めていた。片桐と欣也とを引き合わせたのも矢部である。
その矢部が、病院送りにされたとは……欣也は、怒りに震えながら口を開いた。
「じゃあ、矢部さんは今、入院してるんですか?」
「わからねえ」
「わからねえって、どういうことですか?」
「矢部の奴、一度は入院させたんだがな、病院を抜け出しやがった。それからは行方不明だ。連絡も取れやしねえんだよ」
そこで片桐は言葉を止め、ため息を吐いた。
「ひょっとしたら、板倉んとこにカチこんで返り討ちにあったのかもしれねえな……」
それは、呟くような言葉だった。しかし、欣也は聞き逃さなかった。欣也の知っている矢部は、とにかく負けず嫌いで執念深い男である。勝利へのあくなき執念こそが、矢部の強さの一因でもあった。
何者かに痛めつけられ、病院送りにされたなら、矢部は必ず復讐しようとするはずだ。その結果、返り討ちにあった……充分ありえる話だ。
「その板倉ってのが、矢部さんをやったんですか?」
「わからねえが、病院送りにしたのは間違いなく板倉恭司だ。ひょっとしたら、奴が矢部を返り討ちにして、死体を始末したのかもしれねえよ。死体さえ見つからなければ、永久に行方不明のままだからな。殺した後に死体を消す、それはヤクザの常套手段だよ」
片桐の言葉は、欣也の怒りをさらに焚きつけるものとなった。
「ふざけやがって……板倉恭司っていうんですね、そのクズは。だったら、俺がそいつを取っ捕まえて吐かせてやりますよ」
「やめとけ、あいつはヤクザなんだぞ。俺だって、奴を許せねえんだ。どうしてもやらなきゃならない時は、俺が――」
「いや、俺に任せてください。俺には仲間もいますから、そんなヤクザなんか怖くないですよ。板倉を取っ捕まえて、きっちりケジメ取ってやります」
「そうか……」
片桐は、すまなさそうな表情で頭を下げた。
「本当なら、俺がやらなきゃならないんだよ。あいつの兄貴分だった俺が、な」
「何言ってるんですか。片桐さんの手を煩わせるわけにはいかないですよ。俺らがやりますから。まず、板倉の写真とか立ち寄りそうな場所なんかを調べといてください。で、俺の携帯に送ってくれれば、後は俺らだけでやりますから。片桐さんには、いっさい迷惑かけません」
「やってくれるか。すまねえな」
「当たり前ですよ。俺らに任せてください。板倉に地獄見せてやりますよ」
真剣な表情を浮かべた欣也が物騒な言葉を吐いた瞬間、ステーキの乗った皿が運ばれてきた。その皿を見て、片桐の顔が和む。
「まあ、とにかく今は食ってくれ。腹が減っては、いくさは出来ないからな。俺のことは気にせず、腹いっぱい食ってくれよ。足りねえなら、お代わり頼んでいいぞ。俺はな、矢部やお前みたいな食いっぷりのいい奴が大好きなんだよ」
「ありがとうございます。いただきます」
頭を下げると、欣也はステーキを食べ始める。旺盛な食欲で肉片を胃袋へと放り込んでいく様は、凶暴な肉食獣そのものであった。
それを見ている片桐の顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。もっとも、その目は笑っていない。冷酷な光の宿る瞳を、ステーキを貪り食う少年へと向けている。