異変
「莉亜夢、ちょっと外出ててくんない?」
ドア越しに聞こえてきた母の言葉に、莉亜夢は複雑な思いを感じた。またか、と。だが、その気持ちを無理やり押さえこむ。
「うん、分かった」
莉亜夢は、外に出た。あてもなく、町を歩く。
いつまで、こんなことをしなくてはならないのだろう。母の命令により外出し、母の都合のいい時間になったら家に帰る……幼い頃から、何度も繰り返してきた。
いっそ本格的に狂ってしまえば、全てから解放されるのかもしれない。心を悩ませている日常の問題が、全てなくなるのなら――
「莉亜夢くん」
不意に、後ろから声が聞こえた。これは、アヤスのものではない……莉亜夢は振り返る。
そこにいたのは、あの不気味な女だった。黒いハットを被り、コートを着てサングラスをかけ、黒いマスクで口元を覆っている。どこから見ても、完全な不審者だ。
女は、マスクを取った。長い傷痕の付いた頬があらわになる。莉亜夢は、震えながら後ずさっていた。
すると、女はくすりと笑う。
「莉亜夢くん、そんなに怖がらないでよ。仲良くしよ」
「あ、あなた誰ですか?」
莉亜夢は、どうにか言葉を絞り出した。目の前にいる女は普通ではない。もちろん、知り合いでもない。いったい何者だ?
「覚えてないの? 私と君は、前に会ってるんだよ」
そう言うと、女は頬の傷痕を撫でた。
「その時は、こんなのはなかったけどね。当時の私は、うらわかき乙女だったし」
女は笑みを浮かべながら、近づいて来る。だが莉亜夢の方は、女が何を言っているのか分からない。会った覚えなどない――
頬の傷?
その時、莉亜夢の頭に、ある光景が浮かぶ。誰かが泣き叫んでいたのだ。裸で、頬から血を流しながら……あれは、若い女だった。
さらに、見知らぬ数人の男たちもいた。彼らは、ヘラヘラ笑いながら何かを持っていた。パシャパシャと音の鳴る、黒い何かを。
そんな恐ろしい光景を見ながら、笑い転げている誰かがいた。
「まあ、覚えてなくても仕方ないか。君は、凄く小さかったから」
直後、女の口元が歪む。
「でもね、私は忘れたことはない。あの日のことを、今もはっきり覚えてる」
言った直後、女はゆっくりと近づいて来た。明らかに、自分に危害を加えようとしている……にもかかわらず、莉亜夢は体を動かすことが出来なかった。恐怖と混乱により体が硬直し、抵抗するわけでも逃げるわけでもなく、その場に立ちすくんでいた。
一方、女は悠然とした態度で近づいて来る。莉亜夢との距離はどんどん狭まっていき、手を伸ばせば届く間合いだ――
が、女は立ち止まった。
「う、嘘、何あれ……」
今度は、女の方が立ちすくんでいる。サングラスのせいで目の動きは分からないが、動揺しているのは明らかだ。唇は半開きで、肩が小刻みに震えていた。
直後、ずずずず……という音が聞こえてきた。
「あらあら、あんたもあたしが見えるの? ふふふ、面白い」
アヤスの声だ。いつの間に現れたのか、莉亜夢の後ろから、滑るような動きで前に出て来る。女は、震えながら後ずさって行った。
「アヤス?」
呟くように言った莉亜夢。すると、アヤスの片方の目が動いた。ヘドロのような本体の上を移動し、莉亜夢を見つめる。もう片方の目は、女をじっと見つめていた。
「莉亜夢くん、この女は良からぬことを企んでいるみたい。さっさと逃げたほうがいいんじゃない? まあ、君の自由だけど」
その言葉に、莉亜夢は震えながらも頷いた。と同時に、彼の体もようやく動き出す。莉亜夢は、その場から逃げ出した。
駅前のベンチに座り、ほっと一息ついた。これまで、自分を悩ませていた怪物アヤス。だが、先ほどは奴に助けられてしまった……その事実に、莉亜夢は困惑していた。
あいつは、いったい何なんだろう?
莉亜夢は今まで、アヤスを幻覚だと思っていた。だが、先ほどの女にはアヤスが見えていたのだ。ということは、アヤスは現実に存在しているのか。
いや、それよりも問題なことがある。先ほど、頭の中に奇妙な映像が蘇ったのだ。若い女が、頬から血を流しながら泣き叫ぶ姿。その周りを取り囲む、数人の男たち。
あれは、何だったんだ?
僕は、そこにいたのか?
(覚えてないの? 私と君は、前に会ってるんだよ)
(その時は、こんなのはなかったけどね。当時の私は、うらわかき乙女だったし)
頬に傷痕のある女は、確かにそう言っていた。となると……。
僕は、いつ、どこであれを見たんだ?
莉亜夢は、ベンチに座ったまま頭を抱える。何も分からない。あんな女には、見覚えなどないのだ。
だが、映像は記憶に残っている。幼い頃に見たようだが……テレビで観たものと、混同しているのだろうか。
僕は……分からない。
・・・
「おいおい、てめえ何なんだよ? 俺たちが、いったい何したって言うの?」
見るからにガラの悪い若者たちが、ひとりの少年を取り囲み恫喝している。場所は深夜の陸橋下であり、周りに人はいない。若者たちは、怒りに満ちた表情で少年を睨んでいた。
その周囲には、ジュースの空き缶や菓子の袋などが散乱している。
「だけど、あなた方がゴミを撒き散らしてることに間違いないですよね。帰る時に、ちゃんと掃除してくれるんですか?」
少年……いや、有村朝夫はすました表情で尋ねる。内心では冷静に、相手の戦力を計っていた。総勢五人、全員が六十キロから七十キロほど。顔つきや態度からして、自分より年上だ……ヤンキー気質の抜けない大学生か、あるいは無職のチンピラか。体格や拳や耳たぶなどを見るに、格闘技の経験者はいない。
先制攻撃をかませば、一瞬で片が付く。
「んなこと、てめえに関係ねえだろうが! 殺すぞゴラア!」
若者のひとりが怒鳴り、朝夫の襟首を掴んだ時だった。
「おやあ? 僕が家に帰ろうと歩いてたら、とんでもない悪人を発見してしまったぞ」
わざとらしい言葉とともに現れたのは、立花欣也である。そのガッチリした体格と威圧感ある風貌に、若者たちを包む空気が変わった。この新たな乱入者に対し、どう反応すべきか戸惑っているのだ。
その隙に、攻撃を開始したのが清田隆介だ。欣也の後ろからいきなり登場し、警棒を振り上げ若者に叩きつける――
「おいコラ! 先に始めんじゃねえ!」
喚くと同時に、欣也は襲い掛かる。間合いを詰めると同時に、手近な若者を殴り倒した。さらに、朝夫もスタンガンで一撃を食らわす――
若者たちは抵抗する暇もなく、あっという間に倒されていった。
「何だお前ら、貧乏人だなあ。こんな所に溜まってる暇があったら、バイトでもしろよ」
地面に倒れている若者たちから財布を抜き取り、手際よく中身を抜いていく隆介。その横では、欣也がしゃがみ込んでいる。
「なあ、お前らって何なの? 社会人?」
言いながら、ひとりの若者の髪を掴む。無理やり顔を上げさせて覗きこんだ。
「だ、大学行ってます」
若者は、震える声で返事をした。その途端、顔面に拳を打ち込まれる。若者は痛みのあまり、呻き声を上げた。
「大学生にもなって、バカなヤンキーみたいなことしてんじゃねえよ。そんなに暇だったら、ボランティアでもしに行けや」
そんなことを言いながら、欣也はなおも顔面を殴り続ける。一方、朝夫は道に転がっているペットボトルや袋などを集め、若者たちの口の中に突っ込んでいった。
「お前ら、大学生だったのかよ。だったら分かるよな、ゴミを捨てちゃいけないってことは。自分で出したゴミは、自分で始末しろ」
朝夫は、さらにゴミを集めていく。その時、ひとりの若者が掠れた声を発した。
「ぼ、僕たちのじゃないのもあります……」
その言葉の主を、朝夫はじろりと睨みつけた。次の瞬間、スタンガンを押し当てる――
若者は悲鳴を上げ、半ば反射的に地面を転がった。だが、朝夫はさらに追撃する。
「お前らのじゃないから何なんだ? ここに捨てられたゴミは、誰かが掃除するんだよ。お前らがここに捨てたゴミも、誰かが掃除することになるんだよ。自分の出してないゴミをな」
冷静な口調で言いながら、朝夫は若者に蹴りを入れる。だが、隆介が彼の腕を掴んだ。
「もうやめとけ。そろそろ引き上げないと、おまわり呼ばれるぞ」
帰り道、三人は連れ立って歩いていた。
「なあ欣也、お前最近、連絡とれないこと多いじゃん。何やってんの?」
隆介にいきなり聞かれ、欣也は渋い表情になった。
「何って、まあ、俺もいろいろ忙しいから……」
歯切れの悪い言葉で答える欣也。朝夫は、そんな彼の表情をじっと見つめた。これは、嘘をついている……いや、嘘というほどではないにしろ、何かを隠しているのは確かだ。
問いただすべきか。朝夫が迷っていると、欣也の表情が変わった。笑顔で口を開く。
「そんなことより、何か食いに行かねえか? たまには、俺が奢るぜ」
欣也は笑いながら、今度は朝夫の肩をつついた。
「いつも、朝夫に奢ってもらってるからな。今日は俺が奢るよ」
「へえ、お前が奢るなんて、珍しいこともあるもんだな。もしかして、忙しい理由ってバイトしてたからか?」
隆介の問いに、欣也は慌てた様子で頷いた。
「あ、ああ、そうなんだよ。実はバイトしてたんだよ。だから金あるんだよ。ファミレスにでも行こうぜ」
「まあ、奢りならどこでもいいや。行くとしますか」
そんな会話をしている二人の後を、朝夫は無言で付いて行く。今の欣也の態度は、明らかにおかしい。何かを隠しているのは間違いないが、バイトをしていたのなら、隠す必要などないはずだ。
そもそもバイトだなどと言っているが、この気が短くて血の気の多い格闘バカが、素直にバイトなどするだろうか。すぐに上役と揉めてクビになる……そんな展開しか思い浮かばない。現に高校を退学になった直後、欣也はいくつかバイトを始めてみたのだが、全て一日で辞めている。
いったい、何をやってんだろうか。
「朝夫、何やってんだよ。早く行くぞ」
不意に欣也が立ち止まり、こちらを向いた。いかつい顔に笑みを浮かべ、手招きしている。
考えすぎか、と朝夫は思った。人間は変わる。ひょっとしたら、欣也も心を入れ替えてアルバイトに励んでいるのかも知れない。
「ああ、行こうか」
・・・
その日、井上和義は不機嫌だった。事務所の椅子に座り、渋い表情で目の前にいる青年に愚痴をこぼす。
「あの又吉とかいうバカ、昔うちの売人からシャブ引いてたの忘れてたよ。あいつの携帯から足が付いて、二人パクられちまった。ったく、この忙しい時に……」
ぼやく井上に、板倉恭司は神妙な面持ちで頷く。
井上の言っている又吉とは、一週間ほど前に一家四人を皆殺しにした又吉修のことだ。覚醒剤中毒でもあり、犯行直後に「電波が走る! 走ってくる!」などと叫んでいたらしい。
「でも、おかしいんだよな。うちの売人が言ってたんだが、奴はここ半年くらいシャブ買ってなかったらしいんだよ。だから、てっきりシャブやめたかパクられたと思ってたみたいなんだよな。なのに、まさかあんなことしでかすとは……」
言いながら、井上は面倒くさそうにかぶりを振った。この井上、不機嫌だからといって子分を怒鳴りつけたりはしない。
一方、同じ幹部である関根智也は、不機嫌になると子分を怒鳴り散らす。殴る蹴るも珍しくはない。そのあたりにも、両者の考え方の違いが出ている。
もっとも、井上は子分を殴らない代わりに、簡単に命を奪うのだが……。
「又吉のこと、知ってるんですか?」
尋ねる恭司に、井上はため息をついてみせた。
「ああ。あのバカな、お嬢さんの同級生なんだよ。もっとも、ヤクザにもなれない半端者だけどな。俺も、会ったのは一回くらいだよ」
お嬢さんとは、仁龍会の大幹部である尾形恵一の娘・由美のことだ。恭司は、眉間に皺を寄せた。
「同級生、ですか? テレビで見た限りでは、あの又吉は四十歳を過ぎているように見えました」
「いや、あいつは二十六だよ。しばらく見ない間に、えらく老けちまったがな」
言いながら、井上は顔をしかめた。あの又吉の老け方は尋常ではない。恐らく、安いが質の悪い覚醒剤を大量に注射していたのだろう。
売人の中には、覚醒剤に混ぜものをする者もいる。そうやって見た目の量を増やすのだ。もっとも、売人には薬物の知識も医学の知識もない。たまに、おかしな薬を混ぜる者もいる。結果、人体に深刻な影響が出てしまうのだ。皮肉なもので、純度の高い覚醒剤をやっている人間の方がまともに見える。
又吉も、混ぜものをした覚醒剤を大量に注射していたのだろう。すっかり薄くなった髪、汚らしい土気色の肌、ボロボロの歯、血走った目……井上も多くの末期的なシャブ中を見てきたが、あそこまで酷い変わりようの者は初めて見た。
「そうそう、お嬢さんっていえば……板倉、期限はあと四日だぞ。分かっているな?」
井上の言葉に、恭司はこくんと頷いた。
「分かってます」
「俺はな、お前を信用してこの件を任せたんだ。尾形の叔父貴にも、板倉っていう若いのに一任してますと言ってある。そのお前がしくじったとなると、俺の顔を潰すことになるんだよ。その場合、お前の指を全部飛ばしたって足りねえんだ。それも、分かってるな?」
「もちろんです」
答える恭司の顔は自信に満ちている。自分が失敗など、するはずがない……とでもいいたげな表情で井上を見ている。井上は苦笑し、立ち上がった。
「お前のその自信、どっから来るのかねえ。まあいい、あとは任せたぞ。俺は、そろそろ帰るからな」
帰る、などと言ってはいるが……井上が今から愛人宅に行くことを、恭司は知っている。もっとも、そんなことはおくびにも出さない。
「分かりました」
そう言うと、恭司は深々と頭を下げた。
やがて、恭司と憐は事務所を出た。怪しげな男たちのうごめく繁華街を、二人並んで歩く。
「レン、関根の息子を病院送りにした連中が見つかったらしい。成宮の奴、仕事が早いな」
「何者なの? ヤクザ? それとも外国人?」
憐が聞くと、恭司は首を横に振った。
「分からんが、たぶん違うと思う。成宮の話じゃ、あちこちの不良やチンピラを襲ってる連中らしい」
「そいつら、何で襲うの?」
「さあ、何でだろうな。まあ、理由なんか知ったことじゃないけどな」
「どうするの? そいつら殺す?」
なおも尋ねる憐。彼の喋り方は子供のようだが、頭は決して悪くない。とっさの判断力や危険を察知する能力には、ずば抜けたものがある。
逆に、そういう人間でなければ、あの地獄を生き延びることは出来なかっただろう。
「さあな、まだ決めてない。利用価値があれば生かす。なければ……関根に差し出すよ」
「関根はどうするの?」
「えっ?」
想定外の質問に、さすがの恭司も面食らっていた。どうするの、とは……こっちが聞きたい。
「あいつは、恭司を嫌ってる。いつか、殺すつもりだ。あいつは、早いうちに殺した方がいい」
憐の表情は真剣そのものである。恭司は苦笑し、彼の肩を軽く叩いた。
「お前が言うなら、間違いないだろう。だがな、まだ早い。殺るにも、時期を見ないとな。その時が来たら、頼んだぜ」
恭司の言葉に、憐は納得したように頷いた。
「だがな、関根の前に青島の件を終わらせなきゃならない。あと四日だってよ」
言いながら、恭司は街中を見回した。
「さて、上手くいくかな……」