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僕は、外を見ていた。
家の窓から、じっと外を見ていた。
外?
外って、どこのことだ?
内も外も繋がっている。全ては、同じ場所だ。どこにいようが、外の世界を排除することは出来ない。
それでも、僕は外が嫌いだ。
牧村莉亜夢は目を覚ました。ひどく不快な気分だ。どんな夢を見ていたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、悪夢であったのは間違いない。
「お目覚めかしら?」
不意に、声が聞こえてきた。見ると、部屋の床でアヤスがうねうね動いている。
「うるさいな」
言いながら、莉亜夢は上体を起こした。
緑色のヘドロに目が付いた、異様な姿の怪物アヤス。こんなものが存在するはずがない。莉亜夢の幻覚以外の何物でもないだろう。
にもかかわらず、莉亜夢はこの状況に慣れてしまっている。幻覚が当たり前のように出現しているのに、今の彼は何事もなく受け入れていた。
人間は、どんな環境にも慣れてしまうらしい……そんなことを思いつつ、莉亜夢はテレビをつけてみた。
キャスターが、真剣な面持ちで何やら語っている。
(果たして、こんなことが許されていいのでしょうか。この問題について我々は、さらに追及していくつもりです)
「何を追及していくのかしらね。全く、この時間帯にはろくなのが放送してない」
アヤスの言葉は乱暴だが、声は落ち着いたものだ。若い娘のバカ丸出しな、舌足らずな喋り方とは違う。誰がモデルになっているのだろう。
そう、アヤスは幻覚なのだ。莉亜夢の壊れた脳髄が見せている、存在しないはずのもの。となると、昔観たアニメか映画の登場人物だろうか。
「ところで、昨日の女は知り合い?」
いきなり投げ掛けられたアヤスの言葉に、莉亜夢はきょとんとなった。女、とは誰だろう。
だが、すぐに思い出す。昨日、妙な女から声をかけられたのだ。サングラスをかけマスクで顔を覆っていた、絵に描いたような不審者。初めは、男か女かの判別すら出来なかった。莉亜夢の前でマスクを取り、話しかけてきたのだが……彼女の頬には、長い傷痕があった。まるで、刃物で切られたような。
その時、莉亜夢の頭に閃くものがあった。あんな人物に、見覚えなどない。いや、それ以前の問題として、あんな怪しい人物がいるだろうか。
となると、あれも幻覚ではないのか?
「あんな奴、知り合いなわけないだろ。だいたい、あの女もお前と同じ幻覚だ。現実には存在していない」
莉亜夢は、静かな口調で言った。他人にというより、自分に言い聞かせるかのように。
その時、くすりと笑う声が聞こえた。
「幻覚? 何それ。幻覚って、いったい何のこと?」
言うまでもなく、アヤスの声だ。うねうねと触覚らしきものを動きながら、莉亜夢の目の前に移動する。
莉亜夢は腹が立ってきた。
「お前に決まってるだろうが。お前は幻覚だ。現実には存在していない」
「現実って何?」
からかうような口調で、アヤスは聞いてきた。バカにしているのだろうか。莉亜夢はかっとなったが、その時ひとつの考えが浮かぶ。
もし、こいつが現実に存在していたら?
こんなおかしな生物が、現実に存在するはずがない。全ては幻覚である……それこそが、もっとも理にかなった意見だろう。
本当にそうなのか?
そもそも、現実って何だ?
「君の目には、私が見えている。君の耳には、私の声が聞こえている。それだけで充分じゃない?」
違う。
お前は存在しない。
これは、幻覚だ。
「現実……そんな言葉に、いったい何の意味があるの? そんなもの、君の頭の中で勝手に作りあげればいいじゃない」
アヤスの言葉は、莉亜夢の心の隙間に入り込んでいった。彼は下を向き、必死の形相で頭を振る。
「違う……現実は、現実だ。お前とは違う」
「どう違うの? 君の目には、私の姿が見えている。私の声が聞こえる。触れることも出来る。いくら君が否定しても、私の存在を消し去ることなど出来ない」
言いながら、アヤスはくすくす笑った。
「黙れ……お前は幻覚だ。お前は存在しない。存在してはいけないんだよ」
「フフフ。現実という言葉に縛られ、何も出来ないまま時が流れていく……哀れな話ね」
「うるさい! さっさと消えろ!」
「おやおや、えらい剣幕ね。今日は、これで消えてあげる。でもね、覚えておいて。このままだと、君は確実に潰される」
アヤスは消えた。現れた時と同じく、唐突に。
だが、奴の言葉は、莉亜夢の心から離れない。潰されるとは、どういう意味だ? いったい、あいつは何を言おうとしている?
そもそも、あいつは本当に幻覚なのか?
もし、アヤスが幻覚でなかったら?
莉亜夢の頭に、そんな思いがよぎる。アヤスが現実に存在する怪物であったとしたら、間違いなく人知を超越した存在だ。
ひょっとしたら、アヤスは自分に予言をしているのではないか?
違う。
そんなことは有り得ない。
・・・
その日、有村朝夫はひとりだった。学校帰りにたまたま寄ったコンビニで、彼は事件に巻き込まれる――
「だからあ、お前は誰に何を言ってんだよ!」
コンビニから出た時、いきなり罵声が聞こえてきた。朝夫がそちらを見ると、いかつい顔のチンピラが小柄な少年に因縁をつけていた。襟首を掴み、壁に押し付けている。どう見ても、仲良くジャレあっているようには見えない。
朝夫は、思わず舌打ちした。こんな面倒ごとに巻き込まれるとは。
だが、見過ごすわけにもいかない。若者は道路に背を向け、少年を恫喝している。隙だらけだ……倒すのは簡単だろう。
まずスタンガンで一撃、さらに首投げで地面にぶっ倒す。直後、少年に逃げるように指示して自分もその場からすぐに離れる。以上のことを、朝夫は一瞬で計算した。
ポケットのスタンガンを確認し、周囲を見回した。人の姿はない。若者は背を向けたまま、なおも怒鳴り続けている。朝夫は、そちらに歩きかけた。が、その足が止まる。
今気づいたが、電柱の陰に人がいた。スーツを着たサラリーマン風の男だ。嬉々とした表情でスマホをかざしている。どうやら、スマホで一部始終を録画しているらしい――
朝夫は困惑し、立ち止まった。こいつは、いったい何をしているのだろうか。
その時、朝夫は思い出した。通り魔・又吉修の事件を録画し、ネットにて発表していた者がいたことを。
この男も、事件の動画をネットにて拡散しようとするクズなのだろうか。
「あんた、何やってんだ?」
朝夫はスマホを持った男の前に立っていた。近くで見ると、まだ若い。恐らく二十代の前半だろう。線が細く、気の弱そうな顔つきである。
「ちょ、ちょっと黙ってろ。今、撮ってんだよ」
サラリーマンは、狼狽したように小声で言った。朝夫の見た目は、メガネをかけた痩せ型の少年である。お世辞にも恐そうには見えない。だが、朝夫の実体は見た目と真逆である。しかも、今の言葉で完全にタガが外れた。
朝夫は無言のまま手を伸ばし、スマホを取り上げた。
「な、何すんだ!」
喚きながら、サラリーマンは掴みかかってきた。だが、朝夫は意に介さずという表情だ。サラリーマンの腕を脇に挟みこみ、突進してきた勢いを利用し、思いきり投げ飛ばす――
サラリーマンの体は一回転し、地面に叩きつけられた。朝夫は、冷酷な表情で彼を見下ろす。
そして朝夫は、チンピラの方を向いた。
チンピラは今になって、朝夫たちの存在に気づいたらしい。少年の襟首を掴んだまま、唖然とした表情で朝夫を見ている。
口元を歪め、朝夫はつかつかと近づいて行く。
「お前、いい加減にしろ。人を殴りたいなら、クズを殴れ」
言いながら、朝夫はチンピラの首に触れた。直後、一瞬で相手の首を脇に抱えこむ。チンピラは、あまりの早業に何が起きたのか把握できず、反応が遅れる。
一方、朝夫には一切の躊躇も容赦もない。フロントチョークの体勢で、チンピラの首を絞めあげる――
僅かに抵抗したチンピラだったが、首の気道をしっかりと極められてはひとたまりもない。やがて絞め落とされ、意識を失う。
「おい、さっさと帰れ。しばらく、この辺りには顔を出さない方がいいぞ」
朝夫は、呆然となっている少年に言った。その時、ぷんと嫌な匂いがした。明らかに尿と糞便のものだ。
匂いの元は、チンピラだった。どうやら、絞め落とされた時に失禁してしまったらしい。これは、珍しい現象ではないのだ。
「ざけんじゃねえぞ、このバカが」
言いながら、朝夫はチンピラを突き飛ばした。意識のないチンピラは、そのまま地面に崩れ落ちる。
朝夫は、足早にその場を離れようとした。うかうかしていると、近所の住人に警察を呼ばれる。その前に、立ち去らなくては……。
その時、不意に足首を掴まれた。
「け、携帯、返せ」
倒れていたサラリーマンが、朝夫の足首を掴んでいる。朝夫の収まっていたはずの怒りが、またしても再燃してきた。先ほど、嬉々として人の災難を録画していたスマホを返せというのか。
このスマホを返したら、こいつは動画投稿サイトにさっきの映像を載せるだろう……そんなことを思った瞬間、朝夫の胸には殺意に近い感情が湧き上がる。
「このクズが……本当に殺すよ」
言葉と同時に、朝夫は顔面を蹴飛ばした。サラリーマンは、顔を両手で覆いうずくまる。その口からは、呻き声が洩れていた。恐らく、鼻が折れただろう。
だが、そんなのは自業自得だ。こいつは、犯罪を目の当たりにしながら何もしなかった。それどころか、面白動画でも撮るようなつもりで、その現場を撮影していたのだ。
こいつは、紛れもないクズ……朝夫は、振り向きもせずに去って行った。
今の朝夫の行動は、客観的に見れば犯罪と同レベルだ。しかし、今の彼はその事実に気づいていなかった。
・・・
板倉恭司と工藤憐は、場末の雀荘『絶一門』へと入って行った。店には、ワイシャツとネクタイ姿のマスターがいるだけ。他に客はいない。もっとも、二人は麻雀をしに来たわけではない。したがって、他の客がいない方がありがたいのだ。
マスターは、カウンターの奥で退屈そうにテレビを観ていた。だが恭司の姿を見た途端、弾かれたような勢いで立ち上がる。
「あ、板倉さん! どうかしましたか?」
マスターの問いには答えず、恭司はカウンターに座った。
「マスター、あいつの情報は何か聞いてるか?」
恭司の問いに、マスターは怪訝な表情になった。
「えっ……あいつ、ですか?」
その言葉を聞き、恭司はぎろりと睨みつけた。ポケットから写真を出し、カウンターに置く。
「こいつだよ。忘れたのか?」
「へっ? は、はい! 覚えてます! その件で、これから人が来ることになってます!」
「人?」
今度は、恭司の方が怪訝な表情を浮かべていた。マスターは、慌てた様子でウンウンと頷く。
「はい。この業界では、情報通として知られてます。一度、会ってもらおうと思って、ここに呼びました。もうじき来るはずです」
その言葉の直後、タイミングを計ったかのように男が入って来た。安物の地味なスーツに身を包んだ若い男だ。一見すると、遊び好きの若いサラリーマンか、売れない三流ホストに見える。もっとも、いかにも軽薄そうな顔つきと人懐こい笑顔には、人を惹きつけるものがあった。年齢は二十代半ばから三十代前半か。少なくとも、恭司より年上なのは間違いない。この店を包む空気に臆することなく、ニコニコしながら入って来た。
「やあマスター。先客がいるなら、引き上げようか?」
爽やかな声で言うと、男は恭司に向かい軽く会釈した。すると、マスターは慌てて首を横に振った。
「いや、いいんだよ。リョウちゃん、この人が板倉恭司さんだから」
その言葉に、男は驚いたような表情で恭司を見る。ついで、もう一度会釈した。
「どうも、お初にお目にかかります。わたくし、成宮亮という者です」
「成宮……亮……」
恭司は呟いた。その名名前には、聞いた記憶がある。あちこちに顔が利く男であり、裏の世界の事情通らしい。もっとも、本人と直接会うのは初めてだが。
「いかにも、成宮亮です。板倉さん、あなたのお噂は聞いてますよ」
言いながら、成宮は馴れ馴れしい態度で恭司の隣に腰掛ける。それを見た憐が、音もなく立ち上がった。だが、恭司が片手を上げて制する。
「レン、いいから座ってろ……で、成宮さん。俺もあんたの噂は聞いたことがある。えらく顔が広いらしいな」
「いえいえ、それほどでも。そんなことより、あなた大丈夫ですか? 今、相当ヤバい立場ですよね」
言いながら、成宮は恭司の顔を覗きこむ。こちらの器量を推し量るかのような表情だ。
恭司の目が、すっと細くなった。
「どういう意味だ?」
「またまたあ……板倉さん、あなたはあと五日以内に青島とかいうバカを見つけないといけないんですよね? でないとマグロ船行きだって、もっぱらの噂ですよ」
その言葉に、恭司は苦笑した。目の前にいる男は、一見すると軽薄なチンピラでしかない。だが、頭はキレるし度胸もある。何より、確かな情報網を持っている。今の裏社会において、情報収集の能力は何より大事だ。
こいつとは、仲良くなっておいて損はない。
「よく知ってるな。お前、もしかして青島の居場所も知ってんのか? 知ってんなら、教えてくれねえか?」
「いえ、全くわかりません。そもそも、あの青島ってのは妙な奴なんですよ」
「妙な奴?」
聞き返す恭司に、成宮は首を捻ってみせた。
「いやね、青島って奴は完全に姿を消しちまったんですよ。俺も、ちょっと調べてみたんですがね、見事なまでに痕跡がない。ここまで完璧に足跡を消せるのは、カタギじゃ無理ですね。かなりの大物が、奴を匿っているんじゃないかと」
「なるほど、それは困ったな」
恭司は、呟くように言った。困ったな、などと口では言っている。しかし、彼の表情は変わっていない。成宮は、またしても首を捻った。
「いや、困ったな……なんて言っている場合じゃないですよ。青島の奴、ひょっとしたら殺されてるかもしれません。その場合、あなたはマグロ船行きですよ。そしたら、生きて帰れないですよ。まあ、俺なんかに言われなくてもご存知でしょうが」
「そうはならない。奴は生きてる。必ず、見つけだす」
恭司の顔は、自信に満ちている。成宮は、呆れたようにかぶりを振った。
「あなた、噂以上の大物ですね。この状況、俺だったらさっさとバックれてますよ。よく、平気でいられますねえ」
言いながら、成宮は恭司の顔を怖々と覗きこむ。
「もしかして、青島の情報を掴んでいるんですか?」
「それは言えない。だがな、ひとつ予言しておく。俺は、マグロ船には絶対に乗らない。それより、お前に頼みたいことがある」
「えっ、何ですか?」
「俺の直属の兄貴分である關根さんはわかるか?」
「ああ、關根智也さんですね。知ってますよ……仁龍会でも、ぶっちぎりの武闘派だって有名だ」
「ここだけの話だが、その關根さんの息子さんが、どっかのバカに病院送りにされた。やった奴を捜して欲しいんだが、頼めるか?」
「いいですよ。今、どうせ暇ですから」




