過去
僕は、闇の中を沈んでいく――
気がつくと、深い森の中に立っていた。どこだろうか。見たこともないような種類の大木が生えている。
目の前に、巨大な怪物が現れた。途方もなく大きな体。僕の目には、大木のような足しか見えていない。一応、形は人間のそれに似ている。
怪物は手を伸ばし、僕の体を掴む。
そのまま、僕は持ち上げられた――
目の前には、怪物の顔がある。言うまでもなく、巨大な顔だ。黄色がかった肌の色をしており、頭には大きな一本角が生えている。さらに目は一つしかない。顔の上半分を占める巨大な単眼……。
どこかで見たような気がする。あれは映画だろうか。それとも、ゲームだろうか。
そんなことを考えていられたのは、ほんの一瞬の間だった。
なぜなら、僕は怪物の口の中に放り込まれたから。僕の体は噛み砕かれ、咀嚼され消えていった――
莉亜夢は目を開けた。
天井が見える。白い天井には、点々と染みが付いている。いったい何の染みだろうか。どうやら、目が醒めたらしい。
醒めた、のか?
今、この、現実が……現実なのか?
「莉亜夢くん」
ずずず……という音と共に、奴の声が聞こえた。
昨日、殺したはずのアヤス。だが、奴は生きているらしい。どういうことだ……莉亜夢は、部屋の中を見回した。
部屋の中は昨日のままだった……いや、違う。昨日は、アヤスの死体が転がっていたはず。さらに、緑色の体液が部屋中飛び散っていた。莉亜夢が、めった刺しにして殺したはずだ。
だが、そんな形跡はどこにもない。
「莉亜夢くん」
またしても、アヤスの声が聞こえてきた。だが、莉亜夢はその声を無視する。
あいつは幻覚なんだ。
あの声も幻聴だ。
有り得ない。
あっていいはずがない。
莉亜夢はテレビをつけた。普段は、テレビなどほとんど観ない。だが今は、この悪夢から意識を逸らせたかった。
(この又吉は、中学生の時から手の付けられない不良でした。家にヤクザらしき人物が出入りしているのを、近所の人たちからも目撃されています)
アナウンサーの声と共に、人相の悪い男の写真が映し出されている。昨日の通り魔だ。
「ふふふ、おかしいね」
アヤスの笑い声が聞こえる。だが、莉亜夢は全く笑えなかった。
この男は、電波に指示されて一家四人を殺したらしい。もちろん、電波とは幻聴のことであろう。だが、アヤスも幻覚なのだ。
幻覚としか思えないものが、目の前で動き回り話しかけて来る……これは、何なのだろう?
「あいつ、二十六歳だって。ずいぶん老けてるねえ」
また、アヤスの声が聞こえてきた。いかにも楽しそうだ。
無論、莉亜夢は楽しくない。それどころか、気が狂いそうだった。一体、どうすればいいのだろう……殺しても、奴は蘇ってくる。
莉亜夢は立ち上がり、部屋を出て行った。このままでは、耐えられそうにない。
外を歩きながら、莉亜夢はさりげなく振り返って見た。
奴はいない。莉亜夢はホッとして、前を向いた。時刻は昼過ぎ
だが、人通りはない。この辺りは閑静な住宅地であり、不審者などが歩いていれば否応なしに目立つ。
そして今、このあたりでもっとも不審な人物は……他ならぬ莉亜夢であろう。莉亜夢は、足早に立ち去ろうとした。
だが、彼は異変を感じて立ち止まる――
前方に、誰かが立っていた。黒いハットを被り、黒いコートを着ている。サングラスをかけ、マスクで口元を覆っているため顔は見えない。
莉亜夢は、思わず立ち止まっていた。目の前にいるのは、絵に描いたような不審者である。こんな服装の者が現実にいるとは……。
現実、なのか?
今、自分が見ているものは現実なのだろうか……莉亜夢の頭を、そんな考えが掠める。なにせ゜自分は、アヤスのような幻覚が見えるのだ。となると、目の前にいる不審者が幻覚でない、とは言いきれない。
その時、目の前にいた者はマスクを剥ぎ取った。口の部分が露になる。
莉亜夢は、驚きのあまり立ちすくんでいた。彼の前にいる者の頬には、長い傷痕がある。口角から耳元まで、刃物で切られたような傷痕が付いていた……昭和のヤクザ映画に登場する、やられ役のチンピラのようだ。
「あなた、牧村莉亜夢くんでしょ」
頬に傷痕のある男は、そう言った。
いや、違う。この声は、女のものだ。もちろん、莉亜夢はこんな女など知らない。こいつは、どこの何者だ? なぜ、自分を知っているのだ?
「だ、誰ですか……」
それだけ言うのがやっとだった。莉亜夢は今の得体の知れない状況に怯えきり、震えながら後ずさっている。
「ふふふ、そのうち分かる日が来るよ」
そう言うと、女は背中を向けた。そのまま、ゆっくりと去っていく……。
「今のも、知り合いなの? 君、意外と知り合いが多いんだね」
聞き覚えのある声……アヤスのものだ。莉亜夢が振り向くと、アヤスがいた。ずずずず、という音とともに道路を動き、こちらに近づいている。
「知り合いじゃない。あんな奴、初めて見た」
莉亜夢は内心ホッとしながらも、つっけんどんな口調で言った。一体、今のは何だったのだろう。アヤスに続く、新たな幻覚なのだろうか。
だが、それよりも……。
アヤスの声を聞き、ホッとするとは。
僕は、どうなってしまうのだろう。
・・・
「朝夫、あいつまた風俗に行ってんのか?」
清田隆介の問いに、有村朝夫は渋い表情でかぶりを振った。
「さあ。風俗か筋トレか……どっちにしても、連絡が取れないよ」
「そうか。あいつも、しょうがねえなあ」
二人は今、朝夫の家にいた。先ほどから立花欣也を呼びだしているのだが、全く返信がない。隆介は、明らかに苛立った様子で警棒をブンブン振っている。傍らにいる朝夫も、苦虫を噛み潰したような表情であった。
もっとも、朝夫は違う理由で不機嫌になっていたのだが。
「話変わるけどさ、こないだ通り魔事件あったろ」
朝夫の言葉に、隆介は訝るような表情になった。
「えっ? ああ、あの又吉とかいうシャブ中の事件か。あれがどうした?」
「あれ、スマホで動画撮ってたバカがいたらしい」
「らしいな。又吉が次々と人刺してるとこを、隠れてスマホで撮ってたって聞いた」
「お前、どう思う?」
「えっ?」
隆介は、困惑しているような表情になった。だが、朝夫はまたしても問いかける。
「もしお前がその場にいたら、どうしてた? スマホで動画撮ってたか?」
その問いに、隆介は首を捻りながらも答える。
「わからねえな。まあ、こいつがあれば頭カチ割ってるだろうけど、素手だったら行けたかな……」
言いながら、隆介は警棒を振る。ビュン、という音がした。
朝夫は、その警棒をじっと見つめる。こういう話の時、隆介は虚勢を張ったりはしない。慎重に、自分の正直な意見を述べる。逆に欣也なら「んな奴、ぶっ殺してやるよ」と即答しているだろう。
「もし目の前で、こんな事件があったら……俺は絶対に止める。止めなきゃならないんだ。でなきゃ、俺は一生自分を許せないだろうな」
呟くように言った朝夫に、隆介は苦笑した。
「あのな、目の前で人が刺されてんだぞ。怖いと思うのは当然だろうが。俺たちは、何とかレンジャーみたいなスーパーヒーローとは違うんだよ。自分たちに、やれることをやるしかないだろ」
その言葉に、朝夫は下を向いた。少しの間を置き、ぽつりと語る。
「この前、同級生に会ったんだよ」
「同級生?」
「ああ、イジメに遭って学校休んでる奴だ。たぶん、もうじき辞めるだろ」
朝夫は顔を上げ、隆介の目を見つめる。
「そいつ、すっかりおかしくなってた。もともとコミュ障っぽい奴だったけどさ、こないだ会った時は完全な不審者だったよ。何もない所を、ぶるぶる震えながら見てた。話しかけても、会話になってないんだよ」
朝夫の頭に、その時の映像が蘇る。莉亜夢は異様だった。頬はこけ、学校にいた時より痩せた気がした。朝夫に向ける表情は気弱そうだったが、同時に親しみも感じられた。人見知りの子供が、見知らぬ大人に話しかけられ恥ずかしく、でも少し嬉しい……それと似た気持ちが感じられた。
だが次の瞬間、その雰囲気は一変する。莉亜夢は、血走った目で地面を見つめた。まるで、恐ろしい何かがいるかのように。
唖然とする朝夫の前で、莉亜夢は慌てて去って行った……逃げるように、足早に消えて行った。
「あいつは、イジメられてた。でも俺は、見て見ぬふりをした。クラス間の面倒に、巻き込まれたくなかったからな。そして久々に会ったら、あいつは狂っていた……俺は、あいつを助けられたかもしれなかったのに、助けなかったんだ」
「おい朝夫、それはお前のせいじゃないだろう。さっきも言ったけどさ、俺たちはスーパーマンじゃないんだ。お前、ちょっと考え過ぎだよ」
言いながら、隆介は立ち上がる。
「朝夫、久しぶりにカラオケでも行かねえか? どうせ、欣也のバカは来ないだろうし」
「いや、いいよ。そんな気分じゃない」
「そっか。まあ今日でなくてもいいからさ、たまにはみんなで遊びに行こうぜ。俺ら最近、人を殴ってばっかりじゃねえか」
その言葉に、朝夫は苦笑した。
「そういや、そうだな」
「だろ? たまには息抜きするのも大切だぜ。少しは、欣也の気楽さを見習えよ」
隆介は去って行った。だが、朝夫の気は晴れない。
又吉の凶行をスマホで録画していたのが、何者なのかは知らない。だが、目の前で人が殺されているというのに、止めようとしなかった。
いや、止められなかったのは仕方ない。自分がその場にいたとしても、又吉を止められた自信はない。狂気に支配され、刃物を振り回すヤク中が相手では、返り討ちに遭っていたかもしれないのだ。普通の人間ならば、逃げ出したとしても責めることは出来ない。
問題なのは、止めもせず逃げもせずに、凶行の一部始終を録画していたことである。しかも、その映像をネットの世界に拡散しようとするとは……。
この行為は何だ? 完全な悪ではないのか?
少なくとも、朝夫には録画など出来ない。もし彼がその場にいて、体がすくんで動けなかったとしたら? 又吉の凶行を止められなかったとしたら?
「俺は一生、自分を許せない」
朝夫は、ひとり呟いた。
・・・
真幌市の繁華街を、板倉恭司と工藤憐が歩いている。どちらも特に目立つ服装ではないし、人相も悪いものではない。他人から見れば、若いサラリーマンと年下の知人という印象だろう。
もっとも、その印象は間違いなのだが。
突然、前方から子供が走って来た。体の大きさからして、小学生になったばかりだろう。
子供は、前も見ずに全速力で走って来た。その時、憐がさりげなく前に出る。
直後、子供は憐の足に正面衝突し倒れた。アスファルトの上に尻もちを着いた状態で、憐を見上げる。
憐の方は、無言のまま子供を見下ろしている。すると、恭司が動いた。面倒そうな顔つきで、ゴミか何かをどかすように足で軽く払いのけた。そして、振り返りもせずに歩き続ける。後ろから母親らしき女の、何やらわめくような声が聞こえた。だが、恭司は無視して歩き続ける。憐も、後から続いた。
「あのガキと、同じくらいの歳頃だったよな……お前が、日本に来た時は」
不意に、恭司が話しかけてきた。憐は、暗い表情で頷く。
「うん」
「俺たち、よく生きてこられたよな」
そう言って、恭司はクスリと笑った。
板倉恭司は、タイで生まれた。父は日本人ビジネスマン、母はタイ人の売春婦である。
もっとも父は、恭司が幼い頃に日本へと帰ってしまった。母は、客と揉めた挙げ句に殴られて死亡……恭司は小学校にも行かず、裏社会で大人と共に働き始める。
やがて恭司は、黄金の三角地帯へと送られた。タイ、ミャンマー、ラオスの三国がメコン川で接する山岳地帯であり、ミャンマー東部シャン州に属する世界でも屈指の麻薬密造地帯である。
恭司は、そこにある麻薬の製造工場で働かされていた。他にも数人の子供たちが連れて来られ、恭司は彼らのリーダーとなった。
本来なら小学校に通っているはずの年頃でありながら、麻薬製造工場で働いている子供たち。一般的な日本人の感覚から見れば、悲惨なものだろう。
だが、当の彼らは陽気に生きていた。作業時間は大人に混じって働く。休憩時間には、恭司を中心に皆で遊ぶ。彼らなりに、楽しい日々を過ごしていた。
だが、平和な日々は唐突に終わりを告げる。
ある日、ひとりの少年が連れて来られた。まだ小学生くらいだろうか。怯えきった表情で、キョロキョロ辺りを見回していた。その少年は日本人であり、他の者たちとは違う小屋に入れられる。というより、小屋に監禁されていたのだ。
日本語を話せる恭司は、少年の世話を命ぜられる。恭司は少年に食べ物と水を運び、身の回りの世話をした。同時に、見張りの男たちから事情を聞き出す。
その話によれば、少年の名は高村獅道。家族と共に、タイに旅行に来た。だが、両親は車の事故で死亡。途方に暮れていた高村を、偶然にも発見したのが裏社会の人間だった。日本人の子供なら、親戚から高い身代金を取れる……そう考え、ひとまず麻薬製造工場に連れて来たのである。
しばらくの間、恭司は高村とともに生活した。彼から、日本という国の話を聞かされる。
本音をいえば、恭司の中には日本という国に対し複雑な思いがあった。自分と母親を見捨てた、父親のいる国……いつか、行ってみたいという思いはある。
だが同時に、日本という国に対する憎しみもある。日本人の旅行者がタイ人を見る目からは、侮蔑が感じられた。
そんな、ある日のことだった。
恭司たちのいる工場を、銃を持った男たちが襲撃する。彼らは銃を乱射し、大人たちを次々と殺していった。だが恭司は、いち早く異変に気づく。数人の子供たちを連れ、恭司は密林の中に逃げ出した。
後から知ったのだが、襲撃者たちは対立する別組織の人間であった。
もっとも、当時の恭司たちはそんな事情を知るはずもない。彼は生き残った子供たちを連れ、ジャングルへ逃げ込んだ。木や草の生い茂る中、人里を目指し進んで行く。その中には、高村もいた。
やがて、飢えと渇きが恭司たちを襲う。周りはジャングルだとはいえ、子供たちでは食料を調達することなど困難である。
ついに、一番幼い仲間が飢えと渇きにより命を落とした。
異様な空気が、少年たちを支配していた。飢えている彼らの前には、仲間の死体がある。ついさっきまで、友だった者。同じ地獄を体験し、助け合い、共に生き延びてきた。
その仲間が、肉の塊と化して横たわっている――
飢えた少年たちの前に、肉があった。食べてはならないはずのもの。だが、彼は心を決めた。
「お前ら、こいつを食うぞ」
言ったのは恭司だった。彼はナイフを抜き、静かな表情で皆の顔を見る。
「このままだと、みんな飢え死にするだろう。でも、俺はこんな所で死にたくない。仲間の死体を食ってでも、俺は生きる……生きなきゃならないんだ」
恭司の言葉に、逆らえる者などいない。子供たちは皆、何かに憑かれたような表情で彼を見ていた。
「お前ら、忘れるなよ。俺は、こいつの肉を食べる。だからこそ、生き延びなきゃならないんだよ……こいつの分までな。俺は絶対に、生きてニッポンに辿り着くんだ。そのためなら、仲間の肉でも食べる。覚悟がない奴は、食わなくていい」
静かな口調で言った後、恭司はナイフを突き刺した。死体をバラバラに解体し、肉を切り取り焼いていく。
普通ならば、吐き気をもよおすであろう行為。だが、子供たちは喰らったのである。かつて友だった者の肉を喰らい、血をすすった。
生き延びるために。
やがて、彼らは密林を抜けることに成功した。
最初は七人だった彼ら。だが、町に着いた頃には三人に減っていた。弱い者たちは途中で命を落とし、生き残った者たちの食料とったのである。
その後、恭司たちは日本大使館へと駆け込んだ。生き残った少年・高村は、日本国籍を持っている。ならば、助けてくれるはずだ……その可能性に賭けたのだ。
結果、恭司たち三人は日本へと行くこととなった。恭司、高村、そしてレンと呼ばれていた幼い子供。
高村は親戚に預けられ、恭司とレンはとある宗教団体に引き取られた。
ラエム教という新興宗教団体に――
「クソみたいな国だぜ」
当時のことを思い出しながら、恭司は誰にともなく呟いた。
仲間の肉を食った時、彼ははっきりと自覚したのだ……自分は、生きながら鬼と成り果てたのだと。
だが、鬼となってもなお、恭司は生きなくてはならなかった。帰らぬ奴らのために。ジャングルの中で死に、恭司たちの血となり肉となってしまった彼らのために。
さらには、高村とレンを生き延びさせるために。
鬼と化してまで辿り着いた、日本という国。しかし、この国の実態は……。
「高村は、今頃どうしてるのかな」
憐も、ぽつりと呟いた。その言葉に、恭司は思わず微笑む。高村とは、もう十年近く会っていない。これからも、会うことはないだろう。
そう、お互いのことを考えれば……会わない方がいいのだ。
「さあな。まあ、あいつも元気でやってんだろうさ」