変化
あいつは、何なんだろうか。
牧村莉亜夢はベッドに寝転がり、じっと天井を見上げていた。昨日は、久しぶりに同級生と話をした。名前は、確か有村朝夫だった。出席番号がクラスで一番初めであり、授業の度に最初に呼ばれていた……そんな記憶しかないが。
そんな朝夫と昨日、偶然にも出会った。彼は、妙に親しげに話しかけてきた。だが、莉亜夢は他人と話すこと自体が久しぶりである。上手く対応できなかった。それでも、朝夫は優しい口調で会話を続けようとしていたが……。
待て。
あいつは、現実だったのか?
そうなのだ。昨日もアヤスは現れた。直後、有村も現れたのだ。アヤスが幻覚だとするなら、有村が幻覚でないと言い切れるのか? それ以前に、現実と幻覚の違いを、自分はどうやって判断すればいい?
分からない。
莉亜夢は頭を抱えた。アヤスを見せているのは、自分の狂った脳だ。その狂った脳が、アヤス以外の幻覚を見せないということがあるだろうか……それは有り得ない。
なら、昨日見たものはどっちだ?
「莉亜夢くん」
声が聞こえてきた。また来たのか……莉亜夢は顔をしかめる。
「ねえ、昨日の彼は友だちなの? 君にも友だちがいるなんて意外だった」
ずずずず、という耳ざわりな音と共に、アヤスが近づいて来る。
「うるさい」
「そんなこと言わないでよ。ねえ、君はどうしたいの?」
いきなり飛んできた質問に、莉亜夢は戸惑い何も言えなかった。だが、アヤスはうねうねと不気味な動きをしながら、さらに聞いてきた。
「君には、何かしたいことがあるんでしょ? ねえ、このままでいいの?」
莉亜夢は、言葉を返すことが出来なかった。したいこと、とは。
「このままでいいの? 君はずっと、今のままでいる気?」
なおも聞いてくるアヤス。こいつは、いったい何を言っているのだろう。
「生意気言うな。お前は幻覚だ。実在しないんだよ」
「このままだと、あいつは君から何もかも奪い取っていくよ」
莉亜夢の顔が歪んだ。あいつ、とは……誰のことであるかは考えるまでもない。
「余計なお世話だ。だいたい、そんなことは……」
言いかけて、莉亜夢はハッとなった。この怪物は、自分に何をさせようとしている?
そもそも、このアヤスは現実に存在していない。自分の脳が生み出した幻覚だ。幻覚の発する声、つまり幻聴に指示され人を殺す……よく聞く話ではないか。
「お前は存在しない。ただの幻だ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。その時、何かが手に触れる。
「このまま、何もしなくていいの? 何もせずに、成り行きを見守る気? それでいいの?」
アヤスは、なおも聞いてくる。莉亜夢はそれを無視し、テレビを点けた。とにかく、奴の声を聞きたくない。
(この男は、電波に指示されたと供述しております……)
テレビから、そんな声が聞こえてきた。画面には、ランニングシャツと白いブリーフ姿の腹の出た中年男が警官たちに連行されている映像が流れている。いったい、何事が起きたのだろうか。
「ふふふ、何あの格好」
奴の声が聞こえた。だが莉亜夢はそれを無視し、テレビの音量を大きくする。
(本当に恐ろしい事件ですね。被害者の無念を考えると、やりきれません)
アナウンサーの声が聞こえてくる。莉亜夢は苛ついた。被害者が無念であることなど、お前に言われなくても分かっているのだ。
僕が知りたいのは、そんなことではない。
あの間抜けなブリーフ親父が、何をやらかしたのか知りたいのに。
(なんだか、背筋が寒くなりますね。道ですれ違っただけで、いきなり刺し殺されるなんて……)
今度は、アシスタントの若い女が言った。莉亜夢はさらに不快になる。お前の背筋など知ったことではない。問題なのは、この奇怪な格好の男が何をしたのか……詳しい情報が知りたいのだ。
「まあまあ、そんなに苛々しないでよ」
アヤスが横から、茶化すように声をかけてきた。莉亜夢は思わず怒鳴りつけそうになり、必死で自分を押さえる。
ニュースによれば、犯人の名は又吉修。自宅から突然、包丁を握りしめて飛び出し「お前か! お前の仕業なのか!」と叫びながら、通りかかった家族連れに襲いかかって行ったのだ。
結果、一家四人が死亡。止めに入った数人の警官にも重傷を負わせたという。
逮捕された後、又吉は「電波が走る! 走ってくる!」などと叫び続けており、精神鑑定を受けているとのことだ。
普通の人は、この事件を聞いてどう思うのだろうか。ヘラヘラ笑いながら、また頭のおかしい奴が出たな……くらいの感想で終わりだろう。
以前の莉亜夢なら、同じことを考えていただろう。だが、今は違う。
莉亜夢には、又吉とかいう奴の気持ちが分かる。今のところ、彼は「電波」を受信したことはない。だが、莉亜夢にはアヤスが見えている。奴の声も聞こえる。存在するはずの無い生き物が。
又吉にも、同じような何かが見えていたのだとしたら?
「どうしたの?」
そう、奴にもこんな声が聞こえていたのだとしたら?
「ねえ、聞いてるの?」
莉亜夢は、必死で自分を押さえようとした。このままでは、又吉のようになってしまう。
「あらあら、無視する気? ねえ、大好きなあの人に彼氏がいるからって、あたしに当たらないでよ」
「うるさい」
「ふふふ、やっと答えてくれたのね」
「黙れ」
「だけど、諦めなさい。あの人と君とは、どう頑張っても結ばれないわ。だって、あの人は――」
その時、莉亜夢の中で何かが弾けた。机の引き出しに入っていた、折り畳み式ナイフを取り出す。そのナイフを、アヤスめがけ振り下ろした――
グサリという感触。ナイフは驚くほど簡単に、奴に突き刺さる。一瞬遅れて、生温かい液体が流れ出た。不気味な、緑色の液体が。
「痛いじゃない。もっと優しくしてよ」
奴の言葉を無視し、莉亜夢はなおも刺し続けた。しかし、その手応えは想像とは違っていた。まるで、ゼリーをフォークで突いているかのような感触だ。
だが、そんなことはどうでもいい。莉亜夢は、ひたすらナイフを振り下ろしていく。緑色の体液が、床と彼の体を染めていく。これはアヤスの血なのだろうか。
気がつくと、アヤスはピクピク痙攣していた。莉亜夢はその場に座り込み、奴が死にゆく様をじっと見つめる。部屋の中は、緑色の体液があちこちに飛び散り、見るも無残な状態だ。
そして、アヤスの動きは止まっている。死んだのだろうか?
莉亜夢は、奴を蹴飛ばしてみた。だが、ピクリとも動かない。どうやら死んだらしい。
ホッとした莉亜夢は、ベッドに倒れこむ。ようやく、奴がいなくなった。
疲れた……莉亜夢は暴力的なまでの眠気を感じ、目をつむった。そのまま、暗闇に引き込まれるように眠りこむ。
・・・
その日、有村朝夫は苛立っていた。
昨日、再会した牧村莉亜夢は完全におかしくなっていた。まともな会話すら覚束ない状態であり、怯えた様子で朝夫の前から去って行ったのだ。しかも、何もない地面を睨みつけながら。
ああなったのは、誰の責任なのだろう。
「悪を見逃すことも悪だ」
かつて読んだマンガに、そんなセリフが載っていたのを思い出した。もちろん、朝夫は莉亜夢へのイジメには関係していない。だが、その事実を知りながら放置していたのも確かである。
その事実が、朝夫をたまらなく不快な気分にさせていた。彼はイライラしながら、夜の町をぶらつく。
やがて朝夫は、目当てのものを見つけた。夜の公園で、数人の若者たちが花火をしているのだ。全員、高校生だろう……バカな大学生という可能性もあるが。奇声を発しながら花火を打ち上げ、楽しそうにはしゃいでいる。とっくに夏は終わったというのに、何を騒いでいるのだろうか。
どんな理由があるにせよ、公園での花火は禁止されている行為だ。したがって、こいつらは間違いなく悪人だ……朝夫は、つかつかと近づいて行った。少年たちに向かい、挑発的な言葉を吐く。
「お前ら、うるせえよ。いい歳して、公園で花火なんかしてんじゃねえ」
普段なら、こんな言葉は使わない。だが、今日の朝夫は不快な気分に支配されていた。気分のおもむくまま、言葉を吐いた。
その一言に、少年たちは振り向いた。朝夫の眼鏡をかけた真面目そうな風貌と細身の体つきを見て、簡単に捻り潰せる相手だと踏んだらしい。彼らの顔に、残忍な表情が浮かんだ。
「おいガキ、今なんつったんだ? ああン?」
ひとりの少年が、肩をいからせて近づいて来る。朝夫を警戒する素振りは欠片ほどもない。ケンカ慣れした人間ならば、今の状況から不自然なものを感じ取り、逆に警戒するのだが……彼らは、アクション映画の雑魚キャラ並に頭が悪いらしい。
朝夫は無言のまま、すっと手を伸ばした。その手には、スタンガンが握られている。彼は、容赦なくスイッチを入れた。
「うぎゃ!」
情けない悲鳴と共に、少年は飛び上がった。その瞬間、朝夫は前蹴りを食らわす。不意打ちのスタンガンにより衝撃を受けていた少年は、蹴り一発で簡単に倒れた。だが、朝夫はなおも追い討ちをかける。倒れた少年に、スタンガンを当て続けた。少年は、ギャグマンガのワンシーンのようにビクビク痙攣している――
「や、やめろひょ……」
朝夫の普通でない様子に、圧倒されていた少年たち。それでも、止めに入ろうとする者もいた。
そこに襲いかかっていったのは立花欣也だ。現れると同時に、少年たちを殴り倒していく。ついで、清田隆介が警棒を振るう――
少年たちは抵抗すら出来なかった。突然の襲撃を受け、一瞬にして蹴散らされていった。
数分後、少年たちは全員その場に倒れていた。うめき声をあげている者、意識を失っている者……そんな中、朝夫たちは三者三様の行動を取っていた。
「お前ら、すげえ金持ってんな。だったら、別の場所で遊べよ。わざわざ、こんな公園に溜まることないだろうが」
そんなことを言いながら、倒れた少年たちから財布を抜いていく隆介。その横で欣也は、少年のひとりに関節技をかけている。
「さて、こっから捻りを加えて……」
ヘラヘラ笑いながら、欣也は少年の足首を捻る。ボキリという音の直後、少年は悲鳴をあげた。彼の悲鳴が、周囲に響き渡る……だが、欣也は嬉しそうな顔だ。
「なるほど、これが正解か」
足を押さえて悶え苦しんでいる少年を見ながら、欣也はウンウンと頷いていた。
その時、かすれた声が聞こえてきた。
「お前ら、こんなことして、ただで済むと思ってんのか……俺の親父はな、仁龍会の幹部なんだよ」
朝夫がそちらを見ると、ひとりの少年が顔を上げ睨んでいる。その瞬間、朝夫の口元が歪んだ。
「はあ? お前、何言ってんだ」
言いながら、朝夫はその少年に近づく。
直後、顔面を蹴り上げた――
「仁龍会だあ? んなもん知るかよ。仁龍会だったら偉いのか? 仁龍会だったら何しても許されるのか?」
朝夫の口調は静かなものだった。しかし、彼の爪先は少年の腹をえぐっている。朝夫は、取り憑かれたような表情で少年を蹴り続けていた。
「法の下に、人間みな平等なはずだよなあ。なのに、仁龍会だから特別扱いしろってのか? 何やっても許されるのか? 仁龍会は、そんなに偉いのか?」
うわ言のように言いながら、朝夫は少年を蹴り続けた。
やがて蹴ることに飽きたのか、朝夫はしゃがみ込んだ。少年の顔に、スタンガンを押し付ける――
「ギャア!」
悲鳴と共に、少年は顔を腕で覆った。だが、朝夫はなおもスタンガンを押し付ける。
「仁龍会だか何だか知らないがな、人間は、したことの報いを受ける……受けなきゃならないんだよ!」
吠えながら、スタンガンでいたぶり続ける朝夫。だが、隆介が止めに入った。
「いい加減にしとけ。そろそろ引き上げるぞ」
・・・
「なあ板倉、お前にやってもらいたいことがあるんだよ」
関根智也の言葉に、板倉恭司は冷ややかな表情で答えた。
「すみません、今はちょっと手が離せないんですよ」
その答えに、関根の表情が変わる。
「おい、てめえ誰にンな口きいてんだ?」
恭司と工藤憐は、仁龍会の事務所にいた。二人の前には、いきり立った関根と、面倒くさそうな顔をした井上和義が立っている。関根は、今にも襲いかかりそうな表情でプルプル体を震わせていた。
「てめえ分かってんのか? 俺の息子が昨日、どっかのガキにやられて病院送りにされたんだよ。しかも、そのガキは言ったらしい……仁龍会なんか知らねえよ、ってな。ヤクザは、ナメられたら終わりなんだよ! 分かってんのかゴラァ!」
怒鳴りつける関根。だが、恭司は全く怯んでいない。
「それは、ごもっともです。しかし、自分はお嬢さんを傷つけた青島を探しています。ですから、あなたの息子さんのケツ拭きにまでは手が回りません。勘弁してください」
そう言って、恭司は頭を下げた。すると、関根の表情がさらに歪む。
「てめえ、自分の立場ってものが分かってねえらしいな。てめえは、俺の舎弟なんだよ。舎弟ってのはな、兄貴の言うことを聞くもんだぜ……」
低い声で、関根は凄んだ。すると憐が反応した。音もなく動き、恭司の前に立つ。冷酷な目で、じっと関根を見つめた。無言だが、彼の目からは強烈な意思が伝わってくる……その行動が、関根の怒りの炎に油を注ぐことになった。
「このガキがぁ! 俺にケンカ売ろうってのか!? 上等じゃねえか!」
吠えながら、憐に掴みかかろうとした関根。しかし、今度は井上が割って入った。
「関根ぇ、やめとけよ。こいつは今、青島の行方を探してるんだ。だから、な? 俺の顔を立ててくれよ」
言いながら、井上は関根の肩をポンポンと叩いた。立場から言えば、井上は関根より上である。いかに武闘派幹部といえど、引き下がらざるを得ない。関根は腹立たしそうに憐を睨みつけたが、それ以上は何もしなかった。
「すまねえな関根。だがな、板倉の言うことももっともだ。息子がやられた件は、お前がケジメ取れ。俺からも、何人か協力させる。んで、板倉……」
井上は言葉を止め、恭司の方を向いた。
「お前は、一刻も早く青島を見つけろ。いいな?」
「はい。では、失礼します」
井上に頭を下げると、恭司は事務所を出た。だが、関根が後を追って来る。エレベーターの中に強引に入りこんできた。
「おい、待てよ」
言いながら、恭司の襟首を掴む関根。その時、憐も動こうとしたが、恭司が鋭い声で制した。
「憐、動くんじゃねえ。黙って見とけ」
直後、エレベーターの扉が閉まる。と同時に、関根は拳を振り上げた。
鈍い音とともに、拳が腹にめり込む。だが、恭司は声ひとつ上げない。
その態度が、関根の怒りに油を注いだ。彼は拳を振り上げ、なおも恭司の腹に叩き込む。
「てめえみたいなケツの青いガキが、調子こいてんじゃねえ! てめえは、俺が仁龍会に入れてやったんだろうが! 俺がいなかったら、てめえはただのチンピラだったんだぞ!」
喚きながら、関根は殴り続ける。筋金入りの武闘派であり、体重も百キロある関根のパンチをこれだけ喰らえば、常人なら内臓が破裂している。
だが恭司は、声ひとつ上げなかった。無言のまま、パンチを受けきる。しかも、表情ひとつ変えていない。むしろ、横にいる憐の方が表情を歪めていた。
やがて、エレベーターが一階に到着した。関根は息を荒げながら、恭司に囁く。
「いいか、もしガキが見つかったら、誰にも言わず真っ先に俺の前に連れてこい。これは命令だぞ、分かったな?」
「分かりました」
・・・
板倉恭司の後ろ姿を見ながら、関根智也は口元を歪める。あれだけ殴ったのに、声ひとつあげなかった。去って行く足取りも、いっさい乱れていない。
それに、彼の傍にいた少年……あれは、とんでもない奴だ。関根も今まで、数々の修羅場を潜ってきた。だが、奴は別格だ。そこらのチンピラやヤクザなどとは、比較にならない危険な雰囲気を醸し出していた。
板倉はどこで、あんな男を見つけてきたのだろう。
井上和義は、尾形由美の一件を板倉に押し付けるつもりだ。どちらに転んでも、井上には傷は付かない。仮に、板倉が上手い具合に青島を見つけたら……井上は「俺があいつの腕を見抜いて一任した」などと周囲に吹聴し、自らの手柄にするだろう。逆に見つけられなければ、落し前としてマグロ船に乗せる気だ。もちろん、多額の生命保険をかけて「事故死」してもらう予定なのだ。
もっとも、井上は板倉の怖さに気づいていない。板倉は「自分なら見つけ出せる」と幹部たちの前で言った。奴は、根も葉もないハッタリをかますタイプではない。やると言ったことは、必ずやる。つまり、既に青島の居場所に目星をつけている……その可能性が高い。となると、またしても井上が美味しいところを掠め取るわけだ。
しかし、今回ばかりは井上の手柄にさせない。もし、板倉が青島を見つけて来たら……その時は、自分が尾形に報告する。板倉には、気の毒だが消えてもらうとしよう。
そう、バカとハサミは使いようだ。ただし、あまりにも切れ味のいいハサミは、時として持ち手をも傷つける。そんなものは、部下としては不向きだ。
前から感じていたが、板倉は頭がキレるし度胸もある。うかうかしていたら、自分を追い落とす存在になるかもしれない。そうなる前に、奴を潰す。
関根は、スマホを取り出した。
「おい片桐、お前に頼みたいことがあるんだがな……」