暴力
牧村莉亜夢は外を歩んいていた。
時刻は、昼の十二時過ぎである。閑静な住宅地のため、人通りは少ない。
歩いている莉亜夢の脇を、小学生くらいの女の子が、はしゃぎながら走り抜けて行った。
その女の子が誰なのか、莉亜夢は知らないし、知りたくもない。問題なのは、莉亜夢の後ろから奇妙な生き物が付いて来ているのが見えることだ。
そいつは、ぐちゃぐちゃに叩き潰した粘土のような形状だった。だが、人間のそれのような形をした目が二つ付いていた。緑色の体で、ずずずず、と音をたてながら莉亜夢の後を付いて来ていた。昨日も見えていたあいつだ。
あんな形の生物が、存在するはずがないのだが……仮に、現実に存在していたとしよう。では、今の女の子はなぜ驚かない? あの娘も、莉亜夢の後ろから走って来たのだ。ならば、奴に気づかないはずがない。
待てよ。
仮に、あの娘も幻だとしたら?
ずずずず、という音とともに奴が近づいて来る。
「莉亜夢くん」
奴の声だ。見た目はおぞましい怪物なのだが、発するのは訓練された女性タレントのような澄んだ美声である。
「莉亜夢くん、待って」
ずずずず、という音。さらに美しい声を発しながら、奴は近づいて来る。
だが、莉亜夢は無視して歩き続けた。こんなものは、現実には存在しない。
存在しないはずだ。
存在しては、いけない。
ふと、莉亜夢は立ち止まる。奇妙なものが視界に入ったからだ。
車道を横切り、一人の老人が横断歩道を歩いている。歩行者用の信号は点滅し、そろそろ赤に変わろうとしていた。
にもかかわらず、老人はゆっくりと歩いていた。数台の車が止まっている前を、何事も無かったかのように悠然と歩いている。
莉亜夢は、じっと成り行きを見守る。あの老人は、一体どうなるのだろうか。ひょっとしたら、車に轢き殺されてしまうのだろうか。
「あのお爺さん、どうなるのかしらね」
また、あいつの声が聞こえてきた。莉亜夢は、それを無視する。
「ねえ、無視しないでよ。聞こえてるんでしょ」
奴は、なおも話しかけてくる。いつの間にか、莉亜夢のすぐ後ろにまで来ていた。ずずず……という移動音は収まり、代わりにウネウネという奇怪な音が聞こえてくる。
莉亜夢はスマホを取り出し、顔に当てる。そのまま話し始めた。
「うるさい。消えろ」
「そんなこと言わないでよ。ねえ、あたしと莉亜夢くんの仲じゃない」
ふざけた奴だ。出来ることなら、今すぐ殺してやりたい……そんなことを考えていた時、歩行者用の信号は赤になった。
一瞬の間を置き、車側の信号が青になる。だが、車は走り出さない。なぜなら、老人がまだ歩いているからだ。
ということは、あの老人は莉亜夢の脳が作り出した幻影ではないらしい。その事実に気づいた時、思わず笑みが浮かんでいた。どうやら、まだ正気は残っているらしい。
「あの爺さん、現実だったんだね」
またしても、聞こえてきた声。彼の心の中を見透かしたかのような言葉に、莉亜夢は語気を荒げた。
「うるさいんだよ、化け物」
「化け物なんて言わないでよ。あたしには、アヤスって名前があるんだから」
声の後、ずずずず……という音がした。こちらに近づいているのだろうか。
「アヤス? 化け物のくせに、人間みたいな名前してんじゃねえ」
吐き捨てるように言って、莉亜夢は再び歩き出した。誰かの視線を感じたが、無視して歩いた。そんなものに、いちいち関わってはいられない。
猟奇的な連続殺人犯が捕まると、決まってこんな言葉が登場する。
「責任能力の有無と、心神喪失」
責任能力とは、物事の善悪がきちんと判断でき、それに従って行動を制御する能力を指す。
心神喪失とは、精神障害の影響で、善悪の判断や行動の制御などといった能力を欠く状態のことである。これは、責任能力がないと見なされるらしい。
ついでに心神耗弱とは、両能力が著しく減退した場合を指し、責任能力が減少している場合をいう。
莉亜夢は、今の自分が正常でないことを理解している。だが、善悪の判断はついているつもりだ。盗みは良くないし、殺人も良くない。なぜなら、警察に捕まって刑務所に入ることになるからだ。
ここで疑問が生じる。警察に捕まるのが嫌だから、人を殺さない……それは、果たして善悪の判断が出来ていることになるのだろうか?
世の中に住むほとんどの人間が、罪を犯さない理由は明白である。警察に捕まりたくないから、ひいては罰を受けたくないからだ。
罪を犯せば、罰を受ける。これが世の中の仕組みだ。しかし、罰が無かったとしたらどうなる?
少なくとも、罰が無ければ莉亜夢は人を殺すだろう。
そう、罰さえ無ければ……莉亜夢はあいつを殺す。
家に帰ると、母が冷たい目で莉亜夢を見つめた。
「あんた、何やってんの?」
母の声には、怒りがこもっている。莉亜夢は目を逸らし、自分の部屋に入って行った。
だが、母はなおも叫ぶ。
「外を出歩けるなら、バイトでもしな! 近所の目を考えろ! 昼間からフラフラされると、あたしが恥かくんだよ!」
部屋に入ると、また奴がいた。アヤスと名乗った不気味な怪物が、ウネウネとうごめいている。
「あんたの母親、ろくでもないわね。自分だって、マトモに働いてないのにさ」
「うるさい、消えろ」
「はいはい、今日は消えてあげる。でも、明日も来るからね」
アヤスは消えた。
だが、莉亜夢を悩ませる問題が消えたわけではない。奴は、また現れる。
自分は、いつまで正気を保っていられるだろうか。
・・・
「朝夫、あいつは何やってんの?」
清田隆介の言葉に、有村朝夫は面倒くさそうに口を開く。
「さあな。筋トレやってるか、風俗でも行ってんじゃないの。連絡とれないし」
その言葉に、隆介は顔をしかめた。
「おいおい、大丈夫かよ……」
彼ら二人は今、朝夫の自宅にいる。真幌市内にある、マンションの一室だ。朝夫は高校生でありながらひとり暮らしをしており、この部屋は彼ら三人組の根城となっているのだ。
「なあ、あいつヤバくないか」
隆介が、呟くように言った。先ほどから話題になっている「あいつ」とは、彼らの仲間である立花欣也のことだ。
「何が?」
「だってよ、あいつ十七なんだぜ。もし風俗に行ってヤバい連中とトラブル起こしたら、お前どうすんだよ?」
「そこまでバカじゃないだろ」
そう答えたものの、朝夫も渋い表情になっていた。欣也は二人と違い、高校には通っていない。世間的には、ただのニート少年である。家庭も裕福ではない。その上、最近では風俗通いにハマっている。トレーニングはサボっていないようだが、金が入れば風俗……というライフスタイルは、どう考えても褒められたものではない。
「朝夫、俺たちは何のためにクズを狩ってるんだ? 警察が当てにならないから、俺たちがやってるんだろう。だが、欣也は俺たちとは違う。あいつは、単純に暴れたいからやってんだ。あいつは基本的には、町のチンピラと大差ない」
警棒を片手で振りながら、隆介は語った。
朝夫は、何も言わずに下を向いた。隆介の言うことは間違っていない。欣也は異様に喧嘩早く、他人を殴ることに何のためらいもない。その上、性欲も強い。金さえあれば、朝昼晩と風俗店に通い詰めるだろう。
暴力とセックスに異様な関心を示す……立花欣也は、そういう男だ。これは、大半の粗暴犯に当てはまる特徴でもある。
もっとも朝夫は、その事実を承知の上で欣也を仲間に引き入れたのだ。犯罪者と闘うには、奴ら以上の腕力と凶暴性が必要……それが朝夫の持論である。欣也は、その両方に当てはまる。
「朝夫、あいつの手綱はきっちり握っといてくれよ。俺たちも、世間的には犯罪者なんだからな。欣也のヘマのせいでパクられるのは御免だぜ」
そう言うと、隆介は立ち上がった。
「欣也がいねえなら、今日は無しだな。俺も帰って、トレーニングでもしとくよ」
清田隆介は、三人の中でもっとも冷静なタイプだ。しかし、その冷静さは冷たさにも繋がる。隆介には、どこか彼らとは一線を引いている部分があった。欣也も、そのことをたびたび口にしている。
「あいつ、なんか違うんだよな。上手く言えないんだけどよ、俺たちとは違うんだよ」
欣也が何をいわんとしているか、朝夫には理解できた。隆介は頭もキレるし腕もいい。だが、心の奥底は冷めている。欣也が暴力的な衝動に任せて殴るのに対し、隆介は必要と判断したから殴る。
先ほど隆介は、欣也は俺たちとは違う……と言っていた。だが朝夫から見れば、両方とも自分とは違う。欣也には思想的なものはなく、ただ暴れたいから暴れている。朝夫は、自分の信じる正義を執行するために闘っている。
では、隆介は?
三人は毎回、叩きのめしたチンピラから有り金を巻き上げている。その金は、隆介と欣也が二等分しているのだ。他にも、二人の飲食費などは大半を朝夫が賄っている。
欣也は暴力が目当てだろうが、隆介は金目当てなのだろうか。
嫌な気分を振り払うべく、朝夫は筋力トレーニングを開始した。肉体を疲労させれば、余計なことを考えなくて済む。
服を着ていると、ひ弱な眼鏡少年にしか見えないが、朝夫もかなり鍛えられた体をしている。いわゆる細マッチョの体のため、脱ぐと驚かれるのだ。その肉体は、幼い頃からの鍛練の賜物である。
そう、正義を執行するためだけに、朝夫はずっと鍛え続けてきた。
・・・
その時、板倉恭司は町外れの雀荘にいた。『絶一門』という奇妙な名の店である。薄暗い店内はとても狭く、八人も入れば満員だろうか。壁は染みだらけで、床も汚い。しかも、客は恭司の他にはいない。
店員もまた、ひとりだけだ。ワイシャツの上にベストを着た中年男が、カウンターに立っている。オールバックの髪に、きれいに整えられた口ひげが特徴的だ。
恭司はちらりと店員を見ると、カウンターの上に一枚の写真を乗せる。
「俺は今、このバカを探してる。マスター、あちこちに噂を流しといてくれ」
その言葉に、マスターは慌てて写真を見た。クールな表情を浮かべた、綺麗な顔立ちの青年が写っている。
「こ、こいつを見つけたら、板倉さんの携帯に連絡すればいいんですね!?」
媚びを売るような表情で、マスターは聞いてきた。すると、恭司は目を細める。
「俺は、噂を流してくれと言っただけだ。探してくれとは、一言も言ってないぜ……聞いてなかったのか?」
「は、はひ! す、すいません!」
慌てて頭を下げるマスターに、恭司は虫けらでも見るかのような視線を浴びせる。
「とにかく、板倉恭司がこのバカを探してる……その噂を流すだけでいい。あと、コーヒーくれ」
「は、はい」
怯えたような口調で答えるマスター。その時、店の自動ドアが開き二人の男が入って来た。
一人は中年の男だ。スーツ姿ではあるが、突き出た太鼓腹を隠しきれていない。脂ぎった顔に残忍な表情を浮かべ、ずかずか歩いて来た。
もう片方は、異様な体躯の若者である。もう十月だというのにTシャツとジーパン姿であり、はち切れんばかりの筋肉が巨大な骨格を覆っているのが丸わかりである。耳は潰れていて鼻は曲がっており、顔は野獣のようである。
恭司は、ふうとため息を吐いた。大男の方は知らないが、中年男には見覚えがある。この男、他人が喜ぶようなことはひとつもしない。
「よう板倉、今日はひとりか? あのボディーガードはいねえのかよ?」
中年男は言いながら、馴れ馴れしい態度で近づいて来る。恭司はちらりと見上げた。
「今日は帰らせた。あいつにも、プライベートってものがあるからな。何か用か?」
「なあ、お前ら仁龍会もいろいろ大変らしいなあ。バカ娘のわがままに付き合わされるとは、本当に災難だ」
言いながら、中年男は恭司の肩をポンポン叩く。だが、恭司はその手を払いのけた。
「ああ、今は特に大変だ。話すだけで、こっちのIQが下がりそうなバカが二人、目の前にいるからな」
恭司はうっとおしそうな表情で答える。すると、大男の表情が変わる。今にも飛びかかって来そうな表情で恭司を睨んだ。
この中年男は、片桐という名のケチな男である。四十過ぎた年齢であるが、チンピラに毛の生えたような存在である。ヤクザにも堅気にもなれない半端者だ。もっとも、この手の人間は裏の世界には珍しくないが。
横にいる大男が何者かは不明だが、恐らくは食いつめた元格闘家だろう。格闘家は、基本的に潰しの利きづらい仕事だ。ほとんどが中卒もしくは高卒であり、若い頃のほとんどの時間を格闘技に費やしてきた。結果、引退した後は何も残らない者が大半である。
片桐は、そんな元格闘家に目を付けボディーガード代わりに連れ回しているのであろう。
「んだと? 板倉、てめえ何様のつもりだ?」
低い声で凄むと、片桐は顔を近づけてきた。チンピラがよくやる手口だ。恭司は面倒くさそうに、片桐から目を逸らす。
「俺は、てめえとは友だちでも何でもねえんだよ。用がないなら、とっとと消えろ。俺は忙しいんだよ」
恭司の言葉に、片桐は血相を変えた。
「このガキャ! 俺はな、てめえに力を貸してやろうと思って、わざわざここまで来てやったんだぞ!」
「んなこと、誰も頼んでねえんだよ。だいたい、あんたは使えねえ。猫の手以下だ」
冷たい口調で言った時、マスターがコーヒーを持って来た。マグカップを恭司の前に置き、顔を近づける。
「すみません、血を見るような騒ぎだけは勘弁してください……」
震えながら囁いた店員に、恭司はニヤリと笑った。
「それは、こいつら次第だ」
そこで、恭司は口を閉じた。大男が突然、恭司の襟首を掴んだからである。
「てめえ、片桐さんをナメてんのか?」
低い声で凄む大男。恭司は、ため息を吐いた。
「マスター、店を汚すぜ。修理代は、こいつらに払わせろ」
言うと同時に、恭司は動いた。マグカップを掴み、大男の股間にコーヒーをかける。熱いコーヒーによる攻撃は、大男にとって想定外のものだった。
「あぢぃ!」
間抜けな声と共に、顔をしかめ下を向く大男。その瞬間、恭司の手が動く。大男の口に、マグカップを叩きつけた。
その一撃で、マグカップは砕けた。だが、恭司は攻撃の手を休めない。砕けたマグカップを、大男の顔面に突き刺す――
思わず悲鳴を上げる大男。恭司はその声を無視し、素早い動きで移動する。
壁際にあった消火器を手に取り、思いきり振り上げた。
表情一つ変えず、大男の顔面に叩きつける――
血と砕けた歯を撒き散らし、大男は倒れた。恭司はそれを無視し、片桐を見つめる。
片桐は完全に怯えきっていた。彼は、恭司を完全に甘く見ていたのだ。目の前で恭司の振るった暴力は、片桐の想像を遥かに超えている。恥も外聞もなく怯え、震えるばかりだった。
「片桐さんよう、今度俺のところに来る時は、金になる話を持ってきてくれよ」
恭司の言葉に、片桐は慌てた様子でウンウンと頷いた。
「それでよし」
そう言うと、恭司はマスターの方を向いた。
「じゃあ、さっきのこと頼んだぞ。噂を流しとけ」
「は、はい!」
直立不動の姿勢でマスターは返事をすると、片桐の方を向いた。
「あんた、そこに寝てるゴリラを何とかしてくれないかな。営業の邪魔なんだよね」
「あ、ああ」
青い顔で言いながら、片桐は大男のそばにしゃがみこむ。
そんな二人を尻目に、恭司はさっさと出ていった。外に出るなり、ため息を吐く。
「まったく、落ち着いてコーヒーも飲めやしねえ」