発端
牧村莉亜夢の前に、奴はいた。
粘土をこね回したような、平たい形状の無気味な体。その体からは、触手のような物が数本生えている。さらに、大きな目も二つ付いている。他に器官らしきものは無い。強引に例えるなら、巨大な目と触手の付いた座布団……という感じだろうか。もっとも、座布団と違い座り心地は悪そうだが。
こんな生き物が、現実に存在するはずが無い。にもかかわらず、そいつは彼の目の前でうごめいている。あたかも、莉亜夢をからかっているように。
「莉亜夢くん」
奴は、いつものように話しかけてきた。だが、莉亜夢はそれを無視する。あんな生き物は存在するはずがない。何かの間違いだ。自分は疲れ、幻覚を見ている。さらに幻聴も聞いている。無視するんだ。
でなければ……。
「莉亜夢くん、聞こえてるんでしょ? 無視しないでよ」
ずずずず……という、不気味な音が聞こえてきた。と同時に、奴が動く。莉亜夢は、こんな動き方をする生物を見たのは初めてだった。それ以前に、こんなものがいるはずがないのだが。
莉亜夢は奴から視線を逸らし、周りを見回す。陰欝な空気が漂っていた。このままでは、さらにおかしくなりそうだ……彼は空気を変えるため、テレビをつけた。
画面には、いかにも楽しそうな表情を浮かべた男女が立っていた。どちらもスーツ姿で、異様な目つきでこちらを見ている。いや、カメラを見ているのだ。
(今ならなんと、もう一個付けます!)
男の方が、そう叫んだ。すると、クスクス笑う声が聞こえる。
「あんなもの、誰が欲しいのかしらね」
これは、テレビの音ではない。間違いなく、この部屋にいる何者かの声だ。
「それ以前に、ひとつあれば充分。わざわざ二つも買う必要はないわよね」
奴は、女言葉を喋っている。ということは、奴は女なのか。いや、雌というべきかも知れない。
そもそも、奴はなんだ……。
視線をテレビに向けながら、莉亜夢は必死で考えた。自分は狂っているのか。それとも、これは現実に存在しているのか。
ずずずず……という音が聞こえた。視界の端に、奴が動いているのも見えた。莉亜夢の隣に移動しようとしているらしい。
その時、莉亜夢の頭に閃くものがあった。彼は手を伸ばし、奴を掴む。
「ねえ、何するの?」
奴は不快そうな声を発した。だが、莉亜夢はそれを無視する。粘土のような感触が、手を通じて伝わってくる。幻覚ならば、感触があるはずがない……となると、奴は存在しているのか?
待てよ。
莉亜夢の頭に、別の考えが浮かぶ。幻覚とは、本当に感触がないのだろうか?
脳の働きが何らかの理由でおかしくなり、いないはずの物が見える……それが幻覚だ。ならば、触感はどうなのだろう。いないはずの物を感じていたとしても、不思議ではないのでは?
となると……。
僕は、狂っているのか?
かつて、テレビで観た映像が甦る。ニュース番組のワンシーンだったと思うが、髪の毛が全て抜け落ちてしまった中年男が、鉄格子のある一室でずっとブツブツ言っているのだ。死んだ魚のような目で床の一点を見つめ、本人にしか意味のわからない言葉を延々と呟いている。
その映像を観た時、幼い莉亜夢は嫌な気分になった。画面に映っている者は普通ではない。何故かは知らないが、頭がおかしくなっているらしい。
後に莉亜夢は、覚醒剤依存という言葉を知る。世の中には、覚醒剤という薬がある。人間の頭をおかしくしてしまう、恐ろしい薬だと……その薬を摂取した者は、有りもしないものが見えたり、存在しない者と会話したりするのだという。
あの中年男のように。
今の自分も、あの中年男と同じ状態なのだろうか。有りもしないはずのものが見え、聞こえないはずの声が耳に届いている。さらには、触覚までおかしくなっているのだとしたら? 存在しないはずのものに、触れている感触があるのだとしたら?
それは、あいつと同じ……完全なる狂人だ。
違う。
僕は、狂っていないはずだ。
莉亜夢は、ゆっくりと横を向いた。奴が消えていることに期待して……。
奴は、そこにいた。触手のようなものをウネウネ動かしながら、こちらをじっと見ている。
不気味な形だった。川底のヘドロにガラス製の義眼を埋め込んだような姿である。もし幻覚だとしたら……この化け物は、莉亜夢の想像の産物ということになる。
では、この化け物の基になったものは何だ?
「そんなに見つめないでよ。照れるじゃない」
この化け物が莉亜夢の想像の産物であるなら、基になった何かが記憶の中にあるはずだ。かつて観たホラー映画か。あるいはヒーローものの悪役か。それとも、最近観た深夜放送のアニメか。
その時、別の声が聞こえてきた。
「莉亜夢、いるの?」
母の声だ。莉亜夢はハッと顔を上げる。
「あ、うん」
莉亜夢は慌てて返事をした。すると少しの間を置き、母の声が聞こえてきた。
「母さん、ちょっと出かけるから。夕飯代、テーブルの上に置いとくよ」
その声からは、暖かさなど欠片ほども感じられなかった。莉亜夢は、自身の気持ちを押し殺し返事をする。
「うん、分かった」
気がつくと、奴は消えていた。
莉亜夢はホッとして、ベッドに仰向けになる。とにかく、奴がいなくなってくれてよかった……今の莉亜夢は、幻覚など見ている場合ではない。
ただでさえ、彼を悩ませている厄介な問題があるのだ。この上、幻覚など見るようになったら……もう、生きていくことなど出来ない。
・・・
深夜二時過ぎ、真幌公園には数人の若者たちがたむろしていた。彼らは退屈しきっており、新しい暇つぶしのネタを探していたのだった。
ベンチに座り、他愛ない話をしていた若者たち。周辺には、タバコの吸い殻やジュースの空き缶、菓子パンのゴミクズなどが散乱している。
そんな彼らの前を、ひとりの少年が通りすぎて行く。背は低く痩せており、メガネをかけている。チェックのシャツにジーパン、背中にはリュックを背負い、下を向いたまま歩いていた。一見すると、深夜の公園を徘徊するタイプとは思えない。
若者たちがクスクス笑いながら見守る中、少年は歩いていく。その時、尻のポケットから何かが落ちた。だが、少年は気づいていないらしい。足早に去っていった。
落ちた物を、じっと見つめる若者たち。カーキ色の革の何か……財布だ。
若者のひとりが立ち上がり、さりげなく近づいた。財布を拾い上げ、中を確認する。その途端、満面の笑みを浮かべた。
「すげえぞ! これ、十万くらい入ってる!」
その言葉に、若者たちは一斉に沸き立つ。
「マジかよ!」
「やったじゃん!」
「みんなでパーッと使おうぜ!」
財布を覗きこみ、はしゃぐ若者たち。そこに、声をかけた者がいた。
「すみません、ここに財布落ちてなかったでしょうか?」
若者たちが振り向くと、さきほどの少年が立っていた。気弱そうな表情で、ちらちらと見ている。
当然ながら、若者たちは素直に返すようなタイプではない。
「はあ? そんなの知らねえな」
若者のひとりが言うと、少年は表情を歪めた。
「そんなはずないです……だって、ここらで落としたとしか思えない――」
「じゃあ何? 俺たちが嘘ついてるっての?」
別の若者が言った。直後、彼らは動く。少年を取り囲み、威嚇するような表情を向ける。
「俺たちゃ、お前の財布なんか知らねえよ」
「さっさと交番行って、聞いてこいよ」
「変な言い掛かり付けられたら、優しい俺でもキレちまうよ」
口々に勝手なことを言いながら、少年を威圧する若者たち。その時、少年はクスリと笑った。
「これって、恐喝ですよね。いや、強盗になるかもな……こんなに、簡単に釣れるとは思わなかったよ。あんたらは、見た目通りの悪者なんだね」
少年は、愉快そうに言った。その直後だった。
「あれえ、偶然に公園を散歩してたら、悪い人たちがカツアゲしてる現場に遭遇してしまったぞ。これは見逃せないなあ」
とぼけた声と共に、のっそりと現れた者がいる。がっちりした体格であり、体を包む筋肉でTシャツがはちきれそうだ。さらにスキンヘッドの頭といかつい顔つきは、この男が一般人でないことを見る者に伝えている。
若者たちは、いきなり現れたスキンヘッドに圧倒されていた。そのため、闇に紛れて出現した、もうひとりの男には気づいていなかった。
突然、ひとりの若者が悲鳴を上げ倒れる。続いて、もうひとり……二人の若者が、突然の奇襲を受け一瞬にして崩れ落ちた。それをやってのけたのは、黒いパーカーを着た男だ。特殊警棒を片手に持ち、クールな表情で倒れた者たちを見下ろしている。
その時、スキンヘッドの男が罵声を上げた。
「こら隆介! 俺の分は取っとけ!」
喚くと同時に、スキンヘッドは突進した。いきなりの攻撃に凍りついている若者たちを、次々と殴り倒していく。さらにパーカーの男も、警棒を振り上げた――
一分もしないうちに、若者たちは全員倒されていた。顔から血を流している者、腹を押さえ呻き声を上げている者、意識を失っている者……状態は様々だが、共通しているのは地面にはいつくばっている点だ。
そんな彼らを、三人の男が見下ろしていた。
「おい隆介、お前がほとんど片付けちまったから、俺の分がほとんど残ってなかっただろうが」
ぶつぶつ文句を言っているスキンヘッドは、立花欣也である。総合格闘技のジムに通っており、百八十センチ九十五キロという体格を誇る。一見すると三十近い年齢に見えるが、実は十七歳だ。
「悪いな、ちょっと張り切り過ぎちまったよ。じゃあ、もらう物もらおうか」
言いながら、しゃがみ込んだのは清田隆介だ。剣道をやっており、二段位を取得している。もっとも今は、道場からは足が遠退いているが。
そんな隆介は、警棒を傍らに置いて若者たちの財布を取り上げている。ひとつひとつ中身をチェックし、札だけを抜き取っていた。
「お前ら、この言葉をよく覚えておけ……因果応報ってな。これに懲りて、つまらねえ悪さはやめるんだな。今度見かけたら、本当に殺すぞ」
若者たちに言い聞かせ……いや恫喝しているのは、囮となった眼鏡の少年である。背は低く痩せており、傍目からはただの気弱なイジメられっ子にしか見えないだろう。
だが実は、彼・有村朝夫こそが、この三人のリーダー格なのである。
・・・
真幌市は、日本でも有数の歓楽街である。昼間はひっそりとしているが、夜になると人通りが増す。
そんな街の片隅に建っているビルの一室では、年齢も服装もまちまちな男たちが顔を突き合わせていた。
「まず、状況を整理しよう。バカ娘の由美が入れあげたバカ男は、完全に行方をくらましてる。あちこちのキャバクラやホストクラブに手配書を回してるが、見つかりそうもねえな」
うんざりした表情で言ったのは、井上和義だ。短く整えられた髪型に銀縁の眼鏡、長身痩躯の体にブランドもののスーツを着ている姿は、一見するとやり手の実業家といった雰囲気である。
「尾形の叔父貴も、ヤキが回ったな。あんなバカ娘のために、俺たちを使うとは」
言ったのは関根智也だ。パンチパーマに小山のごとき体格が特徴的である。一応は派遣会社を経営している。もっとも、その実はヤクザだが。
そう、この部屋にいるのは全員ヤクザである。日本でも屈指の勢力を誇る任侠団体・仁龍会の幹部である尾形が、直系の弟分たちに命令を下した。娘の由美を傷つけた男を捜しだして、ケジメを取らせろ……と。
だが正直なところ、乗り気な者などいない。
尾形由美の頭と性格の悪さは筋金入りだ。小学生の時には、彼女をこっぴどく叱りつけた担任の教師が、チンピラに絡まれ病院送りになった。やったのは末端の組員だが、命令したのは由美だ。
中学生の時には、同じクラスの女子生徒を組員に命じて凌辱させた挙げ句、その写真を盾に両親を脅した。結果、件の女子生徒は泣き寝入りし、一度も登校することなく卒業した。
高校に入ると、由美の傍若無人ぶりはさらにエスカレートしていく。彼女に逆らえる者など、クラスはおろか学校内にすら存在しなかった。
そんな由美だが、大学卒業後ひとりの男と出会い恋に落ちる。これまで悪逆非道な行動で周囲を恐れさせていた彼女が、別人のような態度で男に尽くしたのだ。由美は、男の望むものを全て与えていたらしい。
その代わりとして、男が与えたものは……鼻骨の骨折と前歯の欠損、さらに顔面に残る傷痕だ。ある日、二人は些細なことから口論となり、手ひどく罵られた男は彼女の顔面が崩壊寸前になるまで殴りつけた。挙げ句、由美の前から姿を消す。
男は青島と名乗っていたが、後になって偽名であることが判明した。
由美の父親である尾形恵一は、仁龍会でもキレ者として知られた幹部である。だが娘のせいで、組織内での彼の株は下がりっぱなしだ。弟分の井上や関根らも、その空気を敏感に察している。
「尾形の叔父貴にも、見切りつけた方がいいかも知れねえな」
関根の言葉に、井上は首を振った。
「見切りをつけるだけで、すめばいいがな……このことが会長の耳に入れば、尾形の叔父貴だけじゃねえ。弟分の俺たちも、巻き添い食らうことになるぞ。下手すりゃ、小指一本飛ばすことになる。今のうちに、あのバカの身柄を押さえて叔父貴に差し出す。それが無難だ」
その言葉に、部屋の中にいたほとんどの者が顔をしかめた……ただひとりの男を除いて。
「だったら、自分に任せてもらえませんか?」
直後、部屋にいる者たちの視線は、声の主へと集中する。
そこにいたのは、明らかに場違いな雰囲気の男であった。中肉中背で髪は短め、地味なスーツ姿の青年が立っている。ヤクザというよりは、中小企業の若手社員といった方がしっくり来るだろう。
「おい板倉、てめえ何言ってんだ? 気でも狂ったか?」
言いながら睨みつけたのは関根だ。しかし、板倉と呼ばれた青年には、怯む気配がない。
「別に気は狂っちゃいません。自分なら、お嬢さんにナメた真似したガキをすぐに見つけられます」
「んだとゴラァ! ケツの青いガキが生意気言うな!」
怒鳴りながら、関根はソファーから立ち上がった。憤怒の形相で、板倉の襟首を掴む。だが、井上が割って入った。
「待て待て。板倉とか言ったな……お前、青島を見つけられる自信があるのか?」
尋ねる井上に、板倉は笑みを浮かべてみせる。
「もちろんです。自分は知り合いも多いですし、独自の情報網もあります。ガキがどこに隠れていようが見つけられます」
板倉の表情は、落ち着いたものだった。イキがったチンピラのような雰囲気はかけらもない。
「なるほど。そこまで言うなら、十日以内にガキを見つけて、尾形の叔父貴の前に差し出せるか?」
「任せてください」
即答した板倉に、井上はニヤリと笑った。
「そうか、頼もしいな。だが、ひとつ言っておく。俺たちはサラリーマンじゃねえ。見つけられなかった場合、謝ったって済まされない……それなりの代償を負ってもらう。それは分かるな?」
「はい」
「その代償ってのは、小指一本飛ばすくらいじゃ済まないぞ。それも分かるな?」
言いながら、井上は板倉の反応を見た。だが、彼は顔色ひとつ変えない。
「もちろん、分かっています」
その返事を聞き、井上は考えた。この板倉の自信は何なのだろう。よほどのバカか、あるいは確実に成功させる自信があるのか。そもそも、こんなどこの馬の骨かも分からぬ男に任せていいのか。
いや、待てよ……井上の頭に、ある考えが浮かんだ。
「いいだろう。お前に任せる」