悪夢
ついに、退院の日を迎えた。
閉鎖病棟から出られる……入院している患者にとって、それは夢にまで見た日だろう。
だが、牧村莉亜夢は違っていた。彼は神妙な表情を浮かべ、待合室にて座っていた。
一月ほど前のことだった。
「牧村くん、実はね……お母さんから申し出があったんだ。君さえよければ、身元引き受け人になりたいと。そうすれば、退院できるよ。どうだい?」
医者の言葉は、完全に想定外のものだった。莉亜夢は唖然となり、何も言えなかった。
母の恵理子は、今まで一度も面会に現れなかった。恐らくは、親子の縁を切るつもりであろう。莉亜夢も、それが当然だと思っていた。あんな鬼畜以下のことをしでかした以上、自分には病院以外に居場所などない。残りの人生を、死ぬまで病院で暮らすことになる……そう思っていた。
それなのに、身元引き受け人になるとは。いったい何を考えているのだろうか。
「お母さんは言っていたよ。全部、自分がいけなかったんだと。これまでの生活態度を改めて、君と一緒に生活していきたい……そう言っているんだ」
そこで、医者は言葉を止めた。真剣な顔つきで、莉亜夢の目を見つめる。
「もちろん、決めるのは君だ。さあ、どうする?」
莉亜夢は、とっさに答えることが出来なかった。その時、看護師が慌てた様子で入って来る。
「先生、すみません。尾形由美さんが暴れ出して……部屋の壁に、汚物で文字を書いてるんですよ。ハメられた、とか何とか」
「またか。仕方ないな……薬の量を増やすか」
面倒くさそうな様子で、医師は立ち上がった。
「牧村くん、今言ったことを、よく考えておくんだ」
やがて、その日が訪れた。だが、莉亜夢の胸の裡には疑問が渦巻いている。母がなぜ、自分の身元引受人になったのか……その理由が未だに分からないのだ。莉亜夢は、じっと座っていた。
やがて、母が姿を現した。二年ぶりに見る姿は、少しふっくらしていた。
「莉亜夢、ごめんね。今まで、会いに来られなくて」
そう言って、はにかむような表情で手を伸ばした。
莉亜夢の手を取り、引いて行く。彼は予想外の行動に戸惑い、されるがままになっていた。
そんな莉亜夢に、母は顔を近づけ囁く。
「さあ、家に帰ろ」
様々な手続きを終え、駐車場に停めてあった車へと案内された。だが、莉亜夢の胸には違和感が残ったままだ。何かがおかしい気がする。
恵理子に促され、莉亜夢は助手席に座った。次いで、母が運転席に座る。その顔には、嬉しくて楽しくて仕方ない……とでも言いたげな、妙に子供っぽい表情が浮かんでいる。莉亜夢は、おずおずと口を開いた。
「母さん、何を考えてるの?」
「えっ?」
きょとんとなる恵理子に、莉亜夢はなおも語り続ける。
「ぼ、僕は、あ、あんなことをしたんだよ。なのに──」
「あなたは、母さんのこと嫌いになったの?」
「えっ? な、何を──」
言いかけた瞬間、莉亜夢の唇は柔らかいものでふさがれた。あまりのことに、莉亜夢は何も出来ず硬直している。
目の前には、恵理子の顔がある。その眼差しは、真っすぐ莉亜夢だけに向けられていた。
「ごめんね、あなたの気持ちに気づいてあげられなくて……これからは、母さんがあなたの傍にいる。私の可愛い子」
囁くように言った母の瞳には、奇妙な光が宿っている。
莉亜夢は、ようやく気づいた。入院している間に、恵理子は変わった。上手く言葉では表現できないが、何かがおかしい。少なくとも、莉亜夢の知っている母ではない。
しばらく会っていない間に、何が起きた?
その時、莉亜夢はひとつの言葉を思い出した。
(莉亜夢くん、君と話すのは楽しかったよ。感謝の印として、君にひとつプレゼントを用意したの……でもね、気に入らなければ、捨てちゃっても構わないから)
ひょっとしたら、これがアヤスの言っていたプレゼントなのだろうか。
だが、こんなのは……。
客観的に見たら、狂っているとしか言いようがない。実の母親と、男女の関係を続けていくのだとしたら……まともな人間になることを、自ら拒絶したも同然だ。
気に入らなければ捨てろ、とアヤスは言っていた。まともな人間になるなら、恵理子とは縁を切るべきだ。
「どうしたの?」
恵理子の声に、莉亜夢は顔を上げた。彼女は慈愛に満ちた表情で、彼を見つめている。狂ったものであるにせよ、本物の愛情が感じられた。
それは幼い頃より、莉亜夢が心から求めていたものだった。
ずっと前から求め続けていたが、得られなかったもの。
まあ、いい。
僕は狂っているのだ。しかも、人を殺している。
そう……僕の人生など、とっくに破綻しているのだ。もう、まともな人生など歩めない。
このまま、行き着くところまで行くしかない。
狂ったまま、無様に生き続けるしかないのだ。
「じゃあ、帰ろうか。この続きは、家で……ね」
母の声に、莉亜夢は無言で頷いた。すると恵理子は、妖艶な笑みを浮かべる。その瞳の色は、微妙に変化していた。かつて、どこかで見た色だ。
その時、莉亜夢は思い出した。
アヤスも、あんな瞳の色をしていたことを。
「あなたは、母さんの……私だけのもの」
・・・
「有村くん、いつもお疲れさん」
アルバイト先の店長に言われ、有村朝夫は軽く頭を下げた。ようやく今の生活にも慣れてきた。高卒認定の試験にもパスしたし、後は大学受験だ。全ては、順調にいっている。
こんな日々を過ごすなど、数年前には想像もしていなかった。
裁判は、予想外の形で決着した。
事件の舞台となったコンビニの店員が、法廷で証人として立ち、当日の様子をきちんと証言してくれた。
「私は拳銃を向けられ、恐怖のあまり立ちすくむだけでした。そこを助けてくれたのは、有村くんです。有村くんは、本当に勇気があります。彼のような正義感の強い若者が、この国には必要であると思います。これは殺人ではありません。皆さん、どうか寛大なる処置をお願いします!」
その結果、殺人事件ではなく傷害致死として処理され……朝夫に対する罰は大幅に軽くなった。少年であることも手伝い、二年の少年院生活と、一年の保護観察処分で終わる。
そして今、朝夫はバイトを終えて帰り道を歩いていた。誰も、朝夫が犯した罪のことなど知らない。自分は、普通に生きていられるのだ。
後ろから、車のエンジン音が聞こえてきた。彼は気にもせず、そのまま歩き続ける。道路の幅は広い。朝夫が注意して避ける必要もないだろう。
だが、車は朝夫のすぐ横で止まった。八人は乗れる黒いバンのドアが開き、中から二人の男が出て来た。朝夫が反応する間もなく、二人は朝夫に襲いかかる──
朝夫は抵抗すら出来ず、力ずくで車の中に押し込められた。直後、ドアが閉められる。同時に、車が走り出した。
朝夫は両手足を縛られ、口には猿ぐつわをかけられ椅子に座らせられていた。
目の前には、髪の薄い小太りの中年男がいる。一見すると、中小企業の中間管理職という雰囲気だ。
ただし、その手には包丁を握っていた。
「お前だ……お前のせいで、留美は死んだんだ! ふざけるな!」
男は喚きながら、包丁を振りかざす──
金属の刃が、朝夫の体を貫く。激痛のあまり朝夫は叫んだ。しかし、猿ぐつわのせいでくぐもった声しか出ない。
「俺の娘を殺しやがって! 人殺しのくせに、のうのうと生きてんじゃねえ!」
男は包丁を引き抜き、またしても突き刺す。大量の血が流れ、朝夫は痛みと恐怖のあまり涙を流す。もはや我を忘れ、その場から逃れようと必死でもがく。
だが、体は動かない……その時、声が聞こえてきた。
「皆本さん、早く終わらせてくれないかな。こっちも暇じゃないんだ。後始末をしなきゃならないんだよ」
聞き覚えのある声だ。朝夫は、ハッとそちらを向いた。助けてくれ、と叫ぼうとする。
だが、男がまた包丁を突き刺した。何度も、何度も──
もはや痛みすら感じない。薄れゆく意識の中、朝夫は思い出していた。
自分の殺した娘が、皆本留美だったことを。
では、こいつはあの娘の父親か──
「ふざけるな! 人を殺しておいて、保護観察って何だ! しかも、娘は死んだ後も──」
後の言葉は聞こえなかった。朝夫の意識は、闇に沈んでいく。
(罪を犯した者には、相応の報いがあるべきなのだ。少なくとも、人を殺した人間が、たった三年の刑で済んでいいはずがない)
その想いから、俺はあれを始めたはずだった。
俺は、間違っていたのか──
・・・
「お前は、運がなかったな」
苦悶の表情を浮かべている死体を見下ろし、清田隆介は呟いた。かつて友であり、仲間であった者が、無惨な死体と化して横たわっている。
隆介はこれから、朝夫の死体を消し去らなくてはならない。体をバラバラに解体し、肉と骨を粉々に粉砕して海に捨てる。そうすれば、後は魚が始末してくれる。
耐性のない者なら、想像しただけで吐いてしまうかもしれない作業である。だが、彼は表情ひとつ変えず淡々とおこなった。
今回の依頼者は、皆本洋一という男だ。朝夫が殺した皆本留美の父親である。
娘を殺した朝夫を許せない、自分の手で殺したいと依頼してきた。隆介は手下のチンピラと共に、朝夫をさらい洋一に殺させた。後は、死体を始末するだけである。
今の隆介は、朝夫に対し何の感情も抱いていない。運悪く死んでしまった愚かな奴、としか思っていなかった。
もし、あのまま朝夫と行動を共にしていたら……彼もまた、死体となって魚の餌になっていたかもしれない。
あるいは、立花欣也のように山に埋められていたか。
隆介が板倉恭司の下で働くようになったきっかけは、偶然による部分が大きい。
当時の隆介は、朝夫そして立花欣也らと共にヤンキー狩りをしていた。だが、彼ら三人は仁龍会の幹部・関根智也の息子を病院送りにしてしまう。
それを機に、隆介の歩む道は大きく変化する。情報屋の成宮亮が、隆介たち三人のことを調べ上げて恭司に伝えたのだ。
ヤンキー狩りトリオの中で、恭司が一番最初に見つけたのは隆介であった。二人が、横須賀正樹の家を襲撃していた時……隆介は街をぶらつきながら、スマホで二人と連絡を取っていた。
そんな彼に、恭司と憐は近づいて行く。言葉と暴力と金で懐柔し、残る二人の情報を得る。
その後、隆介と欣也との殴り合いを機に、三人は完全に空中分解してしまった。朝夫は、単独で事件を起こした。欣也は片桐の命令を受け、恭司を襲ったが……彼と恭司とでは、格が違いすぎた。あっさり返り討ちに遭い、死体となる。
朝夫も死体となり、隆介の手で始末された。死体がない以上、今の朝夫は単なる行方不明者である。殺人事件の被害者として捜査されることはない。
あちこちで暴れまくったヤンキー狩りトリオ。だが最終的には、恭司の下に付いた隆介だけが生き延びることが出来た。
「運だよな、運」
全ての作業を終えた後、隆介はひとり呟いた。
作業場から出ると、そこには恭司が立っていた。相変わらず、安物のスーツ姿である。もっとも、その下には防弾防刃ベストを着ているが。傍らには、工藤憐もいる。
「終わったか?」
恭司の問いに、隆介は頷いた。
「はい、終わりました」
「そうか。だったら、引き上げるとしよう」
それから一時間後、隆介は車を走らせていた。後部席には、三人が乗っている。恭司と憐、それに星野静香である。
「明日の予定は何だっけ?」
不意に、恭司が口を開いた。
「午後二時から、桑原徳馬と会うことになっています」
答えたのは静香だ。彼女は黒いスーツ姿で、眼鏡をかけている。頬の傷を隠す気はないらしく、堂々と晒している。
桑原徳馬とは、桑原興行なる組織を束ねる男だ。裏の世界では、それなりの力を持っている。だが、その名前を聞いた途端、憐が露骨に不快そうな表情を浮かべる。
「俺、あの桑原って奴は嫌いだ。あいつは、いつか裏切る気がする」
憐が、ぶっきらぼうな口調で言った。すると、恭司はくすりと笑う。
「まあ待てよ。あいつには、まだ利用価値がある。トチ狂った真似してきたら、いつだって始末してやるから……あ、そういえば、あのガキ退院したらしいな。まさか、病院から出られるとは思わなかったぜ」
言いながら、恭司は静香の方を向いた。
「ガキとは、誰ですか?」
「牧村莉亜夢だよ。井上を滅多刺しにしたガキだ」
その途端、静香の表情が歪む。一方、恭司は楽しそうだ。
「考えてみれば、あいつが井上を殺してくれたおかげで、俺が幹部になれたんだよな。莉亜夢には感謝してるよ」
言いながら、恭司は静香の顔を覗きこんだ。
「お前、本当に関係ないのか? 又吉みたいに、混ぜものしたシャブで──」
「私は、彼のことは知りません。あの少年は、初めから狂っていたんです」
静香は、すっと目線を逸らした。
その言葉に嘘はない。彼女は、又吉修に覚醒剤を売っていた……ただ同然の値段で。又吉は、喜々として薬を受け取ったが、やがて完全に狂ってしまった。今では、東京拘置所の独房にて死刑の執行を待つ身だ。
静香は、混ぜものをした覚醒剤を渡して又吉を狂わせた。だが、莉亜夢には何もしていない。本当なら、牧村親子にも地獄を見せるはずだった。
しかし、その予定は狂ってしまった。
「そういえば、朝夫と牧村莉亜夢は、高校で同じクラスだったそうですよ」
それまで、無言で車を運転していた隆介が、初めて口を開いた。
「えっ、本当かよ?」
興味をそそられたらしく、恭司の表情が変わっていた。二十代の若者らしい顔つきになっている。
「はい。朝夫の奴、前に言ってましたよ。不登校になってる同級生と、公園で会ったって。よくよく聞いてみたら、牧村のことだったんですよ。莉亜夢なんて名前、そうそういないですからね。完全におかしくなってた、とも言ってました。星野さんの言う通り、既に頭おかしくなってたんでしょうね」
「そうだったのか……」
恭司は、感慨深げな表情になっている。声にも、その感情が現れていた。
横にいる静香は驚いていた。悪魔の生まれ変わりのような恭司にも、こんな表情があったとは。
「不思議なもんだな、人間の運命ってのは。俺は静香の復讐の手助けをしつつ、尾形に恩を売る……やりたかったのは、それだけだった。だが、無関係なはずの人間が次々とかかわってきた。終ってみれば死人だらけだ。生き残った俺たちの人生もまた、大きく変わっちまったがな」
そこで、恭司はくすりと笑った。
「ま、だからこそ人生は面白いんだけどな」
静香には、誰にも言っていないことがある。
あの日、彼女は見たのだ……莉亜夢の足元にいた、不気味な怪物を。あれのために、静香は彼から手を引かざるを得なかった。
だからこそ、莉亜夢が母の愛人である井上和義を殺したと聞いた時も、静香はさほど驚かなかった。
彼女には分かっている。あの怪物が、莉亜夢を狂わせたのだ──
怪物のことは、誰にも話していない。話したところで、信じる者などいないであろう。静香自身、あの時に自分が見たものが現実であるとは言いきれなかった。
車は、交差点で停まった。信号待ちのためだ。さらに、すぐ隣にも車が停まる。静香は、なにげなくそちらを見た。
隣の車には、助手席に少年が乗っているのが見えた。どこかで見たような顔だ。
その時、静香の目が丸くなった。
少年は、牧村莉亜夢だったのだ。では、運転席にいるのは誰だろうか。
静香は驚きの表情を浮かべ、隣の車をじっと見ていた。莉亜夢は、運転席にいる者と楽しそうに話している……ように見える。隣にいるのは、恐らく牧村恵理子だろう。
不意に、莉亜夢が身を屈めた。何かを落としたのだろうか。静香は、運転席にいる者と目が合った。
直後、静香の全身に衝撃が走る──
ハンドルを握っているのは、予想通り牧村恵理子だった。少なくとも、姿形はそう見える。
だが、あれは恵理子ではない……静香には、それが分かる。彼女の裡にある、動物的な感覚が伝えて来るのだ。
そう、あれは人間ですらない。あの時、見たものと同類だ。
あの、ヘドロのような怪物と──
「どうかしたか?」
恭司の声に、静香はハッと我に返る。いつのまにか、隣の車は消えている。追い越したのか、それとも追い越されたのか。
「な、何でもありません」
静香は、下を向いた。
板倉恭司の下で働くことを決意した理由のひとつが、あれの記憶を消し去るためだった。裏の世界で生きれば、血みどろの修羅場が日常となる。そうすれば、全てを忘れられるのではないか……そんな思いがあった。
だが、甘かった。あれは、静香を解放する気はないらしい。
このまま、覚めない悪夢の中で生きるしかないのだ──




