確保
「莉亜夢、ちょっと外に出ててくれない?」
ドア越しに、母の声が聞こえてきた。普段に比べると、声に優しさが感じられる。母は母なりに、前の発言を気にしているのだろうか。
もっとも、家を追い出されることに変わりはないのだが。いつものこととはいえ、気持ちのいいものではない。莉亜夢は複雑な思いを押し隠し、出来るだけ平静な口調で答える。
「わかったよ」
「莉亜夢くん」
公園でベンチに座っていた莉亜夢に、話しかけてきた者がいる。
莉亜夢がそちらを向くと、アヤスがいた。いつの間に現れたのか、芝生の上をうねうねと動いている。
「今日も、追い出されたの?」
芝生の上をうねうね動きながら、アヤスは近づいて来た。
「ああ、そうさ」
口元を歪めながら、莉亜夢は答えた。あいつが家に来る度、家から追い出される。時には、母とあいつで外に泊まることもある。さすがに、自宅に泊まることはないが……。
「君は、それでいいの?」
不意に飛んできたアヤスの言葉に、莉亜夢は唇を噛み締めた。これでいいはずがない。いいとも思っていない。
だが、自分には何も出来ないのだ。
「仕方ないよ。僕には、何も出来ないから」
「本当に、このままでいいの? このままだと、君は壊されていくよ」
「壊される? どういうこと?」
莉亜夢が聞き返すと、アヤスは彼の足元まで近づいて来た。
「君の心は、彼らによって徐々に壊されていく。やがては、体も壊される。このままだと、いつか君は自分の手で自分を壊すことになるよ」
その口調は、いつもとは全く違っていた。普段のからかうような声音ではなく、真剣そのものである。莉亜夢は、彼女の言葉に何も言い返せなかった。無言のまま、じっとアヤスを見下ろしていた。
アヤスは、真実を言っている……彼は、そのことを理解していた。
その時、アヤスの触手が伸びてきた。莉亜夢の足を、優しく撫でる。
「あらあら、また来たわよ」
アヤスの声は、いつもと同じく軽いものになっていた。
「来たって、何が来たの?」
「こないだの、顔に傷の付いた女」
「えっ?」
莉亜夢は、慌てて周囲を見回した。すると、二十メートルほど離れた場所に女が立っている。以前にも会った、あの不気味な女だ。黒いハットを被り、コートを着てサングラスをかけ、黒いマスクで口元を覆っている。
もっとも、今日は態度が違っていた。サングラスとマスクにより表情は分からない。しかし、こちらへの敵意は感じられなかった。いや、むしろ莉亜夢を恐れているかのように見える。
莉亜夢は立ち上がり、女に近づいて行った。女は微動だにせず、じっとこちらを見ている。
「あなたは、誰なんですか?」
尋ねる莉亜夢。彼女を怖いとは思わなかった。むしろ、知りたかったのだ……目の前にいる女が何者なのかを。
すると、女はマスクを外す。左側の頬に付いた傷痕が、あらわになった。
「これをやったのは、君のお母さんの友だち。お母さんはね、笑いながら私を見てた。そこに、君もいたのよ……すごく小さかったけどね。昔から、君のお母さんの周りには、ろくな人間がいなかった。だから、お母さんも、ろくでもない人間になった」
その言葉に、莉亜夢は愕然となる。やはり、あの映像は実際にあったことだったのだ……。
立ち尽くす莉亜夢に、女は静かな口調で語り続ける。
「当時の私はね、まだ中学生だった。学校で、ある人に注意した。そしたら次の日、私は数人の男に車に押し込まれた……気がついたら、見知らぬ家にいた。君のお母さんと幼い頃の君、そして、あの女がいた」
そこまで言った時、女の表情が変わった。体をがたがた震わせ、後ずさりを始める。彼女がサングラス越しに見ているものは、確実に莉亜夢ではない。
「ちょっとお、あたしと莉亜夢くんが話してたんだけど」
後ろから話しかけてきたのは、言うまでもなくアヤスだ。うねうね動きながら、莉亜夢の前に出て来る。
女は、わなわな震えながら後ずさって行く。
「お、お前は、何なの?」
怯えながらも、女は声を振り絞る。
「何って……さあ、何なのかしらね。説明したところで、あなたに理解できるとは思えないけど」
からかうような口調で言いながら、アヤスは女に近づいていく。だが女は、後ずさるばかりだ。
なおも近づいていくアヤス。すると、女は向きを変えた。直後、脱兎のごとき勢いで走り去っていく。
莉亜夢は、その様をじっと見ていた。だが、何も感じていなかった。頭の中では、彼女の言葉だけがぐるぐると回っていた。
やがて彼は、よろよろと歩いた。ベンチに腰を下ろす。
どのくらいの時間が経ったのだろう。莉亜夢は、顔を上げた。
気がつくと、あたりは闇に覆われていた。いつのまにか、アヤスも姿を消している。そろそろ帰ってもいい時間帯だろう。
周りを見回し、莉亜夢は立ち上がった。ふと気づいたが、最近、この公園はやけに人通りが少ない。昔は、不良たちのたまり場だったのに。
まあいい、さっさと帰ろう。
莉亜夢は虚ろな顔で、家に向かい歩き出した。
・・・
有村朝夫は、今の状況に戸惑っていた。
「だからよお、さっきから言ってんじゃねえか! 相手は、極悪非道なヤクザだって!」
怒鳴りつける立花欣也に、清田隆介もいきり立った様子で言葉を返していく。
「お前こそ、話を聞けよ! そいつは、本当に極悪非道なヤクザなのか? だいたいな、ヤクザで極悪非道じゃない奴なんかいねえよ!」
荒い口調で言い合う二人を、朝夫は顔をしかめながら見ていた。なぜ、こうなってしまったのだろう。
ことの起こりは、次の獲物について話し合うため、朝夫の部屋に欣也と隆介が集まっていた時だった。突然、欣也が真剣な表情で口を開いたのだ。
「みんな、ちょっと聞いてほしいんだ。今回は、俺に協力してくれ。ヤクザをひとり、取っ捕まえたいんだよ。そいつは、俺の先輩を病院送りにしやがった。しかも、その先輩は行方不明になってる。ひょっとしたら先輩は、そのヤクザに消されたかも知れないんだ。だから、お前らの力を貸してくれ。もちろん、協力してくれれば礼はするから」
いきなりの欣也の発言に、朝夫は呆気に取られ言葉が出てこなかった。しかし、隆介の反応は違っていた。
「はあ? んなもん知らねえよ。何で、俺たちがそんなことしなきゃならないんだ。却下だ却下」
隆介の態度は、普段とは異なっていた。その口調には、明らかにトゲがある。さすがに欣也も、ムッとした表情になった。
「おい、却下ってなんだよ!?」
「却下だから却下なんだよ」
「何でお前が決めるんだよ!」
そこから、二人の言い合いが始まってしまったのだ。朝夫は展開の早さに付いていけず、ただただ困惑するばかりだった。
戸惑う朝夫を尻目に、二人の言い合いは続いている。
「だいたいな、お前はその話を誰から聞いたんだよ?」
「えっ? な、何言ってんだよ?」
欣也の口調が弱くなった。しかし、隆介の方はさらに言い続ける。
「聞こえなかったのか? なら、もう一度聞くぞ。そのヤクザの話は、誰から聞いたんだよ?」
「そ、それは……」
口ごもる欣也に、隆介は顔を歪めた。
「言えないのか? なら、俺が正解を言ってやる。お前、そのヤクザと敵対してる別のヤクザから聞いたんだろうが」
「うっ……」
欣也は目線を逸らし、下を向く。その反応を見て、隆介は鼻で笑った。
「図星かよ。本当、わかりやすい奴だな」
そう言って、隆介は軽蔑したような目つきで欣也を見た。さらに、大げさな仕草でため息を吐き、かぶりを振る。
「お前、バカじゃねえのか? はっきり言ってやるよ。お前はな、そのヤクザから利用されてんだよ」
「違う! 片桐さんは、そんな人じゃねえ! てめえに何がわかるんだよ!」
「なるほど、そのカタギリってのが裏で糸引いてるのか。俺たちに、敵対するヤクザを襲わせようって腹だな。汚い奴だよ」
そう言うと、隆介は朝夫に視線を移した。
「朝夫、今の聞いたろ? こいつの言うこと聞いたら、俺らはヤクザの思惑通りに動く羽目になるんだぞ。俺らは、いつからヤクザの手先になったんだよ。ヤクザに利用されるなんて、俺はごめんだぜ。お前だって、そう思うだろ?」
その隆介の問いに答えたのは、朝夫ではなく欣也だった。恐ろしい形相で、隆介を睨みながら顔を近づけて行く。
「おいコラ、こっちがおとなしくしてりゃ、いい気になりやがって……てめえは、金が目当てなんだろ。金さえもらえば何でもやるんだろうが。金なら、ちゃんとくれてやる。だから、お前は余計なこと言わないで、黙って手伝えばいいんだよ。この乞食野郎が」
「ああン? 誰が乞食野郎だ? 殺すぞオラ」
隆介の表情も一変した。怯む気配もなく、欣也を睨み返す。その時になって、ようやく朝夫は我に返る。
「ちょっと待てよ。まずは落ち着け」
出来るだけ冷静な声を出しながら、朝夫はどう動くべきか考えを巡らせる。同時に彼は、この状況に微かな違和感を覚えてもいた。
なんだよ、これ?
どうなってるんだ?
うまく言葉に出来ないが、何かがおかしい。こんなことは、今までなかったのに……。
その違和感が迷いを生み、朝夫の行動のタイミングを遅らせた。欣也と隆介は、その間にも罵りあっている。
「だいたいな、てめえは前から気にいらなかったんだよ! 少しは考えて行動出来ねえのか! 金が入れば、盛りのついた猫みてえに風俗行きやがってよ! お前がバカやれば、俺たちにまで火の粉がかかるんだぞ!」
「んだとゴラァ!」
怒鳴った直後、欣也のパンチが放たれた――
隆介も剣道の有段者であり、かなり喧嘩慣れはしている。日頃の鍛練も欠かしてはいない。だが、欣也のパンチは勝手が違っていた。スピード、キレ共に素人のそれとはまるで違う。さすがの隆介も避け切れず、まともにパンチを喰らった。
次の瞬間、隆介はのけ反って倒れる。だが、欣也の攻撃は止まらない。倒れた隆介に馬乗りになり、なおも殴り続ける。
「誰が盛りのついた猫だよ! おら、もういっぺん言って見ろやゴラァ!」
「やめねえかバカ!」
怒鳴ると同時に、朝夫は欣也に飛びついた。渾身の力を込め、どうにか引き離そうとする。だが、欣也の体格は朝夫を遥かに上回っている。両者の体重差は、三十キロ近くあるだろう。朝夫の腕力も常人よりは強いが、欣也を止めることなど出来ない。逆に、欣也に突き飛ばされて倒れた。
「クソが……」
呻きながら、朝夫はどうにか立ち上がる。その間にも、欣也は馬乗りの状態で隆介の襟首を掴み、罵声を浴びせている。このままでは、命に関わる。硬い床に頭を打ち付けたら、死に繋がることもあるのだ。
朝夫は舌打ちした。欣也は、完全にキレている。これはもう、普通の手段では止まらない。
次の瞬間、欣也の背中に蹴りを叩き込む。重いサンドバッグを蹴っているような感触だ。分厚い筋肉に覆われた背中には、少々の打撃ではダメージは与えづらい。
が、それでも朝夫の狙った効果はあったらしい。欣也は立ち上がり、朝夫を睨みつける。
「何しやがる! てめえも死にてえのか!」
喚くと同時に、突進してきた欣也。だが、想定外の強烈な衝撃を受け、思わず呻き声を上げる。朝夫に向かい伸ばした手に、異様な痛みを感じたのだ。
顔をしかめる欣也を、朝夫は冷ややかな表情で見つめた。
「欣也、今日は帰ってくれ。家で、頭を冷やせよ。こんなところで、騒ぎ起こしても仕方ないだろ。だいたい、お前の敵は隆介じゃないだろうが」
朝夫は、努めて冷静な口調で言った。その手には、スタンガンが握られている。まともに素手でやり合ったら、欣也を止めることなど出来ない。スタンガンを出すしかなかったのだ。
だが、果たして引いてくれるかどうか。もし引かなかったら、倒れるまでスタンガンで攻撃するしかないが、そんなことはしたくない……朝夫は平静を装いながらも、内心では引いてくれと願っていた。
一方、欣也はチッと舌打ちした。だが、攻撃して来る気配はない。スタンガンのショックが、彼の興奮を冷ましたようだ。それでも、不快そうな表情は変わることがない。彼はぷいと横を向き、玄関に向かい歩いて行く。
ドアを開けようとした瞬間、欣也は振り返った。鋭い表情で、朝夫を睨みつける。
「お前は結局、そいつの味方するんだな。勝手にしろや。だがな、隆介はいつか裏切るぞ」
捨てぜりふを吐いて、欣也は去って行った。
「痛えな……あの野郎、今度会ったら頭カチ割ってやる」
忌ま忌ましげな表情で、隆介は呟いた。
欣也が去った後、朝夫は倒れていた隆介を助け起こした。隆介は軽い脳震盪を起こしていたが、それよりも顔の外傷の方がひどい。唇は切れ、鼻血も出ている。とりあえず応急処置はしたものの、明日になったら顔が腫れ上がるのは間違いない。朝夫は、顔をしかめつつ言った。
「いいから、早く病院行けよ。ちゃんと診てもらった方がいいぞ。頭打ってるかもしれないんだぞ」
「ああ、分かったよ」
そう言うと、隆介は立ち上がった。だが、体はふらついている。足取りもおぼつかない。まだ、脳震盪のダメージが残っているのだ。不安を感じた朝夫は、彼の手に一万円札を握らせつつ言った。
「おい、外に出たらタクシーで行けよ。いいな?」
「ああ、分かったよ。畜生、マジ痛えや……奥歯も折れちまった。他にも、どっか折れたかもしれねえな」
言いながら、隆介は顔に付いた血を拭く。朝夫がティッシュを差し出すと、彼は紙の上に血と奥歯のかけらを吐き出した。
「クソが。あの野郎、今度俺の前に面見せたら、ぶっ殺してやる」
呟くように言った隆介に、朝夫は小さく舌打ちした。これは、非常にまずい状態だ。隆介は普段、怒りをあらわにしたりしない男である。怒りをあらわにする時は、相手に対し本気の憎しみを抱いている時だけだ。しかも隆介は、いったん嫌いになった人間はとことん拒絶するタイプである。人と揉めても、翌日にはあっさり仲直りできるタイプの欣也とは真逆なのだ。
もっとも、今はそんなことを考えている場合ではない。まずは、隆介に病院に行ってもらう方が先だ。
「わかったから、今は早く病院行けよ。ちゃんと診てもらうんだぞ。でないと、傷が化膿するかもしれないぞ」
二人が立ち去った後、朝夫は暗い部屋の中でしゃがみ込んでいた。
以前から、こうなるのではないかという不安はあった。だが、何とかなるだろうと思っていた。実際、今までは何とかなってきたのだ。
しかし今、欣也と隆介の間には大きな亀裂が入ってしまった。それも、修復困難な亀裂が。
「何で、こうなっちまったんだよ」
虚空に向かい、問いかけた朝夫。その顔には、深い絶望があった。
これから、自分たちはどうなるのだろう。朝夫は今、たとえようもないほどの寂しさと不安とを感じていた。
この時、朝夫は重大なことを忘れていた。
先ほど、朝夫は微かな違和感を覚えた。その正体は、今日の隆介の態度である。
あの二人の仲の悪さは、今に始まったことではない。欣也も隆介も、以前からお互いを好いてはいなかったのは確かだ。しかし、先ほどのようにはっきりと対立することはなかった。朝夫の存在が緩衝材になっていたし、また目的を同じくする者という意識もあったためだ。
もっとも、別の理由もある。今までは、クレバーな隆介が、欣也との本気の争いを巧みに避けていたのだ。粗暴だが単純な欣也を上手くコントロールし、感情を逆なでしないよう努めていた部分はある。また、自身の感情もコントロールし、ぶつかり合いを避けていた。だからこそ、今までは何とかなっていたのだ。
実際、朝夫は隆介の大人な対応に感心させられたことが、これまでに何度もあった。
ところが、今日は違っていた。隆介は最初から、欣也に対し敵意を剥きだしにしていたのだ。あの態度は、明らかにおかしい。だが、朝夫はその点を見逃していた。
・・・
真幌市の繁華街は、今日もにぎやかだった。
老若男女、みな浮かれた様子で町を漂っていた。だが、板倉恭司と工藤憐の二人は、周囲とは明らかに違う空気をまとっている。冷酷な光を目に宿し、人混みの中を進んで行った。
やがて、彼らは目当ての場所に到着した。人通りのない路地裏にある古ぼけたビルだ。一階にはバーらしき店がある。さらに、店の側には車が止まっていた。
二人は、何のためらいもなく店に入っていく。中には、アジア系の外国人が四人いた。ソファーに座っており、早口の外国語で何やら話している。
だが、恭司の姿を見るや会話が止まった。彼らは、無言で恭司を見つめる。
恭司は男たちの顔を見回すと、流暢なタイ語で指示を出した。男たちは頷き、ひとりが奥の扉を開ける。彼は、その中に入っていった。
部屋の中は、ひどく殺風景なものだった。四畳ほどの広さで、テーブルや椅子といった家具は何も置かれていない。床には申し訳程度にカーペットらしきものが敷かれているが、壁紙はボロボロである。しかも、窓も付いていない。明かりといえば、上から裸電球がぶら下がっているだけだ。刑務所の独居房ですら、この部屋よりはマシだろう。
そんな不気味な部屋の中央には、ひとりの青年が座り込んでいた。体つきは細く華奢であり、スポーツの類いは全く経験していないように見える。顔は端正であり、どこかのアイドル事務所に所属していてもおかしくないだろう。だが、その美しい顔はやつれ果てており、人生に疲れきったような表情が浮かんでいる。
青年は顔を上げ、恭司を見た。その途端、さらに表情を歪める。
「な、なあ、俺はいつまでここにいなきゃならないんだ? いつになったら出国できるんだよ?」
青年は、怯えた顔つきで聞いてきた。すると、恭司はにっこり笑う。
「明日だ。明日には、出国する。だから、今日はここを引き払ってもらう。今まで、不自由な思いさせてすまなかったな」
そのとたん、青年の顔はパッと明るくなった。先ほどまでの様子が嘘のように、勢いよく立ち上がる。
「そ、そうか! で、約束の金はあるのか?」
「ちゃんと用意してあるよ。二千万あれば、タイじゃあ大金持ちだぜ。お前も、一から人生やり直せる。いや、一からじゃないな……強くてニューゲーム、って奴だな」
そう言うと、恭司は持っていた紙袋を開けて見せた。中には、札束が入っている。それを見て、青年は目を輝かせた。
「そ、そうか! いやったぜえぇぇ!」
叫ぶと同時に、青年は紙袋に手を伸ばす。だが、恭司はその手を払いのけた。
「待て待て。金は、タイに行ってからだ。今、お前に渡して、あちこちで散財されても困るからな。お前を狙ってる奴は、まだいるんだよ。お前が闇金にいくら借金があるか、忘れたのか?」
「えっ……あ、ああ。それでもいいか。後で手に入るなら、同じことだしな」
そこで、青年は愉快そうに笑った。
「いやあ、今まで大変だったよ。あの女は顔は可愛いが、クソ生意気でバカで性格最悪でさ……俺じゃなかったら、とっくにブチ切れてたぜ――」
「いいから、外の車に乗れ。まずは、ここを離れるぞ」
三人は、表に止めてあった車に乗り込んだ。車内では恭司がハンドルを握り、憐と青年が後部席に座っている。
青年は上機嫌であった。ベラベラと、一方的に喋り続けている。憐は無言のままで、恭司は適当に相づちを打っている。
「いや、本当にきつかったよ。あの女さ、ネタ食うと狂い出すんだよ。あんたの指示通りにしたら、完璧なポン中になったけどさ……あいつのヨレ具合は、普通じゃなかったぜ。まあ、あの又吉に比べリゃマシだけどな。又吉の奴、まさかヨレて人刺すとは思わなかったよ。あれ? ちょっと待ってよ。ここ、どこ?」
青年は、ようやく異変に気づいた。いつのまにか、山の中に来ているのだ。周囲は暗く、人家は見当たらない。窓から見えるものといえば、暗闇と木の枝ばかり。
だか、恭司は何も答えずにずっと車を走らせている。青年は顔を引き攣らせ、もう一度尋ねた。
「ね、ねえイタガキさん、聞いてんの? ここ、どこなの?」
「悪いな。今日から、しばらくここで暮らしてもらう」
「は、はあ!? どういうこと!? 俺、タイに高飛びするんじゃなかったの!? 話が違うじゃん!」
いきなり騒ぎ出す青年に、恭司は面倒くさそうに言った。
「うるせえなあ。レン、黙らせろ。ただし、殺すなよ」
その言葉と同時に、憐が襲いかかる。人間離れした腕力で青年の襟首を掴み、前腕を喉に押し付ける。青年は必死でもがくが、外すことは出来ない。憐の腕は容赦なく喉に食い込み、気管を潰し呼吸困難な状態へと追い込んでいく。
青年の意識は、闇に消えた。全身から力が抜ける。彼は今、絞め落とされた。
直後、異様な匂いが漂う。落とされた時、失禁したのだ。糞尿の匂いが、車内に充満する……。
「くせえなあ、このバカ」
不快そうに呟きながらも、恭司は窓を開けずに車を走らせる。憐もまた、表情ひとつ変えない。悪臭に満ちた車内で、無言のまま青年の手に手錠をかけた。
やがて、車は目的地に止まった。古い木製の小屋が建っており、周囲は草原だ。周囲に人家はなく、人の気配もない。
恭司は車を降りた。と同時に、憐が青年の体を担ぎ上げる。悪臭を放っており下半身は糞尿で汚れているが、憐は眉ひとつ動かさない。青年の体を、小屋の中に運び込む。
その様を横目で見ながら、恭司はスマホを取り出した。
「お嬢さん、いきなり電話かけて申し訳ありません。ですが、一刻も早くお伝えしなければと思いまして……その件です。青島と名乗っていた男を、先ほど確保しました……ですから、お嬢さんの目で確認していただきたいんですよ。明日、ご足労願えませんか?」