第九話 政敵
「さてさて、本日の朝議も長引きそうですな。」
王が政務を行う正龍殿に、黒い官服に身を包んだ文官たちが規則正しく並ぶ。主が不在の玉座の前で、朝の談笑に花を咲かせる。
「あやつらがいるということは、ついに王太子殿下が動くのではないですか。」
文官の一人が指すのは、ふくよかな体型が多い文官の列から少し距離を取って整列している、武官たちだった。武骨な鎧に身を包み、優雅に談笑している文官たちとは真逆に、皆無言で微動だにしない。
「国境を抑えられておるからな。しかし、軍を動かせられるのは陛下のみ。殿下は陛下を呼び戻しに行かれるつもりかもしれん。」
「それは困りますな。」
会話をする二人の文官の話に割り込んだのは、恰幅の良い、白髭をたっぷり蓄えた文官だった。体格といい目つきといい、威厳に満ち溢れている。
「これは金殿。わざわざお声を掛けて頂けるとは。」
文官にも位がある。金英焄は代々優秀な官吏を輩出している名家の出で、御史大夫の身分にあった。百官を束ねる丞相に継ぐ第二位の位階であるが、名誉職の丞相を数に数えなければ、彼が実質百官の長であると言っても過言でない。百官の監察を行い、不正を糾弾するのが主な職務であるが、王と共に法の立案、改正なども行う。
「なに、恐縮することはない。陛下が不在、しかも各地で乱が続いているのだ。各部門の長と親睦を深め、連携を強化するのは当然のことではないか。」
御史大夫の英焄は、口角を上げて顎髭を触る。
「それにしても、殿下には頭を悩まされる。王位を継ぐ者として大切な御身であられるのに。呂州の別宅までは五日かかりますからな。件の予言もありますしなぁ。」
二人の文官は、王太子と王女が誕生した際の予言を指していることを瞬時に理解した。
「麒麟の才子は王太子殿下で間違いないでしょうな。今朝、血相を変えて後宮へ向かう焔中郎を見た者がいたそうですし。」
一人の文官が呟くように言うと、英焄はふんと鼻を鳴らした。
「王女殿下は相変わらずですな。麒麟の才子はやはり王太子殿下で間違いないか。しかし、」
英焄の目が剣呑に光る。一瞬にして表情が変わった金に、二人の文官は息を呑んだ。
「我々が推し進める民慈活動を反対されるのは如何なものか。あれは我々が資産を投げ打って、乱によって田畑を失った民へ配分するために荒れた公地を耕しているに過ぎない。それを反対されるとは。」
王が不在の今、軍事以外の政権は金が掌握していると言っても過言ではない。二人の文官は激しく同意した。
「まったくです。朝議でこの話題にもなるでしょうから、我々もご協力致しましょう。」
二人の文官の同意に、金が満足気に頷いたところ、大きな銅羅の音が響いた。
銅羅の音が鳴り響く中、朱羅はゆっくりと歩みを進めた。ざわついていた文官たちが居住まいを正す衣擦れの音が聞こえる。
「王太子殿下のおなりー」
甲高い声が響き、文官武官皆一斉に叩頭する。敢えてゆったりとした動作でその様子を見渡した後、朱羅はゆっくりと息を吐いた。
「皆、顔を上げよ。」
ぞろぞろと文官たちが立ち上がり、武官たちは機敏に立ち上がる。
「それでは、早速朝議を始める。まずは各地で起きている乱について、大司馬、報告を。」
「は。」と歯切れの良い返答と共に、焔凱駻が朱羅の前に歩み出る。
「乱は広がりつつあります。煐州の甲李村が彼奴らの手に落ちてから、すでにその隣村の鰀路も抑えられました。このままでは、首都まで奴らがやって来るのも、時間の問題かと。」
凱駻の言葉に、静まり返っていた広間は一気にざわつき始めた。
「やはり、一気に奴らを殲滅するしかあるまい。村ごと焼き払ってはどうか。」
「いや、先に民の救済が先だ。鰀路村近隣に住む民を避難させるのが先であろう。」
「綺麗事を。奴らはただの暴徒ではない。首謀者と話をするのが早い。使者を送ってはどうか。」
ざわざわと騒ぐ文官たちの中から、一人の男が歩み出た。
「殿下。申し上げてもよろしいでしょうか。」
歩み出たのは、英焄だった。
英焄が前へ出た途端、それまで騒いでいた文官たちが静かになる。皆一様に朱羅へと視線を移した。
「よい。申してみよ。」
英焄は顎髭をしごきながら、芝居じみたように顔をしかめた。
「陛下がおられぬ今、軍を動かすことは不可能です。今我々ができるのは避難民の支援。やはり田畑の開放を行うべきです。」
きた。
朱羅は思わず身構えた。英焄の言は一見して民の為だと謳っているが、その実は違う。
齋国は官吏による私有地の開墾を法で禁じている。英焄はあくまで、自身の所有地を開墾させるのではなく、開墾した難民にその土地を分け与えると謳っている。しかし、土地の所有権など、効力のある権利書がある訳でもなく、どのみち英焄の手に渡ってしまうのは目に見えて明白だ。
「その件については、昨日話したとおり。官吏による土地の開墾は認められていない。開墾の目的が民の為であったとしても、法で禁じられているものを私が許す訳にはいかない。」
ここ数日で朱羅が身につけたものがある。それは内心焦ったり悩んでいても、決して表情には出さないこと。父の代わりに政に参加するようになってからは、声音も口調もゆったりするように注意を払っている。
英勲はそんな朱羅の様子を見て、にこりと微笑んだ。
「さすがは殿下。幼少の頃から飲み込みが早く、教育係が殿下の聡明さに驚いてこの正龍殿に駆け込んできたのがついこの間のよう。」
謡うように自分を褒める英勲に、朱羅は身震いした。何か仕掛けてくるのは明白だ。気を引き締めないと。
「殿下。しかし、陛下がおられぬ今、政を補佐するのはこの御史大夫の金にございます。国計にも記されているように、“王が不在となり立太子が王位に就くまでの間、御史大夫が政務を執る”と。」
「不敬であるぞ!御史大夫!!」
声を荒げたのは朱羅の唯一の味方、丞相の皐絹だった。普段は温厚な好々爺だが、しかし今は顔を真っ赤にして怒っている。
「国計にある“王が不在のとき”とは、陛下が病でお倒れになったとき若しくは御隠れになったときじゃ!現在陛下は健在であられる!それを・・・・!!」
「丞相。」
朱羅は皐絹をやんわりと制した。皐絹はすごすごと元にいた場所へ戻る。
「御史大夫。確かに国計には“王が不在のとき”について記されているが、先程丞相が申したとおり。父上はまだ健在でいらっしゃるし、療養で玉座を空けているだけ。よって、今は“王が不在の時”には当たらない。」
「しかし、この不安定な情勢の中、陛下が玉座におられぬのは事実にございます。」
すかさず声を挙げたのは文官の一人だった。その声に派生してざわざわと他の文官たちも声を上げ始めた。
「国家の危機に、玉座に陛下がおられぬのでは、我々はただの烏合の衆ではないか。」
「然り。軍も動かせないとなれば、乱の鎮圧も不可能だ。」
この頃の朝議はいつもこれだ。王の不在と王の政権の弱体化により、官吏たちの統率が取れない。自らの力の無さに、朱羅は毎日打ちのめされる。
「みな、静まりなされ!」
英勲の一喝に、しんと広間が静まりかえる。一呼吸置いて、英勲は朱羅へと向き直った。
「殿下、先程の無礼をどうかお許し下さい。」
英勲はその場で深々と頭を下げる。膝をついて叩頭する様に、広間は依然静まりかえったままだ。
「確かに、“王が不在のとき”を言に出すはあまりに不敬。この金英勲、不敬で殺されても異言はございません。」
朱羅は黙って跪く英勲を見ていた。いや、見ていたというよりは見ているしかなかった。英勲が何か仕掛けてくるのは分かっているが、私有地の開墾でも、政権の奪還でもないとすると、何を企んでいるのか。
(頭が、痛い。)
ずきずきと痛み始めた頭を、抱えて座り込みたい衝動を抑えて朱羅は英勲を見つめた。
「我々国官の望みは一つ。陛下がいらっしゃらない政を安定させることです。その為に、殿下にこの命に代えても認めて頂きたい事案がございます。」
膝をついたままこちらを見つめる英勲を、朱羅は見つめ返す。事実、この正龍殿を掌握しているのは英勲だ。父王がいなくなってから、否応なく実感させられるこの事実。何を企んでいるかのかは分からないが、全てを拒んでいては均衡は保てない。
「良い。申してみよ。」
朱羅の言葉に頷いてから、英勲は立ち上がって正龍殿の扉に控えている下官に声をかける。
「お通しせよ。」
二人の下官がゆっくりと扉を開けると、そこにはこの場にいてはならないニ人の男がいた。
「叔父上…。」
ざわつき始めた官吏たちの声に、朱羅の声はかき消された。