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朱殷(しゅあん)の麒麟  作者: 退紅ほまれ
第一章
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第八話  天女

 「殿下。王太子殿下。」

 混濁した意識の中、自分を呼ぶ声だけが頭で鳴り響く。分かっている。起きなくてはいけないことくらい。しかし、意識はあるのにどうしても起き上がれない。それほどまでに、自分は疲れ切っているのだ。精神的にも、体力的にも。

 「殿下、大司馬(だいしば)が参りました。」

 ゆっくりと瞼を開けると、すぐ目に入ったのは山積みにされた書物だった。自分はどうやら机に頭を預けて眠り込んでいたらしい。のろのろと頭を上げると、扉前で膝まずく壮年の男の姿が見えた。

 「大司馬、(えん)凱駻(がいかん)。拝謁致します。」

 よく通る声で名乗ると、男は拱手の礼を取った。彼こそがこの齋国の軍事を司る最高位の者であり、朱羅(しゅら)朱璃(しゅり)にとって義理とはいえ祖父にあたる者であった。

 「大司馬、よく来て下さいました。朝議の前に確認しておきたい事があり、お呼びしました。」

 凱駻は、ゆっくりと椅子から立ち上がる朱羅を見つめた。明らかに疲れが見える白い顔は痛ましく、朱羅を支える丞相(じょうそう)も心配そうだ。部屋は薄暗く、机の上には書が山積みになっている。王太子の部屋と思えぬほど閑散としているのは、机と椅子、寝台以外に家具はなく、装飾品がまったくないからだろう。

 「殿下、私はこのままでかまいませんので、どうかお座りになったままお話し下さい。」

 凱駻の言葉に、「しかし‥‥」と言い淀んだものの、丞相に諭されてようやく朱羅は座った。

 「お祖父様(じいさま)を立たせたままなのは心苦しいですが、このまま話を続けさせて頂きます。」

 律儀に礼をする朱羅を眺めながら、凱駻は少し頬が緩むのを我慢できなかった。自分が建国山(けんこくさん)へ登ってから十数年。赤ん坊だった王太子は、聡明で礼節を重んじる立派な王太子に育った。齋国に仕える者として誇らしく、義理とは言え孫として愛しかった。

 「各地で発生している乱についてですね。」

 凱駻の言葉に、朱羅は神妙な面持ちで頷いた。

 「そうです。鎮圧しても鎮圧しても、次から次へと乱が起こる。国全土で起こっているので、増税に苦しむ農民が首謀と思っていたのですが、違うのですね?」

 朱羅の問いに凱駻は頷いた。

 「私も当初はただの一揆と思ったのですが、あまりにも統率が取れた戦術と連続する発生に疑問を持ちまして、間者を放ちましたところ、分かったことがあります。」

 凱駻は着物の合わせから一枚の布切れを出し、朱羅の前に差し出した。布切れは茶色く薄汚れ、何か文字が書いてあるものの、読み取るのは難しいものだった。

 「剣‥‥正?」

 「さようにございます。これは乱を起こした者どもの組名で剣正(けんせい)と言うそうです。」

 卓上に置かれた布切れを、黙って見つめる朱羅に向かって、凱駻はさらに説明を続ける。

 「奴らは国中に潜んでおり、構成員の多数は奴婢(ぬひ)です。しかし、国中に散らばった部隊を統率する者、剣正の幹部は字の読み書きができ、戦術に長けている者がおります。」

 齋国の識字率は高くない。字を読み書きできるのは、相当の身分があり、さらに戦術に長けているとなれば、敵の正体は限られてくる。

 朱羅は思わず額を手のひらで覆った。父王の治世が乱れて数年。父王をみかぎってその地位を離れた軍人は少なくない。

 「離職した我が国の軍人が反乱を起こしていると?」

 思わず弱気な声が出てしまったが、取り繕う余裕は朱羅にはない。

 「確かに、離職した軍人が剣正に参加している可能性もない訳ではございません。しかし、最大の問題はそこではありません。」

 疲れ切った朱羅の顔を見つめながら、凱駻は机の布切れを手に取った。茶色く薄汚れた布のあちらこちらに、赤黒い染みがついている。その染みは嫌でも、布切れを受け取った時のことを思い出させた。


 「剣正の中に、天女がいるのです‥‥。」

 血の匂いが蔓延する戦場で、凱駻の天幕に何とかたどり着いた間者は、事切れる寸前であった。間者であることがバレたのであろう、執拗に追ってくる追っ手をなんとか振り切り齋国の陣地にたどり着いた頃には、ひどい有り様であった。

 「天女だと?」

 蹲った彼の腹からは、血が滴り落ちているのだろう。天幕の床に敷かれた絨毯は、赤黒い染みが徐々に広がりつつあった。彼は、蒼白な顔で頷いた。

 「はい。兵士たちの間では、その天女のおかげで勝ち進めていると噂になっています。」

 凱駻は、間者の手当ての為慌ただしく天幕に入ってきた侍医たちを眺めながら、指で顎をなぞった。

 確かに、各地で起こった反乱を押さえられたのは始めだけ。ここ最近は国辺境の小さな村を幾つか押さえられている。

 「その天女とやらは何者だ。何故天女と呼ばれ崇められている。」

 「分かりません‥‥。ただ、」

 侍医たちに仰向けにされ、着物を剥ぎ取られ始めた間者は苦しそうに呻いた。

 「天女は物事を予見する力を持っている‥‥ようです。」

 彼と話ができたのは、ここまでであった。侍医たちに運び出されて行った彼は、数刻後に息を引き取った。


 「大司馬よ。」

 朱羅の声に我に返った凱駻は、手に持っていた布をゆっくりと着物の合わせにしまった。

 「申し訳ございません。殿下の御前で、物思いに耽るとは‥‥。」

 「かまいません。それより、今後どのように乱の鎮圧を行うか、考えをお聞かせ下さい。」

 最初の乱が起きてから半年。王の不在は官吏の腐敗を呼び、官吏の腐敗は庶民の暮らしに悪影響を与えている。上から正すのが一番正しいとは分かっていても、これほど頻繁に乱が起こっていては、鎮圧する他ない。

 「戦線詔勅(せんせんしょうちょく)しかありません。」

 凱駻の言葉に、それまで静かに事を見守っていた丞相がたじろいた。

 「戦線詔勅。」

 詔勅とは、王が出す政令のことである。戦線と付いているのは戦時に戦事(いくさごと)の為に出す政令であるから。軍事の最高位である大司馬が王に上申するのが一般的で、普段戦や乱の鎮圧に赴かない近衛隊を解体し、軍を再編成する為の政令である。

 「しかし、玉爾(ぎょくじ)がなければ発令ができませぬし、第一陛下がおられぬ今、文官たちが黙って従うとは思えませぬ!」

 丞相の悲痛な叫びが、部屋中に響き渡る。しばしの沈黙が続いたのち、口を開いたのは朱羅だった。

 「父上にお戻り頂く。私が別邸に直接赴く。」

 へなへなと座り込む丞相を眺めながら、凱駻は深い溜め息をついた。

 王の堕落、(まつりごと)の荒廃、勃発する乱。数年前に建国山(けんこくさん)で受けた予見が真になっている。やはり麒麟の才士の出現は国の崩落を意味していたのだ。

 「私も共に参りましょう。これだけ国が荒れているのです。宮殿の外は安全とは言えませんので。」

 麒麟の才士は朱羅で間違いない。凱駻はそう確信していた。齢十二にして才覚、度量申し分ない。しかし、もしもの事があってはならない。朱羅がこの齋国の王位を継ぐまでは、なんとしても自分が守らなければ。

 「それでは、朝議で文官たちを黙らせた後、別邸へ赴くとしよう。」

 朱羅は冗談めかした口調で言うと、ゆっくりと立ち上がった。

 既に日は高く昇っているのだろう。柔らかい日が窓から射し込んでいた。

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