第七話 左遷
女官には位がある。下は四等女官から一等女官まで、一等女官から昇任すると四品尚儀となる。一品尚儀の次は三品尚官で、数多いる女官たちを統べる尚官階級にもなると、少ない時は三名ほど、現在は五名しかいない。
四等女官から一等女官までは、一年に一度の昇級試験により昇級は可能だが、尚儀から上の階級は実績、上からの推薦がなければ昇級は不可能だ。言い方を変えれば、上から気に入られなければ昇級はありえない。
鈴笑は泣きはらした顔を隠すこともなく、とぼとぼと尚官たちの詰所へ足を進めていた。四品尚儀に昇任して三月。数多いる先輩、同期と争ってようやく勝ち得た尚儀の座を、早くも降りなければならなくなる。詰所へと上がる朱色の階段を、重い足どりで上がっていく。
「そもそも、私に四品尚儀なんて、無理だったのかも。」
女官の世界は位がすべてだが、出自はあまり関係がない。どんな高官の娘でも、女官を統べるのは王妃であり、任命するのは一品尚官であるため、取り入る隙もないのだ。と言うのも、王妃も尚官も普段は後宮にいるため、いくら王宮の高官と言っても、軽々しく会える相手ではないのだ。実力主義の世界なのだ。
鈴笑は地方の商家の生まれだ。女官になったのは行儀見習いの為で、結婚が決まるまでの間働くつもりだった。商家の生まれであったので、装飾品や絹、木綿の目利きはお手のもので、そこを尚官に認められ、出世街道を歩むこととなった。多くの女官が一等女官で退職する中、自分は運が良い方だと思う。
「鈴笑、参りました。」
詰所の扉の前で告げると、ゆっくりと扉が開いた。両隣で扉を開いた女官が深く頭を下げる。鈴笑は軽く息を吐いて、ゆっくりと中へ進んだ。磨きあげられた黒曜石の床を、足音をたてないよう慎重に進む。黒曜石で作られた三段ほどの階段を上がると、深く平伏する。
「やっと来たか。」
冷ややかな声がした。低く唸るような声音に、びくりと鈴笑は体を震わせた。見上げずとも分かる。声の主は鈴笑が最も苦手な上司、二品尚官の秋美のものだ。
「既に報告は受けているが、お前の口から聞こうではないか。何故姫様の御髪が、切り刻まれる次第となったのか。」
秋美の冷たい声がびりびりと床を伝って、鈴笑の体を震わせる。早く事の顛末を話さなければ、と内心で焦るが、緊張で喉が渇き声が出ない。
「ひ・・・・ひめ、さまは」
緊張でみっともないくらい声が震えたが、そんなことを気にしている状況ではないことは明白だったので、鈴笑は続ける。
「普段から焔中郎とよく一緒に過ごされています。」
鈴笑が姫付き尚儀になったのは、冬が近づく秋の終わりだった。姫付きの尚儀に着任が決まった時は、光栄で身の震えが止まらぬほどだった。一介の商家の出である自分が、王族の、しかも姫の従官になるなど夢にも思わなかったし、自分自身をとても誇りに思えた。
「貴女が、新しい姫付き尚儀ね。」
初めて姫と顔を合わせた時も、こんなに愛らしい少女がこの世にいるのかと目を疑った。この国では珍しい青みがかかった髪に、真っ白い肌。長い睫毛に黒真珠のように澄んだ大きな瞳。
姫はにっこりと優しく笑むと、鈴笑の手を取り両手で包んだ。
「どれくらい私付きの尚儀でいられるか、分からないけれど。貴女が辞めるまでの間、どうぞよろしくね。」
一瞬、鈴笑は姫の言葉の意味が分からず、ぽかんと立ち尽くした。姫はそんな鈴笑に構うことなく、すたすたとその場を立ち去った。姫のこの言葉の意味が理解できたのは、尚儀として着任した記念すべき一日目の朝だった。
「楊尚儀!楊様はいらっしゃいますか!」
尚儀の官服に袖を通し、髪を結っていた早朝、姫付き女官が鈴笑の部屋に駆け込んで来た。
「何事だ、騒がしい。まだ夜も明けていない刻に、非常識だぞ。」
部屋の戸を開けると、髪を振り乱した女官が青い顔で跪いていた。
「申し訳ございません。嵩尚儀に報告に行ったのですが、もう自分は姫付き尚儀ではない、とおっしゃいまして。」
嵩尚儀は、鈴笑の前任の姫付き尚儀だった。何でも「持病の頭痛が悪化したこと」による辞退だったらしい。そういうことならば、自分を呼びに来るのは至極もっともなことである。
「分かった。それで、何があったのだ。」
「姫様が、ご自分の着物を、全て切り刻んでしまったのです!」
鈴笑が花鏡殿に駆け込んだ時には、既に多数の女官が集まっており、無残に切り刻まれた着物を回収しているところであった。
「昨晩の当直の者を呼べ。」
着物を回収している女官に声をかけると、速やかに二名の女官が鈴笑の前に跪いた。一人は先ほど鈴笑を呼びに来た者で、もう一人は真っ青な顔で俯いていた。
「何故このような事態となったのか、説明せよ。」
はい、と返事をしたのは、鈴笑を呼びに来た女官だった。その者の話では、こういうことらしい。姫は日頃から琴や刺繍などの習い事を嫌がり、師事が花鏡殿に来ても、あの手この手を使って授業を抜け出してしまうらしい。しかし、焔中郎から習う剣技は好きらしく、琴や刺繍の習い事を怠っては剣技の修練をしているらしかった。
「しかし、一国の姫が、男のように剣を振るうなど、聞いたこともございません。嚠尚官は、姫様に剣技の修練を止めさせ、琴と刺繍をやって頂けるよう、私どもに指示をなさいました。」
現在三品尚官は三名。嚠尚官はその内の一人で、花鏡殿で働く女官全てを統括する、いわば鈴笑の直属の上司であった。
「では、嚠尚官から焔中郎へ言伝てはしているのだな。」
鈴笑の問いかけに、女官は首を縦に振り「はい。」と答えた。
「しかし、焔中郎が剣技を教えてくれなくなったと知るや、姫様の反抗は激しくなってしまいまして。」
琴と刺繍の師事が花鏡殿にやって来るや、姫は隠れて逃げるか仮病をつかって怠るようになったらしい。
「それどころか、近頃は琴を壊したり、刺繍で使用する布を全て破いてしまうなど、相当ご乱心のようで。」
「それで今回、このような事態となったのか。」
はい、と答えてから、女官は申し訳なさそうに俯いた。
「姫様がどうしても道着を着せろと仰るので、道着はもうないと申し上げたのですが‥‥。」
女官の言葉を聞き終えることなく、鈴笑は素早くその場を後にした。後ろから女官の戸惑う声が聞こえたが、気にせず歩みを進める。向かうのは、勿論姫の居室だった。
既に切り刻まれた布は片付けられ、居室にいるのは不貞腐れた姫だけであった。化粧台の椅子に座り、むっつりと押し黙ったまま美しい髪を玩んでいる。
「姫様。本日よりお仕えする、楊鈴笑にございます。」
ひざまずき深く平伏した後、毅然とした態度で姫と相対する。
姫は興味なさげにちらと鈴笑を見ると、またぷいと顔を背けてしまった。
「此度の件、何故このような事をなさったのです。」
鈴笑の問いかけに、姫は面倒くさそうに溜め息をついた。
「気の利かない女官ばかりで、気に入る着物を持ってこなかったからだ。」
違う。鈴笑は内心で気付いていた。道着を着せてもらえない腹いせに、今ある着物を全て切り刻んでしまったに違いないのだ。
「そのような事をなさっても、何も変わりませんよ。」
国の上の立場にいる者。上流官吏であれ、王族であれ、何不自由ない生活ができる者であればこそ、犠牲にしなければならないものがある。この姫の場合は、綺麗な着物、庶民が一生身を粉にして働いても手に入れることができない美しい装飾品を、数えきれない程所持して良い代わりに、一生自由の利かない生活をするのだ。
「姫様は、いずれ他国か、この齋国の地位ある方に嫁がれるのです。姫様の所作一つで、齋国の権威が天まで昇るか、地まで落ちるかが決まってしまうのです。」
だから、きちんとしてもらわなければ困るのだ。
「人の上に立つ者、人心に敏感であれ。」
姫の呟きに、鈴笑はぴくりと眉を動かした。
「尚儀ならば知っておるであろ?かの有名な充師の言葉だ。しかしそなたは人の上に立つ者として、これができておらぬ。」
姫の説教に、鈴笑は驚きを通り越して呆れた。いつの間にか説教をする立場が逆転しているし、まだ着任して一刻も経っていないのに自分の全てを知られたかのように説教されている。
「まぁ、そなたにはこれから世話になるのだし、今回は私が悪かったということにしよう。しかし、これからの私の行動は、姫付き尚儀となったそなたの考えや行動次第だ。心して励むように。」
にこりと花のように微笑む姫の顔を見ながら、鈴笑は悟ってしまった。何故前任の嵩尚儀が頭痛で解任されたのか。初日に姫が言った言葉の意味はなんだったのか。
「それから、私なりに姫様を立派な淑女とするべく、手を尽くして参りましたが、力及ばず‥‥このような事態に。」
項垂れる鈴笑を見下ろしながら、秋美は少しの間考えを巡らせていた。
姫が説いた充師の一説は、科挙では必ずと言って良いほど出題されるものだが、学をする者、即ち官吏かその子息しか学ばないものだ。尚官の秋美でさえ、充師は基礎の基礎しか学んでいない。
「分かった。姫付き尚儀はそなたにとって荷が重すぎたということだな。」
秋美の言葉に、弾かれたように鈴笑は顔を上げた。涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃの顔は、恐れで固まっている。
「楊尚儀。本日を以て、そなたを姫付き尚儀から外す。少付が宝衣司へ異動し、宝衣尚儀として勤務せよ。」
小付の部署である宝衣司は、王族が身につける装飾品や着物の加工、仕立て、絹や糸、宝石の取り寄せなどを行う部署である。
鈴笑にとっては、左遷といっても過言ではない。
「そもそも、そなたは宝石やら生地やらの見立てが上手く、そこを取り立ててもらったのであろ?本来の力が発揮できる場へ異動できるのだ。良かったではないか。」
秋美の意地悪い笑みを呆然と眺めながら、不思議と肩の荷が軽くなるのを鈴笑は感じていたのだった。




