第六話 朱璃
王宮の最奥、後宮には、しばしば黒い陰謀が渦巻いた。齊国五代国王、佳謐は、王妃の他に二十人の側室がいたという。国が統一され平和が続くと、民の暮らしは安定し、様々な文化が形成された。それは王宮も然り、佳謐は絵筆の改良、染料の開発と発見に力を入れた。故に、佳謐は齊国の芸術を高めた王と名高い。それに加え、好色家としても有名である。佳謐の側室は上級官吏の息女から、町娘に娼妓まで、様々な女たちが寵愛欲しさに争った。後宮の建物はこの時代に増設され、より華美になったという。
当時は大勢の側室、女官、宦官で賑わったであろう後宮も、今は静かなものだ。現国王の羅謐は、王妃の他に側室は一名のみ。その側室も今は王と共に別荘に滞在している。故に今この後宮にいるのは、王妃と姫のみであった。門を抜け、姫の寝殿である花鏡殿がある一角へと向かう隆と倶備は、すれ違う女官たちの黄色い声を浴びながら進んでいた。
「まったく。あなたと後宮を歩くのは本当に嫌ですよ。キーキーキャーキャー女官たちが騒いで、煩いのなんの。」
倶備はぶつぶつ文句を言いながらも、早足で歩く足を止めることはなかった。そんな倶備を横目で見て、隆は苦笑いをした。
「そう言うな。奥仕えの女官たちは後宮から出ることも少ない。俺が珍しいんだろ。」
倶備はちらりと隆を盗み見た。綺麗に整った眉に、切れ長の目。高い鼻に日に焼けた浅黒い肌。精悍な顔立ちに加えて、訓練で鍛え抜かれた身体は、鎧を装着していても想像がつくほど筋骨隆々だ。誰がどこから見ても、良い男なのは間違いない。
「自覚がないのが、また腹正しい。」
倶備の呟きが聞こえなかったのか、隆は「何だ。」と訝しげに尋ねる。
「いえ。宦官は男ではない、ましてや人間ですらないので、女官たちもあなたの様な人間の男を見られて嬉しいのでしょう。」
本心から隆を妬んでいる訳ではない。しかし、どうしても彼の前では刺のある言い方になってしまう。それは権力が物を言う王宮で、数年気の置けない友として過ごしてきたが故の甘えなのか。人間として扱われない自分の卑しさが身に沁みて分かっているからこその僻みなのか。
「そんなつもりで言ったのではないんだが。気を悪くしたなら許せ。誰がなんと言おうと、お前は立派な姫様付きの従官だ。」
隆は倶備の口調を気にする様子もなく、宥めるように倶備の肩を叩いた。貧富、身分の差が大きいこの国で、この男は初めて会った時から、倶備を一人の人間として扱ってくれた。今、朱璃姫のお付きとして共に働けるのは、幸いだ。
「急ぎましょう。姫様がお待ちです。」
花鏡殿は後宮の西に位置する。小さいながらも庭には池があり、亭もある。池の脇の小道を早足で進み、朱璃姫が住まう寝殿へと隆と倶備は足を踏み入れた。寝殿は駆け回る女官やら叫ぶ女官やらで溢れていた。
「焔中郎が参られました!」
隆の姿を認めた女官が叫んだ。その声を機に、騒いでいた女官たちが両脇に退き、奥へと道をあける。女官たちは皆一様に安堵の表情を浮かべている。
「姫様がまた何かやらかしたな。」
隆はやれやれと呟きながら、両脇に割れた女官の前を進んでいく。倶備も無言で隆のあとに続いた。
薄紅の絹垂れ幕が無数に揺れる部屋、家具は全て朱色に塗りあげられ、美しい花や蝶の彫刻が施されている。薄紅の垂れ幕を掻き分けて奥へ進むと、この部屋の主が姿を現した。
「隆、倶備。来たのね。」
まだ大人の女性になりきれない、あどけない笑顔は満足感に溢れていた。白い肌に紅い唇。大きな黒い瞳は心なしか輝いて見えた。彼女こそ十二代国王羅謐の娘、朱璃姫である。まだ早朝とは言え臣下、しかも男の臣下の目前でも、恥ずかしげもなく白い寝間着で堂々としている。相対する隆も、まったく動じることなく呆れたように溜め息をついた。
「早朝から呼び出されたので、何事かと思えば。これは何事です。」
朱璃姫が立っているのは、寝具の前。その手には剃刀が握られ、足元には無残に切り刻まれた髪が散らばっている。その傍らで蹲って泣いているのは、姫付き女官の中でも高位の六品尚儀だった。
「ひっ、姫様が剣技の練をやりたいとおっ、仰ったので……。お止めしたら、こんなことに……!」
朱璃姫の髪は、見事に肩ほどの長さまで切り刻まれていた。当の本人は、満足げにふんと鼻を鳴らして隆を見た。
「だって、剣技の練ができるのは殿方だけだとこの者が言ったから。結い上げる髪がなくなれば、姫じゃなくなるんじゃないかなって。」
にっこりと笑う朱璃姫の傍らで、尚儀がまた嗚咽を漏らし始めた。呆れて物も言えない倶備に代わり、隆が部屋の外で待機する女官を呼びつけた。
「とりあえず、姫様に湯を。あと、髪結い担当の女官を呼んでくれ。どうにか結い上げる方法がないか、考えてみなければ。」
「切れた髪は、引っ付いたりしませんよ。」
倶備は溜め息まじりに呟いた。倶備の言葉に、尚儀はよけいに大きな声で泣き始め、朱璃姫はあははと無邪気に笑い始めたのだった。




