第十四話 疑心
「何?焔中郎が禁足を命じられただと?」
まだ夜明け前の薄暗い中、身支度を整えていた詠子は、部下の報告に眉をひそめた。日の出前の部屋は、燭台で照らされてはいるものの、傍らに跪く部下の表情さえ判別しづらい。しかし、詠子は手慣れた手つきで髪を素早く結い上げると、披帛を纏い部屋の扉へと向かった。
まだ薄暗い外は驚くほどに気温が低く、吐く息が白く濃く立ち昇る。詠子は後ろをついてくる部下を振り返り、足を止めた。
「この事は王妃様には伝えるな。要らぬ心配をされるだろう。お前は引き続き煌平君殿下と煌昭君殿下の動向を探れ。」
部下の女官は神妙に頷くと、頭を下げて立ち去る。詠子は早足で後宮内にある尚官の詰所へと向かった。
詠子は王妃付きの女官である。後宮の主である王妃を補佐し、また私生活のあらゆる世話をする。王妃が目覚めるより早く起床し、尚官の詰所で雑務をこなした後、王妃が住まう寝殿へと向かう。この生活をかれこれ十年以上続けている。
尚官の詰所は、文字通り三品尚官から最高尚官が執務を行う宮である。後宮の真ん中に位置し、朱色に美しく塗りあげられた柱に、床には磨き上げられた黒曜石が敷き詰められている。尚官の詰所とは言っても、それぞれ専属の持ち場がある為、日頃詰めているのは最高尚官のみである。その最高尚官もこの時刻は自室にいるだろう。早朝の冷たい風を切りながら、詠子は早足で詰所へと急いだ。
「橘三品尚官。」
詰所の扉の前で、後方から声をかけられる。女にしては低い声。振り返らずとも分かる。二品尚官の李秋美だ。
「李二品尚官。本日もお早いですね。」
詠子はゆったりとした動作で振り返ると、頭を下げ、にこやかに挨拶をする。ピンと伸びた背筋と、陶器のようにつるりとした白い肌。切れ長の目に高い鼻、美しい黒髪を持つ彼女は、まさしく絶世の美女である。纏う雰囲気は厳格で冷たい。下級女官達の間で、密かに彼女のあだ名となっているのは、「氷美」である。おそらく、“氷のように厳格で冷たい”という意味からつけられたあだ名に違いないが、あながち不似合いではないあだ名である。
秋美は無表情で頭を下げて礼を返した。
「先日、煌昭君殿下と煌平君殿下が登殿されてから、政が騒がしいですね。このような時世は、後宮内も浮き足立ちます。橘三品尚官には、王妃様をしっかり補佐して頂きたい。」
詠子と秋美では、秋美の方が位階が上である。しかし、秋美が詠子に敬語を使い敬うのは、十歳ほど詠子が年上だからではない。かつて詠子は、秋美の上司であったのだ。まだ一級女官であった秋美を尚儀に取り立てたのは、他でもない詠子だった。
あれから幾年か流れ、いつのまにか出世も先越されてしまったが、いまだに秋美は詠子を敬う。
詠子はじっと秋美を見つめた。
「ええ。存じております。陛下がおられない今、政が荒れるのは必須。我々が王妃様をお支えしなければ。」
詠子は、頭一つ分高い秋美の顔を見上げる。まだ薄暗い夜明け前、身を切るような冷たい風が吹きつける後宮に、人気はない。
「覚えていますか。貴方が入宮した時、貴方はまだ十三歳の少女でした。」
突如語り始めた詠子を、秋美は怪訝そうに眉根を寄せて見つめる。
「私は、貴方の負けん気の強さと、智謀と、そして何より齋への忠誠心を見込んで尚儀へ推薦しました。貴方がどの権力にも属さず、齋の発展の為のみに尽力するであろうと、私は確信したからです。」
秋美は、静かに詠子を見下ろす。能面のような表情からは、何の感情も感じられない。
「私の予想通り、韋賢妃が台頭してきた時も、貴方はどちらの権力にもつかず、中立の立場を貫いていましたね。」
韋賢妃とは、現王羅謐の唯一の側室である。王妃が嫁いで三年が経った頃、子宝に恵まれなかった羅謐は、側室を迎えることを決定した。賢妃は高級官吏の娘で、入宮した後寵愛を欲しいままにし、賢妃の位についた。
「しかし、近頃、朱璃姫付きであった楊四品尚儀を宝衣司へ異動させ、韋賢妃付きの尚官と親しく付き合っているとか。そもそも、女官の異動と任命は最高尚官が王妃様へ上申し、王妃様が行うもの。…秋美、貴方は何を企んでいるのですか。」
詠子の静かな問いに、秋美はただただ黙っている。仄暗い瞳は詠子を見つめたまま。紅い唇が動く気配はない。
びゅう、と強い風が吹く。薄水色の披帛と薄紅色の披帛が交錯しながら舞う。詠子は秋美の顔を見上げた。
紅い唇の端は上がり、普段表情に乏しい秋美にしては、珍しく笑顔である。しかし、それは人を嘲る種類のものだ。詠子は、仄暗い秋美の黒い瞳を呆然と見つめた。
「確信した、ですって。私が欲を持たず、未来永劫この後宮で中立の立場を維持し続けるとお考えだったのですか。…なんとおめでたい。」
吐き捨てる様にそう言うと、秋美は冷たく詠子を見下ろす。
「そもそも、何故陛下は別邸から戻られぬのでしょう。前王妃様が御息災であられた時は名君だった陛下が、ここ数年賢妃に入れ込み、昏君となられたのは、何が原因なのでしょうか。」
詠子は秋美を見つめた。詠子の頬に朱がさす。
「それは、我が主を侮辱しているのですか。」
前王妃が幼い朱羅と朱璃を残して天に登ってから時を待たずして、新王妃選びが開始した。王妃は国母。後宮の最高権力者にして、王室の繁栄の為にある存在である。王の好み云々ならず、高い素養と何より家柄が重要であった。そこで白羽の矢が立ったのが、現王妃・焔麗芳である。
麗芳は温厚で心優しく、継子の朱羅と朱璃はすぐに懐いた。度々破天荒な行動を取り周囲を悩ませる朱璃も、麗芳の言うことには従うのである。
しかし、継子との関係は良好でも、羅謐の寵愛を得ることは難しかった。子を授かることはなく、側室を迎えるに至った。
「私はなにも、寵愛を授からないことを言っているのではない。後宮を統べる者として、警戒心がなさ過ぎると言っているのです。」
秋美はぴしゃりと言い放つ。
「そもそも、陛下が別邸からお戻りにならない事と、煌昭君殿下と煌平君殿下が登殿された事、偶然と思し召しか。」
はっと詠子は目を見開く。これが羅豪と羅慧の登殿を促した御史大夫の謀だとすれば。いや、王位簒奪を狙う羅豪か羅慧の一計なのか。詠子は息が詰まり、思わず胸を押さえる。
「すぐに呂州へ誰か派遣せねば!陛下が危ない!張最高尚官にお伝えせねば!」
最高尚官とは、文字通り齋国で最高位の女官であり、政と後宮を繋ぐ唯一の存在である。王を救出するならば、最高尚官を通じて大司馬に知らせるのが先決だ。
今にも駆け出して行く勢いの詠子の腕を、秋美が瞬時に掴んだ。女性とは思えない秋美の力で、詠子の腕は捻り上げられる。
「何故止めるのです!もしや、貴方も陛下のお命を狙う逆賊なのですか!」
明らかに取り乱す詠子を秋美は冷ややかに見下ろす。詠子は秋美の支配から逃れるため、思い切り腕を振り回した。暴れて暴れて、なんとか秋美の支配から逃れたが、勢い余って尻餅をついた。
秋美を睨みながらすぐに起き上がり、砂埃を払う間もなく駆け出した詠子の背に向かって、秋美はゆったりと口を開く。
「張最高尚官は昨日から、女官が王宮から出るのを禁じている。何度嘆願しても同じだ。」
詠子は足を止め、不審そうに秋美を振り返る。秋美は不適に笑んだ。
「それに、行っても無駄だ。最高尚官はもういない。」
意味深に笑む秋美を捨て置き、詠子は走る。向かうは最高尚官の寝殿。頭が混乱して、結局秋美が敵なのか否かも判断がつかない。しかし、詠子には一つ分かったことがあった。
寝殿の最奥、寝台に横たわる最高尚官は息絶えていた。外傷はなかったが、下手人は明らかだ。
「秋美…。あなたは一体何を企んでいるのです。」
騒ぎが大きくなる寝殿の端で、呆然と立ち尽くし、詠子は一人呟いた。