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朱殷(しゅあん)の麒麟  作者: 退紅ほまれ
第一章
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第十二話  奴婢

 瑛州えいしゅうは、斎国さいこくの最も北の地にある。かつては北狄ほくてきにより、何度も攻撃を受けていた場所であるが、隣の大国、しゅうが周辺の遊牧民族を従属させたことにより、現在は交易の町として栄えている。

 瑛州が安㝵県、高菟こうと郡の郡城は、瑛州にある他の郡城と比較しても堅牢に造られており大きい。前述の通り北狄の侵攻に備えて堅牢に造られたのも一つの理由だが、隣国との交易の為、まちが栄えているのも理由の一つである。

 敵の侵入を防ぐため設けられた甕城おうじょうは灰色の煉瓦造りで、高さは大の大人が十人以上肩車しても届かないだろう。明鈴めいりんはあんぐりと口を開けて甕城の屋根を見上げた。

 「何をしている。さっさとついて来んか。」

 甕城の土台は灰色の煉瓦が一寸の隙間なく積まれた無機質なものだが、その上には美しく朱色で塗り上げられた楼閣がそびえ立っている。楼閣に見惚れていた明鈴は、男の声に慌てて足を進めた。

 甕城の土台部分をアーチ型にくり抜いたトンネル状の部分をけつという。案内の男は、既に闕を通り抜け広間へとすたすたと歩いて行ってしまっていた。明鈴は慌てて男の後を追った。

 「お前は確か、甲李村の者だったな。郷都に来たのは初めてか。」

 男の背中に追いついたところで、いきなり後ろを振り向かれた明鈴は、つんのめって転びそうになる。

 「あっ!はい!甲李村の家婢かひでした。その、家公だんなさまがお亡くなりになるまでは…。」

 明鈴の一族は、所謂いわゆる奴婢ぬひ”と呼ばれる賎民で、甲李村村長の家婢だった。奴婢は非自由民で、親が奴婢であればその子も奴婢になることは免れない。食事と住む場所は保障されるが、給金はもらえず、一生を奴隷として過ごすのだ。この世に生を受けて十二年、明鈴も一生を家婢として終えるものと思っていた。

 「お前は本当に使えないね!よくもまぁこんな使えない娘をあの女も産んだもんだよ。」

 あの日、明鈴は朝からついていない事ばかりだった。朝餉を配膳していたとき、誤って汁物を夫人にかけてしまったのだ。夫人が“あの女”と呼ぶのは、亡き明鈴の母親である。明鈴の母は存命中、村長に大変大切にされていたそうだ。男女の仲ではなかったにしろ、夫人は長年苦い想いをしてきたようだった。

 普段は夫人に対して慎重に慎重を重ね、目立たないよう振舞っていたのに、この日は朝から風邪気味で、失態を犯してしまった。

 「これはお前が身売りして一生働いても手に入らないほど高価なものなんだよ!どうしてくれるんだい!」

 張り手で吹き飛び、壁に頭を打ち付ける。ズキズキ疼く頭を床に擦りつけ、ただただ明鈴は蹲って謝り続けた。円卓を囲んでいるのは、村長であり家の主人でもある老爺と、夫人、そして四十路の長男、三十路の次男坊の四人だ。しかし、誰も明鈴を助けようとはしない。皆一様に無言で、円卓に並ぶ豪華な朝食に箸を伸ばしている。

 「まぁまぁ、母上。着物なら私がまた王都で買って差し上げますよ。」

 村長一家の次男坊、呂承りょしょうがにやにやしながら母親を宥める。色白の顔は真冬であるのにねっとりと汗ばんでいる。結い上げた黒髪もべったりと光沢を放っており、お世話にも美男とは言えない。

 「明鈴、後で私の部屋に来い。」

 呂承の鋭い声が頭上から降る。はい、と小さく返事をすると、呂承は出て行くようにひらひらと手を振る。明鈴は頭を下げて部屋をあとにした。

 「明鈴!大丈夫だったかい?」

 部屋を出たところで、叔母の春琴しゅんきんが慌てて明鈴に駆け寄った。平手打ちされた頬を心配そうに眺める。

 「最近奥様は気が立っているから、あれ程注意しなさいと言ったのに。こっちへおいで。冷やしてやろう。」

 春琴は明鈴の腕を掴むと、井戸まで引っ張る。春琴は明鈴の父方の叔母で、両親を早くから亡くした明鈴の母親代わりだった。暖かい春琴の手に、明鈴は涙が溢れるのを、我慢できなかった。

 「呂承坊っちゃんの部屋に呼ばれたのかい!それは困ったね…。」

 呂承は、下級官吏として他州で生活を営んでいる。現在は新年の帰省中で、酒を飲んでは暴れ、先日も妓楼で暴れて騒ぎになっていた。

 「呂承坊っちゃんは好色だが、流石にお前には手を出さないだろう。頃合いを見て呼び戻すから、心配はいらないよ。」

 春琴は、明鈴の背中を優しく摩ると、仕事の洗濯へと戻って行った。

 明鈴は袖で涙を拭うと、一つ大きな溜め息を吐く。白い息は濃く空中を彷徨い、すぐに消える。春琴は一つ間違っている。明鈴は、鬱々とした気持ちを吐き出すように、もう一度溜め息をついた。

 呂承は、帰省したこの一月ひとつきで、何かと明鈴に近づいてくる。何かと理由をつけては、明鈴を部屋に呼ぼうとするのだ。明鈴も、流石にその意味を理解していた。

 昔、村の祭りに行ったことがある。爆ぜる爆竹、美しく装飾された灯籠たんろん。しかし何より心を動かされたのは、祭りの為にあつらえたであろう、少女たちの着物だった。七夕は、女の子の裁縫の腕が上達するよう願うものだ。その他に、女性から男性へ想いを告げられる唯一の日でもある。意中の男性に着飾った自分を見てもらう為、少女から大人の女性まで、着用している着物の美しいこと。

 「わたしも、あんな綺麗な格好ができたなら。」

 幼心おさなごころに空想したものだ。もし自分がお姫様なら。結い上げた髪に飾る簪は、披帛ひはくと同色の宝石をちりばめたものが良い。裳は、花柄の刺繍が施されたものが良い。歩く度に優しく揺れる薄い絹の生地。

 「でも、私が、あれを着るには。」

 地位ある者の妾になるしかない。妾になったとしても、子どもは自分の身分を足枷に生きていくしかない。そんなのまっぴらごめんだ。ましてや、呂承なんて絶対に。明鈴は思わず身慄いした。呂承の顔を思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。

 「自分の身は、自分で守らないと。」

 明鈴は、ゆっくりと呂承の自室へと向かって歩き始めた。


 「明鈴、来たか。入りたまえ。」

 明鈴は、ゆっくりと呂承の自室の扉を開ける。西域の希少な壺や調度品が並ぶ部屋の奥、寝台に呂承は腰掛けていた。部屋の中は薄暗く、白い呂承の顔だけがぼんやりと見える。

 「こちらへ来い。」

 呂承は笑んで明鈴を呼び寄せる。その笑みはまさしく、弱者をいたぶることを楽しむ強者の笑みだった。

 「先程は、大変申し訳ありませんでした。」

 呂承から四歩ほど離れた位置で、明鈴は敢えて膝をついて謝罪をする。今は何より、呂承から距離を取りたかった。

 「本日より三日、食事は口にしません。これで許して頂けるとは思いませんが、私は弁償もできない賤しき者。これでお許し頂けないでしょうか。」

 明鈴は額を床に擦りつける。何とか時間を稼がなければ。明鈴の胸はバクバクと緊張で張り裂けそうだった。叔母が呼びに来るまで、自分の身を守れるのは自分しかいないのだ。

 明鈴が頭を下げてしばし。しんと静まり返った部屋に、しゅるしゅると絹擦れの音がする。こつり、こつり、と木靴の音が続いてしばし。呂承が目の前に来たのだ、と分かった瞬間、唐突に髪をわしづかみされ、上体を起こされた。

 「お前、何様のつもりだ。あぁ?」

 掴んだ髪を左右に揺らしながら、呂承は血走った目で明鈴を睨む。あまりの痛さに、明鈴は呻くことしかできない。なんとか逃れようと呂承の手首を掴んだが、呂承の手はますます力を入れて明鈴の髪を引っ張り上げる。

 「家畜同然のお前が、なに勝手にほざいてんだよ。罰を決めるのは、この俺なんだよ。」

 急に掴んでいた髪を離され、思い切り後ろへ着き飛ばされる。仰向けに倒れた明鈴の上に、呂承が馬乗りになった。

 「ありがたく思えよ。俺の子を孕めば、お前も今よりマシな生活を送れるんだぜ?」

 卑下た笑みを浮かべて、呂承は明鈴の首筋に顔を埋める。ぞわりと全身が粟立ち、明鈴は必死で呂承の肩を押す。

 なんで。なんで、なんで、私がこんな目に。

 何一つ人様に後ろ指をさされるような事はしてこなかった。家婢として生まれ、年老いて死ぬまで、一生人にかしずいて生きていくのだろうと、想像はしていた。しかし。

 この世の中は、汚くて、理不尽で、ものすごく残酷だ。

 自分が何か天に背いたとするなら、身の丈に合わない美しい着物を望んだことだ。良民の女子が着る美しい着物を羨んだことが罪なのだ。そんなことで、こんな呂承からの仕打ちを受けるのならば、この世はなんて不公平なんだろう。

 明鈴は、急に抵抗するのが馬鹿らしくなった。今ここで呂承の暴力から逃げられても、明鈴がこの家の家婢である限り、逃げ続けるのは不可能なのだ。もうどうにでもなれ、と腕の力を緩めると、呂承は明鈴の衣服を破き始める。衣服を破くのに夢中になっている呂承の顔をぼんやりと眺めていると、急に外が騒がしくなった。

 家人たちの叫ぶ声と、怒号。「賊だ!」と叫ぶ男の声と、馬の蹄の音も聞こえる。いつもの朝とは明らかに違う外の様子に、「何だ。」と呂承が顔を上げたところで、部屋の扉が木っ端微塵に吹き飛んだ。赤銅色の鎧を装着した男たちが、槍や刀剣を振りかざし入ってくる。

 先頭に入ってきた男は、蒼白な顔で倒れている明鈴と、馬乗りになったまま呆けている呂承をしばし眺めた。事態が読み込めていない呂承が、やっと我に返り「な、なんだ貴様らは!」と立ち上がったところで、男は持っていた槍を思い切り横に振り切った。

 呂承の体は勢い良く吹き飛び、部屋の壁を突き破って外へ飛び出る。頭が真っ白になって唖然と壁を眺めていた明鈴は、男が急にしゃがみ込んだのに肩を震わせた。

 「大丈夫か。お前はこの家の家婢だな。」

 男は、焦げ茶色の毛皮を纏い、その上に鎧を装着した大男だ。大きな熊を連想させるが、厳つい顔を心配に歪めている為、不思議と怖いと感じなくなった。

 「あの、一体なにが起きたのですか?あなた方は‥‥。」

 男は、羽織っていた毛皮を明鈴にかぶせてくれる。厳つい顔をにかっと和ませ、男は立ち上がった。

 「俺たちは剣正けんせいだ。国中の奴婢を解放する為戦っている。俺は甲李村攻略を任されている、トビだ。」

 トビと名乗った男は、人懐っこい笑みを浮かべたまま、明鈴を優しく立たせてくれた。

 「もう何も心配はいらんよ。お嬢ちゃんは自由になったんだ。これからは誰にも強制はされないし、誰の命令にも従うこともない。」




 「なるほどなぁ。お前さん、トビさんに助けられたのかぁ。」

 明鈴は、薄い灰色の石階段に腰掛けていた。案内の男は、石階段の手すりにもたれながら、明鈴を見て溜め息をつく。

 「俺たちは主人を選べない。それでも、あんたはまだ幸運な方さ。こうやって解放されて、自由を手に入れたんだからさぁ。」

 明鈴は頷く。あの日、剣正によって甲李村が占拠された後、村中の奴婢が解放された。村長の一家は捕らえられ、村長はその場で斬首となった。その他の家族は呂承を含めてどこかに連れて行かれたらしい。明鈴は解放された奴婢たちと共に、高菟郡の主要都市である离久りきゅうへとやって来たのだった。

 「でも、まさか私が剣正の一員になれるなんて。夢みたいです。トビさんが私を推薦してくれたんですよね。」

 瑛州が高菟郡の中でも、甲李村は最も北にある。离久までの道のりは、決して楽なものではなかった。大人の足でも三日はかかる道のりを、老人から赤子まで大勢の奴婢たちを連れて歩いたのだ。そんな中、トビは一人も見捨てることなく、明鈴たちを連れて来てくれた。


 「剣正って、最近国中で乱を起こしている人たちですよね。どうしてトビさんは、剣正に入ったの。」

 ガタガタと揺れる馬車の荷台から、身を乗り出して手綱を引くトビへ問う。トビは髭面を苦笑させながら、明鈴をちらりと見た。

 「俺は、“さん付け”されるような身分じゃねぇよ。そうさなぁ。」

 前方には、甲李村から郡都离久へ向かう人々が、大きな荷物を背負って列をなしながら歩いている。皆一様に不安そうで、表情は暗い。明鈴と共に荷台に乗っているのは、赤子を連れた母親や老人だ。

 「俺は、物心ついた頃から色んな所を渡り歩いた奴隷だ。親の顔も知らず、色んな所に売られたよ。一番しんどかったのは、十五歳くらいの時かなぁ。死体を運んで埋葬する仕事だ。毎日腹が空いてて、ひもじかったから、力仕事はつらかったよ。」

 進む道は舗装されておらず、馬車はガタリと急に傾く。一向は、茶色の草が生える荒地を進んでいる。

 「そんな時、ある方に拾われたんだ。腕っぷしが強いのを買われた。“世の中を良くしたい”“奴婢を解放したい”。そのお方の夢は、無謀でとても叶えられないと思っていたが、今じゃ仲間も増えて、あながち無謀じゃないなと思う。」

 トビは、人懐っこくにかりと笑うと、明鈴を見た。

 「俺は、ひどい環境にいる奴婢を一人でも多く解放したい。解放した後の難しい事は、頭の良い奴らがやってくれるだろうから、俺は先陣を切ってあのお方の刃として戦いたい。そう思ったから剣正に入ったんだよ。」

 トビの笑顔の向こうには、真冬にしては珍しい青い空が広がっている。薄い雲がのんびりと漂う空を、明鈴はただ見惚れていたのだった。


 「トビさんの話を聞いて、私も国中の奴婢たちの為に働きたい。そう思ったんです。だから、剣正の為にこの命を捧げます。」

 明鈴は立ち上がると、両手で尻をパンパンと叩いた。

 「さぁ、連れて行って下さい。天女様の所へ。」

 案内の男は、「ああ。」と頷いて、ゆっくりと石階段を登り始めた。郡城に着いてすぐ、剣正の一員として明鈴に下された指令は一つ。作戦の要となる天女の身の回りの世話をすることだった。

 「汚くて、理不尽で、ものすごく残酷なこの世の中でも、私にできることはきっとあるはず。」

 明鈴は、ゆっくりと石階段を上がりながら、青々と広がる空を見上げた。トビと一緒に見上げた時と同じ、清々しい空が広がっていた。

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