第十話 霜風
「やっぱり、姫様は傑物ですねぇ。」
花鏡殿の庭園、薄氷が張る池にかかる橋上に、隆と倶備はいた。庭園に建立された亭と寝殿を渡す橋はなだらかに弧を描き、欄干は美しい朱色をしている。欄干のどこかしらに蘭の花や蝶が美しく彫刻され、青色やら黄色やら、色鮮やかに塗られている。
「剣の鍛錬は姫様の日課だったからな。いつかこうなるとは思っていたが、まさか御髪を切るとはな。」
すでに日は高く昇っている。それでも今の時期はあまり気温が上がらない。橋上も霜が降りて白くなっている。滑らないようゆっくりと渡りながら、霜が降りて冷たい欄干を指先で触り、進んで行く。
「知っていますよ。姫様の手を見れば、どれだけ鍛錬に打ち込んでいたか。掌をあんなにマメだらけにして、あんな姫様世界中を探しても我国だけですよ。」
倶備が呆れたように呟いた。隆も思わず苦笑する。他国の姫と謁見したことはないが、掌を血豆だらけにしながら剣技を磨く姫は朱璃しかいないだろう。
「何故そんなに剣技の鍛錬がお好きなのでしょうね。」
鈍色の池を眺めながら、倶備は呟く。「ふ。」と隆は思わず笑みを零した。
「元来体を動かすのがお好きだからな。剣技だけでなく体術の鍛錬もなさる。最近は兵法も学びたいと言っておられたな。」
朱璃と隆の付き合いは、朱璃が三歳の頃からである。その頃からお転婆の片鱗は見えていた。宮殿中を走り回り、じっとしている所を見たことがない。何にでも興味を持ち、庭園に生えている草花を寝室に運んでは、まだ読めないのに図鑑を広げて女官を困らせていた。
「そういえば、剣技を習いたいと俺に言ってきたのは、去年の今頃だったか。」
一年前といえば、王が政を顧みず、側室に入れあげ始めた頃だ。夜半まで側室と酒宴を楽しみ、朝議に出なくなった。今思えば、あの時どうにかして王を諌めなければいけなかった。謁見できる立場にあるのに、それをしなかったことは、隆にとって後悔の極みだ。
「姫様は、気付いていたのではないですか。王宮が荒れ、国が荒れることを。」
同じことを考えていたのか、倶備は眉根を寄せて隆を見ていた。あの頃、確かに王は側室に夢中だったが、政と私生活の分別がつかなくなるほど昏君だった訳ではない。朝議には出なくなっていたが、昼頃起床した後は政務を執っていた。側室を王妃に据えることはせず、側室の親族を高官にとりたてることもしなかった。
「あの時は、俺もまさかこんな事になるとは思わなかったが。もしかしたら姫様は何かを感じ取っていたのかもしれないな。」
朱璃が隆に教えを乞うてきた日のことは、鮮明に覚えている。どこから調達してきたのか、木刀を片手に隆の寄宿舎にやって来た。今のように日が昇っても寒風が吹き荒れる午前に、何の感情も感じられない表情で隆を見た。
「何故公主の立場にある貴女が、剣を取るのですか。」
隆の問いに、朱璃は淡々と答えた。
「士、武に優れども智を修めずして官たらず。士、智に優れども武を修めずして官たらず。」
士とは、成人男性を意味する。官とは、いわゆる官吏を示す。公主の立場にある彼女が、故事の言葉を引用して伝えてきたのは、男と女、公主と官吏にとらわれない、もっと重要なことだと感じた。
「私は、陛下を支える臣下として、剣術も必要だと思うし、学問も必要だと思う。それだけのこと。」
そっけなく言ってのけた朱璃の顔は、まるで不貞腐れた幼子の様だった。
朱璃は少し、いや大いに誤解されやすい。破天荒な事をして女官たちを右往左往させるので、短絡的で我が儘だと宮殿の多数は思っているが、その実は違う。
「確かに、姫様は傑物だな。真の鳳雛とは、ああいう方を言うのかもしれん。」
朱璃は聡い。何にでも興味を持ち、自ら調べて実践しないと気が済まない。聡いが故、自らが置かれている立場と役割を良く理解している。“だからこそ”女官を困らせ、“自らの評判を落とす”のだ。
隣でくすりと倶備が笑う。
「あまりそういう事を口にするものではありませんよ。鳳雛と同語として用いられるのが“麒麟児”ですから。」
麒麟の才士。
「そうか。確かに姫様は鳳凰というより、自由に山河を駆け回る麒麟が似合いだな。」
何にも囚われず、自由に野を駆け雲を切って走る。
「どちらにせよ、朱羅殿下も朱璃姫も死なせない。絶対に。」
自らが握る拳を見つめる隆の険しい顔を、強い風が吹き付けた。
女官が隆と倶備を呼びに来たのは、亭でくつろいだ後、寝殿に戻ろうと橋の半ばに来たところだった。
「御髪はどうなった。結いあげられそうか。」
隆の問いに、女官は首を振る。
「あの状態では、当分外には出られますまい。物乞でもあんな髪の者はおりませぬ。」
「物乞とは。また例えが過激だな。」
ははは、と隆が笑ったところで、寝殿の廊下に三人の女性が現れた。二人は同じ色の衫に同じ色の裳を着ている。裳は言わば長いスカートで、女性は胸まで上げて着用する。衫は裳の上から羽織って着用するもので、二人共に、衫は紺色地に金色の刺繍が施されたもの。裳は白色地に金色の刺繍が施されたもの。これは女官の中でも最高位の尚官が着用を許されたものだった。違うのは肩から腕に纏う披帛で、薄水色は三品尚官、薄紅色は二品尚官だ。
一般的に隆の様な近衛兵は、後宮の女官と面識を持つことは少ない。特に尚官のような高位な女官は、滅多にお目にかかれない。それでも隆が二人の尚官と面識があるのは、特権として後宮の出入りが許されているからだった。
「焔中郎。御無沙汰しております。」
にこやかに頭を下げたのは三品尚官の詠子だった。
一瞬遅れて、隆の前を歩いていた女官と後ろを歩いていた倶備が慌てて膝をつく。尚官の二人に向かって叩頭したのではない。三人目の女に叩頭したのだ。
「詠子の言う通り。本当に久しぶり。ねぇ、隆。」
女は真紅の衫と裳を身につけていた。金色の刺繍が描くのは見事な鳳凰。高く結いあげられた髪から、金色の簪の飾りがシャラシャラと彼女の頰の辺りで揺れる。二人の尚官とは比べものにならない程、彼女の身につける物は豪奢で重圧感がある。
倶備は、目の前で立ち尽くす隆をそっと見上げた。何か助け舟を出そうか逡巡したところで、のろのろと隆が動いた。ゆっくりと膝をつき、兵の挨拶をする。兵は帯刀しているので、叩頭することはできない。片膝をつき、頭を垂れるのが礼式だ。
「王妃様に置かれましても、お久しゅうございます。」
隆の声は平坦だった。叩頭する倶備に王妃がどんな顔をしているかは分からない。しかし少しの間があって、王妃の「皆、立って。」という柔らかい声がした。
「少し、隆と二人で話をしたいのだけれど。皆、席を外してくれるかしら。」
元からそのつもりだったのだろう。王妃付きの詠子と、今回の姫による断髪事件で駆けつけたに違いない二品尚官の秋美は、心得たように頭を下げる。
「その必要はございません。」
すかさず隆が固い声で拒否をする。
「今回の姫様の件に関しましては、私の不徳の致すところ。倶備と楊四品尚儀と共に姫様の心情を汲み取るべきでした。今後の対策をお話しなさるのであれば、私だけでなく倶備も共にお話を聞くべきでは。」
倶備は思わず隆を見た。おいおい巻き込むなよ、と隆を睨む。
ふふ、と笑ったのは秋美だった。
「焔中郎、王妃様は焔中郎にとってただ一人の義姉君でございましょう。後宮の主として、日頃から心労が多い王妃様にとって、数少ない親類との交流は束の間の休息。頑なにならず、姉弟水入らずでごゆっくりなされては。」
然り然り、と詠子も笑顔で手を合わせる。
「それでは、あちらで控えておりまする。どうぞごゆっくり。」
秋美を先頭に、詠子と倶備が一礼して足早に立ち去った。あっという間に女官と倶備が姿を消すと、廊下はしんと静かになった。さわ、と冷たい風が中庭の草花を揺らす。冷えた指を掌で包むように握ると、溜め息をついて義姉を見た。
「怒っている?」
申し訳なさそうに俯いて上目遣いに見つめてくる様は、一国の国母とは到底思えない。頼りない十代の少女のようだ。隆はまた一つ溜め息を零す。
「怒っています。何故このような事をなさるのです。私たちは二人きりで会うべきではありません。あれから十数年経ったとはいえ、人の噂とは恐ろしいものです。王妃様も身に沁みてご存知のはず。」
義姉は目を伏せる。長い睫毛が揺れる。髪飾りがシャラシャラと風で音を立てた。
「父上から聞いたの。各地で乱が起きているから、陛下にお戻り頂いて、軍を解体して鎮圧に向かうって。それで私、隆も行ってしまうんじゃないかと…。」
義姉と目が合う。大きな黒い瞳が、うっすらと濡れていた。見ていられず、思わず顔を背けてしまう。気持ちを動かしては危険だ、と頭では分かっている。それでも胸のざわつきは収まらず、隆は目を伏せた。
「朱璃にも、あなたが必要なの。もうすぐあの子たちは十三になる。予言の通りにはさせたくない。姉さんと約束したの、朱羅と朱璃を必ず守ると。」
“姉さん”とは、前王妃で朱羅と朱璃の実の母のことだ。義姉はよく後宮に遊びに行っては、前王妃と親交を深めていた。前王妃と義姉に血のつながりはない。近衛兵の父と、高官だった前王妃の父親に親交があり、幼い頃からよく遊んだ仲だったと聞いている。その強い友情が、義姉と隆の運命を変えてしまったのだが、それはまた別の話である。
「軍部の全権は、大司馬である父上が握っています。私はあれこれ言える立場ではありません。」
雲が太陽を隠したのか、辺りが急に暗くなる。ざわり、と強い冷たい風が吹いて、義姉の髪飾りが大きく揺れた。隆は思わず右腕で顔を覆う。
「…リュウイチ。」
はっと目を見開いて義姉を見る。義姉の声は風の音にかき消される程小さいもの。それでも隆は、懐かしい響きを聞き逃さなかった。義姉は寂しそうに微笑んでいた。
「こうなれば、次はいつ会えるか分からない。ねぇ、最後に、あの頃のように名前で呼んでくれないかしら。」
泣きそうな義姉の顔をじっと見つめる。どうして義姉はこうなんだろう、と隆は疑問に思う。もう義姉と隆の運命は十二年前に決まったのだ。それは今さら覆るものではない。お互いの立場、背負う責務。それを全て壊して奪いに行けるほど、隆は若くない。というよりも、隆の手を払いのけたのは、紛れもなく義姉なのだ。
「あいにく、昼までには隊舎に戻るよう隊長に言われております。私はこれにて失礼します。…義姉上。」
一礼して踵を返す。シャラシャラと髪飾りの音がする。義姉が泣き崩れたのが気配で分かったが、隆は立ち止まらない。立ち止まる訳にはいかなかった。