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イテュスの竪琴

作者: Gloomy_Weasel

少しホラー風味の,現代ファンタジーです.

お時間ありましたら,是非お付き合いをお願いします.

(初出2005年 2013年加筆修正)

 初音はふと、目を覚ました。何の前触れもなく、ぽつりぽつりと雨が降り出すように。薄暗い部屋の中はしんとしていて、聞こえるものといえば、庭先で鳴く虫たちの声と、それに混じってときおり響く底暗いコノハズクの囁きばかりだ。

 初音は頭をめぐらせて、となりの布団ですやすやと寝息を立てている、弟の吟太の方を見やった。すると、寝るときには確かに掛けてあった夏用の掛け布団を、吟太は被っていなかった。それを見て、吟太のこの癖は、いつになったら直るのだろうか、と心の中で呟き、のそのそと自分の布団から這い出した。

 深い青色の霧がうっすらと立ち込めるような夜の闇に目を凝らすと、吟太の掛け布団はすぐに見つかった。吟太の足で踏み拉かれた布団は、その足元でくしゃくしゃの無残な姿をさらしていた。何だか、雨の日に捨てられた仔猫みたいだ、と初音は思った。

 それを取り上げて、大の字になって眠っている吟太の身体の上にそっと掛けてやると、吟太は小さく唸って寝返りを打った。弟の寝顔にちょっとだけ目を落とした後、初音は振り向いて、父にあてがわれた布団に目をやった。

 しかし、そこに父の姿はなく、布団は敷かれたときのまま、誰かが寝ていたような跡もなかった。父が起きているのなら、従兄弟たちもまだ起きているのだろうかと、初音は考えた。


 父と吟太、そして初音の三人が、父と母の実家がある、折穂村というこの小さな山村に着いたのは、その日の夕方のことだ。

 お盆の帰省ラッシュで人が一杯の新幹線や電車を乗り継ぎ、ようやく降り立った駅のホームに、人影はほとんどなかった。その代わりとでもいうように、駅前の広場にある、もうずいぶんとペンキが剥げ落ちてしまった大きなたて看板が、例年どおりそこにいて初音たちを迎えてくれた。

 祖父母の家は村のはずれの、山の麓にあったので、初音たちは駅からしばらく歩かなければならなかった。暑さと疲れからか、もう歩きたくない、とごねる、四つ年下の、今年小学校にあがったばかりの弟、吟太の手を引きながら、初音は父の後について黙々と歩き続けた。

 途中、電柱から地面へと伸びた電線に、民家の庭先から伸びた朝顔の蔦が幾本も絡みつき、家の屋根の高さにまで達しているのを、初音は見た。道端の田畑からは虫の音が聞こえ、通りすがりにその前を通った神社の境内では、蝉たちがしきりと鳴いていた。

 やがて祖父母の家に辿り付くと、初音たちを除いた親戚全員が顔を揃えていて、既に夕食の準備が整っていた。

 夕食を終えた後、子どもたちはみんな、祖母に追い立てられるようにして順番に風呂に入った。風呂から上がると、おばさんたちがスイカを切って出してくれた。祖父母の家の井戸水でよく冷やされたスイカは、とても瑞々しく、甘かった。

 初音はスイカをスプーンで口に運びながら、大人たちの会話に耳を傾けていた。子どもたちもぽつぽつと言葉を交わしていたけれど、ほとんどの子はスイカを食べるのに夢中だったので、会話は大して弾まなかった。

 大人たちの話は、始めのうちはお互いの近況報告ばかりだった。その内に、初音が会ったことも無い曾祖父や曾祖母、その兄弟たちといった、故人の思い出話へと移っていった。

 三年ほど前に亡くなった、初音と吟太の母、謡子の話題も出たようだった。母と父とは幼馴染だったということもあり、話は母の子どもの頃のことにまで及んでいた。

「そうそう、確か、今の初音ちゃんぐらいの頃じゃなかったっけ。謡子さんが、裏の山で神隠しにあったの」

 そう言ったのは、父の一番下の弟にあたる、正美叔父さんだった。そのとき初音は、スイカを食べ終わった従兄弟たちと一緒になってトランプゲームに熱中していてあまり熱心に大人たちの会話は聴いていなかった。けれど、この言葉だけはやけにはっきりと耳に残った。「神隠し」ってたしか、突然人がいなくなっちゃうことだ。子どもが天狗に連れ去られるなんて話を前に本で読んだことがある。そんなことをぼんやりと初音は考えた。

 それからしばらくすると、大人たちの会話は途絶えがちになり、やがて静かになってしまった。大人たちは、それぞれ畳の上であぐらをかいたり、横になったりして、テレビのナイターをじっと観ていた。子どもたちも、やがてトランプゲームに飽きだして、なんとなくしらけたような空気がその場に漂い始めていた。

 すると突然、畳に寝そべっていた正美叔父さんがやおら起き上がり、子どもたちの方へと向き直った。そして、折角夏休みにこうして集まったのだから、怖い話でもしてあげようか、と声を掛けてきた。その言葉に、初音を含めた子どもたちはちらりと顔を見合わせた後、叔父さんに向かって頷いて見せた。みんなでそそくさとトランプを片付け、座敷の隅に移動した叔父さんを、囲むかたちで車座になった。初音が端のほうに座ると、吟太がその隣に並んだ。

 東京の小さな出版社に勤めていて、今はある雑誌の副編集長をしているという正美叔父さんは、学生時代に落語研究のサークルに入っていたこともあってか、その語り口はとても上手で、そしてとても怖かった。

 みんな夢中になって話を聞き、一つ終わるごとに、ほかにはないのと、誰かが叔父さんに次の話をせがんだ。しかし、部屋の時計の針が九時を指した頃、突然正美叔父さんの携帯電話の着信音が鳴り出して、話は途切れた。携帯電話の着信表示を確認すると、叔父さんは顔を曇らせた。

「うちの若手の記者からだ。また何かトラぶったのかな。悪いね、今夜はここまでにさせてもらうよ」

 そう言って電話に出ると、そのまま座敷から出て行ってしまった。子どもたちはみんな、戸惑い半分、しらけ半分、といった面持ちで、互いに顔を見交わし合った。今度はウノでもやろうか、と誰かが言ったが、誰もそれに賛同する子はいなかった。代わりに、いとこの一人が、もっとお話ききたい、といかにも不満げに主張した。

「あたしがしようか、怖い話。叔父さんのほど面白いかはわからないけど」

 そう言って初音たちの方へ近づいてきたのは、従姉の晴海さんだった。彼女は大学生で、大学では昔話の研究をしているときいたことがあった。昔から妖怪や神話に詳しくて、色んな話をきかせてもらったものだ。

 彼女の母親の路江さんが以前、あの子にあの怪しげな趣味さえなくなればねえ、と愚痴っていたことがある。実際、彼女はスタイルもセンスもよく、顔立ちもどちらかといえば美人な方で、なんでも器用にこなせる人だっだ。

 しかしいったん口を開けば、ヤナギタクニオがどうの、オリクチシノブがどうの、ミナカタクマグスがどうの、などなど、初音にもよくわからない人の話ばかりが飛び出す、といった具合であった。それが彼女にとって、自然と「虫よけ」になってきたのだろうと、簡単に想像できた。自分のよく知らないことについて詳しくて、あれこれと話したがる女の人って、大体男の人からは煙たがられるものだと、路江伯母さんが言っていた。

 今度は輪の中心に晴海さんをすえて、お話の会は再開された。晴海さんはひとつ咳払いをしたあと、少しとりすました感じで話し始めた。その動きに合わせ、彼女の耳元でピアスが揺れ、きらきらと光を放った。

「みんな、この唄知っている?」

 そう言いながら、晴海さんは歌い始めた。


さくら たちばな もものはな

お山が焼けたら かくれんぼ


月を追いかけ かかさまは

青々 あおい 海のそこ


星をもとめて ととさまは

赤々 あかい 空のうえ


さがす者 とて 誰もなく

お山は もとには もどらない


あおい かきのき おみなえし

お山は もとには もどれない


 初音をのぞいた子どもたちはみんな、顔を見合わせて、知らない、と口々に声を上げたけれど、初音だけは知っていた。その唄は、古くからこの土地で伝えられている童謡だと母からきかされていた。子どもたちの返事に、晴海さんは、初音が母から受けたとおりの説明を加えた後、話の先を続けた。

「だったら、この歌にまつわる昔話も、知らない?」

 この言葉に、みんな大きく首を縦に振った。それを満足げに見まわした晴海さんは言った。

「そのお話はね、昔この村で実際にあったことを元にしたものなんじゃないかって言われているの」


 晴海さんによると、そのお話の筋は次のようなものだった。

 今からずっと昔、日本のあちこちで、小さな国がお互いに戦争をしていた時代、ここ折穂村の周辺にも、小さな国があった。そこでは、王様と、王様を陰で支える、占い師のような役割の女の人とが、代々その国を治めていた。この女の人は代々、結婚も、子どもを産むことも禁止されて、一生を国のためにささげることが決められていた。結婚したり子どもを産んだりすると、女の人は占いの力を失ってしまう、と信じられていたのだ。

 ところが、ある代の女の人が、王様に内緒でこっそり結婚し、子どもを産んだ。王様が直接女の人と顔を合わせることはほとんどなかったから、その子どもが大きくなるまで、隠し通すことができたらしい。

 その後、あるときの戦争で、その国は近隣の敵国に負けてしまった。そのときたまたま、女の人が子どもを産んでいたことを、王様に告げ口をした人がいた。王様は怒り狂って、女の人と、その夫と、そして二人の子どもを、みんな殺してしまった。女の生まれた家の者たちに対しても、その財産を取り上げたり、ひどいことをしたという。

 すると、やがておかしなことがこの国の重だった人々の身の上に起こり始めた。最初は、王様の跡継ぎが立て続けに病気で亡くなった。子どもたちがみんないなくなると、今度はお妃さま、その次はその血縁者や政治の補佐にあたっていた人々。その中には、例の告げ口をした人とその一族も含まれていた。人々は、きっと王様に殺された占い女親子のたたりだと噂するようになった。

 始めはそんな噂を気にもとめなかった王様だったが、臣下の中で、告げ口をした人だけ、本人だけでなく一族みんな亡くなってしまい、震え上がった。そして、罪人として粗末な葬り方をした占い女親子を改めて丁重に弔った。そして、もう二度とたたりのないよう、その占い女の一族に墓守の任を与えた。

 その占い女の親子が葬られた土地こそ、この折穂村であり、その墓守一族の末裔が、この村で折戸姓を名乗る家の者である。折戸は、本来、“いのり部”のことなのだ。というのが、晴海さんの主張だった。

「それのどこが怖い話なの?」

 と、いとこたちの中の一人が、けげんな顔で晴海さんに尋ねた。すると、にこにこして晴海さんは応えた。

「ここから先は、私の推測が入るんだけどね。その後、墓守の任を与えられた私たちの祖先は、毎年、彼らを鎮める儀式を行っていた。けれども、その国はよその国にほろぼされてしまったの。王様の家系も絶えて、何百年も経つうちに、その儀式は忘れ去られていってしまった。その占い女の呪いはいまも続いていて、その霊は今も慰めの儀式を必要としているのに。この村で、何年かに一度、この時期にみんなくらいの子どもが必ず一人神隠しにあうのは、イノリベとして、先祖の霊たちが招き寄せているからなんじゃないかなって、あたしは思っている。たとえば、謡子さんとかね」

 そう言って、晴海さんはちらりと初音の方へと目をやった後、すぐに子どもたち全員を見まわして言った。神隠しの話は初めてきいたけれど、母の謡子が、お盆や正月にこの村へ来るとき、しきりに初音を自分のそばに置きたがっていたことを、初音はふと思い出した。

「彼女以来、もう何年も神隠しは起こっていないから、そろそろ、鎮め手が必要になって来る頃だもの。もしかしたら、今夜あたり、この中の誰かが神隠しに遭うかもよ」

 そこまで言ったとき、初音の背後から声があがった。

「またお前は、そうやってあることないこと子どもに吹き込んで。昔話がほんとうのことかどうかも、神隠しのことも、全部お前がそう決めこんでるだけだろ。考古学だか民俗学だか知らないけど、金にもならない妄想にいつまでもうつつを抜かしてないで、そろそろ本腰入れて就職先探せよ」

 声の主は、晴海さんの双子の兄、天真さんだった。天真さんは二三年前に大学を卒業して、今は県内の民間企業に就職している。

 これに対し、晴海さんは腹立ちをあらわにして応えた。彼女の、薄化粧の下の、生来色白の頬がうっすら桜色に染まっているのを、初音は見た。

「決めつけてなんかいません。あたしは、確かめたいの。これがただのおとぎばなしなのか、それとも根のある言い伝えなのか。あたしはこの道に生涯を捧げるってもう決めたんだから。もう学費だってなんだって、自分の稼ぎでやってるでしょう。あんたに口出しされる筋合いなんてありません」

「筋合いならあるだろ。今お前の身に何かあったら、迷惑被るのはこっちなんだぞ。それに、母さんが帰って来いって言っても、バイトだ研究だって、田植えと稲刈りと、盆の時期くらいしか家に帰ってこないじゃないか。妖怪だの神話だの民話だの、得体の知れないもんに夢中になって、どうせ彼氏もいないんだろ」

「そういうあんたはどうなの。システムエンジニアだかなんだか知らないけど、仕事の日は一日パソコンの前にべったりで、家に帰ってからも、休みの日も、ほとんどずっと部屋にこもってゲームしてるばっかりで、彼女の一人も家に連れてきたことないって、母さんからきいてるけど」

「やめなさいよ、二人とも。姉弟げんかなら、家に帰ってからにして」

 二人の母親である路江伯母さんがたしなめた。しかし二人の言い合いはだんだん加熱していき、講談会はまたしても中断された。やがて父親の陸生伯父さんも、その様子を見るに見かねて声を荒げて言った。

「お前たち、よさないか。いい歳をして、こんなところで…」

 その様子を、幼いいとこたちはあぜんとして見守っていた。しかし初音は吟太がうとうとし出したこともあり、弟を連れて父より一足先にそそくさとあてがわれた寝室へと退散した。


 今はいったい何時なのだろう、と初音は辺りを見回して、時計を探した。部屋の奥にある小さな振り子式の掛け時計は、暗さのために文字盤も針もよく見えなかったけれど、もう夜中に近い時刻であることだけは、初音にも分かっていた。

 もしかしたら、晴海・天馬姉弟をなだめ、いとこたちを眠らせた後に、大人たちだけで仕切り直しの宴会でもやっているのかも知れない、と初音は考え直した。

 初音は自分の布団に潜り込み、何の気なしに天井を見つめた。天井に張られた板には、年輪で不思議な模様が描かれていた。電気をつけていたときには何の変わったところもない焦げ茶の線でしかなかったそれは、宵闇の中で、何とも言えず初音の目を惹きつけた。

 やがてその木目の一部が、向かい合った人の顔の形をしていることに、初音は気付いた。初音から見て、右手が仙人のように髭を長く伸ばした老人。左手は仁王像を思わせる、文字通り鬼のような形相をした男だ。

 しばらくそれを眺めているうちに、初音には、二人の会話までもが聞こえてくるような気がした。左の男が、右の老人に向かって何か言っている。何かを責めているような、それでいて、どこか救いを求めるような口調で。老人はそれに答えようとはせず、悲しそうに目を伏せて、しきりに何かを呟いている。

 初音はあわてて、天井から視線を逸らした。これ以上見ていたら、何か嫌なものまで見えてしまうのではないか、初音にはそんな気がした。

 しばらくの間、初音は眠れず、何度も寝返りを打っていた。しかし、その内にとうとう我慢できなくなって、吟太を起こさないように気を付けながら、そっと寝床から抜け出した。晩に食べたスイカがいけなかったのかも知れない。

 部屋の中は薄暗く、奥のほうはほとんど見えなかったけれど、庭に面した障子戸の近くは明るかった。外から射す青白い光が、畳の上に白と藍色の格子模様を描いていた。

 初音はできるだけ足音を立てないようにしてそれを踏み越え、そろそろと障子戸を開けた。もしも起こしてしまったら、怖がりの吟太のことだから、自分もついていくと言い出し兼ねない。

すると、冷たい空気が初音の頬にあたった。軒下に生い茂る、ドクダミやカキドオシのつんとした匂いが、鼻をつく。

 夜の庭はやけに明るくて、あたり一帯を青白い光が照らし出していた。月灯りによってできた影がくっきりと地面に伸びて、まるでスポットライトを当てられたお芝居の舞台のようだと、初音は思った。

 見上げると、紺色をした空の真ん中に、月が一つ、ぽっかりと浮かんでいた。大粒の真珠を思わせる、満月だ。月の周りで、申し訳ほど度にうっすらと棚引いている雲の縁が、きらきらと虹色に耀いていた。

初音はそれにしばし見とれてしまったが、すぐさま我に返って歩き出した。

 手洗い場へ行くには、屋敷をぐるりと取り囲む縁側を、北を目指して歩いて行った先にある、渡り廊下を通らなければならなかった。

 廊下には壁がなく、雨に濡れるのを防ぐ為の屋根が付いているだけだった。そのため庭の様子がよく見えたし、そこからそのまま庭に出ることもできた。用を済ませた初音は、月の光に浮かび上がる庭を横目に見ながら、急ぎ足で渡り廊下をもと来た方へと進んだ。

 そのとき、庭を横切る人影に気付いて、初音は足を止めた。見ると、夜の庭を、どこかおぼつかない足取りで誰かが歩いて行く。こちらに背を向けているので、顔は見えない。その後姿に目を凝らしてみた初音は、思わず声を上げた。

「吟太?」

 遠くてあまり自信は持てなかったけれど、白い寝間着を着たその後ろ姿は、吟太のそれとよく似ていた。いとこたちはみんな初音と同じくらいの年か、少し年上の子ばかりで、吟太と同じくらいの子は、まだ幼稚園に通う正美叔父さんのところの、一番下の、髪の長い女の子だけだった。ここは家の敷地の中で、よその子どもが迷い込んだなどということは考えづらかった。

 とっさに、目を覚ました吟太が自分の不在に気付いて探しに来たのかもしれない、と初音は考えた。あんなところをうろうろしているのは、きっと寝ぼけているせいなのだろう。

 初音はあわてて、裸足のまま庭へと降り立った。渡り廊下から弟のところまでは、いくらか距離があった。

 レモンバームやローズマリー、タイムやセージにゼラニウムといったハーブ類が整然と植えられた小さな花壇の脇を通り、貝殻のような真っ白い花をその根元に落とすキョウチクトウの下を抜けた。

「吟太!」

 しかし吟太は、初音が呼んだことには一向に気付かない様子で、庭をずんずん進んで行く。どうやら、庭のぐるりを取り囲む漆喰の塀の方へと、吟太は向かっているらしかった。彼の向かっている辺りには、庭から外へ出る為の木戸がある筈だ。

 そう気付いて、もしかして吟太は、外に出るつもりなのだろうかと、初音は考えた。念のためもう一度、初音は弟の名を呼んでみたが、呼ばれた当の本人は、振り向く素振りすら見せなかった。

 背の高いトウモロコシ畑の、畝と畝との間を初音が通り抜けたときには、吟太の姿はどこにもなかった。木戸の方へと目をやると、案の定、木戸は開いていた。誰かがついさっき出て行ったことを示すように、ぎいぎいと微かな音を立てて前後に揺れている。

 初音は、錆びついたドラム缶を避けて通り、立ち並ぶムクゲの木の後ろ側へと回り込んだ。そして、既にその動きを止めた木戸の取っ手を掴んで開け、そっと外の様子を窺った。

 木戸の向こう側は、鬱蒼と木々が生い茂る雑木林だ。木戸の辺りから伸びた小道が、山の方へと向かって上がる斜面を走り、奥の方へと続いている。

 月の光は木々によって遮られ、林の中は薄暗かったけれど、木の葉の合い間からいくらか差し込んでいて、点々と道を照らしていた。その中を行く吟太の後姿を見止めて、初音は突然不安に駆られた。そして、誰か大人の人を呼んでこようかと、初音は考えた。

 この家の裏に聳える折穂山には、ずいぶん昔に廃坑になった炭坑の跡が今でもそのまま残っている。とても危ないからと、子どもだけで山に入ることは固く禁じられていた。

 しかし何よりも、さっき聴いた晴海さんの言葉が、初音を思い止まらせた。

“今夜あたり、誰かが神隠しに遭うかもね”

 吟太はどんどん雑木林の中を進んでいく。今から大人たちを呼びに戻っている間に、吟太が危ないところまで行ってしまったら大変だ。

 大きな声でまた弟の名を呼んでみたが、やはり気付いた様子は見られなかった。初音はしばし躊躇した後、意を決して外へと出て、緩やかな坂道を駆け出した。

 もし、夜中に抜け出したことが大人たちに知られたら、自分も吟太もひどく叱られてしまうだろうから、急いであの子を連れて帰ろう。父が寝室へとやって来て、自分たちがいないことに気付く前に。例えそうなってもならなくても、吟太は後でちゃんと叱っておかないと。

 そんなことを考えながら、初音は弟の後姿を目印に小道を辿った。

 突き出した野イバラの枝に寝巻きの裾をひっかけてしまったのでそれを振り払い、道の方へと伸びるツタカヅラを踏みつけた。途中、道に生える草や、落ちている小枝で足を少し切ってしまった。

なんだか惨めな気持ちになりながらも、前方に見える吟太との距離を、初音は少しずつ縮めていった。と、吟太が足を止めたので、初音はここぞとばかりに吟太に駆け寄り、その右腕を右手で掴んだ。

「こら、吟太!」

 そのとたん、吟太が振り向いた。しかし、振り向いた相手の顔を見て、初音はぎょっとした。吟太だと思っていた少年は、吟太ではなかった。蒼ざめて、どこか悲しげで、虚ろな目をしたその顔は、初音にとって見覚えのないものだった。

 その腕をつかんだまま、初音はぼうぜんと言葉を失ったまま相手の顔を見つめていたが、突然自分の腕にもぞもぞと動くものを感じて腕を見やった。

 すると、どこからわいてきたのか、黒いカメムシのような虫が手首のあたりから肘のところまで這いあがってくるところだった。初音はあわてて少年の腕から手を放し、腕を振り回して虫を振り払った。

 そのすぐさま我に返り、目の前の少年に声を掛けようと、その顔を見やった初音は、自分の目を疑った。始めは、少年の顔に虫がくっついている、ように見えたが、実際はそうではなかった。うじゃうじゃと絡み合っていているムカデやクワガタ、カミキリムシやカブトムシは、少年の顔そのもので、虫たちがその顔を形づくっていた。

 とっさに頭の中が真っ白になって、初音はぼうぜんとして少年の顔を見つめた。そしてやがて我に返り、自分が掴んでいる少年の腕に目を落とした。こちらもやはり無数の虫が腕の形をとっているだけで、生身の人間のものではなかった。

 そこから這い出してきた、脚の長い、羽の生えた黒い虫たちが、初音の顔を目がけて飛んできたところでようやく叫び声を上げ、それらを振り払った。

 初音が顔を上げて、人の形をした虫の群を見るのと、人の形が崩れだすのとは、ほとんど同時だった。空を飛ぶものは空を飛んで。地を這うものは地を這って。虫たちが四方八方へと散らばっていくと、残ったのは青い寝巻きの上下だけだった。

 虫が一匹残らずいなくなったのを確認してから、初音は恐る恐るしゃがんで、地面に落ちた白い着物を摘み上げた。しかし、そのとたんそれは端から砂のようにさらさらと音を立てて崩れだし、やがて跡形もなく散ってしまった。まるで初音を脅かそうとでもするように、コノハズクの陰気な呟きが周囲に響いた。

 自分は夢を見ているのだろうかと、初音は考えた。でなければ、こんなおかしなことが起こる筈はないもの、と。しかし、さっき切った足の痛みも、辺りに立ち込める仄かな草木の匂いも、足裏に触れる土の感触も、夢というにはあまりにもリアル過ぎた。

 と、そのとき、強い風が横から吹き付けて、初音は思わず顔を上げた。風は瞬く間に通り過ぎて、初音から見て左の方の、少し離れたところでぽっかりと口を開けている、洞窟の中へと流れ込んで行った。

 こんな所に、洞窟なんてあっただろうかと初音が訝しがっていると、ふいに背後から、獣の唸り声が聞こえてきた。初音があわてて振り返ると、薄暗がりの向うに、金色に光る点がいくつも浮かんでいた。初音が立ち上がって後退ると、今度はその背を向けた方からも唸り声が聞こえてきた。

 野犬だ、と、初音はとっさにそう思った。月の光でできた柱の中に姿を現したのは、やはり、見るからに凶暴そうな野良犬たちの群だった。

 身体の形も大きさも、毛の生え方も、みんなまちまちだったけれど、汚れてごわごわになった毛皮や、がりがりに痩せ細った身体、牙を剥き出しにした口元から滴をつくってしたたり落ちる涎が、彼らを一様なものに見せていた。

 ただの野犬じゃない、狂犬だ、そう思ったとたん、初音は思わず洞窟の方へと駆け出していた。忽ち犬たちも吠え立てながら初音の後を追って来た。初音は無我夢中で洞窟の入り口まで来て、そのまま洞窟の中へと逃げ込んだ。

 入り口の辺りで犬たちが立ち止まり、やたらめったら吠え立てるのには構わず、初音は奥へ奥へと入って行った。一頻り吠えた後の、犬たちの唸り声の中に混じる恨めしげな響きに、初音は気付かなかった。


 犬の声が聞こえなくなった後も、初音はくねくねと曲がりくねった洞窟の中を進み続けた。途中、幾度か枝分かれした道に出くわしたが、あまり考えずに思いつくまま進み続けた。

 今この瞬間にも、背後から追いかけて来た狂犬が、初音の喉下を食い破ろうと息を潜めてこちらの様子を窺っているのではないか、そう考えると、初音は居ても立ってもいられず、その歩調は自然と早まった。

 洞窟の中は外よりもずっと空気がひんやりとしていて、何だかとても息苦しかった。中はさぞ暗いだろうと思っていたが、思いのほかに明るかった。入り組んだ洞窟の中を通る細い小川の底で点々と青白い光を放つ、水晶のような鉱石のせいらしかった。

 そのうちに、初音は犬たちが追いかけて来る気配が一向にしないことに気付き、それを不審に思い始めた。少しだけ立ち止まって、じっと辺りの音に耳を澄ました。

 どこかで水がしたたり落ちて、小さな流れをつくっているような音がしきりと聞こえてくる。自分の息遣いや足音を除けば、おおよそ生き物の立てるような音は聞こえない。

 しばらくの間できるだけ息を潜め、体中を耳にしていたが、初音を脅かすようなものは何も現れなかったので、ほっとして小さく溜息を吐いた。

 あいつらは自分を追いかけるのを諦めたのだろうか、それとも、もっといい獲物でも見つけたのだろうか、と初音は考えたが、どちらの考えにもあまり自信がなかった。

 すると、初音がさっき通ってきた道の、枝分かれしている方から、物音がした。ライターを点けたときの音を、もっと大きくしたような音だった。昔サーカスで見た曲芸の、人が口から火を吹き出すときの音とよく似ていた。

 それと同時に、曲がり角の向うに青白い灯りがともる。そして、初音のいる所から見える壁の辺りが、丁度映画のスクリーンのように、青白い光と、通路の向うにいるものの影を映し出した。

 低い唸り声を洞窟の中に響かせながら、ゆっくりと通路を歩いていくその影は、紛れもなく犬の形をしていた。さっき外で見た犬たちの大きさと比べて、その影がいやに大きく感じられたのは、揺らめく灯りのせいだったのかも知れない。

 それを見た瞬間、顔から血の気が引いていくのを、初音は感じた。初音はとっさに、犬のやって来る通路側の岩壁へと背中をぴったりとくっつけ、息を潜めた。

 犬はやけにのんびりと通路を歩いているらしく、度々立ち止まっては辺りをくんくんと嗅ぎ回る音が聞こえた。さっきの野犬たちの中の一匹だろうかと初音は考えたが、結局はっきりとしたことは分からなかった。

 犬が丁度初音のいる通路との分岐点辺りまで来たとき、犬のやって来る方から蜂が一匹、忙しげに飛んで来るのを初音は見た。蜂は壁に止まると、口から火を吹いた。すると、岩壁に取り付けられていた松明が、青白い焔を灯した。

 蜂はその後も、犬の歩く先へ先へと飛んでいき、一つ一つ、松明に火を点けていった。その光景を見て、口から焔を吐き出す蜂なんているのだろうかと、初音は首を傾げた。しかも、あれではまるきり、蜂は犬の召使か何かのように見える。

 その奇妙な二匹連れは、初音の存在には気付かないまま、初音が通ってきた道へと、まるで散歩でもしているような様子で姿を消した。そいつらが行ってしまったきり戻って来ないのを確かめてから、初音はそっと奥の方へと進んで行った。


 暗い洞窟を歩きながら、初音はさっきの虫人間のことに思いをめぐらした。

 あれはいったい何だったのだろう、いったい何のために、あんな形をして、山へと入って行ったのだろう。まるで、自分をこの洞窟の辺りまで誘い出そうとでもするみたいに。そこまで考えて、初音は晴海さんの言葉を思い出し、ぞっとした。

 もしも、あの話が本当のことだったとして、母が神隠しにあっていたというのなら、母も今の自分と同じような目にあったのだろうか。

 初音の母、謡子は、シンガーソングライターだった。実際にはミュージシャンを目指す人たちの通う学校での、作詞や作曲の先生が本業のようなありさまではあったけれど、年に何度か単独のライブを開いたりして、母自身はとても幸せそうだった。小学校に上がったばかりの頃に一度だけ、初音は母のライブに招待されたことがあっって、そのときのことを、よく覚えている。

 ―生まれ変わったら私、蟻か蜂になるんじゃないかしら。芽が出ない頃はアルバイトなんかも沢山したけど、今じゃ、ひとさまのように働きもしないで、キリギリスみたいに年中うたってばかりだもの。―そんなことを生前、冗談混じりに言っていた。

 母の作る歌を例えて言うなら、「真珠の竪琴」だと、初音は思っていた。その瞳から流れ落ちる涙が、ことごとく真珠になったというおとぎ話の人魚姫のように、その竪琴を奏でる度に、ころりころりと、大粒の真珠がこぼれ落ちてくる竪琴。そのこぼれ落ちた真珠の一粒一粒は、その全てが、上質な花玉だ。

 いつか母のような歌を作れるようになりたい、そして、沢山の人にそれを聴いてもらうのだと、もの心付く頃にはそう思うようになっていた。母の生前一度だけ、初音はそのことを、無邪気にも母に告げたことがあった。

 すると母は、少し困ったような顔をした後、私の歌は全部、たった一人のためだけに作ったものだから、あなたに同じものは作れっこないわ、あなたはあなたの竪琴を見つけないとね、と笑いながら言った。

 それが誰なのか、最後まで母は教えてくれなかったけれど、その代わりに、これが自分の原点だ、と言って教えてくれたのが、晴海さんが話に持ちだした、あの古い童謡だった。

 母によれば、あの童謡には本来続きがあったのだという。けれど、何十年、ともすれば何百年もかけて口伝えに伝わるうちに何度も何度も形を変え、やがて続きの部分は忘れ去られてしまったのだという。

 母は、楽器の販売会社に勤める父に頼んで、その童謡をオルゴールにしてもらい、それをとても大切にしていた。いい歌ができないときや、何かに迷ったときに、これを鳴らしてその音色に耳を傾けていると、自分に必要なものが何なのか、はっきりと見えてくるのだと言っていた。

 母が体調を崩して入院したとき、ふと聴きたくなって、初音は母の仕事部屋にしまい込まれていたそのオルゴールを取り出してみたことがあった。そのオルゴールの下には、小さく折りたたまれた紙が置かれていた。

 開いて見ると、それは、その童謡の続きの部分を母が自作したものを書きつけたらしい譜面であった。その紙面の右下には、母の字で「我がイテュスへ」と書きこまれていた。

 なんとなく見てはいけないものを見たような気がして、一度はもとのとおりに戻しておいたが、すぐにまた取り出して、こっそり自分の部屋へと持って帰ってしまった。譜面を覚えたら、すぐに返しておこう、と思ったのだ。

 ところが、母がある日突然交通事故で亡くなってしまった。不思議なことに、母が亡くなった後、母の仕事部屋からオルゴールも姿を消してしまった。楽譜はその後、うっかり机の上に出しっぱなしにしていたものを吟太に見つかり、落描きのえじきになった後、ゴミと間違えられて父に捨てられてしまった。

 母の形見を失くして始めはショックを受けたが、幸いそのときには、譜面はすっかり初音の頭の中に入っていた。それ以降、初音はときたまこっそりと、母のピアノでそれを演奏するようになっていた。


さくら たちばな もものはな

お山が焼けたら かくれんぼ


月を追いかけ かかさまは

青々 あおい 海のそこ


星をもとめて ととさまは

赤々 あかい 空のうえ


さがす者 とて 誰もなく

お山は もとには もどらない


あおい かきのき おみなえし

お山は もとには もどれない


人は みなみな くちはてるとも

神の まにまに かえります


肉は はらはら うみにとけ

骨は ほろほろ ちにうもれ

たまは ひらひら そらへちり


すみれ つゆくさ おきなぐさ

いつかは 花となるでしょう


 独特の旋律を持ったこの歌が初音はとても好きだったけれど、初音がこの歌をうたうことに、生前の母はあまりいい顔をしなかった。

 その理由を、古い歌には強い力が宿るから、むやみに口にしてはいけないのだと、母はよく言っていた。それに、言葉は、誰かが使う度に、その命を少しずつ失っていくのだとも。母のこの言葉は、何だかとても矛盾している、初音はそう思ったが、なんとなく、反論してはいけないものを感じて何も言えなかった。母の言うことは、学校の先生たちが口にするようなものとはずいぶんと違っていたけれど、学校の先生の言葉よりもずっと、ほんとうのことのように感じられるものばかりだった。

 母の作った歌の続きを何度もうたっているうちに、ふと、自分でもその続きを作ってみたくなって、母の作ったものとは違うものを自作してみたこともあった。母の歌は、彼女の作ったほかの歌と同じように、どこか哀しげで切なくて、それでいて、優しい、綺麗なものだったけれど、初音にとっては、なんだかそれが物足りないものに感じられ出したのだ。作ってみたものは、母のそれと比べればずっと子どもっぽいものだったけれど、初音にとっては初めて自で作った、大切な作品となった。

ふと、頭上で何かがうごめくような気配を、初音は感じた。コウモリか何かだろうかと思いながら顔を上げた初音は、その光景を見た瞬間怖気立った。

 初音の背丈の三、四倍はあろうかという高さのところに見えるそれらは、一見、小さい頃に見たプラネタリウムの星空や、クリスマスのイルミネーションに似ていた。

 けれど、今初音の頭上に見えるものたちは、プラネタリウムの星よりもずっと沢山あったし、イルミネーションの豆電球よりもずっと大きかった。

 金色に光るいくつもの目が初音をじっと見下ろしていた。暗闇の中でゆらゆらと揺れながら、ときおりぱちぱちと瞬きをしている。

 らんらんと輝くその目は、さっき見た野犬の目をふと初音に思い起こさせたが、それよりももっとずっと冷たくて、もっとずっときらきらしていた。

 ひそひそと人が囁きあうような声が頭上から、初音の耳に聞こえてきた。

『イサチノミコトだ。』

『イサチノミコトが来た。』

『違うよ。イサチノミコトじゃない。イサチノミコトならお月さまのにおいがするはずだもの。この子からは、お日さまのにおいがする』

 その言葉は、どう考えてみても、頭上の目玉が見える方から聞こえてくる。けれども、それらは決して人のそれではありえなかった。

 顔からさっと血の気が引いたかと思うと、すぐさま耳まで熱くなった。お腹の辺りは水を流し込まれたように冷たいのに、背中の辺りは夏の日差しにじりじりと焼かれているように熱い。丁度、風邪を引いた日の朝の、背中に感じるぞくぞくとした感じとよく似ていた。

 きっと自分は夢を見ているのだ、と初音は自分に言い聞かせた。そして、もしそうなら、いったいどこまでが現実でどこからが夢なのだろう、と考えた。

 不意に、天井の辺りから、何かがぽたりと音を立てて初音の足元へと落ちた。初音の足元に落ちた黒い塊は、形といい動きといいスライムとそっくりだった。けれど、初音の足元に這い寄ってきて触れたその表面は、ふわふわとした毛皮に覆われていた。

 塊に目を落とした初音は、その中にゆらゆらと浮かぶ、金色をした二つの目に気付いて、短く叫び声を上げた。すると天井からぼたぼたと続けざまに、黒い塊が落ちてきた。自分の顔面に降ってきた塊を懸命に取り除けながら、初音は金切り声を上げて駆け出した。途中、塊のいくつかを踏みつけてしまったが、そんなことには構っていられなかった。


 薄暗い洞窟の中を、初音は息を切らしながら走り続けた。体育の授業でだって、今夜ほど長く、一所懸命に走ったことなんてなかったかも知れない。

 初音が、もういくつ目になるのか分からない曲がり角を曲がった瞬間、何かが初音の顔面めがけて飛んできた。初音はとっさに腕をめちゃくちゃに振り回して、それを追い払おうとした。

 そのとたん、地面から突き出した岩に躓いて、そのままなすすべもなく、つんのめって転んでしまった。転んだ所が柔らかい苔でおおわれていたので、大した怪我にはならなかった。

 何かが自分から離れるのを見止めて、倒れたまま、初音はそちらを見やった。するとそこには、コウモリがいた。初音から少し離れた所で、怯えたように小さくなってぶるぶると震えているのが見えた。驚いたのはこっちの方だ、と心の中で呟きながら、初音は何とかして起き上がった。そして、泥がついてじっとりと湿ってしまった寝巻きを見下ろした。

 これが夢だとしたら、悪夢以外の何者でもない、そんなことを考えながら、初音は辺りを見回した。

 洞窟の中は、初音の知っている世界とは、まるで別世界だった。ごつごつした岩壁からは水が染み出して、川底の青白い光を映し返している。天井からは鍾乳石が氷柱のように垂れ下がり、ぽたりぽたりと雫を落とす音を響かせていた。

 初音は自分が倒れていた所から少し離れた、いくらか大きめの岩の方へ歩いて行った。そこにもびっしりと苔が生していたけれど、どうせもう汚れてしまっているし、これは夢なのだからと考えて、初音は構わず腰掛けた。

 しばらくの間目を閉じてじっとしていたが、初音の身には何も起こらなかった。突然気を失って、次に目を覚ましたら自分は、祖父母の家の座敷で仰向けになっているのではないか、などと期待をしたのだ。

 けれど、そっと目を開けた初音の目に飛び込んできたのは、ぬらぬらと光を放つ岩壁と、苔生した岩の上にある自分の爪先ばかりだった。

 突然、鼻の奥がつんとして、視界がぼやけてきたのを、初音は感じた。自分が今ここに居ることが、紛れもない現実だなどということが、初音にはどうしても信じられなかった。

 人間の姿をとる昆虫だとか、火を吹く蜂だとか、得体の知れない、人の言葉を話す毛むくじゃらの塊だとか、まるきりホラー映画の世界だ。

 その後もしばらく、初音はこりずに膝を抱え、目を閉じていた。しかし、どんなに頑張っても、祖父母の家の天井は見えてはこなかったし、小さな振り子時計が刻む規則的な音も聞こえてはこなかった。

 もと来た道を引き返そうか、そんな考えも頭を過ぎったが、もしもまたあの野犬の群と出くわしたらと思うと、それも思い留まってしまった。かといって、これからこの洞窟の中をさまよって他の出口を探すというのも、初音にはひどく困難なことに思えた。

 そのときふと、自分がこのままここで朽ち果て、やがて苔だらけのガイコツになってしまう様子を思い描いて、初音はぞっとした。そのとたん、さっきは引っ込んだ涙がまた込み上げてきて、初音はとっさに、抱えた膝へと顔を埋めた。

 もしもこれが夢だったら、誰かここまで来て、自分を出口まで連れて行ってくれればいいのに、それが駄目なら、せめて「これは夢だ。」と言ってくれるだけでもいい。そんなことを考えてみたが、どんなに待っても、初音が願うようなヒーローが現れる気配はなかった。

 母さんが死んだときだって、そうだったじゃない。頭の中で誰かがそう呟くのを、初音は聞いた気がした。


 ずいぶんと長い間、初音は膝に顔を埋めたまま、じっとしていた。そのうちに、蜂が飛び回る耳障りな羽音や、火炎放射器のミニチュア版のような音が聞こえてきたけれど、初音は顔を上げる気にもなれなかった。

 しかし、自分の頭の辺りに、何か生暖かいものが触れたときには、初音も思わずぎょっとして顔を上げてしまった。そのとたん、湿っぽくてざらざらしたものが自分の顔の上を這いずり回って、初音はあぜんとした。

 眩しさに目を瞬かせて見ると、初音の目の前にあったのは、真っ黒い毛に覆われた、大きな犬の顔だった。

 初音はとっさにぞっとしたが、その犬の様子が外で見た野犬たちとは明らかに違っていることに気付いて肩の力を抜いた。松明に青白い灯りが点っているのを見て、さっき洞窟の中で見たあの犬だろうか、と初音は考えた。

 そんな初音にはお構いなしに、犬は初音の顔を舐めまわした。まるで、初音の顔についているしょっぱい水がおいしい、とでも言うように。

 初音が身体を固くしてそれに耐えていると、やがて犬はくんくんと鼻を鳴らしながら舐めるのを止め、顔を離した。助かった、と思いながら、初音は寝巻きの裾でごしごしと顔を拭いた。

 改めて目の前の犬を見た初音は、その身体の外で見た野犬たちとは比べ物にならないほどの大きさに目を丸くした。もしかしたら、祖父母の家の近所で飼われている牛よりも大きいかも知れない、と初音は思った。

 その大きな犬が、今、自分の目の前で行儀よくお座りをしているのを、初音は信じられない思いで見つめた。わずかに開いてだらりと舌を垂らした口元は、笑っているようにも見える。

 初音をじっと見ている二つのまなこは、タチアオイの花弁のような、赤みがかったチョコレート色をしていた。照明が青っぽかったから、実際はもっと違う色だったのかも知れない。

 犬は、ついと立ち上がったかと思うと、初音の寝巻きの裾を咥えて引っ張り出した。初音はあわてて咥えられた裾を掴んで、犬を振り解いた。

 すると、犬は不満げに鼻を鳴らしながら、じっと初音を見すえた。そして、そのまま初音に背を向けて歩き出した。初音はいくらか伸びた裾を整えながら、いぶかって犬の様子をうかがった。

犬は初音から少し離れた所にある、細い通路の前まで来ると、ちらりとこちらを振り向いてから、窮屈そうにその通路へと入って行った。

 犬の真意も分からずに、初音はしばしの間あっけにとられて犬が消えた方を見つめていた。と、突然松明の焔が消えた。既にその明るさに慣れていた初音は、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。

 そのとたん、言いようのない不安に駆られて、初音は思わずその場に立ち上がった。やがて目がその暗さに慣れてきたが、それでも、いったん湧き上がった感情は消えることがなかった。

 初音はちょっとの間躊躇した後、追い立てられるような心持で、犬の後を追った。このままここでじっとしていて、カビだらけのガイコツになってしまうよりも、どうなるかは分からなくてもあの犬に付いて行く方がずっといい。少なくとも、そのときの初音にはそう思えた。


 狭い岩の隙間を何とかして通り抜けると、そこは炭鉱だった。きっと、ここが叔父さんの話していた炭鉱の跡なのだろうと、初音はすぐに気付いた。

 しかし、さっきの松明の灯りよりは幾分弱めではあったが、青白い光に照らし出された坑道内を見渡した初音は、目の前の光景に我が目を疑った。

 とうの昔に廃坑になった筈の坑道で、人々が黙々と働いていた。しかし、そこは至って静かで、おおよそ、生き物が立てるような物音は何一つ聞こえてこなかった。坑夫たちが汗を垂らして採掘をし、採掘された石炭がひっきりなしに運ばれていくのにも関わらず。

不思議なことに、坑夫たちは初音になど目もくれず、まるでいることそのものに気が付いていないようだった。

 初音がぼうぜんとしてその光景を眺めていると、背後から何かが、初音の左肩に触れた。振り仰ぐと、さっきの犬の、黒くて湿った鼻先が、初音の目の前にあった。犬の生ぬるい息が顔にかかって、初音は思わず目をつむった。

 犬は、初音の前に歩み寄ると、また初音の寝巻きの裾をくわえて引っ張ろうとした。それでも初音が不審がって動かずにいると、今度は初音から少し距離をとった。

 そして、その黒くて大きな身体で尻尾を振りながら、二本足立ちになってぴょんぴょん飛び跳ねたり、その場でくるくると回り出したりした。それをあぜんとして見ていた初音は、近所のコリーが飼い主に散歩をねだるときの仕草とそっくりだ、と思った。初音が一歩踏み出すと、犬はさも嬉しげに尻尾を振って、初音の左前をのしのしと歩き出した。この犬は何がしたいのだろう、もしかしてほんとうに、自分と散歩でもするつもりなのだろうか、と内心困惑しながら、初音はその後に続いた。

 歩いていると、一人の坑夫が反対側からやって来るのが見えた。このまま行くと犬と坑夫がぶつかってしまう。初音は慌てたが、犬も坑夫も、まるでお互いの存在など目に映らないとでもいうようにそのまま近付いて行った。そしてとうとう正面衝突しそうになったとき、驚いたことに、お互いがお互いの身体を通り抜けてしまった。

 初音は面食らって少し立ち止まったが、犬が気にも留めずに進んでいくので、あわてて後を追い駆けた。あんまり一度に色んなことがあり過ぎて、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっていたのかも知れない。

 そのときふと、さっきから蜂の姿が見えないことに初音は気付いたが、すぐに忘れてしまった。

幻の坑夫たちを避けながら犬の後に付いて歩いて行くと、やがて曲がり角に突き当たった。犬はもの言いたげにちらりと初音の方を振り向いてから、その角を曲がった。続いて角を曲がった初音は、その先の光景に、思わず立ち止まった。

 いくらか道幅が広くなった坑道の正面にそびえる、真っ赤な鳥居。そして、その両脇から奥の方へ向かってずらりと並ぶ紅白の提灯の下には、通路に沿って露天が軒を連ねていた。

 その通りの中心にある石畳の道を行き交う人々の流れは、鳥居の辺りでぷっつりと途絶えていた。初音には、鳥居のあちらとこちらとで、まるきり違う世界のように思われた。

 この光景には見覚えがある。そう思ってすぐ、この光景が初音が毎年行っている、この山の神社で催される祭りのそれとそっくりだということに思いあたった。もしかしたら、さっきの坑夫たちも、このお祭りも、この山の記憶のようなものなのかも知れない。根拠はなかったけれど、そんな考えが初音の頭に浮かんだ。

 初音の手前にいた犬が、突然楽しげに吠え立てながら、鳥居を潜って人混みの中へと姿を消してしまった。初音は少し躊躇ったが、すぐさま犬の後を追って人混みの中を駆け出した。

 通りを行く人々は、さっきの坑夫たちと同様、ぶつかりそうになっても次から次へと初音の身体を通り抜けていったので、初音はどんどん前へと進んで行った。

 さっきの坑道と違うところといえば、そこかしこから賑やかなお囃子が聞こえてくることと、照明が何倍も明るいということぐらいだ。

 こんなに賑やかなお祭りなら、物言わぬ蝶々だって歌い出すかも知れない。そんなことを思ってしまうほどの騒々しさだった。実際のお祭りはこんなに賑やかではなかったはずだ、と初音は訝った。もしかしたら、山がいくらか脚色しているのかも知れない。人間だってときたま、自分にとって都合のいいように記憶を書き換えてしまうぐらいだもの。そう結論を出して、そのまま初音は奥へ奥へと進んで行った。

 お面屋さんやヨーヨーすくい、くじ引き屋さんにカキ氷屋さん。様々な屋台と、それを取り囲む人々の姿を横目に見ながら、初音は犬の姿を探した。

 やがて人混みの中に、ひときわ目立って大きい真っ黒な犬の姿を、初音は見止めた。近寄ってみると、犬は一つの屋台の前で座り込んで、その屋台の陳列台の上をじっと見つめていた。

 その視線を追った初音の目に飛び込んできたのは、提灯や屋台の裸電球の灯りを受けてつやつやと耀くりんご飴だった。

「欲しいの?」

 隣に並んだ初音が声を掛けると、犬はそれに答えるようにこちらを向いて、くんくんと鼻を鳴らした。

 自分もちょっと欲しいな、と初音は思ったが、今の自分は無一文であることを思い出した。そして、一向に動く気配のない犬の隣で、目の前に並ぶ真っ赤なりんご飴を、情けない気分で見つめた。

 すると突然初音の目の前に、何かがぬっと突き出された。思わず後退りしながら見ると、それは店先に並ぶものよりもずっと大きい、初音の頭ほどはありそうなりんご飴だった。目を上げると、屋台の向こう側からりんご飴を差し出してにっこり笑う、お店の人の顔が見えた。小父さんとも、お兄さんともつかない男の人だった。

 初音が困惑してそれを見つめていると、お店の人は、屋台の台に置いた初音の手にしっかりとその飴を握らせた。

「あたし、お金持ってないよ。」

 初音がどぎまぎしながらそう言うと、お店の人は何も言わずに、ただ、お代はいいよ、とでも言うようにひらひらと手を振っただけだった。初音はさらに何か言おうと口を開きかけたが、他のお客さんがどっと押し寄せて初音の前に立ちはだかってしまい、初音の言葉は遮られた。お店の人も、初音の存在など忘れ去ってしまったかのように、お客さんの相手をし始めた。

 初音は仕方なく、軽く頭を下げただけで、そそくさと屋台を離れることにした。一部始終を眺めていた黒犬が、尻尾を振りながらその後に続く。

 お店の人が手渡してくれたりんご飴は、幻の筈なのに、ずっしりと重かった。初音が立ち止まり、それをどうしようか迷っていると、犬が横からぬっと顔を出し、もの欲しそうにりんご飴の匂いを嗅ぎ出した。

 初音はちょっと考えてから、その飴を犬の口に放り込んでやった。お店の人の好意は嬉しかったけれど、幻の夜店で売っているりんご飴を、食べる気にはなれなかった。昔話にも、あの世に迷い込み、その世界の食べ物をうっかり食べてしまったせいで、元の世界へ帰れなくなった人の話が沢山あることを、初音は知っていた。それに、自分よりもこの子の方がずっと食べたがっていたのだから、と。

 犬はその大きな口で、さも美味しそうにがりがりと音を立てながら、あっという間にりんご飴を平らげた。それの姿を眺めながら、この犬がその気になれば、きっと自分なんてあっという間に食い殺されてしまうだろうな、と改めて気が付いて、初音はちょっとだけ、ぞっとしてしまった。

「おいしい?」

 犬の返事を期待するでもなく初音が訊ねると、犬は満足げに口の周りを舌でべろりと舐めまわして見せた。それを見た瞬間、犬の顔に吟太の面影が重なって、初音ははっとした。

 気が付くと、さっきまでしきりに聞こえていたお囃子の音が止んでいた。不思議に思って辺りを見回した初音は、立ち並ぶ屋台の中で、ひときわ人だかりができている屋台があることに気付いた。

 あれはいったい何の夜店だろう、と初音が思うのと、そちらへ向かって犬が歩き出すのとは、ほとんど同時だった。初音はあわててその後を追った。

 屋台の前まで来て、その人の多さに、初音は圧倒されて思わず立ち止まった。しかし、人垣に構わず進んでいく犬の姿を見て、それが幻であることを思い出し、また歩き出した。屋台に辿り付いた初音は、陳列台の上に目をやった。

 台の上には、売り物の代わりに、ジオラマの山と海とがのっていた。山は一面緑の森で、その上に、男の人と女の人の人形が、並んでちょこんと腰掛けていた。さらにその頭上には、上から糸で吊るされた、プラスチックの月や星、綿の雲などが浮かんでいた。

 砂浜の先には本物の水でできた海があって、規則的に波が寄せたり引いたりしていたけれど、それがどういう仕組みなのか、初音にはよく分からなかった。

 初音がもの珍しくそれらを眺めていると、かちりという音がして、オルゴールの音色を思わせる音楽が流れ出した。辺りを見回してみたが、音がどこから聞こえてくるのか突き止めることはできなかった。

 その旋律が、さっき自分が洞窟の中で口ずさんだ歌のそれと同じものだった。とっさに、行方不明になった母のオルゴールのことを想い起して、初音はわけもなく不安になった。けれども、山の上に仲睦まじく座っていた二体の人形が、音楽にあわせて動き出したため、初音はそれに注意を奪われてしまった。

 始めのうち、二体の人形は山の上をくるくると回りながら手に手を取って踊っていた。しばらくすると、始めの二体よりも小さな、子どもらしい人形がどこからともなくやってきて踊りの輪に加わった。しかし、突如山が火に包まれて、三体の人形はてんでばらばらに逃げ出した、

 女の人形が砂浜までやってくると、月が真珠へと変じ、水飛沫を上げながら海へと落ちた。それを見た女の人形は、銀の鱗と、真珠色の尾鰭とを持った人魚へと姿を変え、そのまま海の中へと飛び込んでしまった。

 男の人形は、山の天辺までやって来ると、山から立ち昇る黒い煙を梯子か綱のようにして、雲の上へと登ってしまった。そして、近くに浮かぶ星を手当たり次第にもぎ取って、次から次へと頬張り始めた。

 最後に現れた小さな人形は、燃え盛る炎に包まれて、途方に暮れた様子でしばらくおろおろしていた。すると突然その足元に穴が開き、そのままその穴の中へ飛び込んだ。穴は、小さな人形を呑み込むとまた閉じて、その地面は炎におおわれてしまった。

 その不思議な人形劇を夢中になって見ていた初音は、ふと、傍にいる筈の犬の気配が消えていることに気付いて当たりを見回した。すると、通りの奥にある少し開けた場所を目指して駆けて行く犬の後ろ姿が見えた。犬は広場に辿り付くと、紅白の幕を張った木組みの舞台の裏側へと回り込んだ。

 初音は小さく溜息を吐いてから、まだ続いている人形劇を尻目に人混みを抜け、犬の後を追い駆けた。

 紅白幕で目隠しされた舞台裏まで初音がやって来ると、幕の合わせ目から犬が顔を突き出した。そして、何かいいものでも見つけたような様子で、二、三度吠えて見せた。

 いったいこの中に何があるというのだろうと、初音は首を傾げた。昔、一度だけ、吟太と一緒にお祭りの舞台の裏側に入ってみたことがあったけれど、土が剥き出しの地面に使わなかった角材が乱雑に置かれているばかりで、大して面白くはなかった。

 しかし、あんまり犬が楽しそうに顔を出したり引っ込めたりするので、とうとう幕を潜り抜けて中へと入ってしまった。

 幕の内側は真っ暗闇だった。初音が不思議に思いながら辺りを見回していると、突然辺りが白い光に包まれた。その眩しさに、初音は思わず目を瞑った。


 初音が目を閉じたままじっとしていると、強い風がいきなり初音の横から吹き付けた。恐る恐る目を開けると、海を目下に見下ろす岸壁の上に初音は立っていた。

 いつの間に、自分はこんな所へ来てしまったのだろうと、初音があぜんとして辺りを見回していると、崖を下った所にある林から、数人の人影が現れた。後ろをときどき振り返りながら、まっしぐらにこちらを目指してやって来る人の姿に、初音はますます困惑した。

 街中ではまず見かけないような、洋服とも着物ともつかない服を着て、腕や耳には大きな輪っかをつけている。男の人も女の人も、腕にはペインティングがほどこされていて、そのほとんどが膝丈ぐらいのワンピースのような格好をしていた。けれど、その中心で囲まれるようにして走る女の人だけは、裾がくるぶしの下まであって、頭から薄い布をかぶっていた。

 あんな格好で走っているなんて、いったいどういった事情の人たちだろう、と初音が考えていると、林の木々が一斉に揺れた。そして、鎧を身に着けた大柄な男の人たちが現れた。ずいぶん前に博物館で見た、古代の人たちが使っていたという鎧の模型とよく似ていた。

 それを見て、先に現れた人々は、走るスピードを一層速めた。何人かの人が包丁のような刃物や、博物館にあったものとよく似た形の武器を手に、男たちへと向かって行った。しかし、それよりももっと大きい刃物であっという間に切り伏せられてしまった。

 それを見た、裾の長い服を着た女の人が倒れた人たちに向かって何か言おうとしていたが、周りを囲む人たちがそれを止めた。

 初音はぼうぜんとして、その光景を見つめていた。見る間に女の人たちは初音のいる所へとやって来る。それを追って、男たちも駆けて来た。断崖まで追い詰められた人々は、男たちの方に向き直り、向かい合った。

 両者はしばらくの間、互いにじっと睨みあっていたが、下の方にいる男たちの中でも、特に体格がよくて立派な鎧を身にまとった男が、一歩踏み出した。男が女の方を仰いで口を動かしたが、何を言っているのか、初音には全く聞こえなかった。

 すると、今は初音のすぐ脇に立つ女の人が、それに答えるように口を動かした。薄布の下からのぞく女の人の顔を見上げて、綺麗な人だなあ、どことなく母と似ているなあ、などと、初音はのんきに考えた。

 女の人が口を動かすのを止めると、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。きっと、彼女の返事が、彼にとってあまり喜ばしくないものだったのだろう。

 男が一歩踏み出すのと、女の人が男に背を向けて、崖の方へ駆け出すのとはほとんど同時だった。そして、あっという間に女の人の姿は崖の上から消えた。

 初音があぜんとして立ち尽くしていると、辺りの景色が一変した。

 きょろきょろと辺りを見回した初音は、自分が人混みの中にいることに気付いた。周りにいるのはほとんどが大人で、みんな、さっき見た人々と同じような、でももっとずっとみすぼらしい格好をしていた。そこにいる人々がみんな一点を見上げていることに気付いた初音は、人々の視線の先を追った。

 見上げると、高く組まれた木のやぐらの上に、人が二人のっている。逆光でよく見えなかったけれど、一人が膝をついて頭を垂れ、もう一人がその脇に立っているのは初音にも分かった。きっと男の人だ、と初音は思った。

 ふと、目の前のやぐらから少し離れたところに、少し低めのやぐらが組まれていることに、初音は気付いた。頭を巡らしてそちらを見ると、そのやぐらの天辺に男の人が座っているのが見えた。

 さっき、海辺の崖で女の人と話していた男だ、と初音は気付いた。こちらは逆光になっていなかったし、初音の近くにあったので、目を凝らすと男の表情まで見えた。険しい顔でもう一つのやぐらの上を注視している。

 男の表情に初音は、祖父母の家の座敷で見た、木目で描かれた男の横顔を思い起こした。顔の作りは違うけれど、その表情に、どこか通じるものを感じたのだ。

 でも、あの人自身は自分がそんな顔をしていることに気付いていないのだろうな、と初音は思った。でなければ、気付いていないふりをしているのだ、と。自分が何か間違っていることに気付きながら、それがいったい何なのかも、どうすればいいのかも分からず、そもそも自分が間違っていること自体、認められずにいる。そんな顔だった。

 初音が高い方のやぐらに目を戻すと、立っている方の人が、何かバットのようなものを振り上げるのが見えた。そのバットが振り下ろされたとたん、膝をついていた方の人の身体がゆっくりと傾きだし、やがて倒れてしまった。

 すぐに景色が変わった。さっき見た光景の意味を考えて、身体が震えるのを止められないまま、初音は周囲の鬱蒼と生い茂る木々を見回した。そして、不自然に積み重ねられた小さな石の塔の前で、咽び泣く人々の姿を見止めた。人々の中心には、初音と同い年くらいの男の子が、両膝を地面についたまま、顔を手でおおい隠して泣いていた。その傍らに、小さな仔犬がまとわりついて、男の子の周りを行ったり来たりしている。

 きっと、誰かのお墓だ。初音は直感的にそう思った。さっきの女の人のお墓だろうか、それとも、男の人のものだろうか、と初音は考えた。

 墓を取り囲む人々は、ずいぶんと長い間その前で泣いていた。笹の葉がさやさやと揺れて、まるで墓の主の死を悼んでいるようだ、と初音は思った。

 不意に、男の子の背後に誰かが立った。初音の立っているとろからは後ろ姿しか見えなかったけれど、それはかなり体格のいい男の人だった。やがて男の子もその気配に気が付いたらしく、顔を上げて振り向いた。

 男は男の子に何か話しかけ、男の子は少し考え込むように視線を落とした後、男に向かって小さく頷いて見せた。そして立ちあがると、男に手を引かれるまま歩きだした。

 そのときふと、初音は晴海さんが話してくれた昔話を思い出した。

―女の裏切りに腹を立てた王様は、女とその夫とを手にかけて、その後、二人の子どもまで、みんな殺しにしてしまった―

 初音ははっとして、思わず駆け出そうとした。しかし、首から下はまるで金縛りにでもなったように、びくとも動かせなかった。声も思うようには出せず、喉が貼りついたように、言葉は喉もとで止まった。それでも初音は懸命に、せめて声ぐらいは出そうとしてもがき続けた。

『だめだよ!そいつについて行っちゃだめだよ!』

 ほとんどやけっぱちになって心の中で何度もそう念じたが、男の子の耳に届くはずはなかった。ところが、初音があきらめかけたところで、驚いたことに、男の子が、彼らからは何もない空間に見えるはずの、初音の立っている方へと目をやったのだ。男の子と目が合った、と初音が思ったのと、目の前がまた真っ白になるのとは、ほとんど同時だった。


 気が付くと、初音はまた真っ暗闇の中に佇んでいた。いくらかぼんやりとした気分で立っていると、隣で犬が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。

 初音が音のした方へと目をやると、蜂の羽音がして、ぼうっという音とともに辺りが明るくなった。蜂が口から吹いた火を、松明の代わりに、自分の針の先に灯して飛んで行くのが見えた。いったいどこに隠れていたのだろうかと、初音は不思議がった。

 その後を追って犬が走り出したので、初音もあわててそれに続く。と、前を行く犬の姿が消えた。初音はとっさに立ち止まったが、目の前の暗闇からまた犬の顔と蜂の姿が現れたので、すぐに歩きだした。

 犬の顔の辺りまで来た初音は、犬が黒いカーテンのようなものの間から顔を出しているのだということに気付いた。そのまま前へと進み出て、被さってくる布を払いのけると、まばゆい光が初音の目を射した。

 やがて目が慣れて来た初音は、自分がさっき裏側から入った舞台の上に立っていることに気付いてぎょっとした。目下に広がる広場には、大勢の人がいて、みんな一様に舞台上の初音を見ていた。初音のすぐそばに、あの黒犬がいた。黒犬の身体の陰からあの蜂が飛び出してきて、初音の肩の上に止まった。

 さっきのオルゴールの音色は、相変わらず辺りに流れ続けていた。そのとき、人混みの中から大きな声が上がった。男の人の声だった。

「アテネオ!」

 その声を聞いたとたん、初音の傍らにいた犬が、尻尾を振って声のした方を向いた。そして、一声鳴いたかと思うと、人混みの中へと飛び込んで、あっという間に姿を消してしまった。あの犬の飼い主だろうか、と初音は思った。

 頭上から人が囁きあうような声が聞こえてきたので、もしやと思い、初音は顔を上げた。そして、広い天井にびっしりと張り付いている金色の目を初音は見た。

『イサチノミコトだ。』

『イサチノミコトだ。』

『ちがうよ。前のイサチノミコトは、地上でアテネオが目を離した隙に死んじゃったんだってさ。ほんとはうたをうたいきるまで、アキジノキミのウラミから、あいつが守らなければならなかったのに。だから、彼女は今も地の底をさまよっているんじゃないか。あの子はその娘だよ』

『どっちでもいいよ。うたさえきけるなら。ツクモヨキキノキミも、きっとそんなこと気にしないよ』

 周りが明るいせいか、さっきほど怖いとは思わなかった。初音がじっと天井を見上げていると、毛むくじゃらのスライムたちがこう囁くのが聞こえた。

『イサチノミコト。』

『イサチノミコト。』

『うたって、イサチノミコト』

 その声を合図にしたように、オルゴールの音が大きくなった。初音はちょっとだけ迷ったあと、顎をつんとそびやかしてうたいだした。初音にはなぜかは分からなかったけれど、そうしなければいけないような気がした。


さくら たちばな もものはな

お山が焼けたら かくれんぼ


月を追いかけ かかさまは

青々 あおい 海のそこ


星をもとめて ととさまは

赤々 あかい 空のうえ


さがす者 とて 誰もなく

お山は もとには もどらない


あおい かきのき おみなえし

お山は もとには もどれない


 初音はそこまでうたって、口をつぐんだ。音楽は相変わらず流れていたけれど、このうたのほんとうの続きを、初音は知らなかった。

『イサチノミコト』

『続きを。続きをうたってちょうだい』

 やがて辺りの景色が揺らいで、薄れ出した。とっさに足元へと目をやった初音は、自分が舞台の上ではなく、岩壁からせり出した平らな岩の上に立っているのだということに気付いた。

 そうしているうちに、提灯や屋台の明かりが消えて、本来の暗い坑道が姿を現して来る。天井の金色の点が、一つ二つと減っていった。

 そのとき、初音は、母のものをうたってみようかと考え、うたい始めた。


人は みなみな くちはてるとも

神の まにまに かえります…


 しかし、そこまでうたって、初音はためらった。改めてうたってみて、なんだか急に、自分の身体に合わないぶかぶかの服と靴とを身につけて、無理に踊ろうとしているような気分になったのだ。

 これは母のうただ。戸棚の奥に隠していたくらいだから、きっと母にとって、とても大切なものだっただろう。それに、母がこのうたに込めたものを自分がほんとうにわかっている自信はなかった。そうこうしているうちに、あたりの景色がどんどん薄らいでいく。

 そのとき、初音の脳裏に閃くものがあった。自分が考えた、あの歌詞をうたってみよう、と。母の作ったものではなく、自分のものを。この思いつきは、初音にとってとても魅力的だったけれど、同時にとても恐ろしいものでもあった。

 初音はしばらくどうしようかとためらって、顔を上げ視線をさまよわせた。すると、天井から初音をじっと見下ろしているいくつもの金色の目が見えた。

―自分の中に出せるものがあって、聴いてくれる相手がまだいるうちは、自分から幕を下ろしちゃだめ―

 生前の母が、よく口にしていた言葉が、頭の片隅でくすぶった。初音は、すぐに、まだかすかに流れている旋律にのせて唄い出した。

 うたを声に出してみたとたん、そのうたを作ったときに飲み込んだ感情─たとええ途中までは借り物とはいえ、自分が初めて作ったうたを、誰かに聞いて欲しい─それが今、初音の中で突如として膨れ上がった。まるで、朝顔の蔦が少しずつ少しずつ伸びていき、やがていつしか、途方もなく高いところまでたちしてしまうように。

 そこにつぼみを結ぶ花たちが、この瞬間、自分の中で一斉に咲き乱れるのを、初音は感じた。


もしも 


ちょうちょが 歌 うたい

かえるが 涙 ながしたら


はちは 二人を みつけだし

ととさま かかさま 手をつなぐ


あやめ うめのみ ふくじゅそう

お山は いきを ふきかえす


 目が覚めると、がたがたと揺れるトロッコの中に、初音はいた。顔を上げてトロッコの進む方向へと目をやると、トロッコの縁のあたりに、小さな蜂が一匹背を向けて止まっていた。

「お母さん」

 自分の口から飛び出した言葉に、初音は自分でびっくりしてしまった。一度に色んなことがあり過ぎて、頭のねじが何本かとれてしまったらしい。

 けれども、初音の中でその考えはとてもしっくりとくるものだったので、それでいいや、そういうことにしてしまえ。どうせ全部夢なのだから、と、決めてしまった。

「お母さん。」

 あれでよかったのかな、とたずねようとして、初音はすぐに思い留まった。誰かから叱られたり責められたりしたわけでもないのに、自分からそんなことをきくのは、なんだかとてもばかげたことのような気がしたのだ。

 がたんと大きく傾いて、トロッコが止まった。その勢いで、初音はトロッコの中で、ごろんともんどりうって転がってしまった。立ち上がろうとしている初音を尻目に、蜂はさっさと飛び立って、目の前の出口へと向かった。ひんやりとした夜明け前の空気が、あわてて後に続いた初音の頬を優しく撫でた。足元で、まだ咲ききっていないツユクサの青い花が、夜露に濡れていた。

 見上げると、紺色の空にはほとんど星が見えなかったけれど、まだわずかに残った星が点々と瞬いていた。西の空に、ひときわ大きな白い星が耀いているのを、初音は見た。

 やがて、空が藍色から浅葱色へと移ろい、やがて星は跡形もなく消え去った。東の空へと視線を移すと、遠くに連なる山々の向こう側がうっすらと金色に染まっていた。夜明けだ、と初音は思った。

 白々と夜が明けていくその様子は、黄金のたてがみを持つ、ライオンの目覚めを思わせた。澄んだ光を受けて、カラスがぎゃあぎゃあと鳴きながら飛んで行く。

 それまで辺りを落ちつきなく飛びまわっていた蜂が、初音の近くまでやって来ると、初音が差し出した右手の指先に止まった。やがて、初音たちがいる辺りにも、眩しい日差しが差し込んできた。すると指先に止まっていた蜂が、朝日を受けたとたん、灰になって散ってしまった。

 初音はその指先をじっと見つめた後、おやすみ、と口の中で呟いた。

 これから先は、自分の灯りは、自分の手で灯して行こう。どんなに小さくてもいいから、もう二度と、闇夜に迷って立ち止まってしまうようなことがないように。そんな思いが初音の胸の中に広がっていた。

 背後からがさがさと誰かが草を掻き分けるような音がして、いたぞ、と声が上がった。正美叔父さんの声だ、と初音はとっさに思った。

 振り向くと、山の斜面を数人の大人たちが駆け上がって来るのが見えた。みんな疲れきった顔をして、髪の毛がぼさぼさになっている人もいた。よく知っている人もいたし、全くの見ず知らずの人もいた。

 ぼんやりとした頭で、今までのできことは、やっぱり現実のことだったのだろうか、と初音は考えた。お腹がペコペコで、頭がぼうっとしていた。

 大人たちに保護されてから初めて、自分が山の反対側まで来ていたのだということを、初音は知った。

 後になって知らされたことだが、初音の不在に真っ先に気付いて大人たちに知らせたのは吟太だった。部屋からいなくなっていた初音を探して、一人であの手洗い場まで行ったのだという。その顛末を聞いて、あの怖がりの吟太が、と初音は驚いたものだ。

 てっきり怒られるものだと思っていた初音は、毛布に包まれ、問答無用で車の中に押し込まれたきり、誰にも何も言われないのを意外に思った。そして、母が神隠しにあったというのはきっとほんとうのことだったのだ。

 山道を行く車の中で横になって揺られていた初音は、昨夜自分が見たものにあれこれと思いをめぐらしていたが、やがて柔らかい羽毛のような眠気に掴まり、その甘やかな両腕で包み込まれてしまった後は、全ての思考が朝靄の向うへと掻き消えた。


 『喫茶スピカ』と書かれたガラス戸を初音が押すと、ドアに取り付けられた大きな鈴が涼しげな音を立てた。店内に入ったとたん、嗅ぎ慣れないコーヒーの匂いが鼻をついて、初音は頭がくらくらした。

 お店の中は壁も床も木でできていて、椅子もテーブルも、全体的に落ち着いた色合いの、古めかしくておしゃれな印象を初音に与えた。初音は入口でもじもじしながら、お店の中を見わたした。こういった大人っぽいお店に一人で入ったことなどほとんどなかったので、少し緊張していた。

「初音ちゃん、こっちこっち」

 聴きなれた声にほっとして、初音は声のした方へ目をやった。お店の奥のソファ席で、晴海さんが手を振っていた。初音が晴海さんの正面に腰を掛けると、間もなく店員の女の人がおしぼりと水を出してくれた。

「久しぶり。元気そうでなにより」

 今日は私がおごるからと、初音のためにココアとケーキと、自分はコーヒーのお代わりとを注文してから、晴海さんが言った。それに対して、初音も挨拶の言葉を返した。お盆はとうに終わり、学校も始まっている。晴海さんも初音もすでに東京へ帰ってきていた。

「それで、私に話したいことってなあに。初音ちゃん」

 目の前に運ばれてきたココアをちょっとすすってから、初音は背筋を伸ばして、晴海さんの顔を見つめた。

 今日は、初音の方から晴海さんを呼び出したのだ。初音が神隠しにあったときのことを、話すつもりだった。あのあと、村の誰も、初音にその夜あったことを問い質そうとはせず、まるで腫れものに触るような様子すら見えた。村にいた間は初音自身まだ混乱していて、誰かに話す気にはなれなかった。

 しかし、東京へ帰ってきてから、少しずつ色んなことを思い出して頭の中が整理されてきたら、今度は、誰かに伝えておかないといけない、という気持ちに駆られだしたのだ。そのとき思い出したのが、晴海さんだった。きっと、彼女だったら、気味悪がったり茶化したりせず、冷静に興味を持って聴いてくれるのではないか、と思ったのだ。

 始めは何から話せばよいのか分からず、初音はしどろもどろで話を始めた。やがて、夜中に目が覚めてトイレに行ったとき、吟太らしい人影を見つけ、そのまま山の中へ迷い込んで行ってしまったことから、洞窟の中でよくわからないお化けみたいなものたち相手に、あの童謡をうたってみせたことまで、ところどころあやふやなところもあったけれど、覚えている限りのことを晴海さんに話した。化け物にびっくりして走って転んで泣いたことや、蜂を「お母さん」と呼んだことなんかは話さなかったけれど。

 おどろいたことに、晴海さんは小さなレコーダーを持って来ていて、初音の一言一句を録音していた。途中初音の話が前後したりごちゃごちゃしてくると、話を上手に整理してくれた。にこにこしながら「なんとなく、そうじゃないかなあって思ってたんだ。ききとり調査は慣れてるしね」と言っていた。

 初音が話し終わると、晴海さんはしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。

「貴重な話をきかせてくれて、ありがとう」

 この言葉に、初音はなんとなく気恥ずかしくなって、言った。

「自分でもまだ、夢でも見てたんじゃないかなって、思ってます」

「どうかなあ」

 何か面白いいたずらを思いついて満足している子どもみたいな笑みを、晴海さんは浮かべてみせた。初音がいぶかしがっていると、晴海さんは言った。

「例えばね。初音ちゃんがきいたっていう、“アキジノキミ”とか、“イサチノミコト”って、実際に、あの地域に関する古い文献に、残っている言葉なんだよ。そんなの初音ちゃんが知っているはずないのに。不思議だね」

 初音はびっくりして、晴海さんの顔をまじまじと見つめた。そのまなざしを受けながら、晴海さんはにこにこと初音の顔を見つめ返していた。

 支払いを済ませて外へ出ると、晴海さんは大きく伸びをしてから言った。

「実はちょっと迷っていたんだけど、やっぱり決めたわ。私、もう少し大学に残る。そして博士になって、一生かけてでも、あの村の消された歴史を掘り起こしてやる。初音ちゃんの話をきいていたら、そうしなさいって、誰かに言われているような気がしてきたの」

 この言葉に、初音はなんとも言えない、ふわふわとした気分になった。別れのあいさつをしてから、初音は踵を返して立ち去る晴海さんを見送った。

 そのときふと、母のあの譜面に書かれた言葉を思い出して、晴海さんを呼び止めた。

「晴海さん。“イテュス”って、なんだか知ってますか」

 晴海さんはきょとんとして初音の方へ振り向いたが、ちょっと考えるようなそぶりを見せてから言った。

「ギリシア神話にそういう名前の人物が出てきたと思うけど。確か、両親のいがみあいかなにかに巻き込まれて殺されちゃった、男の子じゃなかったかな」

 自分も家へと向かいながら、初音はふと、あの朝見た白い星に思いを馳せた。あの星は乙女座のスピカによく似ていたけれど、今の時期はほとんど見えないはずだった。

 もしかしたらあの星は、竪琴を胸に抱いた男の子の星なのかもしれない。それも、奏でるたびに素晴らしい真珠を産み落とす、真珠の竪琴を。

 初音は、もう、真珠の竪琴を欲しいとは思わなかった。あれは母のいうとおり、初音のものではなく、母のイテュスのためのものだったのだから。その代わり、あの神隠しにあった夜、初音は自分の竪琴を手に入れたのだ。

 そんなことを考えながら、初音はあの童謡を口ずさんだ。もう誰もかれもが忘れ去ってしまった、かなしい記憶の切れはしが織り込まれた、あのうたを。

◆あとがき

 こんにちは!or初めまして!

 当作品の作者のGloomy_Weaselと申します.この度は,拙作を最後まで読んで頂き,まことにありがとうございます.


 この作品は,高校生のときに書いたものに新たなキャラクター(晴海さん一家)やエピソードをねじ込んで作ったものです.

 お話の筋を楽しむ,というより,いくつかのモチーフを情景や文言,象徴として繰り返し登場させる「言葉紡ぎ」に熱中しながら作っていた記憶があります.作曲するような感覚で作っておりました.

 晴海さんは,書いていてとても楽しいキャラクターでした.きっと彼女は,頭のネジが2,3本ぶっとんでるのだと思います(作者と一緒ですねわーお).彼女についても,また単独でお話を書いてみたい.

 ちなみに,物語に登場する「イサチノミコト」や「アキジノキミ」等は,私の造語です.それぞれ古代語で、「アキズ」は蜻蛉、「イサツ」は「泣き叫ぶ」という意味.「イサチノミコト」は神道神話に登場する「泣沢女命」をイメージしています.「キミ」は王を意味し,「~ミコト」は「~の役目の人」という意味があるとかないとか.無駄にマニアックなトリビアですね(笑)


 細かい文章や展開等々,お見苦しいところも多々あったかと思いますが,最後まで楽しんで頂けて,さらに,フレーズなりイメージなり,何か心に残ったものでもあれば,本望です.

 またのご来訪を,心よりお待ちしています.

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