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「どうした風太っ」
風邪で寝込んでいた恭介は、台所の方からガシャンと大きな物音がして思わず飛び起きた。
慌てて襖を開けて飛び出すと、風太が所在無げに立っているのが見える。
足元には何か白い物が散らばっている。
「きょうすけ・・・」
「風太、何してんだ?」
「ごめ・・・なさい・・・」
「いや、別に怒っているわけじゃない。そうじゃなくて・・・」
「ごめっ・・・ひっ・・・ひっく・・・」
「風太、違うんだ。怒ってるんじゃないんだ、泣くな」
そう言って風太を抱きしめようとした恭介だったが、自分が風邪引きであることを思い出し差し出した手を引っ込める。
台所の床に無残に散らばっているのは、米だ。
炊飯器の釜もごろんと転がっている。
先ほどの大きな音の正体は、この炊飯器釜なのだろう。
どうやら風太は夕飯の支度を手伝おうと、米を炊くつもりだったらしい。
米櫃から釜に米を移すところまではうまく行ったのだろう。
だが、それを流し台のところまで運ぼうとして手元が狂ったに違いない。
140センチに満たない身長の風太にとって、この炊飯器釜はそれなりに大きいし重い。
落してしまったとしてもいたしかたないだろう。
米は拾えばいいのだ。
どうせ洗うのだから、別にかまいはしない。
だが風太は、自分が失敗したことで恭介に迷惑がかかると思ってか、その小さな肩を揺らしながらヒックヒックと嗚咽を漏らしている。
薔薇色の頬を濡らして泣く風太がいじらしくて、ついに恭介は我慢できず華奢な体を引き寄せ抱きしめた。
「風太、ありがとな」
「ふえっ・・・えっく・・・」
「晩飯の支度、手伝ってくれようとしたんだよな」
「ふうた、ごはんつくるの」
「ああ、わかってるよ」
「でも、ふうたうまくできなくて・・・」
「いいんだ。その気持ちだけで嬉しいから」
「ふぇ・・・」
「ほれ、もういいから泣きやめ」
「だって・・・」
「今日はもう、晩飯は作らなくてもいいんだ」
「ばんごはん、ないの?」
「いや、何か店屋物でも頼むよ」
「てんや・・・?」
「店屋物っつってもわかんないか。そうだな、お店に電話して料理を持ってきてもらうんだ」
「おみせ?もってきてくれるの?」
「ああ、メニューから好きなの選んで電話で注文すると、うちまで届けてくれるんだよ」
風太のビー玉のような丸い目が、さらに大きく見開いた。
先ほどまで泣いていたのが嘘のように、今はワクワクした表情で恭介を見上げてくる。
「すごいね。おでんわでごはんがくるの?」
「そうだ。便利だろ?」
「ふうた、おでんわする」
「あー・・・そうだな。もう腹減ったか?」
「ん?」
「まだ5時過ぎだからな。夕飯には少し早いんじゃないか」
「はやい?」
「ああ。もうちょっと経ってから電話しよう。な?」
「うん」
電話台の一番上の引き出しに入っている、出前のメニューをいくつか取り出すと、風太に見せてやる。
ピザに中華、寿司、そばなどいろいろある。
とりあえずこの中から好きなのを選んでいいと言うと、風太は目を輝かせてメニューに見入った。
このまま起きて風太の相手をしてやりたいところだが、恭介はまだ本調子ではない。
正直、こうして座って話しているだけでも体が辛いのだ。
寝間に行って横になりたい。
「風太、悪いな。俺はもうちょっと横になってくる。おまえは夕飯何食べるか、そのメニュー見て決めておけ」
「きょうすけ、びょうき、つらいの?」
「う~ん、ちょっとな」
「いたい?」
「まあちょっと・・・喉は痛いかな」
痛いという言葉を聞いた瞬間、風太の大きな目がうるうると潤み始める。
しまったと思ったが、遅かったようだ。
今にも泣きそうな顔で、唇を噛みしめる。
「ふうた、いたいのいや・・・きょうすけかわいそう・・・」
「や、痛いっつってもそんな大したことは・・・」
「いたいのやだ・・・ううっ・・・」
「風太、大丈夫だからそんな顔するな。ほれ、風太の好きな魚だぞ。あ、こっちにはチキンもあるぞ」
「おさかな・・・」
「そうだ、魚だ。肉もあるし、なんでも頼んでいいぞ」
「おにく・・・ふうた、おにくもすき」
「だよな。どれにするか、決めておけ。俺はちょっとだけ横になってくる」
「きょうすけ、だいじょぶ?」
「大丈夫だ。心配はいらない。だから良い子でテレビ見てなさい。お手伝いはまた今度してくれればいいから」
「うん。ふうた、おてつだいする」
「ああ、今度な」
「こんど・・・」
「そう、今度、俺が元気な時にしてくれ」
「きょうすけ、いつげんきになる?」
純粋にそう尋ねてくる風太に、恭介はどう返していいか一瞬悩んでしまう。
病気とか風邪とかいう概念が、幼い風太にはやはり理解できないのかもしれない。
いや、幼いからではなく猫だからか・・・
とにかく、風太にしてみれば恭介が病気であることが、心配で不安でしかたがないのだろう。
だがこればかりはどうしようもない。
風邪は日にち薬だ。
明日になれば完治している、というものでもないだろう。
しばらくは安静にして、栄養のあるものを食べて体力を回復させるしかないのだ。
「そうだな、今夜ゆっくり寝てれば明日にはだいぶマシになってるんじゃないかな」
「あした?」
「ああ、あしたになればたぶん大丈夫だ」
「あしたはげんきになる?」
「元気になるよ、きっと」
にっこり笑ってやると、安心したように風太も笑みを漏らす。
何とも言えない愛らしさだ。
この笑顔を守りたいと、心の底から思う。
自分がこうして寝込んだら、風太の面倒は誰が見るのだ。
これからは体力づくりに励まなければ。
今さらながらに子育ての大変さを思い知らされる恭介だった。
世の母親はみな、自分が具合が悪くても我慢して子供の世話をするのだろう。
子供は目を離すと何をするかわからない。
おちおち風邪など引いていられないのだ。
きっと自分が子供だった時も、母親は苦労して育ててくれたに違いない。
そういや、幼いころの自分は我儘で、親の言うことをあまり素直に聞かない子だった。
幸い、風太は恭介の言いつけをよく守るが、それでもやはり放っておくことはできない。
昨日だって風太を風呂に入れてやることができなかったのだ。
もっとも、あまり風呂が好きではない風太にとっては、ラッキーなことなのかもしれないが。
寝室で布団に入りながら、恭介はもう一度熱を測った。
「37度2分か・・・微妙だな」
まだ微熱を持った己の体が忌々しい。
せめて喉の炎症が治ってくれればいいのだが。
今日は一日寝ていたし薬も飲んだし、もうこれ以上何もやりようがない。
ふぅ~・・・と、大きくため息を吐く。
その息すらまだ熱を含んでいるようで、恭介は憂鬱な気分になった。
隣の居間からは、相変わらずテレビの音が聞こえてくる。
夕方のアニメの再放送を見ながら、風太が「あっ」とか「ほうっ」とか声を上げているのが、なんとも可愛らしい。
早く元気になって、風太の心配を取り除いてやりたい。
明日には風太と一緒に買い物に出られますように。
柄にもなく神様にお祈りなんてしてしまう、恭介であった。