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「あ~めあ~め ふ~れふ~れ か~あさんがぁ~ にゃ~ろめ~で お~むか~え う~れし~いな~♪」
「にゃろめじゃなくて、蛇の目だ」
「ふを?」
「だから、にゃろめじゃなくて“蛇の目”。蛇の目でお迎え嬉しいな、だ」
「じゃろめ?」
「じゃのめ」
「にゃろめ・・・」
唇を尖らせながら小首をかしげる風太は、悶絶するような愛らしさだ。
恭介が買ってやった子供用の真っ赤な傘を差し、真っ赤なレインブーツを履いた風太は、器用に水たまりを避けながらジャンプしている。
猫は水を嫌うものだとばかり思っていたら、そうでもないらしい。
雨が降っていてもお構いなしに庭に出るものだから、濡れてびしょびしょになったこともある。
何がそんなに嬉しいのかわからないが、風太は雨が大好きなのだ。
今もこうして、恭介の手を引きながら外に出てはしゃいでいる。
最近の風太のお気に入りは、童謡「あめふり」を歌いながら雨の中を散歩することだ。
もちろん、差しているのは普通のビニール傘で、蛇の目傘ではない。
っていうか、今の時代に蛇の目傘なんてお目にかかることは、まずないだろう。
恭介だってリアルに見たことがあるかどうかは微妙だ。
昔テレビで見た時代劇に出てきただけのような気もする。
「風太、蛇の目っていうのは、傘のことなんだよ」
「かさ?」
「そう、こうして雨の日に差す傘」
「これがにゃろめ?」
「蛇の目、な。いや、正確に言うとこれは蛇の目じゃないんだけどな」
「かさじゃないの?」
「傘だけど、蛇の目じゃないんだ」
「うう~~~わかんない~~~」
「ははっ、まあとにかく、雨が降ってきたなぁ、どうしようかなぁと思ったら、お母さんが迎えに来てくれて嬉しい、っていう歌なんだお」
「おかあさん・・・」
風太の大きな瞳が揺れる。
何やら考え事をしているようだ。
ひょっとして、母親の記憶でも辿っているのだろうか。
そういえば、風太の口から親兄弟の話を聞いたことはない。
生後2か月くらいの時に道端に捨てられていた風太。
てっきり赤ん坊の頃の記憶などないだろうと思い込んでいた。
「風太・・・?」
「ふうたのおかあさん、いないの」
「風太、なにか思い出したのか?母親の・・・おかあさんのことを覚えてるのか?」
「ん・・・」
風太の表情が曇る。
余計なこと聞かなければよかったと、恭介は少し後悔した。
風太は捨てられていたのだ。
捨てたのはもちろん親ではなく、親の飼い主だったわけだが。
明らかに洋猫、それも長毛種の風太が元から野良であったはずはない。
ちゃんと飼い主はいたはずだ。
これはあくまで想像でしかないが、母猫が出産してその子猫を間引こうとした飼い主が、段ボールに入れて道端に捨てたのではないか。
風太の他にも何匹か子猫がいたかもしれない。
いずれにせよ、あんなに小さかった風太を捨てた人間が、恭介には許せない。
「風太、おまえはうちの子だろ」
「ふを?」
「風太は神様が俺の元に遣わしてくれたんだよ。だからこうして、人間の姿にもなれたんだろ」
「かみさま・・・ふうた、おねがいしたよ。きょうすけとおはなしがしたいって」
「だろ?だからおまえは俺の家の子なんだよ」
「じゃあ、きょうすけがおとうさん?」
「うっ」
お父さんと呼ばれることには、なぜだかもの凄い抵抗があった。
それがなぜかはわからないが。
そんな恭介の心中など知らずしてか、風太は思い出したように続ける。
「おかあさん、ふうたのそばにいたの。とてもやさしかったの」
「母親のことを覚えてるのか」
「おかあさん、いいこね~って。ふうたのこと、かわいいね~って」
「そうか」
風太の中にまだ母親の記憶があったことに、正直複雑な感情が擡げてくる。
知らない方がいいのかもしれないと思いつつも、知りたいという好奇心に勝てない。
「その・・・風太のお母さんは人間の家にいたのか?」
「うん?」
「マンションとか、今俺たちが住んでるみたいな一軒家とか、そういうところに人と一緒に住んでたのか?」
「んっとね、おかあさんと・・・ほかに、おとなのねこがいたよ。あと、ふうたみたいなちっちゃいこもいた」
「結構大所帯だったんだな」
「おおきなおへやみたいなとこにいたの。でも、ふうただけよそにつれてかれちゃったの。そしたら・・・」
風太の目がみるみる涙で溢れてくる。
悲しい記憶がよみがえってきたのだろう。
やはり、聞かない方がよかったのだ。
「泣くな、風太!俺がいるだろう!」
小さな体をギュッと抱きしめる。
赤い傘が足元に転がり落ちてちょうど水たまりに跳ね返ったせいで、泥水がジーンズの裾に飛ぶのがわかったが、そんなことはどうでもよかった。
小ぬか雨が肩に、腕に降りかかる。
風太の柔らかな金色の髪も濡れている。
「ごめん、風太、悪かった。辛いこと思い出させちまったな」
「ふえっ・・・」
「大丈夫だ、風太には俺がいる。俺がこうしてずっとそばにいるからな」
「きょうすけ・・・ひっく・・・いっしょ・・・?ずっと・・・ずっとふうたといっしょ?」
「ああ、ずっと一緒だ」
「ふえっ・・・ううっ・・・」
「俺がおまえのお母さん、いや、お父さんになってやる。だから泣くな、な?」
「ふうた、こわかったの。おかあさんからはなされて、ひとりでどっかつれてかれて・・・だれもいなくって・・・さみしかった・・・」
「ああ、怖かったな。辛かったな。だけどよく頑張った。偉いぞ、風太」
「うう~~~」
頭をぐりぐりと胸に押しつけて泣く風太が愛おしい。
まだ生まれて間もない時に母猫から離され、捨てられた風太。
捨てた奴はもちろん許しがたいが、だがそのおかげでこうして出会えたとも言える。
恭介と出会わなかったら、風太は一生普通の猫で終わっていたかもしれない。
こんな風にヒトの姿になるなんてことは、なかったかもしれない。
母猫のそばで他の兄弟と一緒に暮らし、普通の猫として一生を終える方が幸せだったのか。
それとも・・・
「きょうすけ・・・ずっといっしょ・・・」
泣き腫らした目で見上げてくる風太の額に、そっと自分の額を重ねる。
体温の高い風太のおでこは、やっぱり温かかった。
そう、ずっと一緒なのだ。
風太は恭介にとって、もはやなくてはならない存在だ。
こうして出会ったのは運命なのだと、風太が、どこかに存在する神様が自分を選んでくれたのだと思いたい。
「そろそろ帰ろうか」
「かえる?」
「ああ。アイス食べるだろ?」
「食べるっ」
「風太の好きなクッキーチョコのアイスがあるぞ」
「ふをっ!」
風太を抱いたまま、傘を差して家路に向かう。
梅雨は始まったばかり。
だが、曇天とはうらはらに、恭介の心は明るく澄み渡っていたのだった。




