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風太が突然青年の姿に変身した。
その前に一度元の猫の姿に戻ったのだが、それは恭介をパニックに陥れるほどの衝撃的な出来事だった。
三年前、恭介の元にやってきた風太は、ひと月後に突然人型に変身した。
人型と言っても、完全なヒトではない。
頭には猫耳、お尻にはもふもふの尻尾というまるでファンタジーの世界から飛び出したような、獣人の姿である。
夢でも見ているんじゃないかと最初は信じられなかった恭介だったが、失恋したばかりの恭介の心を可愛い猫耳風太が癒してくれたのだ。
それからというもの、三年間一度も猫の姿に戻ることはなかった。
このまま猫耳風太との暮らしが永遠に続くものだと思い込んでいた恭介は、突然猫の姿になった風太を前に自分でも驚くくらいに取り乱してしまった。
だが、パニック状態の恭介をよそに、風太は何度か猫の姿に戻っていたと言う。
満月の力を借りることで変身能力がパワーアップするらしいのだが、そのあたりは風太自身もよくわかっていないためかうまく説明することができないらしい。
翌朝目が覚めたときには、風太は青年ではなく少年の姿になっていた。
ホッとしたような残念なような、複雑な思いが恭介の胸を去来したのだった。
寒い冬も終わり、暖かい春が駆け足でやってきた。
あれ以来、風太は一度も青年の姿にはなっていない。
だが、時おり猫の姿に戻ることはある。
縁側で日向ぼっこする風太の姿は愛らしく、徹夜仕事で疲労困憊した恭介の心と体をふわりと包んでくれる。
猫の姿の風太は、人間の言葉を話すことはできない。
だがこちらの言うことは理解できるため、恭介が話しかけると首を縦に振ったり横に振ったりすることで意思表示することができる。
なんとも不思議な感覚だが、慣れるとそれはそれで楽しい。
「風太、今日は暖かいな」
「んにゃっ」
「もう春だなぁ」
「んなぁ」
「そうだ、今年は花見にでも行くか?」
「にゃっ」
「そうか、おまえも花見がしたいか」
「なぁ~ん」
「人がいっぱいいる土日は避けて、平日に行こうか」
「にゃっ」
嬉しそうに頷く風太の頭を撫でてやる。
長いふさふさの尻尾がゆらゆらと揺れている。
喉をゴロゴロ鳴らして甘えてくる風太を、そっと抱き上げ膝の上に乗せると心の芯が温まるような感じだ。
長く艶やかな灰色の毛をゆっくりと撫でると、気持ちよさそうに目を細める。
風太はメインクーンという長毛種で、体毛が長く体つきもガッシリとしている。
決して太っているというわけではなく、骨格そのものが大きいのだ。
アメリカの猫だからだろう。
尻尾も長くふさふさだ。
長く豊かな尻尾は、雪国で暖を取るのに尻尾がマフラー代わりになるのだそうだ。
猫の姿になった時は、丹念にブラッシングするようにしている。
そうすると綺麗な体毛がさらに艶を帯びて、まるでビロードのような輝きになるのだ。
外出するのに気持ちいい季節になって、風太と一緒に出掛けるのが楽しみだ。
猫耳姿の風太を花見に連れて行くことはできないが、猫の姿であれば問題はない。
犬と違って猫を散歩させるのは珍しいから目立つかもしれないが、まあそのへんは大丈夫だろう。
比較的近場なら自転車で行ける。
こないだ買ったばかりのママチャリの籠に風太を乗せて、弁当を持って出かけたら楽しいだろう。
想像しただけで恭介の口元は綻んだ。
「楽しみだな、風太」
「にゃ~ん」
甘い声で泣く風太を抱き上げ、そのもふもふの顔に頬ずりしていた時だった。
インターホンが鳴り、玄関口で誰かの声が聞こえてきた。
「なんだ、誰か来たのかな」
「んなぁ?」
「風太、このままここでじっとしてろよ、人間の姿には戻るな。いいな?」
「にゃっ」
わかったと首を縦に振る風太を膝から下ろし、玄関に向かう。
こんな昼間っから来客なんて誰だろうと考えて、そういや今日は日曜だったかと思い直した。
まさかとは思うが、実家の親がやってきたなんてことはないだろうな。
ドアを開けると、門柱の向こう側に見知った顔があった。
「さつき・・・?」
「久しぶりね、上坂君」
にこやかな笑みを向けているのは、桧山さつきだった。
春らしいピンクベージュのスプリングコートに、花柄のスカーフを巻いたさつきは長い髪を少しだけ巻いている。
ナチュラルブラウンに染めた髪の毛先だけがクルンと跳ねたようになっていて、今流行の若手女優のような優雅さがある。
弧を描いたような眉にパッチリとした目鼻立ちは、客観的に見てかなりの美人と言えるだろう。
今どきの厚塗りメークではない、ナチュラルな感じが上品な雰囲気を醸し出している。
一見して、ハイセンスな都会の女性という感じだ。
「君、どうしてここが?」
「人事課長に聞いたの」
「課長が教えたのか、個人情報を?」
「嫌だわ、個人情報だなんてそんな。何も言わずに会社辞めちゃうんだもの」
「それは・・・」
「ねえ、立ち話もなんでしょ?中に入れてくれない?」
「あ、ご、ごめん、気が付かなくて」
「ふふっ。そういうところ、変わらないのね」
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
少し錆びた門柱の扉を開けると、さつきが「ありがと」と言いながら入ってきた。
玄関扉は引き戸でしかもガラス戸だ。
古い家だから珍しくもないのだが、こうして突然の来客のときは居留守を使うのは難しいだろう。
そんなことを考えながら、恭介はかつて想いを寄せていた元同僚の横顔を見た。
三和土でヒールを脱ぐ彼女のしなやかな足首を見ても、今の恭介は特に何の感情も持ち合わせていない。
数年前はあれほど好きだと思っていたのが、嘘のようだ。
「ごめん、スリッパがないんだ」
「いいのよ」
「古い家で、驚いたろ」
「ううん、うちの実家もこんな感じよ」
ウィンクしてくる彼女の茶目っ気たっぷりな表情は、昔と変わらない。
そう、ちょうど3年前のバレンタインデーに、告白してフラれた時もこんな風にサラッと笑っていた。
「ごめんなさい、上坂君のことは友達としか見れないの」と言った彼女は、それからも普通に接してくれて正直かなり救われた。
特にギクシャクすることもなく、職場の同僚としてこれまで通り接してくれたのだ。
だがもちろん、恭介の心はショックでいっぱいだった。
自分の思いは十分伝わっていると思っていたし、向こうも憎からず思っているだろうと確信していたからだ。
まさかフラれるなんて、完全に想定外の出来事だった。
そしてその失恋のショックを引きずった帰り道、捨てられていた仔猫の風太を拾ったのだ。
自分を振ったさつきが、今さらいったい何の用事で訪ねてきたのか。
だが「何しに来たんだ」と聞くわけにもいかない。
とりあえずお茶でも出して軽く世間話でもして、帰ってもらろう。
そんな風に考えながら居間に通すと、縁側からテトテトと猫姿の風太がやってきた。
「あらぁ~、可愛い猫ちゃん!」
相好を崩したさつきが、風太に近付いた。




