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S.a.d  作者: 月唄
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第一章:喰


第一章:喰


本来ならば一つの短編として掲載する予定でしたが、訳あって連載とさせていただきます。


少々長めかとは思いますがご了承ください。


初夏の風が心地よい6月。

プールがまだ使用できない状況下において、体力作りを目標としてる私達は、部活特有のお揃いジャージを身に纏い校庭で走り込んでいました。


あぁ、ほんとなんでこんな事になっているのでしょう。水泳はともかく部活になど興味なんてなかったのに。


思い返すこと三ヶ月前。


「君さ、水泳部に入らない?!」


当時全く面識のなかった十神先輩に誘われ現在に至るのです。誘われてというよりしつこくつきまとわれたので、仕方なく私が折れたんですけどね。

あの時の私軽率…。もっと頑なな態度を示していればきっとこんなことには…いえ、いずれはなっていたでしょう。それくらいしつこかったのですから。


「飛鳥ー!」


噂をすればなんとやら。

悶々と過去の失敗について悩みながら走り終えた私の元に、なんともさわやかな笑顔を振りまき近寄って来たのは全てのことの元凶となった十神先輩でした。


「お疲れ、だいぶ汗かいたね」


「まぁ、この気温ですし歩いてても汗だくです」


「あはは、まーそうだよね。ほい」


「わっとと…ありがとうございます」


ふわっと軽く投げ出されたタオルは見事私の頭に着地しました。なんともマネージャーっぽいこの十神先輩ですが、実は結構な記録も保持している立派な選手なのです。

そして私こそがマネージャー。といっても、なぜか選手と同じメニューをこなしていますが。


「にしても、結構体力ついたんじゃない?筋肉もいい感じに…」


十神先輩の難点その一。

ボディータッチを軽々としてくる。汗をかいていようがお構いなしに撫でてくるので、正直恐いです。


「汗でべたついてますので触るのはよしてください」


先輩の骨張っているもののどこか柔らかみのある指を軽く払いのけ、私は当たり障りのない精一杯の笑顔を向ける。


「俺は気にしないけど?」


「私が気にします。」


自分でも、笑顔が凍りつく、という現象を感知することが出来ました。なにぶっとんだこと言ってるんですかねこの人は。


「そうだ。飛鳥は今回の予選、種目決めてるの?」


飛鳥。イコール私。すなわちマネージャー。マネージャーは予選云々ではなく泳ぐはずがないのです。


「私マネージャーですし、種目もへったくれもないですよ?」


「飛鳥はマネージャーじゃないでしょ」


「はい?」


「選手としての入部でしょ?」


「ちょ、ちょっと待ってください!私は先輩が『マネージャーでいいから入って!』と言ったから仕方なく入部したわけでして」


「あー、あれは咄嗟だったからなぁ」


てへっ、と戯けて見せる先輩を前に私は真顔で絶句。咄嗟だったから?つまりはでまかせ?てことは私は選手?!いやいやありえません、解せぬ。


「そうだ!選手登録!私そんなのした覚えないし」


これは部内だけでどうのこうの出来る問題ではないので、私は安心してマネージャー業に精を出す事ができます。いえ、別にやる気があるわけではありませんよ。


「もう登録してるんだなぁこれが」


にっこりと、そしてどこか邪悪な先輩の笑みを見た私の顔から感情というものが消え去って行きます。なんなんですかこの人、用意周到すぎて返す言葉がありません。


「……嵌められた」


「あっきらめろー」


ようやく出てきた精一杯の憎まれ口も軽々と流されてしまいました。先輩の言うとおり、諦めるしかないようです。不本意ですが、ええとても不本意です。


「仕方ないのでやりますよ。と、言いたいのですが…」


大事な事を忘れていました。泳ぐ泳がない以前の問題…。


「私、水着なんて持ってないです」


「……飛鳥、なんで水泳部入ったの?」


「先輩がしつこかったからでしょうが!」


「あはは、ごめんごめん冗談だって」


わかっていてもなんとなくカチッときました。水泳なんて私は授業ですらしたことないのに。いえ、泳げないとかそういう次元ですらないのです。『プール』というものに入ったことがないのです。あ、もちろん海もですよ。そんな私が水泳部だなんて、幼馴染のあの驚いた顔と言ったら…今でも忘れられません。


「俺帰りにさ、新しい水着買いに行こうと思ってたんだけど…」


「あらまあ」


「飛鳥も来る?」


「そうですね。水泳に関して私は無知ですし、同行させていただきます」


「すんなり頷いてくれるなんて…」


意外とでも言いたそうに目を見開く先輩を放置し、私は着替えるべく更衣室に向かう。気付けばあたりには誰一人としていなくなっていました。髄分と話し込んでしまっていたようです、さっさと着替えないと。


「あ、飛鳥ちゃん。遅かったねーまた十神くん?」


ロッカーの影からひょこっと顔を出したのは数少ない同性の先輩でした。


「はい、つかまってました」


「相変わらずだねぇ、十神くんってば髄分飛鳥ちゃんの事気に入ってるんだね」


「やめてください、考えたくないでーす」


ついに相変わらずと言われるようになってしまっていました。あまり嬉しくない、というか嬉しくないです。はい。


別に十神先輩のことを嫌っているわけではないのです。

実を言うと十神先輩はへろへろ〜としていますが容姿端麗、更にさりげなく紳士的な面も持ち合わせそれを誰彼構わず発揮する天然たらしなのです。

校内にはファンなる方々がたくさんいたりもします。正直妙な噂が立ってその方々を敵に回し、スリリングな高校生活になる事だけは避けたいものです。現段階でさえ視線が痛いというのに。


『あらぁ、良い筋肉ぅ〜!』


『だぁーもー!やめろっての!』


ため息をついていると、隣の男子更衣室からなんとも言えない声が聞こえてきました。


「あー、まぁた始まったか」


「十神先輩の筋肉好きはもはやホラー級です」


「確かになぁ」


十神先輩の難点その二。

極度の筋肉フェチ。(?)

先輩の前で筋肉をさらけ出そうものなら飛びついてきます。そして何故か男性相手の場合はオネエ口調で迫ってきます。これを知ったらファンの方々、さすがに引いちゃうだろうな。


『あら、ちょっとぉ。また成長したんじゃないのぉ?味見したいわぁ』


『お前の場合冗談に聞こえねぇから!』


あぁ、部長さんお気の毒に。短い間でしたけどあなたの事は忘れませんよ。


「飛鳥ちゃーん?部長を勝手に十神くんに食わせなーい」


「あら、心の声のつもりだったんですけどおほほ」


何故分かった。先輩、恐ろしい人…!!


さて、冗談はこれくらいにして。私も着替えますか。

汗を吸いなんとなくしっとりしているTシャツを脱ぎ軽く拭いてからワイシャツを着る、完璧かつ無駄のない動き。


「飛鳥さん…イイ身体になってきましたね…!」


どこからともなく聞こえた声に思わず背筋が伸びます。おそらく八割方内容に原因がありますが。


「あ、あなた居たんですか…」


「ずっといたよー、なぁ?」


「はい!シャツ替えの一連の動作、しかと見ましたよ!」


なにを誇らしげに言っているのでしょうこの子は。唯一無二の同期ですが今この瞬間に越えられぬ、いえ越えてはいけない壁を感じましたというか建設されました。


「にしてもさすが十神先輩のメニューですね、綺麗に筋肉がついてきています」


「十神くんは筋肉バカだからねぇ〜」


「素晴らしいです!そして飛鳥さんの筋肉、正に理想形です…」



「あなたまで筋肉観察してどうするんですか、着替え終わりましたからミーティング行きましょう」


同期さんの表情が恍惚としていたようでしたが、そこはあえてスルーします。ツッコミを入れると長引きそうなので、ね。


私達が更衣室から出たのとほぼ同時に男子達も更衣室から出てきました。

ほくほくと幸せそうな笑顔でらんらんと歩く十神先輩の後ろを、疲れきった顔で歩く部長さん。あ、察し。これは部長さん食われましたね、間違いないです。


「まぁた十神くんにやられたのねぇ」


「仕方ないだろ…オネエ発動したあいつはこえぇ」


「部長の威厳ないなぁもー」


部長さんと先輩は同い年の同期さん。ハッキリ言って、できてますこの二人。選手同士ですし聞いた話じゃ1年生の時から交際していたとかで。今ではまるで夫婦です、微笑ましいなぁ。


そうこうしながら、ミーティング会場に到着…と言っても職員室付近に適当に並ぶだけですが。基本的に顧問からの諸連絡を聞くだけなので、教室や部室等を使う必要がないのです。お掃除も大変ですし、ある意味ラッキーです。


「はーい、じゃあかいさーん」


顧問の先生も他の先生に比べてだいぶ緩いです。そのせいか部員たちはのびのびと、個性を発揮しているのです。そう、筋肉オネエとか筋肉少女とか夫婦な二人とか幽霊部員とかその他もろもろ。入部当初こそ衝撃ではありましたが、今ではなんとも思いません。ええ、意地でも深く考えませんよ?考えたら負けです答えなんて出ません。


「飛鳥ー、いこーよー」


「はいはい、今行きますよー」


「あら、飛鳥ちゃんデート?」


「違いますよー、先輩方のような関係ではありません」


「なーんのことかしらー」


あれで隠してるつもりですか。あ、先輩ほっぺ赤くなってる。口ではなんと言おうと、体は正直なんですね人間って。


「水着を買いに行くだけなので。ではお先に失礼します」


「お疲れー…ん?飛鳥ちゃん、マネじゃなかったっけ…?」


あ、マネージャーだと思ってたの私だけじゃなかった。嬉しいやら悲しいやら。答えに困ったので会釈だけして十神先輩のところへ行きます。先輩、後日聞いてください…十神先輩の悪行を!


「俺の行きつけのとこでいいっしょ?」


「どこでもいいですよー、私にはわからないので」


「なんだよ、まだ怒ってんの?」


足元を見ていた私の視界の中にずいっと十神先輩の顔が入り込む。

…結構私達身長差ありますよ?屈んでます?そこまでします?!

どう反応すべきか分からずとりあえず視線を逸らします。叱られた仔犬みたいな目、なんでしょうなにかが揺れた気がしますが気にしない方向で。


「別に怒ってないです。本当に水泳に関して無知なだけなので」


とりあえず弁解。実際今更怒ってもしかたないですしね。


「ならいーけどさー」


「で、どっち方面なので?」


「あー、溢木の方」


なんとまあ、自宅とは真逆の方向。残念ながら定期は使えそうにないです、チャージしてあったかな。まぁ、溢木ならここから二駅…くらいでしたっけ。なんとかなるでしょう、多分。


ICカードタイプの定期券を改札にかざすと、ピッという機会音とほぼ同時に改札が開きます。改札機に設置されている液晶に表示されたチャージ残高を見る限り運賃は大丈夫そうです。良かったぁ。


「お、電車来てんじゃん。飛鳥走んぞ!」


「ぅえ?あ、はい!」


おもむろに走り出した十神先輩の後を追い掛けホームへ続く階段を駆け上がる。少々狭めの階段は到着した電車から降りた人達で溢れ、先を行く十神先輩の姿は見えなくなってしまいました。

まぁ、今来ている電車に乗れれば多分ですけど会えるでしょう。もしダメでも携帯で!って私十神先輩の連絡先知りませんでした。


「ま、なんとかなるでしょうっと!」


発車のベルが鳴っていたので階段を登り切ったすぐそこの乗車口におもいっきり踏み込んで飛び込みます。自分でも驚くべき跳躍力。日々のランニングの成果が出たようです、すごいぞ私。


「っと」


「あ、ごめんなさいっ」


どうやら着地と発車のタイミングが合致してしまいよろけた私は誰かにぶつかってしまったようです。そして何故かその人の腕に収まってます、本当に何故か。


「あ、あの…?」


恐る恐る顔を上げてみると、私は目から光を失いました。そうです。お察しの通り、十神先輩です。


「お前すごいなぁ、あんなに走って跳んでとかしてんのに息切れてないなんて」


「お、お褒めの言葉ありがとうございます。そして離してください」


「まぁまぁ。電車の揺れから守れるし?薄づきの筋肉触れられるし?一石二鳥だろ」


「腑に落ちません」


「そうキッパリ言うなよ、つれないな」


照れ顏のひとつも見せてみろ、と悪態をつきながらも十神先輩は腕の力を緩めてくれました。

というか照れ顏って。普通の子、というかファンの方々なら真っ赤になっちゃうんだろうな。そうなることを自覚しているような十神先輩を見る目がますます冷たくなってしまいそうです。


「無愛想ですみませんねー」


「そーじゃないんだよなー、よく喋るし?無愛想ってか無表情?」


わー、この人も結構ズバズバ言う。

私、これでも表情豊かのつもりなんですけどね。表情筋硬いのかな…マッサージでもしてみようかな。


「ほら、降りるぞ」


「あ、はい」


表情について考えていたらお目当ての駅、本溢木駅についたようで。私達の学校の最寄り駅である澱原駅から二駅、乗車時間にして約四分。そんなに考えていたのか、それしか考えていないのか捉えようは様々です。


「人多いなぁ、はぐれんなよ」


二駅しか違わないはずなのに、なんでしょうこの人口密度の差は。澱原に比べて栄えている方なので当然と言われれば当然なのですが。


「駅から近いので?」


「まぁ、近いっちゃ近い」


人をかき分け駅前広場まで出ると、高めのビル達が所狭しと並んでいます。そのビルにはゲームセンターやカラオケ、漫画喫茶にパチンコ店などが入っており…間違いなく繁華街です。賑やかぁ。

その繁華街の裏通りに入り、こじんまりとしたビルに入りエレベーターに乗り込みます。閉鎖された小さな箱、響く機械音と反比例するようにのしかかる沈黙。苦手なんですよね、これ。油圧式だと匂いがプラスされるので更に苦痛になってしまいます。


「おりるぞ」


どうやらお目当ては三階のようで、助かりました。これ以上乗っていたらどうなっていたことか…あ、詳しく知りたい方はWebで。もちろん載っていませんが。


「ここ、ですか」


スポーツ用品店というより、水着専門店?


「小さいけど種類豊富だし、女子ならこだわるだろうしいいかなって」


「そんなお気遣いを…」


なんという紳士、少し尊敬しました。


「って言えばきこえはいいけど、実はここしか知らないんだよね」


前言撤回。十神先輩ってこういう余計な一言で結構損しているような気がします。


「…ええっと、結構色々な型があるんですね」


「んぁ?まーね。競泳だしビキニはアウトだけどな」


「着ませんし、そもそもここじゃ売ってないでしょう」


競泳用の水着を買いに来ているというのに、この人は。


「あるんだけどね」


あるんかい。

色とりどり、そして様々な柄のビキニを両手に持ち笑顔でこちらを見ている十神先輩。私、苦笑い。


「ビキニじゃ泳げませんです」


「まぁ、部活には向かんが個人的に?」


「着ません」


「つれないなぁほんと」


「それより適当に見繕ってくれませんか?使用感とかもわからないので」


「はいよ」


そういうと十神先輩はふらっと何処かに行ったかと、数枚の水着を持って戻ってきました。


「色はまだ結構あるけど、タイプとしてはこれくらいかな」


太腿を隠すくらいの丈のハーフタイプと呼ばれるものと、通常タイプと言うべきであろう太腿の出ているローカットタイプのもの。見た感じではその二種類のようですが。


「こっちのハーフタイプはセパレートだ。着脱が楽だがスピード重視の競泳には向かないかもな」


「なるほど…」


さすがと言うべきでしょうか。

今までの変態イメージが嘘であったかのような真面目な先輩キャラ。切り替え早いというかブレてると言うか。水泳に関してだけは、真面目なんでしょうね。


「とりあえず最初はローカットでいいんじゃないか?」


「そうですね。これが一番無難そうです」


私が手に取ったのはローカットタイプで色は黒。右サイドにエメラルドグリーンのラインが二本だけ走ってるというなんとも前衛的なデザイン。シンプルイズベストです。


「随分とシンプルだな。ほぼ無地だぞ?」


「良いんですこれで、それに」


左胸元にワンポイントとして、ちょっと太めのイルカの様な刺繍がされています。それがなんとも愛らしく思え、大変気に入ったのです。


「鯱か、飛鳥って意外と好戦的だったり?」


あ、これ鯱なんですか…。

ちょっと丸っこいイルカだと思っていたのに。しかし、可愛さ愛しさに変わりなし。


「好戦的だなんて、そんな荒々しくないです」


「そのうち目覚めるよ」


確信したかの様に頷く十神先輩の目は、今まで見たことのない真剣味を帯びていました。

その意図は不明。


「わけわからないこと言わないでくださーい。それと、キャップとゴーグルも買わないとですし」


「案外詳しいじゃん」


「…なにが必要かくらいはわかりますよ!」


これでも一応三ヶ月はマネージャーとしてやってきたわけですから、必要最低限の知識は入れております。ああ、今後もマネージャー続けたかったのに。


「ごめんごめんって。キャップやゴーグルは大差ないから好きなもの選ぶといいよ」


「そうなんですか。では…」


統一感を重視したいのでキャップの色は水着と同じ黒。もちろんワンポイントでイルカ、じゃなかった鯱のプリント入りです。ゴーグルはラインと同色のエメラルドグリーン。我ながら良いチョイスです。


「冒険心とかないんだ」


「派手にはしたくないので、適切にカラーをチョイスしたつもりです」


「趣味は悪くない。ワンポイントが幼い気もするけど」


「良いんです、これぞナイス個性です」


「まあ決まったならいいよ。それ、貸して」


「え?」


私がきょとんと首を傾げていると、両手に抱えていた水着等を十神先輩が持って行ってしまいました。


状況が理解できず佇む私。

そこに紙袋を抱えた十神先輩が戻ってくる。


「ほい」


「はい?」


十神先輩が抱えていた紙袋が私に手渡されます。チラッと見えたあのお気に入りの鯱の刺繍が、中身の全てを物語りました。


「…なんのまねですか」


「ただのお祝いとお詫び。これくらいしかできないけど、先輩として…ね」


何故でしょう。胸に熱いものが込み上げてきました。

ドキドキする、というのはまさにこの事でしょう。まさか十神先輩相手にこんな感情を抱くなんて、自分でも驚きです。


そして十神先輩の照れくさそうな微笑が私には何故か懐かしく感じたのでした。


「…ありがとうございます。すごく、嬉しいです」


「おう、来週からプールが使える。頑張れよ」


「はいっ」


あ、つい返事をしてしまいました。

でも道具一式貰ってしまったのでもう後戻りは出来ません。やるしかない様なら、全力でやるつもりです。


「さ、帰るか」


「そうですね」


帰ろうとエレベーターホールに向かう最中、窓の外に稲光が見えたのを私は見逃しませんでした。


「雨、降ってるんですかね」


「ん?どーだろうか」


エレベーターを降り外に出ると案の定。


「すごい、土砂降りです」


「うへぇ…傘ねぇよ」


生憎私も傘は持っていません。

ならば答えは一つです。


「十神先輩、走りますよ」


「…いいねぇ」


案外乗り気の十神先輩に少々驚きです。

まあ、それは置いておいてとりあえずスタンディングスタートで行きますよ。


「せーの…」


「GO!」


十神先輩のGO Signに合わせ一斉に走り出します。数歩踏み出しただけでローファーはグッショグショ、気味悪いですが気にしていられません。

お店が駅に近かった事が不幸中の幸いでしょう。私達は数分とかからず駅に到着しましたが、お互いに濡れてます。


「ひっくしゅん」


可愛らしいくしゃみ、残念ながら私ではありませんよ。


「大丈夫ですか?」


「俺は平気だけど、飛鳥は?」


髪に制服、靴までもれなくびしょ濡れ。


「寒いですが我慢できないほどではないです」


「そこの我慢はいらないような…」


いいえ、なにより我慢ならないのはこの水をたっぷり吸い込んだ靴下と靴です。

寒さは大して気になりません、ような気がします。


「それより早く帰りませんか?」


「そうだね…飛鳥って最寄りどこなの?」


「私は、御影沢ですけど」


「わりと遠いね…」


確かに多少の距離はあります。

ここ、本溢木から約30分弱くらい。もう少し短いかもしれませんが。


「十神先輩はどこなので?」


「俺?俺は舞降だけど」


隣だ。

なんて羨ましい、このグッショグショ地獄をいち早く抜けられるなんて。


「提案なんだけどさ」


「はい」


「俺ん家来ない?」


「はい?」


「駅からも近いし、制服乾かした方がいいだろ?」


あと、靴も。

そう後に付け加えられ、私は首を縦に振ってしまいました。

その後電車に乗り込んだ私達に、何故か少々重たい沈黙がのしかかっていました。


「あのさ…今日親遅くなるって言ってたから、その…」


あ、聞かなくてもよかったかなぁこの情報。やはり高校生ともなると、多少の期待はするのでしょうかね。漫画の見過ぎです。


「つきましたよ」


「あ、あぁ」


たった一駅。あっという間のはずでしたが沈黙の為か少々長めに感じました。


「こっち」


改札口は一つだけのこじんまりとした駅。人もなんだか疎らですが、傘を持っている人が大半でした。いいなぁ。

駅を出てすぐの公園を抜け突き当たりを右折した所にあった一軒家、表札を見ると『十神』とありました。ええ、本当に近かったです。

そこは寂しいくらいに真っ暗でした。誰も居ないのも確かなようです。


「お邪魔します」


「どうぞー。あ、俺の部屋こっちね」


目の前の階段を上がって左の部屋に通され、とりあえず渡されたタオルで髪をぐしぐしと拭きます。

なんでしょう、どこか懐かしい匂いの様な…気のせいですかね。


「俺ので悪いんだけど、これ着てて。制服乾燥機に入れてくるから」


「なにからなにまで、すみません」


本当に十神先輩でしょうか。

優しいというか紳士というか…つかみどころのない人です。


「着替えたら呼んで、俺外にいるから」


「ありがとうございます」


今は着替えに集中しましょう。

雨水のおかげで素肌に張り付いてしまうシャツの脱ぎ辛いことと言ったらありません。半ば引きちぎる勢いで袖から腕を抜きます。あ、ちょっと赤くなってしまいました。スカート、靴下は多少手こずるもののするりと脱げました。それらをまとめ軽く体を拭いて、お借りした服を広げてみます。


「Tシャツ…」


サイズは私よりはるかに大きいです、当たり前ですが。頭からスポッと簡単に着ることの出来たそれは、持ち主との身長差がそれなりにある私にはワンピースとして着るに十分な丈となっていました。


「肩が少々出てしまうのが気になりますが…」


なで肩というわけではありませんよ?

サイズが大きいのです、これは仕方のないことなのです。


「着替え、終わりましたよ」


「はいよー。じゃ、制服貸して」


私はまとめておいた制服を渡しました。

本当、至れり尽くせりです。


「くつろいでて、ちょっと時間かかるだろうし」


「はい、色々とありがとうございます」


「いいって、気にすんな」


そう言って部屋を出て行く十神先輩。

そして部屋を見渡す私。

ふと、本棚に目が行きました。

『美食とは』『芸術的食文化』『澱原地区の歴史』『御影の鬼伝説』『人体筋肉図解』そして『カニバリズム』

隣に陳列されている漫画や参考書とは違い、独特の雰囲気を醸し出しているそれらの本に私は釘付けになりました。


「カニバリズム…?」


その他の本はタイトルからなんとなく内容を察する事が出来ます。しかし『カニバリズム』だけは内容はおろか、単語の意味すらわかりません。私は恐る恐る手を伸ばし取ってしまいました、『カニバリズム』を。


パラパラと眺める様にして読んでいましたが、それとなく入ってくる内容や挿絵に私は次第に恐怖を覚えはじめました。

カニバリズム。簡単に説明すると、人が人を食べる事。すなわち共食いです。

生物学的に興味があるというのなら、まだわからなくはないです。しかし、十神先輩はきっと実行を目論んでいると思えたのです。


「致死量、痛み…味…皮膚と筋肉の食感の違い…?」


ページの隅やイラストに所々加えられた走り書きのメモの内容が、それを物語っている様でした。そして、点々とついている血痕も同様に。


「飛鳥」


「あっ…?!」


油断していました。不意をつかれました。

背後まで十神先輩が迫っていたことに気づかなかったなんて。思わず持っていた本を落としてしまい、背中には冷や汗が伝っているのが分かります。


「…あぁ、見ちゃったか」


「その、えっと…そんなつもりじゃ…」


精一杯の弁解。もちろん視線は落としてしまった本から動きません。十神先輩の顔なんて、とてもじゃないですけど見れたもんじゃありませんし。


「いや、いいんだよ」


予想以上に、穏やかな声。

しかし恐怖感を一層際立ててきます。なにせ耳許から聞こえたのですから。


「飛鳥、ちょっと協力してくれないかな?」


協力。

その内容は聞かずとも分かる気がしました。


「……いい、ですよ」


何故。


「ありがと。じゃあちょっとそこに寝てくれる?」


体が勝手にベッドに寝転びます。

これから私の身に起こりうる事を分かっている筈なのに、私の体は…脳は逃げるという選択をしようとはしなかった。

これは悔しくも間違いなく私の意思なのです。


「…いい子だ」


十神先輩の指が私の首から肩にかけて滑り、その感触に身を震わせることしか出来ない。胸が痛い、呼吸が苦しい。そしてなにより、目の前の十神先輩が恐くて堪らない。


「ずっと気になってたんだ。飛鳥はどんな味なのかなってさ…」


「…っ、…」


もう、声なんて出ません。

肩口に熱い吐息を感じ、私は目を閉じました。


喰われる。


そう確信した頃にはもう既に、私の肉体には十神先輩の歯が突き立てられていました。

そしてブチッと音を立て、私の一部が食い千切られたのです。


「っゔ…あぁ…!!!」


女…いえ、人の声らしからぬ叫び。

焼け付く様な喉とこれでもかと見開かれる血走った目、例え様のない苦痛の熱を帯びる肩。そして喪失感。私に襲いかかったものは私の予想を遥かに凌駕していました。


「…ん…ふふ、最高だよ。俺が見込んだだけある」


口元の血を拭い、優しく微笑む十神先輩。

どんな褒め言葉であろうと私の胸に響くのは痛みと恐怖ばかりです。何故、そんな顔をしていられるんですか。


糸の切れた操り人形の如く力の抜けた私の体。もしかしたら私、もう死んでいるのかもしれません。あとは魂が肉体から抜け出せば、痛みとも恐怖ともおさらばです。


「つぅ…?!」


上皮どころか皮下脂肪、筋肉組織まで食い千切られ無防備な傷口に容赦無く抉り込まれる指。生きている事を身を持って痛感させられました。


「大丈夫、死なせないよ」


こんな安心の出来ない大丈夫が他にあるでしょうか。

指についた私の血を丁寧に舌で舐め取りながら、救急箱らしきものを本棚の上から持ってくる十神先輩。相変わらず用意周到です。


「ちょっとしみるかも…」


そう言うと十神先輩は『消毒用エタノール』と書かれたラベルの貼ってあるボトルの中身を躊躇なく損傷部位めがけてぶちまけました。


「っあああ?!」


ちょっとしみるなんてもんじゃありません。

もともと熱を帯びていた傷口が更に抉られる様な感覚。要は痛すぎて悲鳴もんです。


「やっぱり生理食塩水でよかったかな…」


生食も痛いと思います。というかなにしても痛いと思いますこれ。ただの擦過傷などとはわけが違うのですから。


その後、溢れ出たエタノールを丁寧に拭き取り傷口にガーゼをあて包帯を巻いてもらいました。損傷部位は僧帽筋上部線維…なんとも包帯の巻きづらいところですが、首から肩にかけ無駄なく且つ動きやすいように巻かれた包帯に私は驚きを隠せませんでした。手慣れてらっしゃる、そう思う他ありませんよね。


「…今までにも、同じ様な事を?」


痛みが引き、というか痛みに慣れたのでしょう。余裕の出てきた私は十神先輩に問いかけてみました。


「……いや」


少々の間を置き、十神先輩は首を横に振る。

手慣れているのはどうやら手当だけのようですね。


「痛む?」


「もう慣れたみたいです、さっきは死ぬかと思いましたけど」


「あれくらいじゃ死なないだろ」


「人間痛みだけでも死ぬことあるんですよ」


俗に言うショック死です。

私は十神先輩の変貌ぶりにショック死しそうになりましたが。


「そんなヤワじゃないから大丈夫だよ、肉も美味かったし」


味って、やっぱりあるんですね。

どうやら私の肉体は十神先輩のお気に召したようで。ええ、まったく嬉しくありませんが。


「変な基準で判断しないでください」


「クセになりそうだ…」


人の話など聞いてはいないようで。

恍惚とした表情で傷口のあるあたりを見つめる十神先輩に私はそっと距離を取ります。これ以上喰われたら本当にあの世に逝ってしまいますよ。


「もう喰べないでくださいね、普通の人のすることじゃないです」


「普通じゃなければいいわけ?」


「はい?」


「.…どうなの?」


現段階で、十神先輩は“普通”ではないとは思うのですが。


「判断しかねます」


「良かったよ、変人認定されてなくて」


ごめんなさい、内心ではとっくにしています。


その後雨、乾かしてもらっていた制服に着替えた私は血塗れになってしまったTシャツを持ち帰ろうとしたのですが。


「それ、置いてっていいよ」


「ですが、私の血で汚れていますし」


「いいから。そうさせたのは俺だし」


半ば奪い取られる形で、Tシャツは私の手の上のから消え失せました。

十神先輩がいいなら、それでいいですけど。


「雨も上がったみたいだし、これ以上暗くならないうちに帰りな」


「はい、ありがとうございました」


玄関まで行くと、ローファーのそばに丸まった新聞紙転がって居ました。きっとローファーを乾かしてくれていたんですね…。


「気をつけてな」


「はい。では、また来週」


少々濡れてしまっている紙袋を胸に抱き、まだ少しだけ湿っているローファーに秘められた優しさを感じながら私は駅に向かい帰路に着きました。



家に着き、練習着を洗濯機へ放り込んでベッドに寝転ぶ。首筋に走る鋭い痛みに眉をひそめつつ、私は先程起こった非日常的光景を思い返しました。



カニバリズムに目覚めている十神先輩。


実際に人肉を食した十神先輩。


食された私。


これだけでも十分恐ろしい出来事なのですが、なにより恐ろしいのはそれらを容認し受け入れている自分でした。


何故私は『同じ種族に喰べられる』という行為を黙認し、尚且つ自らの身を差し出すことが出来たのでしょうか。


自問自答。

なにより落ち着きすぎている自分が怖いです。肝が座ってるとかのレベルじゃないなぁ、これ。


「………私が、おかしいの?」


コンクリート打ちっ放しの殺風景な部屋に、疑問だけが響き渡り答えが返ってくることはありませんでした。


「あの、目…」


喰べられる瞬間に見えた十神先輩の血走った目を思い出すだけで、身体が動かなくなります。


どこか懐かしくも、恐ろしい目。


十神先輩とはいったい何者なんでしょうか。


「…………あたま痛い」


気力と体力の限界を悟った私は、そのまま深い眠りへと落ちて行きました。






タイトル回収でしかなかったですね。


第一章、作中の登場人物は名字や呼称のみでの表現となっております。

おいおい出していく予定であります…!


ちなみに

飛鳥も名字であります!


紛らわしいですね。

次章もこのくらいの長さでやっていきたいと思っています!

ここまでお読みいただきありがとうございました。


S.a.d 月唄


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