02
大変遅くなってしまいまして、申し訳ございません。
◆ ◆ ◆
キーボードを叩くカタカタという音が不意に止まる。
ぼんやりと遠い目でパソコンの画面を見つめる日菜子の心中は、昨日偶然に再会した刑事二人で占められている。
ピンクの手紙について相談に乗ってもらったことはさておき、今、日菜子の頭を支配しているのは、14年前の誘拐事件のことだ。
先日脳裏を過ぎった見覚えのない風景と黒いシルエットが、弓削と話したことでより鮮明に、そして何度も浮かび上がってくるようになった。そしてそれは今も、二重画像のように日菜子の視界に映っている。
(なんなの? コレ。やっぱりコレって忘れていた記憶なの?)
ギュッと目を閉じて目頭をグリグリと揉んでみるが、見える景色が一つになっただけ。
何もない簡素な部屋。家具一つ置かれておらず、壁も床も天井もすべてがグレー一色の空間。そんな中、切り取られたみたいにオレンジ色の四角が二つ並んでいる。――――――夕焼けが消える窓。
そしてその窓を背にした黒く大きな人影。・・・・・・もっとよく見ようとすると頭が割れるように痛む。
「痛た・・」
ギリギリっと締め付けるように痛む顳かみを押さえ、ジッと治まるのを待つ。その間も瞼の裏で展開される風景は、オレンジ色の光を背負った男の影がゆっくりとした動作で振り返り――――――まるで掴みかかるようにコチラへと手を伸ばしてきた。
逃げることも目を逸らすこともせず、近づいてくる黒い人影を凝視しているアングル。
(あれ・・?)
ふと、自分じゃない自分が違和を覚えた。
逸る鼓動に合わせ、ズクンズクンと頭に激痛が走る。貧血の時みたいに酷い目眩に襲われ、ふ・・と意識が遠のきそうだ。
(この痛みって、昔の事件と関係してるの?)
記憶が戻りかけてるってこと?
昨日、誘拐されたことはないかと弓削に訊かれ、戸惑いながらも頷いた日菜子を、彼は懐かしそうに目を細めて見つめてきた。
彼らに聞いたら、この不快な幻影や痛みから解放されるかもしれないと、根拠のない考えが頭を過った。
◇ ◇ ◇
遡るのは数日前。一緒に入ったドーナツショップで、些か逡巡しながらも、弓削は意を決したような真摯な面持ちで訊ねてきた。
「・・・アナタは14,5年くらい前に、誘拐事件に遭っていませんか?」
心臓がドクンと脈打った。
まっすぐに日菜子の目を捕らえて離さない、弓削の真剣な眼差し。
「あ・・なんで、そのことを?」
訊き返しておいてハッと思い出した。そう、今目の前にいるのは警察関係者。事件のことを知っていても、全くおかしくない。
日菜子が躊躇いがちに首肯すると、彼の双眸から鋭さが消えて、柔らかなものに変わった。
「やっぱり・・・。先日アナタを見たとき、どこかで会ったことがあるような気がしてたんです。だがどこで会ったか全くわからない。しかし聞き込みの最中に、被害者の梨花ちゃんがよく髪を二つに結んでいたと聞いて思い出しました。私は早渡 日菜子さんに会ったんじゃない。アナタに似た人物の写真を持って捜査したことがあったんだって」
それは可菜子の写真。・・・そう、弓削は14年前の事件を捜査した、刑事の一人だった。
弓削が当時の捜査員だと知り、思いもよらない偶然に石のように固まった日菜子の様子をどう捉えたのか、彼は改まって居住まいを正すと、突然ガバッと頭を下げた。
「大変申し訳ない。14年前、結局犯人を上げられなかった。本当にすみませんでした!」
「! いえ! あのッ、頭を上げてください!」
ガッシリした体躯の、父親ほどの年齢の男に頭を下げられて驚いた。周囲の目もあるし、こんな所で大仰に謝られても困るだけだ。
慌てて制すと、彼の隣に座る富田も、弓削にやめなさいと援護してくれた。
「こんなギャラリーのいる所でそんな派手なパフォーマンスをされても、彼女だって困るだけで嬉しくないですよ。ねぇ早渡さん。アナタからも言ってやっていいんですよ。遠慮しないで。どうせ謝るんだったら、頭くらい丸めてこいや! この中年! ハゲ! ゴリラ! ・・・とか?」
「い、言いません!」
「おい、今サラッと俺の悪口言いやがったな」
ブンブンと頭を振る日菜子と、相棒のセリフに眉根を寄せる弓削。しかし睨まれた当人はしれっとしたもので、気にする素振りもなくヒョイっと肩をすくめてみせた。
「なんでいつもお前はそう俺に突っ掛ってくるんだよ?」
「そんなことないですよ。気のせいです。俺は弓削さんをとっっってもソンケーしてるんですよ」
「・・・尊敬って言葉が、なんかスゴく軽く聞こえたんだが?」
「ハッハッハ。いやですねぇ。とうとう耳まで遠くなりましたか?」
「まだそこまで年じゃねーよ!」
二人のコントのような遣り取りを目の当たりにし、日菜子はポカンと呆気にとられたが、その間もやいのやいのと言い合う様子がジワジワと可笑しく感じてきて・・・
「ぷっ・・」
我慢できずに吹き出した。
クスクスと笑う日菜子を、今度は刑事たちが目を丸くして見ている。
「え・・と、早渡さん? どうしました?」
口元を押さえながら笑い続ける彼女に、弓削がやや遠慮がちに訊ねる。大柄な彼がおそるおそる日菜子の様子を窺う仕草が、なんだか人懐っこい大型犬のようで、更に日菜子のツボを突いた。
「や・・クスクス・・ダメッ、弓削さん、面白すぎます! あははっ」
「?」
目尻を拭いつつも笑いが止まらない。
困惑顔の弓削を放ったらかしに笑うだけ笑った彼女の前に、グラスに入った水が置かれた。
「それだけ笑えばノドが渇くでしょう? どうぞ」
差し出してきたのは富田だ。どうやらセルフサービスの水を持ってきてくれたらしい。今度はちゃんと弓削の分もある。
お礼を言って一気に流し込むと、冷たい水がとても美味しく、ハフゥ~と人心地付いた。
「・・・そっか、弓削さんは事件のことを知っているんですね」
やっと落ち着いた日菜子が、グラスを両手で包んだまま問うと、ついさっきまでの大型犬は姿を消し、真摯な刑事の顔に戻った。
「はい。お・・私は当時△△署で凶悪犯罪を担当していました。可菜子ちゃんは確か、アナタの双子の・・」
「ええ。姉です。あたしたちは一卵性の双子で、とてもそっくりで仲がよく、そして・・・一緒に誘拐されたそうです」
弓削の言葉尻を引き継ぐと、彼はうんと頷いた。
「そうです。攫われてすぐに110番通報があった」
目撃者がいたらしい。その人が通報をしたという。
茜色に染まった夕暮れ。手をつないだ幼い子どもの影が、車から降りてきた人影に抱き抱えられて後部座席に押し込まれたのを目撃した。彼女は80代前半の老婆でかなり目が悪く、犬の散歩中に誘拐現場を発見したが、遠目だった上に逆光だったせいで、車のナンバーも車種も色もわからなかった。
弓削はテーブルに肘をつくと両手を組んで話しだした。
「身代金目当てか、はたまたイタズラ目的なのか。犯人の意図がわからなくておおっぴらに捜査ができず、足取りを追いつつも犯人からの連絡を待っていたところ、アナタ・・早渡 日菜子さんが離れた山奥で発見されたとの報せが入った」
誘拐されて4日後のことだった。
無傷で発見され、診察をした医師からもどこにも異常や暴行を受けた痕跡はないと診断されたらしいが、唯一の証人でもある少女からの証言を得ることができず、捜査は暗礁に乗り上げた。
「? なんでですか? なぜ証言しなかったんです? 幼いといっても当時7歳なら、もう小学校にも上がってますよね。充分話せると思うんですが?」
日菜子の事件があった当時、まだ15歳だった富田は知る由もない。だからこそ当然の疑問なのだろう。そう訊かれて日菜子は苦い微笑みを浮かべ、弓削はそんな彼女をチラッと盗み見た。
「弓削さん?」
相棒の訝しげな眼差しを受け、彼は嘆息すると富田に返答するではなく、日菜子へと問いかけた。
「もしかして、未だに・・・ですか?」
「・・・はい」
彼は知っているらしい。日菜子が記憶を失っていることを。
無事な姿で保護された少女は、瞳は虚ろで焦点が合わず、話しかけても何の反応も帰っては来ない。
心的に酷いショックを受けているようだと医師からの報告があった上、両親と再会後には高熱で倒れた。
弓削がそう聞いていると話すと、日菜子は頷いた。
「あたしが覚えている限り、一番最初に見えたのは病院の天井です。白い石膏ボードの天井。それとぶら下がっている点滴のパック。クリーム色のカーテンが引かれているせいで室内は薄暗く、心配そうに覗き込んでいるお母さんの顔がありました」
いつもキレイに束ねている敦美の髪が、やけにボサボサで印象に残っている。顔色は悪く、両目の周囲が赤く腫れていた。
その時にはもう、事件のことも可菜子のことも覚えていなかったと告げると、弓削の隣で富田が驚愕に目を見開いた。
「記憶、喪失ですか・・・? 本当に?」
「ええ」
逆行性健忘症。
信じられないのも無理はない。ドラマや小説では当たり前みたいに題材にされる設定だが、現実に記憶を失った者に会うことは希だ。
理解しがたいのか、富田は腕組みをして何やら難しい顔で考え始めた。
「・・・じゃあ、先日篠田歯科で話の最中に気分が悪くなったのって、奥底に眠る記憶のせいなんでしょうか?」
「ああ?」
弓削は眉を顰めたが、日菜子には富田が言わんとしていることがわかった。彼は随分と敏いらしい。日菜子の状態を把握した途端、篠田歯科医院で気分が悪くなったことと結びつけたようだ。
首肯すると、彼のメガネの向こうの一重で切れ長の双眸が更に細められた。
「実はあの時、弓削さんの話を聞いていたら、こう・・・ある風景が脳裏に浮かんだんです。ううん。あの時だけじゃなく、あれからずっと。でもあたし何にも覚えてないから、その見える景色が忘れてしまっている記憶の断片なのかどうか、わからなくて・・・」
もしかしたら映画やドラマで観たワンシーンの可能性もある。読んだ小説や他人から聞いた話をもとに、勝手に想像した架空の場所かも知れない。
自信がないと肩を落とす日菜子に、刑事は互いに目を見交わし、怖い顔で二人同時にテーブルに身を乗り出した。
「アナタが懸念する気持ちもわかりますが、全く関係ないかどうかは聞いてみて一緒に考えますから、我々に話してみませんか?」
カタン
「「「あ」」」
勢いが過ぎた弓削の肘が、彼の前に置かれていたグラスにぶつかり、横倒しになったグラスから水が流れ、テーブルの上を伝って向かいに座っていた日菜子の膝にこぼれた。
◇ ◇ ◇
あのあと慌てた弓削がペコペコと謝り出し、富田が再び冷めた眼差しで先輩を見ていたり、日菜子は日菜子で濡れた膝を拭きながら恐縮する弓削に大丈夫だからと執り成したりで話どころではなくなり、そのままお開きになってしまったけれど、帰り際に富田がコソっと耳打ちしていった。
『弓削さんはどうやら田島 梨花の誘拐事件・・いや、もっと範囲を広げて捜査すればほかの誘拐事件も、アナタやお姉さんの事件と同じ犯人が起こした可能性があると考えているようですよ』
きっとアナタに出会ったのも運命だーとか思って、犯人逮捕への決意を再燃させたんでしょう。・・・あの人は単純ですからと言いつつも、彼のメガネの奥の細い目には、弓削に対する敬愛の情が見受けられた。
駅まで送ってもらった上に、思い出したことがあればいつでも連絡するとの約束をして別れたが、頷いて遠ざかる彼らの車を見送る日菜子の内心は、記憶が戻ることへの恐れが占めていた。
ザワリと身の毛がよだつ。無意識に鳥肌の立った二の腕を摩ろうと手を動かした拍子に、書類を挟んだファイルに指先を引っ掛け、バサーッと足元に紙片が散る。
「うきゃっ! あ――――――・・・」
日菜子は我に返ると、椅子から降りて慌てて散らばった書類をかき集める。一枚ずつ拾い集めながらも、その思考は再び事件へと引き戻されてゆく。
(可菜ちゃんを・・・事件のことを思い出したら、あたしはどうなるんだろう?)
以前見せてもらった事件のスクラップブックを思い出す。
記憶が戻ったことを嬉しいと感じられるだろうか? それともとても怖い何かを思い出して正気を失うかもしれない?
物思いに囚われた日菜子は、グシャリと書類を握り締めていることに気がつかなかった。
◆ ◆ ◆
平年よりも長めの梅雨が明けたのは、7月に入り2週間も過ぎた頃。ジメジメした毎日にうんざりしてはいたが、カーッと晴れた青空が心地よいと感じたのははじめの3日がせいぜい。あとは連日の猛暑に体力と気力を奪われ、早く秋が来ないかと待ち侘びている。
「ただいま・・・」
同課で一番の暑がりの彼が、滝のように流れる汗を忙しなく拭きながら、グッタリとオフィスに帰ってきた。
「お、おかえりなさい」
「ああ・・。悪い、早渡・・・冷たいものくれ・・・」
町田はヨロヨロとデスクに戻ると、消え入りそうな弱々しい声で日菜子に飲み物を頼んだ。
前のめりに臥せった彼の背中は、Yシャツがびっしょりと汗で濡れ、ベタ~と張り付いていて見るからに気持ち悪そうだ。
手を止めた日菜子はやれやれと席を立ち、給湯室に向かう。前もって冷蔵庫に冷やしておいた麦茶を、町田を含んだ人数分プラスもう一つ用意して部屋に戻った。
「はい、どうぞ」
「サンキュー!!」
グラスを差し出した途端に生き返った町田は、ひったくるようにそれを受け取ると、一気に飲み干す。予想していた日菜子は当然のようにもう一つグラスを渡すと、それも一瞬でノドに流しきった。
「ふ・・はぁぁぁぁぁ~。生き返った・・・」
空になったグラスを二つとも日菜子の持つトレイに返し、せかせかと仕事に取り掛かる町田に嘆息し、彼女は残りのグラスもほかのデスクに配って歩いた。
トレイを給湯室に返し、パソコン前に戻る。打ち込みの続きに取り掛かった。
「ああ、早渡。昨日、外回りの最中に篠田歯科で一緒になった刑事さんたちに会ったぞ」
これから出掛けるのか、カバンにファイルやパンフレットを詰め込みながら、たった今思い出したと坂村が日菜子に告げた。
ズキンと頭の芯に痛みが走る。目の前の風景に、霞のような幻の景色がうっすらと重なる。
ここ最近毎日のように目の当たりにしているせいで、前みたいな動揺はしなくなってきた。
「弓削さんたちですか?」
斜向かいに位置する彼を見上げれば、そんな名前だったか? 首を傾げている。
「名前は覚えてないが、中年でゴツイ人と細身の糸目メガネな。捜査の最中なんだろうが、路肩に車を停めてたんで窓越しに挨拶して話をしていたら、ちょうど無線が入ったんだ。よく聞き取れなかったけれど、なんか『身柄確保』とかって言っててさ、おおおっ! ドラマみてーって思ったぜ」
ズキン・・ ズキン・・
弓削たちは当然、すぐに赤色灯を点灯し、急行して行ったと楽しそうに話している。
「・・・坂村さんて、本当にそういう話好きですねぇ」
うっかりするともうひとつの方の景色に焦点を合わせてしまいそうになる。そんな自分を必死で抑え、頭痛を押し隠して、呆れてるふうを装った。
事件の当事者でない彼にしてみたら、現実感がなく、実際の事件もフィクションの世界のことも同じ括りに感じるのかもしれない。しかし事件そのものや可菜子を忘れてしまっていても、嘆き悲しむ家族や周囲の好奇の目、過剰とも思える程に煽り立てるマスコミなどなどetcを知っている身としては、一緒に騒ぐ気には到底なれない。
自分のテンションの高さに比べ、日菜子があまり話に乗ってこなかったことで落ち着きを取り戻したらしき坂村は、ひょいっと肩をすくめるとカバンを抱えて外回りに出掛けていった。
残された日菜子はキーボードに指を走らせる。先程より頭の痛みは和らぎ幻も消え失せたが、どうしても胸の奥がモヤモヤして、再びその手は動きを止めた。
(気にしない、気にしない。弓削さんたちが捜査するのは、誘拐事件ばかりじゃないんだから。殺人とか強盗とか、傷害事件とか)
でも気になる。先日別れ際に富田が囁いたセリフのせいで。
『弓削さんはどうやら、ほかの誘拐事件も、アナタやお姉さんの事件と同じ犯人が起こしたものである可能性を考えているようですよ』
捕まったのは誘拐犯だろうか? それとも可菜子の事件とは全く関係のない事件の犯人? ううん。そもそも犯人を確保だなんて言ってない。ということは被害者の可能性だって・・・
(あ~~~~~~~! ダメッ! 気になって仕事が手につかない! あたしこんなにミーハーじゃなかったのにッ)
どちらかといえば血腥そうな話は避けていた。ニュース番組を見ていても、暗い話題や痛々しい殺傷事件の情報が始まると無意識にチャンネルを変え、サスペンスドラマや暴力シーンのある映画は観に行かない。
単にそういった話が好きじゃないだけだと思ってたけれど、こうして改めて考えてみると、もしかしたら失くした記憶の中に答えがあるのかもしれない?
頭を抱えて突っ伏した日菜子を課長が眉を顰めて見ていることにも気づかず、このあと終業時間までずっと、一人悶々と悩み続けていた。
◆ ◆ ◆
ただでさえ鬱々とした気分なのに、マンションに帰ればこの日もあのピンクの封筒が待っていた。
「もう! 一体なんなのッ? 言いたいことがあるなら直接言ってきてよ!」
郵便受けから取り出したもう新鮮味すら感じられない封筒。苛立ちのままに悪態をつき、指先でパシリと弾く。
部屋に帰るとバッグをダイニングテーブルに放り出して椅子の一つにドスンと座る。魂が抜けるほどの大きな溜息を吐き出し、ゲンナリとしながら封を切った。
【手遅れにならないうちに、早く出て行け】
「手遅れ?」
(どういうこと? これってどう見ても脅しじゃなくて、あたしを心配している?)
キュッと眉根が寄る。この文面はどう見ても脅迫じゃなく、弓削たちが言うように忠告の意思が感じられる。
しかも手遅れとはどういう意味なのだろう? 日菜子がこのマンションに・・この部屋に住んでいることが気に入らない誰かがいる?
理由は?
「ホンットわけわかんない! も~考えるのやめた!」
早々にさじを投げ、テーブルに手紙を叩きつける。気持ちを切り替えてシャワーでも浴びようと、寝室に着替えを取りに行く。下着が仕舞ってある抽斗を引っ張り出し、お気に入りのチョコミントカラーのピーチ〇ョンの上下を取り出すと、いそいそとバスルームに向かった。
疲れきっているときはシャワーだけで済ますことも多いけど、ささくれた気分を払拭するためにはのんびり湯船に浸かるほうがいい。バスタブに湯を張りながら一旦キッチンに戻り、入浴後の夕飯のための下準備に取り掛かった。
長湯をするつもりでいるから、食事は簡単なものでいい。冷製パスタにしようと冷蔵庫からトマトと市販のバジルソースを取り出し、湯を沸かし始めた。
沸騰した鍋にパスタを入れる間際、バスルームで湯が張り終わったと報せるアラームが鳴ったが、今は放置。パスタが茹で上がるまでに湯剥きしたトマトを刻んで、モッツァレラチーズをちぎる。
あっという間にアルデンテに茹で上がったパスタを冷水で冷やし、トマトと合えながらコンソメスープとイタリアンドレッシングで味付けし、最後にバジルソースで仕上げた。
上にチーズをのせて、ボールごとラップをして冷蔵庫に突っ込むと、再びバスルームへ。パパパッと身に着けていたものを脱いで洗濯機に放り込み、まだ試したことのないバスソルトを持って浴室に入った。
・・・
「はぁ~、食べた食べたぁ・・」
風呂から出たのは1時間後。両手足の先がふやけてシワシワになるほど長湯した日菜子は、湯上りの冷えたビール・・・ではなく冷たい麦茶でノドを潤し、程よく冷えた手抜きパスタでお腹を満たした。
手早く片付けを済ませ、ローソファにもたれ掛かって両足を投げ出す。ぼんやりテレビを眺めながら、ちょっとお高いカップアイスをちまちまと楽しむ。
「幸せ・・・」
ささやかだけど、今とても幸せ。毎日仕事で馬車馬のようにこき使われ、疲れて帰ってくればピンクの封筒が投函されていて、更に疲れは増すし気分は悪い。だけどこうしてゆっくりお風呂に入ったり美味しいものを食べたりして気持ちが上昇すると、現金なものでそれだけで幸せを感じてしまう。
「こんな気持ち、可菜ちゃんは感じられなかったんだよね・・・」
ぼーっと虚空を見つめていると、無意識にポツリと言葉がこぼれ出た。
幸せどころか彼女が最後に味わったのは、恐怖と悲しみと絶望だったはずだ。スクラップブックで知った姉の惨状は、それほどまでに酷いものだった。必死で両親に助けを求め、犯人に命乞いをし、それでも願いは聞き遂げられず、少女は7年という短い生涯に勝手に幕を下ろされた。
もしかしたら立場が逆だったかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが走る。自分じゃなくてよかったなんて微塵も思ってはいないけれど、どちらか一方が犠牲になる運命なのだと言われても、進んで自身を差し出す気持ちにはなれない。
(んん? どちらか一方?)
なんだろう? 何かが引っ掛かる。
考え事をしている間にすっかり溶けてクリーム状態になったアイスの残りを、上の空のままスプーンでくるくると掻き混ぜ続けていた。
◆ ◆ ◆
「で? わざわざここへ来た理由は?」
ど~~~しても坂村の言葉が気にかかって仕方が無かった日菜子は、弓削と富田の連絡先がわからないからと仕事帰りに彼らが勤務する警察署へ、連絡もせずに直行した。
玄関の真正面に位置する生活安全課のカウンターで、弓削への取り次ぎをお願いすると、ややして奥から現れたのはゴツイ中年刑事ではなく、見るからにS気質の糸目メガネ・富田がやってきた。彼は日菜子を認めるなり苦く表情を歪め、ドスドスと靴音も荒く近づいてくると、無遠慮にガシッと二の腕を掴み、周囲の目を気にする様子もなく力尽くで外へと引っ張り出した。
「富田さん! 何処へ行くんですかッ」
訊ねても彼は無視するだけ。盗み見る横顔はかなり顔色が悪く、メガネの下の細い目の下にはくっきりと隈が見て取れる。
陽が落ちてもムッと蒸し暑い外気。セミの大合唱が聞こえる中、建物の陰まで連れて来られると漸く手を離された。
彼は徐に腕組みをして正面に立ち、怒ったような顔で日菜子を見下ろした。
「アポ無しで。どんな理由なら俺たちの仕事の邪魔をしていいと思ったんですか?」
ビリビリと感じる威圧感。先生に叱られる小学生のように、日菜子は怖くて俯いたまま顔を上げられない。
あからさまに不機嫌な低い声にビクビクしつつも、ヨレたYシャツや皺だらけのスラックスに、まだ過去に二回しか会っていないけれど、キチッとしていないのは彼らしくないと思っていた。
警察の仕事の過酷さを全く知らない日菜子にさえ、不眠不休で捜査しているのだと推測できた。
「ご、ごめんなさい。坂村さんに、富田さんたちに会ったって聞いて・・・」
「ああ? ああ・・・なるほど。あの時の無線を聞いたんですね」
酷く疲れている様子なのに、坂村の名前を出しただけですぐにピンと来たようだ。さすが! と賞賛したいけれど、今それを言ったら確実に雷が落ちるだろう。
「で? アナタは何が訊きたいんですか?」
「え?! 訊いてもいいんですか?」
彼の意外な返答に、日菜子は音がしそうなくらい勢いよく顔を上げた。そして気が付く。自分を見下ろしている彼の眼差しが予想していたものと違って、そんなに冷たくなかったことに。
「教えてくれるの?」
上目づかいで恐る恐る訊ねてみれば、今までとは打って変わりフッと微苦笑を浮かべた。言葉にはしないけれど、彼はヒョイっと肩を竦め、あごをしゃくって先を促した。
了承と受け取れそうな彼の仕草に背中を押され、日菜子は思い切って口を開いた。
「あ、あの・・身柄確保って・・・誘拐事件の犯人が捕まったんですか?」
まっすぐに富田の目を見つめ、日菜子は答えを待った。
「イエスだが、ノーでもあります」
「え?」
ハッキリしない返事に日菜子の眉根にシワが寄せられる。そんな彼女の反応に、富田は小さく息を吐いた。
「まだ容疑者ですよ。確かに女子児童を車に押し込んだのを目撃されているし、警察の包囲網・・・検問によって、手配中の車に乗っていた男は拘束されました。自供も始めています。アナタの言うとおりどう見ても誘拐犯だ。ですがアナタが聞きたがっているのは、逮捕された男が誘拐犯か否かではないでしょう?」
彼のメガネの奥の糸目がうっすらと開き針のような眼差しで見つめられ、日菜子の腕に一瞬鳥肌が立った。
そう。聞きたいのは可菜子の事件に関係しているのかどうか。もし捕まったのが弓削の予想した連続誘拐犯なら、その人物の顔を見れば記憶が戻るかも知れない。
「犯人の顔、見せてもらうわけにはいきませんか?」
勇気を出して頼むが、あっさり首を横に振られた。
「俺の一存ではなんとも。まあ、弓削さんに頼めば課長の許可なんてすぐに下りるでしょうけど・・・でもいいんですか? 万が一にもいま拘留されている男がアナタのお姉さんを・・いや、アナタ自身の事件の犯人だったら、恐怖と怨恨の対象の顔を確かめることになるんですよ」
指摘された事実に、ハッと息を呑んだ。確かに富田の言うとおり、拘留されている男の面通しをして、万が一にも日菜子と可菜子を攫った犯人だとしたら?
失っている記憶を取り戻したいと思う反面、事件を・・犯人を思い出し、可菜子を思い出した自分がどんな風になってしまうのかが想像できず、日菜子はゾクッと背を震わせた。
でも、それでも――――――・・
「怖いけど・・・でも、目を背けちゃいけない。・・いけない気がするんです」
固い決意を示すように両手をぎゅっと握り締め、富田をジッと見上げて頷いてくれるのを待った。
思い出すのは14年前。可菜子の遺体が発見されたとの報告に、ガックリと崩れ落ちて号泣していた両親、親戚。告別式に抱き合って涙をこぼすクラスメートたちや先生。
「あたし一人だけ悲しくない。あたし一人だけ涙が出ない。・・・あの日、親族席に座る自分がなんだかとても場違いな気がして、後ろめたかった。嘆き悲しむ両親を慰めることも、一緒に悲しむこともできず、ただ一人ポツンと取り残されたような疎外感にイライラして・・・・・・見当違いも甚だしいけど、可菜ちゃんのせいで家族が苦しんでるんだって思えてきて、式の間ずっと遺影を睨んでたんです」
可哀想な姉に責任転嫁し、勝手に恨んでいた反面、大人たちの無理に思い出さなくてもいいとの言葉に甘え、覚えてもいない事件の被害者という立場に寄り掛かっていたのだ。
「でも梨花ちゃんの話をキッカケに見覚えのない景色が視界に重なり始めたら、どんどん事件のことが気になりだしたんです・・・」
「だから面通しを申し出たと? その考えは少々短絡的過ぎるんじゃないですか?」
短絡的なのはわかってる。わかってるけど、でも・・・ッ。
「わかりました。その申し出、私が上に掛け合いましょう」
突然会話に割り込んだ聞き覚えのある低い男性の声に、二人はほぼ同時に振り返った。
少し離れた場所で、レンガを模した外壁に寄り掛かってこちらを見ている大柄の人影を見つけ、日菜子は驚きの声を上げる。
「え?! 弓削さん!」
すっかり日が暮れ、署内からもれる明かりと街灯に浮かぶ彼の表情はヤレヤレと言いたげだ。慌てて振り返り富田を見上げれば、こちらは弓削がいることに気がついていたのか、驚いた様子もなく、腰に手を当てたまま彼を睨んでいる。
「いいんですか? 勝手にそんなこと言って。今回の事件の関係者ではない彼女に面通しなんて、課長がウンと言いますかね?」
「まあ大丈夫だろう。いざとなったら俺が始末書の一枚でも書くさ」
ボリボリと耳の後ろを掻いて笑ってみせた弓削に、僅かに良心は痛んだものの、日菜子は改めてペコリと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
◇ ◇ ◇
弓削に通されたのは、最低限の明かりしか点されていない、薄暗く狭い部屋。事務机と椅子の他には、壁にカーテンが掛かっているだけだ。
彼らは一緒に入室すると、ドアをしっかりと施錠した。
「心の準備はいいですか? 少しでも無理そうだと思ったら、すぐにでも言ってください。ではこちらに寄って」
促されたのはカーテンの前。ドキンドキンと脈打つ鼓動を落ち着けようと、心臓の上でギュッと両手を握る。二度繰り返して深呼吸すると、日菜子は弓削の目を見て頷いた。
カーテンが開けられる。
隣室は取調室だった。室内に男性が3人。机を挟んだ向こう側に、薄汚れてヨレヨレのTシャツを着た見知らぬ男。こちら側にYシャツの背中を向けた白髪まじりの男。もう一人は隅の机で何かを書き続けている制服警官だ。
弓削が窓ガラスをコツコツとノックすると、白髪まじりの男が軽く手を挙げ、対面の男へと身を乗り出す。するとTシャツの男が顔を上げ、日菜子のいる窓ガラスへと視線を向けた。
「!」
「大丈夫。心配しなくても向こうからこちらは見えていません。・・・どうですか? 何か思い出せそうですか?」
ビクッと肩を揺らして後ろに引いた日菜子を、安心させるように弓削が背中を支えてくれる。ゆっくりでいいと囁かれ、改めて深呼吸で気持ちを落ち着かせると、もう一度ガラス窓に寄り男を見つめた。
年の頃は40前後。ほぼ坊主頭に近い短髪で、かなり色黒。四角い輪郭に細い目、眉尻に向かって太くなる眉毛。やや鷲鼻で唇は薄く、体型はガッシリしている方?
「・・・」
「早渡さん?」
頭痛が起こらない。最近頻繁に襲ってくる二重画像のようなあの景色が、こんな時に限って見えてこない。
「ヤツは戸塚 源太、42歳。職業は・・今は無職だ。以前は土木作業員だったようだが。一昨日に学校帰りの小学生・・3年生の女児を車で拉致し、グルグルと近郊を連れ回しているところを、検問中の警官が不審に思ってナンバーを照会、身柄を拘束したんだそうだ」
詳細を聞かされながらじっくりと男を観察するが、やはり垣間見えるシルエットとは重ならなかった。
「あの人は可菜ちゃ・・姉の事件の犯人じゃないと思います。・・・ほかはわからないけど」
視線を戸塚に向けたままポツリと零す。
「根拠は?」
日菜子の呟きを拾い聞いた富田が、なぜそう思うのかと理由を聞いてきた。
「理由は、・・・・・・違うと思ったから」
「違うと思った? それが理由として通ると思ってるんですか?」
富田の声に苛立ちが混じる。チッと舌打ちする彼を、弓削が苦笑いしながら落ち着けと手振りで宥めた。
気持ちはわかる。日菜子自身にもほかにハッキリと説明ができない。シルエットが・・しかも14年も前の幻のような人影が、ガラス越しに見えるあの男とは別の人物だとどうして言い切れるのか。
事件のことも可菜子のことも、まだ全くと言っていいほど何も思い出せないのに。でも・・・
「この前、ドーナツ屋さんでもお話しようと思ったんですけど・・・」
そう前置きし、日菜子は時々視界を占領する殺風景な部屋と暗い人影の話をした。
見え始めた頃は静止画のようだった幻影。今では黒一色のシルエットはゆっくりと日菜子を振り返り、こちらに向かって手を伸ばしてくる。
段々と男の影との距離が近づいていることに恐怖を感じるとともに、もしかしたら記憶が戻る予兆なのではないかとの期待もある。
幻影について説明し終えると、刑事の二人は難しい顔で考え込んだ。
「あー・・その幻のような風景と一緒に見える男の影が、戸塚とは重ならないって言うんですね?」
ポリポリと顎をかきながら弓削が日菜子に問う。彼の表情は呆れよりも困惑の方が色濃い。それに反して富田はというと、予想外にも興味を引いたようだ。
「14年前なら戸塚は28歳。・・・体型は太ったり痩せたりすれば変わってしまうでしょうが、30近くにもなればもう背は伸びませんね。早渡さん。男のシルエットの身長はわかりますか? なにか比較できるものとか、目線の角度とか」
角度。・・・そこまで考えていなかった。
「あ・・わからないですけど、あたしの目線はかなり低いような気がします。近づいて手を伸ばしてきた男の背後に、グレーの天井が・・・」
粟立った腕を擦りながら、思い出し思い出しそう告げると、二人は再び目を見交わした。
急に場所を変えようと提案され、彼らについて部屋を出る。自販機のある休憩コーナーへ移動し、椅子の一つを勧められて腰を下ろすと、弓削がコーヒーを買い日菜子に差し出した。
「どうぞ」
「あ、すみません。この間もご馳走になったのに」
ペコリと頭を下げてお礼を言い、彼から紙コップを受け取る。男の顔を確認するだけとはいえ、やっぱり緊張していたのだろう。自販機コーヒー特有の香りが鼻腔を抜け、ホッと気持ちが楽になった。
「富田さんは?」
気づくと富田の姿が見えない。キョロキョロと周囲を見回して訊ねると、弓削は苦笑して日菜子から一人分離れた隣に腰を下ろす。
「富田は一旦デスクに戻りました。仕事を中途半端にしたままだったので、片付けが済んだら戻ってきます」
「あッ! あたしが急に押し掛けちゃったせいですね。ごめんなさい!」
慌てて謝ると、彼は手を振ってそれを止めた。
「いえいえ。・・それにしてもアナタはアイツを嫌がりませんね」
「?」
「いえね。富田は、根はいいヤツなんですが、目つきが悪いのと慇懃無礼な態度のせいで、敬遠されがちなんですが、早渡さんからはそんな感じがしないな・・と」
不思議顔の日菜子がおかしかったのか、彼はクククッと笑った。普段コントのようなやり取りをしていても、弓削が富田に向ける信頼は大きいもののようだ。
「あー・・確かに目つき悪いですもんねー。それに口調も結構遠慮がないっていうか・・・」
もう少し言葉を選ぶだけで富田の印象はもっと良い方に変わると思うのに、彼は多分わかっていて地のままでいるのだろう。
「お・・私からも何度か注意してみたんですがね、あっさり反論されましたよ。アイツ曰く『目つきが悪くて威圧的なら、犯人にもナメられずに済んでいいじゃないですか』だそうです」
「プッ!」
想像できる。不遜な態度の彼を思い浮かべ、ウッカリ吹き出してしまった。それこそこの場に本人がいたらブリザード級の冷たい視線を向けられただろう。
クスクスと笑っている日菜子に、凝固まっていた肩から力が抜けたのを感じ取った弓削は、居住まいを正し聞いてもらいたいことがあると切り出した。
「田島 梨花の事件の詳細を・・・聞いて、もし引っ掛かったことがあれば教えて欲しいんです」
ニュースやワイドショーで報じられ、国民のほとんどが知っている誘拐事件。行方不明になった経緯や、妹だけが帰ってきた状況。懸命な捜査でも犯人に繋がる手懸りは無く、今や暗礁に乗り上げつつある。
「え・・でも、弓削さんもご存知のように、あたしはあの時のことは・・」
「まだ記憶は戻ってない。忘れていませんよ。しかし時折ビジョンが重なるのなら、事件やお姉さんに関しての記憶は失ったのではなく、眠っているだけじゃないでしょうか。なら、田島 梨花の事件の話を聞けば、もしかしたら何か違和を感じるかもしれない」
お願いしますと大柄な彼に、深々と頭を下げられてしまった日菜子は不承不承ながらも了承するしかなくなった。ためらい勝ちに頷き、コーヒー一杯分くらいならご協力しますと苦笑してみせると、彼の表情も幾分か和らいだ。
「大体は早渡さんもテレビなどでご存知でしょうが、模倣犯の出現の抑止とほかの誘拐事件との区別のため、あえて秘匿にしていることもあるんです」
決して他言しないで欲しいと前置きし、彼はマスコミに発表していない極秘事項を話しだした。
「遺体発見時、梨花の左の二の腕には油性マジックで丸が描かれていました。直径3センチくらいの。アナタの事件と類似点があることに注目し、もしかしたら同一犯の仕業も考慮して、それらを手懸りに他県警・・おもに関東の一都六県に協力を頼んだところ、ここ数年遡って調べた結果、少なくても3人の少女の腕にも同じく丸が描かれてあったそうです」
しかしこれまでは重要視されていなかった。なぜなら、被害者の腕に丸を描いたと証言する友人が必ずいたからだ。
「どの事件でも必ず一度は注視されるが、すぐに自分が描いたと友達の一人が名乗り出る。被害者が行方不明になる以前にふざけ合っていて描いたものだ、と。事件に関係していないとみなされ、これまでは除外されていたようです」
手懸りから外されていたせいで、ほかの誘拐事件と関連付けられず、連続誘拐殺人事件として捜査されなかったという。
「梨花ちゃんの丸は? 犯人が描いたんですか?」
「いいえ。妹・・田島 結花が描いたそうです。本人がハッキリと証言しました。自分が男に強要されて描いたと」
『描かないとあの子みたいにするって言ったの。描けばパパとママに会えるよって・・』
結花は泣きながら、姉の腕に目印を描いたらしい。
「目・・印・・・?」
「はい。男はそう言ったそうです」
目印・・・
『ほぉ・・考えたものだ。・・失敗したな。目印でもしておけばよかった』
突然ハッキリとした男の声が頭の中に響き、酷い目眩に襲われた。
「いやぁ・・ッ!」
「早渡さん?!」
突然悲鳴を上げて身を丸めた日菜子の様子に、弓削は驚いて立ち上がると、彼女の両肩を掴んで何度も呼びかけた。
「早渡さん! しっかりしてください! どうしたんですかッ?」
「声が・・・男の声が・・・」
『しかし僕の目を欺くには、些か考えが足りなかったようだよ?』
「男? ・・! それは幻のように見えるって言ってた、例の男の声ですか?!」
耳を塞ぐ日菜子の顔を弓削の大きな手が手挟み、真正面から覗き込まれたが、痛みとショックで涙が滲んで、彼がどんな表情をしているのかよく見えない。
「わか・・な・・・ッ、でも頭の中にガンガン・・響い・・・!」
一際大きな目眩が押し寄せ、ぐらりと体が傾ぐ。プツンと後頭部で何かが途切れた音がしたと同時に、視界は暗転し、日菜子は意識を手放した。
◆ ◆ ◆
「うわっ! 早渡さん?!」
突然意識を失って崩れ落ちた日菜子を間一髪で受け止めた弓削は、ドスンと後ろに尻餅をついた間抜けな体勢でホッと安堵の息を吐いた。
「弓削さん、ナイスキャッチです。年の割にいい反応でしたね」
タイミング良くなのか悪くなのか微妙なところだが、ちょうど現れた富田は女性の下敷きになっている弓削に楽しそうな視線を向けながら近づいてきた。
さすがに体力は追いつかなかったみたいですけどと、いつも通り一言多い彼は、紙のように真っ白に色を失くした日菜子の顔を覗き込みながら、グッタリと弛緩した肢体を先輩刑事の腕の中から引き取った。
一見細身でインテリっぽいが、それなりに鍛えているだけあって、危なげ無く日菜子を横抱きに抱え上げる。
「彼女、どうしましょうか?」
「んーそうだな・・、とりあえず応接室のソファでも借りとくか」
ヨッコラショと立ち上がり、ズボンに付いたホコリを払う。本当は些か尻が痛いが、富田にバレると笑われるのがオチなので我慢した。
富田が先を歩き応接室へ向かう。経費節減を謳うために蛍光灯の本数を減らされた薄暗い廊下に二人の靴音が響く。目的の部屋の前まで来ると、さも当たり前のような面持ちで、弓削がドアを開けるのを待っている。
「お前な~・・開けろってんなら、ちゃんと口で言えよ」
「『開けろ』」
「おっせぇよ! それに『開けてください』だろうが!」
だが文句を言いつつも、ついつい開けてしまう。
どことなく勝ち誇ったように見える富田の横顔にムカつきながらも、彼に続いて応接室に入る。手が塞がっている富田に代わって照明を点け、ソファ前のローテーブルを退かした。
富田がそうっと日菜子を横たえると、弓削はスーツを上着を脱ぎ、彼女の上に掛けてやった。
「「・・・」」
暫し、二人無言で眠る日菜子を見つめる。
「なんか寝苦しそうですね。眉間にシワが寄ってますよ」
年頃で嫁入り前の娘がする寝顔じゃないと富田が呟けば、弓削は苦笑して頷いた。
「ああ。気絶する前に何かを思い出しかけたらしくてな、男の声が聞こえたと言っていたんだ」
「男の声ですか?」
訝しげに聞き返す富田に、弓削は彼がいない間に日菜子と交わした遣り取りを説明した。
「梨花の腕に描かれていた丸印の話をした途端、様子がおかしくなった。・・・・・・ずっと昔、専門医に訊いてみたことがあるんだが、記憶喪失と言っても実際には記憶は消滅したのではなく、一度脳に刻まれた記憶は必ず残っているらしい。だが酷いショックや暗示などによって、心の奥底に封じられた」
「自分の意思で、ですか?」
「彼女の場合は、そう診断がなされた」
無意識に己が心を守っている。
「誘拐事件の被害者である事自体、幼い少女にとっては確かに思い出したくないほどの恐怖だっただろう。だが双子の姉の存在まで封じてしまうなんて、一体何が彼女をそこまで追い詰めたのか。同一犯と思われる他の誘拐事件の被害者と推測される女性たちも、一様に口を揃えて被害者であることを否定しているらしい」
「誘拐事件に巻き込まれたことなど無いと?」
「そうだ。・・・・・・一体何を黙っているんだろう? 犯人は被害者たちを、どんな方法で黙らせているんだ?」
犯人は一体何者なのだろう?
空いている一人掛けのソファに腰を下ろし、弓削は目元を手のひらで覆った。日菜子をはじめ、被害者たちの証言が得られれば、きっとすぐにでも犯人に繋がる手懸りが得られ、これ以上無残な犠牲者を出さずに済むかも知れないのに・・・
難しい顔で黙り込んだ弓削を見ていた富田は、再び日菜子の寝顔に目を向け、大仰に溜息を吐き出すと、なにか飲み物を買ってくると言って出入り口に向かった。
「弓削さんは彼女が目覚めるまで、ここにいてあげてください」
常ならば有り得ない、優しいセリフを吐く富田を気色悪く感じた弓削は、信じられないものを見るような視線を後輩に注いだ。そんな眼差しに気がついた彼は困ったみたいに微苦笑したが、何も言わず応接室を出て行った。
シンと静かな部屋。遠ざかる足音を聞きながら、取り残された弓削はまだ若く刑事になったばかりの14年前を振り返る。
当時目の当たりにした、惨たらしい少女の遺体を写した現場写真の数々。告別式で見た、泣き崩れる両親とクラスメートたちであろう多数の児童。
子ども用の小さな棺は決して開けられることはなく、最後の別れを言いに来た参列者にただの一度も顔を見せなかった。
(違う。酷い縫合跡だから見せなかったんじゃない)
「見せられなかった・・見せたくなかったんだ。・・・せめて早渡 可菜子を知る人々の心の中には、明るく元気で楽しげな、笑顔のままの彼女を覚えていて欲しかったんだろうな・・・」
愛娘の死を悼んで泣き崩れる早渡夫妻。その隣では黒いワンピースに身を包んだ少女が、自分と同じ顔の遺影を、虚ろな眼差しで見つめていた。
(たった一度見かけただけだが、まさかあの子が彼女だったなんてな・・)
世間の狭さに驚いた。
二つに結んでいた長い髪はバッサリと切られ、スッキリとしたショートヘアだから尚更気づくのに時間がかかったが、よく見てみれば面影は残っている。・・・いや、14年前から変わらない。キレイな女性に成長していた。
魂の無い人形のようだった少女は、大人になった今、過酷な過去に向かい合おうと顔を上げた。ならば、自分がしてやれることは一つだけだ。
弓削はギュッと拳を握り締め、彼女に出来る限りの協力を惜しまないことを、固く心に誓った。
◆ ◆ ◆
気づかないうちにウトウトとしていたらしい。板の間で横たわっていたのが理由か、だるい体を起こしながら腫れて重くなった瞼を擦る。
『ここは・・?』
寝起きのせいか一瞬どこにいるのかわからなかったが、殺風景で暗い部屋に目をやり、すぐに現実を思い出した。
誘拐された事実を。
隣で寝息を立てる少女を一瞥し、一旦声を掛けようと考え・・止まる。起こさないようにそっと立ち上がると、静かにドアへ向かった。
(すぐ戻ってくるから・・)
二人一緒に同じ部屋で待つように言われて、どのくらい経つだろう。
これから自分たちに訪れる未来がどんなものなのか予想できず、互いに抱きしめ合って散々怯え悲しんだが、泣くだけ泣いて疲れ切り、いつの間にか眠ってしまったようだ。目が覚めれば尿意を覚え、仕方なくトイレを探すため部屋を出た。
出入り口で一旦立ち止まり、部屋の隅で膝を抱えて丸くなっている少女を振り返る。さっきまで一緒に家に帰りたいと泣いていたが、今は苦悶の表情で眠っている。
本音を言えば一人で部屋を出たくはない。だが、せっかく落ち着いた彼女を起こすのは忍びなく、日菜子は勇気を振り絞って廊下に出た。
シ・・ンと静かで薄暗い室内。靴下越しなのに、やたらとヒンヤリ感じる足の裏。足音を立てないようにゆっくりと慎重に進み、トイレだと見当をつけたドアのノブを回した。
キィィィ・・ 軋んだ音を立てドアが開く。僅かに逡巡した後に明かりを点け、中に入った。
限界まで溜まりきったものを排出して、ホッと息を吐く。ためらいを残しつつも水を流してトイレを出ると、明りを消して姉の待つもとの部屋に戻ろうと踵を返した。
カタ・・・ 『ぁ・・』
奥の部屋から聞こえた微かな物音と声が、日菜子の足を止めさせた。
立ち止まって振り返る。逼迫していた状態から解放され、気持ちに緩みが生じたのだろうか。ゆっくりとゆっくりと音のした部屋へ近づき、磨ガラスが嵌められているドアを指先でそっと押した。
(あ・・・開いた)
まるで日菜子を招き入れるように、ドアは音もなく内側に開いた。
隙間から覗き込んだ部屋の中は、家具一つ無くガランと殺風景だった。深い灰色一色の部屋の中、中央に黒いものが転がっているだけの暗く広々とした空間に、夕焼けのオレンジ色に切り取られた窓が、なぜか異質に感じられた。
『誰だ?』
誰もいないと思っていた部屋の隅から、一番聞きたくない声が聞こえてきた。途端に全身が震えだし、早くここから立ち去りたいのに、恐怖心から足が竦んで動けない。
カチカチと歯が当たって耳障りに鳴る。
『ああ、なんだキミですか。ふふふ・・どうしました? 待ち遠しくて様子を見に来たんですか?』
彼の右手には尖った何かが鈍く光り、先端からポタリポタリと雫が滴っている。
男が近づくのに合わせて、顳かみがズクンズクンと痛む。ノドが張り付いたみたいに声が出せず、ただジッと見つめる以外に何もできなかった。
『くくく・・残念です。きちんと二人で決めて欲しかったのに、今回はキミに決まってしまいましたね』
『な・・なにが・・?』
やっとで発せられた問に、彼はさも楽しそうに答えてくれた。
『もちろん。僕に愛される権利ですよ』
すぐ目の前に立った男が日菜子に手を伸ばし、大きな手がツインテールに飾られたリボンを弄ぶ。弓なりに開いた口元と、白い歯並びが見え、こんな時なのにどうしてなのか「あれ?」と何かに違和感を覚えていた。
『ヒナ!』
呆然と固まっていた日菜子を我に返したのは、少女の叫び声だった。
呼ばれると同時に腕を引かれて廊下を駆ける。玄関に辿り着いたが、ドアはたくさんの鍵で施錠されていて、子どもの目から見ても外に逃れるのは不可能だ。
瞬時に方向を変えバスルームに飛び込むと、暗い浴室に入って鍵をかけた。
『痛ッ!』
振り向いた彼女に突然髪ゴムとリボンを引き抜かれ、痛みに悲鳴を上げる。
どうしてそんなことをされたのかわからずに髪を押さえていると、自分のリボンも外すように頼まれた。
『リボンさえ外しちゃえば、あたしたちがどっちなのかわからないわ! ヒナもあたしのリボンをほどいて!』
二人は両親さえ間違えることがあるほどそっくりだし、服装も同じ色同じデザインのカーディガンとジャンパースカート。唯一色違いなのはリボンだけなのだから、外してしまえばきっと男には見分けがつかない。
言われるままに向かい合う少女のリボンを取り去った。と、その直後ガタンとドアに何かがぶつかる音がし、鍵が外側から解錠された。
『きゃあ!』
『残念。お風呂場の鍵って外から開くんだよ。知らなかったかい?』
姿を現した男のシルエット。部屋以上に暗いバスルームでは、ほんの1メートル先にいる男の顔さえ全く見えない。
ジリジリと近づいてくる男から逃れるように、抱き合った二人の少女は、一番奥のタイルの壁に張り付く。しかしもうこれより先に逃げ場はない。
がたがたと震えて抱き合う少女たちに、突然懐中電灯の明かりが向けられた。
『ほぉ・・考えたものだ。・・失敗したな。目印でもしておけばよかった』
失敗だと言っておきながらも、男の口調はどこか楽しんでいる。精一杯体を縮込める少女たちを一瞥し、迷うことなく一方の手首を掴んだ。
『しかし僕の目を欺くには、些か考えが足りなかったようだよ?』
その小さな手に握られたままのリボンを奪い、ふらふらと振ってみせた。
『ね? ピンクのリボンさん』
◇ ◇ ◇
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「早渡さん!」
突然耳を劈くような悲鳴を上げて目を覚ました日菜子は、ボロボロと涙をこぼしながら、胸の上にかけてあった上掛けごとギュッと自分自身を抱きしめた。
極寒の地に放り出されたように全身が強張り震え、頬や唇から血の気が失せている。
「早渡さん! どうしたんですか? なにかあっ・・」
「あ・・ああ・・・おと・・男の人が・・追い掛けてきて・・・リボン・・」
「大丈夫! 落ち着いて! ここにその男はいませんからッ」
弓削はずっと傍にいてくれたらしい。錯乱して怯える日菜子の肩を強く抱き寄せると、宥めるように細い背中をポンポンと叩いた。
一定のリズムで背中を叩かれているうちに次第に落ち着きを取り戻し、日菜子はパチパチと瞬きを繰り返し、ゆるりと顔を上げて弓削に視線を移した。
「弓削さ・・・あたし・・」
あの日のことを思い出したと途切れとぎれに告げ、怖いと涙声で訴える。一瞬彼の表情が顰められたが、次には柔らかいものに変わった。
「大丈夫。アナタとお姉さんの事件は、必ず我々が解決します」
弓削の真摯な眼差しを受け、怯えて縮み上がっていた心が柔和に変わる。知らずカチコチに凝り固まっていた肩から力が抜け、ホッと安堵の息がこぼれた。
ふと自身がいる場所に気がつけば、失神しているうちにどこかのソファに運ばれ寝かされていたらしい。スカートの裾に気をつけながら脚を下ろし、背もたれに寄りかかる。その時になって自分が抱きしめてシワにしてしまっているものがただの上掛けではなく、弓削の背広であることに気づき、慌ててお礼を言って彼に返した。
「あ・・ありがとう、ございます」
「いいえ。・・・もう大丈夫ですか?」
コクンと頷くのとほぼ同時に、衝立の陰から富田がひょこっと顔を出した。その手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを弓削に手渡しつつ、日菜子の様子を横目にチラッと窺った。
「なにを思い出したんですか? それにさっきリボンって・・」
ペキペキと蓋を開けてペットボトルを開封する弓削の背後から、険しい面持ちの富田が腕組みをした姿勢で威圧的に訊ねてくる。余りにも遠慮のない物言いに弓削は眉を顰めて後輩を止めようと試みたが、そんな彼の腕を掴んで抑止を遮ったのは日菜子だった。
「リボン・・・。あたしは小さい頃、いつも黄色のリボンをしてたんです。姉はピンク。お揃いの・・・。でも、あの事件の日はいつもと違ったの・・・」
さっき蘇った記憶の断片を懸命に思い出しながら、ゆっくりと話し始める。事件のことを思い出したと言っておきながら真っ先にリボンの話を始めた日菜子に嫌な顔もせず、二人は耳を傾けてくれた。
「ちょっとしたイタズラでした。家に帰ったらお母さんがきっと間違えるだろうって、学校帰りに交換したの。でもお遣いに出たのかお母さんは家にいなくて、そのまま二人で遊びに行ったんです」
まさか自分たちが誘拐されるなんて思ってもみなかった。そしてリボンの色があんなふうに運命を分けてしまうなんて・・・・・・蘇った映像はとても残酷で、とても心苦しい。
意識の奥底に封じられていた記憶が一気に呼び起こされ、日菜子のキャパシティーを大きく超えて酷く混乱しているが、必死にバラバラの欠片を繋ぎ合わせ、ゆっくりと切り出した。
◆ ◆ ◆
微かなブレーキ音を立てて、車がマンションの前で停まる。後部座席のドアが開き、パンプスを履いた足が下ろされた。
時刻はすでに22時を回り、マンションの周囲も人通りはほとんどない。エントランスから射す明かりとオレンジ色の街灯に、小さな羽虫が集まって旋回している。
「こんなに遅くまでお時間を取らせてしまって、本当にすみませんでした」
日菜子は深々と頭を下げると、彼女と同時に助手席から降車した弓削は、いえいえと手を横に振って恐縮した。
「コチラこそ随分と長く付き合わせてしまいまして、申し訳ない」
互いに謝り合う二人を、運転席で富田が呆れて見ていたが、シビレを切らしたのか窓から顔を出し、イライラを隠すことなく眉間にシワを寄せて、日菜子と一緒に自動ドアの前にいる弓削に話しかけた。
「もー弓削さん、いい加減にしてください。時間も時間なんですからー! 早渡さーん、今日はお疲れ様でしたー! また後日お話を窺いますので、今夜はゆっくりとお休みくださーい!」
「富田・・」
近所迷惑だろうが・・・と肩を落として呟いている弓削の様子がおかしくてクスクスと笑うと、彼も日菜子に目線を合わせ、つられたように微苦笑した。
「まあ、アイツの言うとおり、今夜はちゃんと休んでください。急に色々思い出してお疲れでしょうし、明日もお仕事ですよね?」
「はい。え・・と、お気遣いありがとうございます。弓削さんと富田さんは・・?」
「我々も今日はもうこのまま帰ります。今日アナタから聞かせてもらった話は、明日上司に報告するので、関連性を認められて実際に再捜査となった場合、正式に聴取の依頼があると思います」
「わかりました。・・ありがとうございます」
捕まった誘拐犯と思しき男が、二重画像のシルエットの男かどうかを知りたかっただけなのに、僅かな情報が呼び水となって、失われていた記憶がこんなふうに蘇ってくるなんて思わなかった。
恐怖に彩られた最悪の記憶。一気に心が当時に引き戻されて怖くて仕方が無かったが、それでもちゃんと落ち着くことができたのは、彼らが傍にいて大丈夫だと言ってくれたから。
「ありがとうございます」
そんな感謝の気持ちを伝えたくて、「ありがとう」を繰り返した。
「いいえ、それじゃあ・・」
「あれ? そこにいるのは早渡さんじゃないですか?」
弓削が立ち去ろうと日菜子に背を向けようとしたその時、聞き覚えのある男性の声が二人に掛けられた。
同時に振り向き声の主を見つけると、そこにはスーパーのレジ袋をぶら下げた篠田夫妻が、マンションに向かって歩いてくるところだった。
「篠田先生! 奥さんも。こんばんは。今お帰りですか? 大変ですね」
「あ? え? 篠田先生・・・奥さんも、どうしてこちらへ?」
見知った人物の登場に驚く弓削を一瞥し、軽く会釈だけ寄越すと、篠田はいつもと同じ穏やかな笑顔で、日菜子の前で立ち止まった。
「こんばんは。先日はどうも。あのキリン、出来上がりが楽しみですよ」
「あ、こちらこそです。・・えっと、弓削さん。篠田先生はあたしと同じマンションにお住まいなんです。7階。すごい偶然でしょ? あー、あの・・お二人は今までお仕事を?」
目を丸くしている弓削に、それとなく篠田がここの住人であることを説明し、夫妻にはこんな夜遅くまで仕事だったのかと問いかけた。
腕時計を確認すれば、もう22時半に近い。遅くまで大変ですねと労うと、篠田は沙也加と視線を交わし、困ったように苦笑した。
「ええ。ほかのスタッフは定時になったら上がってもらいますが、仕事は山のように残ってるので、僕ら夫婦で残業です」
自分の医院だから残業代0円ですと、自虐的に笑う。
「そちらは? 刑事さんと一緒なんてどうしたんですか? なにか事件とか事故とか? もしかしてこの前、医院にいらした時の要件ですか?」
「あなたッ、そんな野次馬みたいにアレコレ訊いては失礼よ。・・早渡さんごめんなさいね。小児歯科をやってるせいかしら? 変なところが子供っぽいの」
慌てて夫を窘める沙也加に、日菜子はいいえと首を振った。
「今日はちょっと相談に乗ってもらったんです。――――――あたし小さい頃に誘拐されたことがあるんですけど、ちょっとそのことで・・」
「誘拐? それは・・・大変だったんですね・・」
いつもは保父さんのようにフワフワした笑顔の篠田の表情が、急に怖いくらい真剣なものに変わった。
「はい。それにまだ犯人は捕まってなくて。だからいま世間を騒がせている誘拐事件が、もしかしたら同じ犯人の犯行じゃないかなって・・」
「・・・田島 梨花ちゃんの事件と犯人が同じってことですか?」
篠田は弓削に訊ねたが、彼は曖昧に微笑むばかりで何も答えない。さっきまでにこやかで親しみやすい笑顔だった彼が、なぜか今は作り笑顔でただ篠田を見ている。
「ま、まあ、怖いわねぇ。・・さ、あなた。そんな大事なお話があるんじゃ、早渡さんたちの邪魔しちゃ悪いわ。帰りましょう」
沙也加はペコリと会釈すると、夫の腕をグイグイと引っ張ってエントランスへと入っていった。
無言で見送った二人・・いや、三人に、蒸し暑く生ぬるい風が撫でるように通り過ぎ、マンション前に植えられているケヤキが、ザワリと枝葉を鳴らした。
「篠田さんが同じマンションだってこと、ご存知でした?」
いつの間に車を降りたのか、気が付けば富田が日菜子の後ろに立っており、弓削と同じく夫妻が消えたエントランスの方向を凝視している。
「え? あ、はい。つい最近、奥さんとエントランスで鉢合わせて知ったんです。すっごい偶然ですよね」
こんなこともあるんですね! と楽しそうに告げる日菜子に、弓削はたった今思い出したように「あ、そうだ」と呟き、郵便受けの場所を訊ねてきた。
「ついで・・と言ったら悪いんですが、郵便受けも見せてください。もしかしたら今日も例の封筒が入っているかもしれませんし」
前に手紙について相談した時よりももっと真剣な表情の二人に、やや気圧されながらも日菜子は素直に頷くと、彼らを自動ドアの向かって右側・・壁で囲われた隅へと案内した。
蛍光灯一本に照らされただけの、薄暗い一角。外壁と同じ色のドアが一つと、壁にずらっと並んだ広辞苑の背表紙幅くらいのステンレス製の扉。
「ここです。あたしの部屋の郵便受けは、左から3列めの上から4番目」
日菜子の鳩尾ほどの高さにある一つを指し示すと、鍵を取り出し扉を開けた。
「部屋番号だけ表示してあるんですな。この郵便受けはすべて鍵が掛かるようになってるんですか?」
「はい、多分。でもあたし、あのピンクの封筒が入れられるようになるまでは、ここの施錠ってしてなかったんです。仕事から帰ってきて疲れてるのに、わざわざ開錠して扉を開けて、手紙を取り出したらまた施錠・・・なんだか面倒で。それに他人の郵便受けなんてそんなに興味を引くものでもないでしょう?」
「いえいえ。世の中には他人のプライベートに興味津々な人も結構いるもんです。気をつけてください」
そう言うものなのかと首を傾げながら手紙やチラシを取り出し、パラパラと目を通した。
「あれ? 無い・・」
眉を顰めてもう一度確かめるが、やはりあの目に痛いピンクの封筒は見当たらない。
「ありませんか?」
「はい・・・。ここ最近は毎日のように来てたのに・・」
「そう。・・・ところでこのドア、一体どこに通じているかわかりますか?」
壁と同化するように設置されている一枚のドア。場所からしてマンションの一室のドアではないのがわかるし、そもそもこのドアには――――――ドアノブがない。
「蝶番とドアスコープは付いてるのに、ノブがない・・・?」
「あ、そこは非常階段のドアなんです。防犯のために外側からは開けられないんですけど、内側にはちゃんとドアノブがありますよ」
入居する際に管理人から説明があったし、実際に使い方も見せてもらった。
「そこもオートロックで、中からは開くんですけど、一旦閉め出されちゃうと、もうそこからは入れないんですって」
日菜子の話を聞いた二人は難しい顔で考え込みだしたが、次にはヒソヒソと小声で遣り取りし始めた。
「あの・・弓削さん? なにか・・」
刑事たちの深刻な様子に不安を掻き立てられ、日菜子は些か遠慮がちに声を掛けた。
「いえ、何でもないですよ。ちょっと思い出したことがあって、彼に確認しただけなんです」
何事もないように笑って見せた弓削と富田は、その後すぐに日菜子をエントランスの中に押し込むと、芝居がかった仕草でオヤスミと手を振った。
「おやすみなさい・・?」
「おやすみなさい。ではまた後日」
閉まりゆくガラスドアの向こう側に立つ二人に違和を感じながらも、日菜子は奥のエレベーターへと向かい上ボタンを押した。
◇ ◇ ◇
日菜子の背中を見送った彼らは、眉根を寄せた険しい表情で車に乗り込んだ。
「弓削さん」
「ああ・・」
夜景の透ける車窓に、弓削の曇った顔が映っている。車の走る速度に合わせ、一定のリズムで街灯が彼を照らしては過ぎる。
「明日、あのマンションの管理人に話を聞きに行こう。手紙が住人によるものなら、彼女の憂いを一つ解消してやれる」
弓削は溜息を吐くとシートに深く凭れ掛かり、疲労で痛む目を閉じた。
3話目はできる限り早く、頑張ります。