01
◆ ◆ ◆
それが届いたのは、ゴールデンウィークも過ぎて少し経った、梅雨入り宣言の前日。
連日のカラリと晴れた夏日から転じ、やたらとムシムシした曇り空のその日、仕事を終えて帰宅した早渡 日菜子は、自室の番号の郵便受けに押し込められていた何通ものダイレクトメールの中に、毒々しいまでに強烈なピンクの封筒を見つけた。
「? 差出人が書いてない・・」
首を傾げながらエレベーターに向かう。ピンクの封筒には、宛名以外には一切何も書かれておらず、それどころか消印さえない。もちろん切手も貼られていない。
エレベーターに乗り、4階で降りる。玄関を開けて部屋に入ると電気を点け、ダイニングテーブルに手紙を放り、部屋でスーツからTシャツとスウェットのズボンに着替える。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出してソファに腰を下ろし、クッションを膝に置いてテレビをつけた。
「あー・・疲れた~」
グッタリと背凭れに体をあずけペットボトルの中身を呷る。一気に飲み干すと、宙に向かってため息を吐いた。テレビではバカバカしい程に明るいバラエティー番組が点いているのに、疲労が激しくて画面に目をやることさえ億劫だ。
築9年の7階建てマンション、単身者向けの1DK。日菜子がここに引っ越してきたのは去年の春だ。
短大を卒業して就職のために一人暮らしをすると告げた愛娘を、母・敦美は過剰に心配し、暫く大反対していた。
『物騒なこのご時世に、何かあったらどうするの?!』
内定している会社に連絡して、就職自体を白紙に戻しそうな雰囲気の敦美を説得してくれたのは、父・宏一だった。しかし彼とて全面的に賛成というわけではない。散々話し合った末、両親が納得するだけのセキュリティが設置してある部屋を探し、必ず最低でも月1で連絡を入れるという約束の元、やっと許可してもらえたのだ。
「ま、お父さんたちが心配するのも、仕方がないんだけどね・・・」
空のペットボトルを弄びながら、目を閉じて実家の仏壇を思い浮かべる。飾られている写真は子どもの頃の日菜子に瓜二つの少女。長い髪を両サイドで結び、満面の笑顔で写っている彼女は、日菜子の双子の姉・可菜子だ。
享年7歳。可菜子は何者かによって誘拐され、そして命を奪われた。
しんみりしてしまった気持ちを払拭するように勢いをつけて立ち上がり、夕飯の準備のためにキッチンへ向かう。パスタにでもしようと材料を揃えてテーブルの上に置くと、先ほど放り出したピンクの封筒が目に付いた。
「・・・よくこの色をチョイスしたわね」
手に取って裏表をもう一度確認し、ハサミも使わず乱暴に開封した。
中からは二つ折りにされた白い紙が一枚。何も考えずに目をやった日菜子は、ギュッと眉間にシワを寄せた。
「なにコレ・・・?」
文面は短い一行。
【出てゆけ】
「イタズラ?」
まるで子どものような拙い文字で書かれた一言にムカつく。
疲れている上に空腹なこともあり、日菜子は苛立った気持ちのままに紙片を丸めると、部屋の隅のゴミ箱に向かって投げた。
◆ ◆ ◆
日菜子には双子の姉がいた。早渡 可菜子。彼女は明るく活発で、笑顔のステキな少女だったようだ。
日菜子がハッキリと姉について語れない理由は、彼女に可菜子の記憶がないからだ。いや、可菜子のことばかりでなく、事件そのものを忘れている。
14年前のあの日、双子の姉妹は学校から帰宅後、仲良く近くの公園で遊んでいたが、何者かによって二人一緒に誘拐され、数日後、日菜子だけが遠く離れた山中で発見された。
行方がわからなくなった時と同じ服装、体には傷一つなく、性的な暴行を受けた様子もなかった。しかし精神的に酷いショックを受けているらしく、発見され保護されてからただの一言も喋らず、両親が駆けつけるまでの間、ボンヤリと虚ろに空を見つめているだけだった。
「日菜子!!」
泣き腫らしてボロボロの敦美と一気に老け込んだ宏一が、保護された後に収容されていた病院に駆け込み、力いっぱい娘を抱きしめた。が、日菜子にはなんの反応もなく、大人たちは一様に不安にかられた。
そんな少女に変化が現れたのは帰宅後。敦美に肩を抱かれて家に入った途端、日菜子は突然崩れ落ち、高熱を出して昏睡した。
熱で意識が戻らない日菜子は即入院。3日後に意識を取り戻したが、その時には自分が誘拐されたことも、双子の姉がいることも、全く覚えていなかった。
心配になった両親が近くの病院の心療内科に相談したところ、心因性の強いショックを受け、自衛のために記憶を封印したのだろうとのこと。無理に思い出させるのは精神の崩壊につながる恐れがあるため、決してしてはいけないと厳重に注意されたらしい。
大事をとって一週間ほど病院に留まり、その間も可菜子の捜索は続いたが、犯人の足取りも、可菜子に繋がる手懸りも、何も見つからないままだった。そして、――――――――――――なんの糸口も見つからないまま3ヶ月の月日が経ったある日、警察から最悪の連絡が入った。
隣県の河川敷の橋桁の下、可菜子と思われる女児の遺体を発見したので、確認をお願いしたい・・・と。
◇ ◇ ◇
キーボードを叩いていた手を止め、日菜子はふぅ・・と息を吐いた。データの打ち込みをしながら、無意識に記憶に無い姉のことを考えていたようだ。
郊外の小さな広告代理店に就職した日菜子の主な業務内容は、男性社員のサポート。パソコンの打ち込みと書類の整理、あとはせいぜいがお茶くみ。
「おーい、早渡さん。コーヒー頂戴」
課長席から手を振って催促している小太りのハゲ課長に、内心舌を出しつつも愛想笑いで快く返事を返した。
ほんの少し席を空ける時でも必ずパソコンにはロックを掛ける。せっかくもう少しでキリがいいところだったのにと、胸の中で悪態をつきながら、仕方なく給湯室に向かった。
狭く古びたタイル張りの部屋で、日菜子は人数分のカップを用意しながら湯が沸くのを待った。
(あの時可菜子と一緒に殺されていたら、今頃こんなふうに苛立ちながらお茶の用意なんかしてなかったよね)
しかしそう考えられるのは、こうして生きていられるからだということはわかっている。こんな考えをすること自体が、可菜子に対し酷いということも。
決して中を見せてもらえなかった小さな棺。菊花をあしらった祭壇。ツインテールにピンクのリボンがとてもよく似合っているの美少女が、ひまわりのような笑顔で写っている遺影。・・・どれも焼香に訪れた弔問客の涙を誘った。
咽び泣く両親の隣で、ボーッと写真ばかりを眺めていた日菜子。残忍な誘拐犯は可菜子の命の他に、日菜子の中の、大切な何かまでも奪った。
黒いワンピースを着て遺族席に座る日菜子に、奇異な視線が突き刺さっていた。
心無い者が、日菜子が思い出してさえいれば、犯人が捕えられて可菜子も死なずに済んだかもしれないのに・・・と言っているのが聞こえた。
なぜ日菜子だけが生きているの? 日菜子のせいで可菜子は殺されてしまったのに・・と責められているような錯覚に陥り、他人前に出るのが嫌だった。
「そんなあたしがOLだもんねー。ホント生きてるといろいろあるわ~」
一時期は確かに人間不信だったが、年月を重ねて大人になってゆくに従い、世間は事件を忘れて風化し、日菜子の心も強くなった。
時々思い出したように訊かれることもあったが、未だ記憶の戻らない日菜子に語れることは少なく、訊いた相手は大概が拍子抜けして諦めた。
インスタントコーヒーの粉末を適当にカップへ入れ、すっかり覚えてしまったカップに砂糖とミルクを投じる。昔の青春学園ドラマに出てくるようなまあるい金色に光る大きなヤカンから直接湯を注ぐと、周囲に安っぽいコーヒーの香りが漂った。
「はーい、お待たせしましたー」
トレイに乗せた5つのカップを、課長席に向かう道すがら、それぞれのデスクの端に置いてゆく。最後の一つを自分のデスクに持ち帰ると、再びパソコンを開いて仕事を再開した。
無心でキーボードを叩き続けていたが、覗き込んだ書類に書かれている日付にふと目が止まった。
(あ・・もうすぐ可菜ちゃんの命日だ)
発見された時、死後数日たっていた可菜子の遺体は、平年を上回る連日の蒸し暑さと梅雨入り後のジメジメのせいで腐敗が進み、死亡日時が特定できなかった。だから両親は発見されたその日を命日とし、毎年必ず墓参りに行くのだ。
(今年は平日なのか・・・。どうしよう。お休みもらえるかしら?)
もしかしたら自分の命日になっていたかもしれない日。その日はいつも変な気持ちになる。
はじめは14年前の葬儀の時、菊花に縁どられた可菜子の写真を見つめている時に感じ、それ以降は仏壇の前で手を合わせて遺影を眺めるたびに、いつもいつも同じことを思っていた。
あたしが死んだみたいだ、と。
◆ ◆ ◆
先輩社員の坂村に連れられて、日菜子は仕事の依頼人の元へ向かっていた。
「歯医者さん?」
「ああ。個人経営のな」
坂村が運転する社用車の中で、日菜子は手渡された書類を見ながら、耳では彼からの説明を聞いていた。
「去年までは大学病院に勤めていたそうだが、知人のツテで紹介された元歯科医院の建物を居抜きで購入したんだと。開業してもうすぐ一周年。ま、歯科医院があった所にまた歯科医院が入ったんだから、もともと通ってた患者くらいは来てるらしいが、篠田さん・・あ、これから行く歯科医院の経営者な。彼にしてみれば、大枚はたいたんだから、一日でも早く回収したいんだろう」
なるほど~と納得している間にも、車は大通りから脇道に入り、2つ目の信号の手前で、左側にある駐車場へと滑り込んだ。
「ここですか? ・・割と良い所ですね」
キョロキョロと周囲の環境を確認しながらシートベルトを外す。ドアを開けて車を降りると、改めて景色を一望した。
「だろ? 駐車場に面した道路は駅前通りだし、ここの並びがズラッと商店街だから、人通りはかなりのものなんだ。まあ商店街っつーても近所にスーパーが二箇所もあるし、昔のような賑わいではないんだろうけどな」
「そうですか。ん~・・それにしても、なんか目立たない建物ですね。パッと目につく看板もないし」
レンガ調の低い塀が駐車場をグルリと囲い、その内側に等間隔に針葉樹の生垣。駐車スペースは広く、10台分が白線で区切られている。・・・正直、駐車場は文句ない。しかし医院の方はというと・・・
日菜子は後部座席からカバンと取り出すと、先に歩き出した坂村について行く。
「看板はあるにはあるんだが、小さくて表札の延長みたいなヤツなんだよな。ただでさえ建物が平屋でこぢんまりしているのに全くと言っていいほどに主張してないから、知らない人にはここが何なのかわからない」
よって患者数も伸び悩む、と。
聞けばここは医院だけで、自宅は別にあるらしい。スタッフは経営者で院長の篠田と、受付や会計などの窓口業務は篠田夫人。歯科衛生士で助手の女性が二人。
「そこでだ、お前、学生時代デザインを専攻してたって言ってただろ? だからさ、もっと目立つ看板もそうなんだが、なんか可愛らしくて印象に残るロゴマークをデザインして欲しいんだ」
「え・・あたしがですか? ちゃんとしたデザイン事務所に依頼せずに?」
突然仕事を振られ、日菜子は驚きの声を上げた。
たとえ学校で学んだといってもプロとは違う。きちんと生業にしているものに頼んだほうが、納得のいく出来になるはずだ。
「まあ、そりゃあ・・・予算的な問題とかな」
「ああ・・・」
一番説得力のある言葉を告げられ、もう二の句が出なくなった。
玄関前は半分階段、半分スロープになっていて、しっかりとした手摺もちゃんと設置されている。
篠田の要請で訪問は午後の診察が始まる15時より前、13時半頃と言われていたので、今は患者はいないはずだった。だから坂村がドアノブを引いた時にすぐ目の前に人がいて、更にはその人物もドアを開けようとノブに手を掛けていたなんて予想外だ。
押し開けようとしたドアが勝手に開いたことで、中にいた人がバランスを崩して坂村にぶつかりそうになり、驚いた坂村が慌てて後退したことで、後ろに控えていた日菜子は彼の背中に押し遣られた。
「きゃああッ!」
パンプスの踵がタイルの目地に引っかかり、足が後ろに出なかった。そのままドスンと横に倒れた日菜子は、打ち付けた尻と右膝の外側、両手のひらに激痛が走った。
「わ、悪い! 大丈夫か?! 早渡!」
「すみません! 大丈夫ですか?!」
坂村と見ず知らずの男性が同時に声をかけ、慌てて日菜子の傍らに屈み込んだ。
「~~~ッ・・・」
痛みに声も出せずにいると、知らない男性のその向こうにいたもう一人の人物が、狼狽したように医院の中に声を掛けている。こちらも男性のようだ。
ややして奥から白衣を纏った四十半ばの男性と、事務服の女性が玄関から出てきた。日菜子は男性陣の手を借りて立ち上がると、脇を抱えられて医院の中へ。待合室の背もたれ付きの椅子に座らせられた。
「大丈夫か?」
心配そうに覗き込む坂村に平気だと笑ったが、日菜子の膝はズキズキと痛みを訴えている。
歯科衛生士らしき若い女性が救急箱を持って目の前にかがむと、失礼と断ってスカートの裾を少しだけ持ち上げた。
「ちょっと擦りむいてますね。消毒しますから、えーっと・・・」
チラッと取り囲む男性たちを見上げた彼女に気がついた事務の女性は、男性陣に一時外に出ているように命令した。
ぞろぞろと男たちが退室し、女性だけだ残った待合室で、日菜子はデンセンしてしまったストッキングを脱いで、手当てを受けた。
「あたた・・・」
「ごめんなさいね。すぐ終わるから、ちょっと我慢ね」
まるで子どもに言い聞かせるように優しく告げた彼女は、手際よく手当する。消毒をしてから被覆材を貼り、手のひらにはバンソーコー。
「ありがとうございます・・」
ペコリとお辞儀をして礼を言うと、衛生士の女性はいいえ~と笑って答えた。
「あの・・申し遅れました。あたし、嘉川エージェンシーの早渡と申します。本当にありがとうご・・」
自己紹介を始めた日菜子を、事務服の女性(たぶん院長夫人)が一旦止め、玄関のドアを開けて男性陣に入ってくるよう声を掛けた。
篠田を先頭に4人が待合室に入ると、坂村は日菜子の隣に、坂村とぶつかりそうになった男性二人は座らずに立ったまま、そして篠田院長は角に積んであった丸椅子を一脚持ってくると、面々と向かい合うように腰を下ろした。
「すみませんが、白木さん。午後の診療の準備を始めておいてもらえますか?」
「あ、はい。わかりました。では私はこれで・・」
手当をしてくれた白木という女性は、救急箱を抱えると会釈を残し、診療室の中へと戻っていった。その際、日菜子は慌てて立ち上がり、もう一度お辞儀をした。
「じゃあ私はお茶を淹れてきましょうね。あ、刑事さんたちもいかがですか?」
「スミマセン、奥さん。 ではお言葉に甘えて」
白木と一緒に立ち上がった事務服の女性は、刑事たちに空いているソファに座るよう勧めると、にこやかに受付の脇のドアから出て行った。
「いや~、先程は大変申し訳ない! ケガの程はいかがですか?」
刑事と呼ばれた二人のうち、背が高くてガッシリとした体躯の、四十代後半くらいの年嵩の方の男がクルリと日菜子を振り返り、ガバッと頭を下げた。
「本当に、いい年をして注意力に欠けていました。本当にすみません。・・・あの、治療費はコチラで持ちますんで、病院できちんと診てもらってください」
一見クマのように大柄な、自分より二周りも年上に見える男性に一方的に謝られ、日菜子はどこか居心地の悪い気持ちになった。
「いえ! もうちゃんと手当してもらったので、大丈夫ですッ」
両手のひらを前に突き出して「いえいえ」と左右に振って申し入れを辞退する。ちょっと転んだぐらいで病院とか、大袈裟すぎて萎縮してしまう。
「あたしもすぐに後ろに下がれれば良かったんですけど、タイミング悪くヒールがタイルの目地に引っ掛かっちゃって・・・コチラこそすみませんでした」
お互いに譲らず謝り合っていると、もう一人の男・・痩せぎすでメガネをかけた三十前後の若い刑事が、細い目をさらに眇め、先輩刑事の袖をクイクイと引いた。
「いい加減にしてください。これじゃあ全然纏まらないじゃないですか。アナタも。ええ・・と」
「あ。早渡です」
「サワタリ?」
「はい。早く渡ると書いて早渡です」
言外に名前を訊いてきた彼に、日菜子は慌てて姓を名乗った。が、それを聞いた年嵩の刑事の方が微かに眉を顰めて訊き返してきたため、今度は丁寧に漢字に当てはめて言い直した。
「坂村です」
日菜子に続けて坂村が名刺を取り出し、年嵩の刑事に差し出す。すると彼は背広の内ポケットから手帳のようなものを取り出し、開いて中を見せた。
「私はS県警〇〇署の弓削と申します。こっちは、まあ所謂『相棒』ですな」
「・・・富田です」
エンブレム。
弓削は愛想よく、富田は不機嫌も露に自己紹介した。
本人が名乗る前から、篠田夫人が「刑事さん」と呼んでいたので驚きはないが、一介の歯科医院に警察がどんな用事なのか疑問に思う。
そんな考えが伝わってしまったらしく、弓削は口元を押さえてくくっと笑った。
「今日は事件の捜査でね。こちらの先生にお聞きしたい事があったんですよ」
「事件ですかッ? どんな?」
刑事ドラマや探偵漫画などが好きらしい坂村が、身を乗り出して訊ねる。少年にように目をキラキラとさせている所を見るに、よほどこの手の話が好きなんだろう。
「どんなというか、坂村さんもご存知だと思いますよ。先日T県で見つかった小学生女児の死体遺棄事件。こちらの先生が大学病院に勤めている頃に被害者の担当医だったそうで、少々お話を窺いに来たんです」
ドキンと日菜子の心臓が高鳴った。
(女児の死体遺棄事件・・・)
「えええ?! あの事件ですか! 確か・・・半年前に行方知れずになった6歳の女の子でしたよね」
連日ワイドショーなどで取り上げられている殺人死体遺棄事件。先週末にT県の山中で発見された女児の腐乱死体は、半年前にY県で行方不明になった小学一年生の田島 梨花だった。
「そうです。可哀想に・・・彼女と一緒に姿を消した2つ下の妹さんは無事で見つかったのに、梨花ちゃんは無残な姿で発見されました」
「え・・妹さんも一緒だったんですか?」
日菜子の鼓動がドクドクと脈打ち、嫌な汗が背中を伝う。目に見えている待合室の景色に、貧血の時に見える砂嵐のようなハレーションが微かに混じり始めた。
「ええ。妹の方は行方不明になって数日後に、自宅近くの公園にいるところを発見され、保護されました」
弓削の話は、ニュースやワイドショーで報道されているものとほぼ同じだ。
半年前、S県在住の田島さん一家は、たまたま父親の実家であるY県の田舎に遊びに行っている時、幼い娘二人が行方不明になった。初めは土地勘のない田舎の風景に迷い、迷子でもなったのだろうと思ったというのだ。
捜索願を出し、娘たちの安否を願って吉報を待っていたところ、遠く離れた自宅のそばで発見されたとの報せが入った。
「妹が言うには、知らないオジサンに車に連れ込まれ、倉庫のような所に居た。他にもう一人梨花ちゃんくらいの女の子がいて、その子はケガをしていた」
"モウヒトリオンナノコガイテ、ケガヲシテイタ"
チリチリと頭が痛み、網膜にここではない場所と黒い人影が一瞬だけ過ぎった。
急に日菜子の目の前がグワンと揺れる。顳かみがピクピクと痙攣し、額に冷たい汗が滲んだ。気持ち悪くて体勢を維持していられない。
口元を押さえて前屈みになると、様子に気がついた篠田が慌てた声で奥さんを呼んだ。
「どうしました?! 気分が悪いんですかッ? 沙也加、来てくれ!」
「あらまあ! 大変! ちょっとそこで横になって」
坂村がどいて広くなったソファに横たわる。
沙也加はお茶の乗ったトレイを夫に渡すと、再び奥に戻り濡れたおしぼりを持って帰ってきた。
「大丈夫? もどしそう?」
汗の浮いた額をおしぼりで冷やしながら心配そうに様子を伺う彼女に、日菜子はフルフルと首を横に振った。
目を瞑ると、暗闇がぐるぐると回っている。
この悪寒の理由はなんとなくわかっている。たとえ覚えていなくても、頭の・・心の奥のどこかに、誘拐されていた幼い頃の記憶が眠っている。弓削の話に触発されて、無意識のうちに被害者の立場に自身を置き換えた想像をしてしまったのだろう。それに想像と一言で済ますには余りにもリアルで怖い。
「ケガをして気持ちが昂ぶってたところに不快な話を聞いて、貧血を起こしたんでしょうね。少し休めば大丈夫でしょう」
血の気が引いて顔色の悪い日菜子の傍らに篠田が膝をつき、脈と結膜の状態から貧血だろうと診断した。
「重ね重ね申し訳ございません。配慮が足りませんでしたな」
ペコペコと謝る弓削の後ろでは、無関係な顔をした富田がメガネのブリッジをクイッと上げ、「全くですよ」と呆れ顔で腕を組んでいる。
弓削と一緒になって事件の話をしていた坂村も、日菜子に向かってスマン! と頭を下げた。
目眩が治まらないながらも、なんとか二人に大丈夫だと伝え、仕事で来たにも関わらず貴重な時間を潰してしまった後ろめたく思いつつ、日菜子はきゅっと目を閉じた。
グッタリと横になっている彼女は得体の知れない不安に囚われ、真摯に見つめてくる視線があることに気付かなかった。
◆ ◆ ◆
日菜子がまだ子どものうちは、可菜子のことを両親に訊ねても、いつも言われるのは「二人はとても仲が良かった」だ。
一卵性の双子だから当然なのだが、二人はどこまでもよく似ていたとか、姿形や仕草はもちろんのこと、目立つようなホクロの位置までもが同じような場所にあったと笑って話してくれた。
「よくね、服やリボンを取り替えて入れ替わっては、私たちをビックリさせて楽しそうに笑っていたわ」
最近はずっとショートで短い日菜子の髪は、子どもの頃には背中の真ん中ほどもあり、よく色違いでお揃いのリボンやヘアゴムで飾っていたらしい。
服装も、わざわざ申し合わせてお揃いを着るぐらいに仲がよく、だからこそ思いついたイタズラなのだろう。
涙を滲ませながらも、微笑みを浮かべて思い出を語ってくれたのは、夕日が差し込む静まり返った部屋の中。三人で墓参りに行き家に帰ってきても、いつまでも黒い服を着たまま一人で仏壇の位牌を見つめる敦美に、日菜子は躊躇いがちに声を掛けた。
「あ・・・あのね、可菜ちゃんと事件のことを・・・教えて欲しいの」
日菜子がもっといろいろ聞かせて欲しいと隣に座ってせがむと、それまでほとんど語られなかった思い出を、彼女はゆっくり丁寧に話してくれた。
難産でひどく時間がかかった出産時から始まり、赤ん坊の頃は間違えないために毎日油性マジックで足裏に名前を書いていたこと、初めて喋った言葉が可菜子が『ママ』だったのに対し、なぜか日菜子は『バーバ』で、お祖母ちゃんは喜んだけど宏一はかなりガッカリしていたこと。
その後も、1歳の誕生日に一升餅を背負わせたら、二人揃って重くて仰向けに寝ていたとか、2歳の時はご近所のパピヨンに吠えられて泣き出した日菜子を、可菜子が庇って犬に『メッ!』と怒っていたとか。
3歳の時・・4歳・・5歳・・・
話の中の二人が少しずつ成長してゆき、保育園や小学校に通うようになって行動範囲が広がり、友人ができると、楽しいエピソードはどんどん増えた。
遠足、運動会、授業参観。家庭内での思い出の他に、家では見られない娘たちの別の一面を見れるのがとても幸せだったという。
「不思議ね。ケンカしたり叱ったりしたことだっていっぱいあったのに、こうして目を瞑ると、思い浮かぶのは楽しかったことばかりなのよ。アナタたち二人とお父さんと私。毎日が満ち足りていたわ」
どこにでもあるごく一般的な普通の家庭。そんな普通の幸せな家族を、突然悲劇は襲った。
それまでずっと日菜子にはひた隠しにされてきた、誘拐事件の詳細。記憶を失くしているとはいえ、日菜子も被害者の一人だからと、両親は痛ましい可菜子の様子を日菜子には教えてくれなかった。
「・・・本当にいいの? もしかしたら、忘れていた方がいい事を思い出しちゃうかもしれないのよ?」
逡巡する敦美に、日菜子はきゅっと下唇を噛み締め、真剣な眼差しで頷いた。
「教えて。あたし、少しでも思い出したいの。それに・・・忘れていることを思い出せたら、犯人を捕まえる手懸りになるかもしれないし」
これまで両親の配慮に甘えて知ろうとしなかった事件の詳細に、向き合おうと決意させたのは、先日訪問した篠田歯科で聞いた誘拐事件のせいだ。あの時ハレーションの垣間に見えた知らない場所、逆光で黒いシルエットにしか見えなかった男。
もしかしたら可菜子の誘拐事件と同一犯かも知れないという考えが頭から離れず、気になって仕方がないのだ。
覚悟を決めてそう告げると、敦美は手を伸ばして日菜子の手を握り、涙を滲ませた双眸で娘を眩しそうに見つめた。
「そう・・・いつの間にか大人になっていたのね。記憶の中の可菜ちゃんがいつまでも変わらないせいか、なんだか日菜ちゃんもまだまだ子どもだと思ってたの。だからかしら、なかなか勇気が出なかった。アナタが戻ってきたとき確かにケガ一つ無かったけど、心の奥まではわからないでしょ? ・・・お父さんと決めたのよ。日菜ちゃんが思い出すまでは、楽しくて幸せだったことだけを教えてあげようって」
感慨深げに呟くと敦美は立ち上がり、部屋の隅の書棚から一冊のファイルを取り出してきた。
ハイと渡されて受け取ったはいいが、表に貼られたラベルに【誘拐事件】と表記されているのを認め、日菜子はギクリと肩を震わせた。
「それね、アナタたち二人の事件に関する記事をスクラップしたものなの。それ以外にも公にされていない情報を箇条書きにした書類。さすがに発見時の写真はないけれど、お父さんが警察に聞いた詳細を書き留めたメモもあるわ。・・・かなり酷いけど、本当に大丈夫?」
「・・・これ、お母さんも見たんでしょ? お母さんは大丈夫だったの?」
おそるおそる表紙をめくる。最初に目に付いたのは新聞の切り抜きで、【都内在住の幼い双子の姉妹、行方不明】の見出し。内容は、小学校から帰宅した双子の姉妹が、近くの公園に遊びに行ったが帰って来ず、行方がわからなくなっていると書かれている。
日付は不明になった翌日だから、まだこの時は日菜子も戻ってきていない。
「全然大丈夫じゃなかったわ。いっぱい泣いたもの。・・・お父さんが鬼の形相で、記事を切り取って貼り付けているのを見ているだけだったときは、なんでこんなものを作ってるのよ! って腹が立った。でもね、可哀想な姿の可菜ちゃんが見つかって、犯人が逮捕されないままに年月が過ぎ、世の中が可菜ちゃんの事件を忘れはじめた頃にこのスクラップブックを見たらね、ああ、ダメ。絶っ対に犯人を野放しにしたままじゃいけないって思った」
両親は毎年可菜子が発見された日が近づくと、娘の誘拐殺人事件についての情報を請うチラシを大量に刷って、駅前で配っている。犯人に繋がる情報があるなら良し、なんにも進展がなかったとしても、可菜子の事件を・・痛ましい少女の存在を思い出してもらい、こんな悲しい事が再び起こらないように注意を呼びかけている。
「さてと、じゃあ私は夕飯とお風呂の用意をしてくるから、日菜ちゃんはそれに目を通すなら、ソファに座って落ち着いて読んだほうがいいわ。とてもね・・・酷いの。だから少しでも気分が悪くなったらすぐにやめなさいね」
そう言い残すと、潤んだ目元を人差し指の背で拭い、部屋を出ていった。
部屋に残された日菜子は、敦美の言うことを聞きファイルを抱えてリビングへ移動し、ソファに腰を下ろした。
ファイルを開いて日付順に目を通してゆく。6月のある日双子の姉妹の行方がわからなくなり、4日後、日菜子だけが他県の山中で置き去りにされているところを発見された。
ケガも無く服装に不自然な乱れもなかったが、ツインテールに結い上げていた髪だけが解かれていた。
「そして3ヶ月後に可菜子が無残な姿で発見された・・・」
宏一が警察に聞いたのだろう。新聞記事には載っていない・・・いや、載せられない内容が、乱れた走り書きで別紙に書かれている。
正直はじめの一行を目にした途端、グラリと目眩がし、吐き気に襲われた。発見時の可菜子の様子は、それほどに凄惨なものだ。顔を含む全身を切り刻まれ、見ただけでは判別出来なかったらしい。指紋の照合も指先の肉が削ぎ落とされていて不可能、歯の治療痕も不可能。DNA鑑定によってやっと可菜子だと断定――――――・・・司法解剖の結果、全身には裂傷の他にも打撲痕、タバコのようなものを押し付けられたと見られる熱傷、髪は散切りにされ耳朶には夥しい数の乱暴な貫通痕。更には性的暴行の痕跡も認められた。
「あたし・・・覚えてる。可菜ちゃんの遺体を確認して帰ってきたお父さんたちが、すごく悲しんで抱き合って泣いてた・・・」
両親の嘆く姿は、子供心にひどく印象に残っている。大声で号泣する敦美と、妻の肩を抱いて咽び泣く宏一。
二人が確認のために出掛けている間、父方の祖母が日菜子のそばにいてくれた。だが、息子夫婦が玄関に入ってドアを閉めるなり泣き崩れると、言葉を聞かなくても結果を察した彼女は、廊下に崩れ落ちて泣き叫んでいた。
そんな光景を、日菜子は呆然と立ち尽くして見ていたのだ。
でもそれだけ。報道陣に付き纏われながらの葬儀や、再び小学校に通い始めた日菜子に向けられた、好奇に満ちた眼差しは思い出せるのに、それより前のことは全然浮かんでこない。
目眩の最中に見えたあの場所は・・・あの人影は、頭の奥に眠る記憶の欠片ではないのだろうか。
◆ ◆ ◆
(あ。まただ)
郵便受けから取り出した手紙の中に、どぎついピンクの封筒。届き始めてからもう1ヶ月、毎日ではないが、2~3日間隔で投函されているそれを日菜子はうんざりと顔を顰めて睨んだ。
書かれている内容は毎回同じ。
【出てゆけ】の一言。
今回も今まで同様に宛名以外は何も書かれておらず、切手も消印もない。
部屋に入り照明をつけると、ピンクの封筒以外をテーブルの上に放り、ベッドに腰掛けて開封する。いつも通り、中には二つ折りにされた便箋が一枚。しかし書かれている言葉はいつもと違った。
【死にたくなければ、早く出てゆけ】
「は? 死ぬ?」
誰が? 日菜子が?
明らかに脅迫じみてきた内容に、ぞっと背筋が凍った。
慌てて立ち上がり、これまで届いた手紙を全部引っ掴むと、部屋を出てエントランスに向かった。
エントランス横の管理人室を訪ね、郵便以外の手紙が投函されていると・・嫌がらせの手紙が届いていると相談した――――――が、少し警戒して見ておくと言われただけだった。
◇ ◇ ◇
「まあ、そんなもんだろうな」
手紙のことを同課の先輩・町田に相談すると、管理人の反応は普通だと返された。
「郵便受けがエントランスの中なら問題視されるだろうが、ピザ屋のチラシだって入れられる外にあるんじゃ仕方がないんじゃね?」
「まだピザのチラシは入れられたことないですッ」
宅配寿司のはあったけど・・と膨れっ面で言い返すと、彼は笑いながら今度一緒に食ってみようと提案してきた。
日菜子が勤める嘉川エージェンシーは社員食堂がないため、外回りでもない限りは皆んなそれぞれ出前を頼んだり喫茶店に行ったりと、自由に昼食をとっている。
普段は途中のコンビニで何かしらを買ってくる日菜子だが、今日は珍しくお誘いがかかり、町田とこうしてファストフードのカウンターに並んでいる。
自身の前には3分の1に減ったフィッシュフライバーガーと、まだ半分残っているアイスコーヒー。彼のトレイの上には、丸められたバーガーの包み紙が2つと、Lサイズポテトが残りわずかと、空のLサイズの紙コップ。
ちなみに最後のバーガーは今彼の左手にあり、右手にはMサイズの紙コップが握られている。
「それにしても、よく食べますねぇ。・・・太りますよ?」
呆れた眼差しで忠告すると、チューッと吸っていたストローから唇を離し、町田は苦笑を浮かべた。
「太るんじゃなくて、太ってるんだよ」
彼が見下ろした自身の腹を、日菜子も苦く笑って見遣る。ボッテリと膨らんだお腹。中に詰まってるのが空気だったらよかったのに。
身長185センチ、体重100キロ超の町田は、満足そうに最後の一欠片を口に押し込むと、もぐもぐと咀嚼し、続いて残りのポテトをいっぺんに頬張る。飲み込んだと同時にストローを咥え、一気に中身を飲み干した。
「あ~~~、食った食った!」
満足満足と腹を摩る彼にウゲッと顔を顰め、日菜子はそのままバーガーをトレイに戻した。
「でしょうね・・・」
見ていただけでお腹がいっぱいの日菜子が食事を辞めると、彼は残ったバーガーに手を伸ばし、ヒョイっとつまんで口に入れた。
日菜子がアイスコーヒーの残りを飲んでいる間に、せかせかと町田は二人分のゴミをまとめ、トレイを重ねるとフットワークも軽く片付けに行った。結構マメである。
ズゾゾゾ・・と耳障りな音を立てて飲み終わるとバッグを持って立ち上がり、先に店を出て外で待っている町田を追った。
「あんまり気になるようなら、警察に相談してみたら?」
「え?」
並んで会社への道のりを歩き始めると、町田は唐突にそんなことを言いだした。
咄嗟にピンと来なかった日菜子は、へ? と間抜けな顔で彼を見上げると、町田はもう一度同じセリフを繰り返した。
「手紙。警察に相談してみたらって言ったんだ。個人的には心配ないんじゃないかと思うんだけど、万が一にもエスカレートして、脅迫の手紙どころか実行に移してきたら大変だしね」
食事中にした、ピンクの手紙についてのアドバイスらしい。
結局は然るべき公的機関=警察を頼れと言ったものだが、一人で悩んでいるよりも聞いてもらった分だけ、少し気持ちが楽になった。・・・気がする。
「早渡?」
せっかく質問に対して答えているのに、クスクスと笑い出した後輩に不思議顔の町田。そんな彼がおかしくて、更に日菜子は声を上げて笑い出した。
「さ~わ~た~り~」
笑い続ける日菜子にムッとへの字口の町田が、どすこい! と腹をぶつけてくる。ボヨンと弾かれても笑い止まない彼女に、彼はとっておきのセリフを吐き捨てた。
「コラ! いつまでも笑ってると、ネ〇バス呼んでやらねーぞ!」
「キャーッ!」
極太長身の巨体を生かした、いつものト〇ロごっこ。今日は晴れているけれど、雨の日に傘をさして並んで歩くと、街路樹の下でジャンプしてくれる。
ノリのいい町田とふざけ合っているうちに気が紛れ、鬱々とした気分が払拭されている。彼の左手薬指のリングが目に入り、さぞかし彼の家庭は笑顔で溢れているのだろうと想像できた。
◇ ◇ ◇
オフィスに戻り午後の仕事を開始した日菜子は、パソコンを立ち上げながら、ふと町田の言葉を思い出す。
(警察か・・・)
先日知り合った二人の刑事を思い浮かべ、偶然とはいえこんな時に出会ったことに運命を感じ、一度相談してみようと心に決めて、そのあとはただただ終業時間までひたすら仕事に没頭した。
「んん―――・・・ッ」
同じ姿勢でいたため、伸びをすると肩や首からペキッポキッと気持ちいい音が鳴った。
パソコン画面から壁に掛けられた時計へと視線を移す。疲れているせいかすぐには焦点が合わず、何度か瞬きを繰り返して目頭を揉んだ。
「おー。早渡、お先にぃ」
「あ、はい。お疲れ様です」
一番下座に位置する日菜子の席の後ろを通って、坂村が退社してゆく。いつもよりもウキウキしている後ろ姿に首を傾げると、帰り支度をしていた町田がニヤニヤと笑いながら「結婚記念日なんだそうだ」と教えてくれた。
「いいですねぇ。坂村さんも町田さんも。おウチでステキな奥さんが、手料理を用意して待ってるんですもんねー」
こちとら寂しい独りもんなのに! と頬を膨らませると、町田はハハハっと笑った。
「寂しいなら頑張って相手を見つけろよ」
頼り甲斐のある筋骨隆々のを。そうすりゃあ寂しくなくなるし、オカシナ手紙に悩まされることもないと言われ、日菜子はムッと眉間にシワを寄せ、ベーっと舌を出した。
「そんな簡単にできれば苦労しないんですよ! もうっ!! 所帯持ちはとっとと帰ってください!」
肉厚すぎる体でえっちらおっちらと日菜子の椅子の後ろを通る町田の背中をバシバシと叩き、彼の愛娘・のどか(1歳)がパパの帰りを待ってますよと言ってやる。
すると町田はデレェ~と破顔し、デカい体格に似合わない俊敏さで、さっさとオフィスを出ていった。
「も~、いいもん! あたしは仕事に生きる女になってやる!」
半分不貞腐れてもう一度パソコンに向かおうとした日菜子に、課長席にまだ残っていた直属の上司・伊部が、人の良さそうな笑みを浮かべて日菜子を呼んだ。
「早渡さん」
「はい。お茶ですか?」
愛想良く訊ねた彼女に伊部は首を振り、
「いえ。今日は月に一度の清掃が入る日なので、もう退社してください」
「・・・」
仕事に生きる女計画は、早々に頓挫した。
◇ ◇ ◇
渋々退社し帰路に着く。料理する気力も削がれ、コンビニで弁当とペットボトルのお茶を買い、マンションに辿り着いた。
嫌な予感を抱きつつも郵便受けを覗くと、やはり予想通りダイレクトメールやチラシに混ざり、あのピンクの封筒。
苦い面持ちのままエントランスを抜けてエレベーターに向かった日菜子は、思いがけない人物との再会に、一瞬で手紙のことが吹き飛んだ。
「しっ、篠田さん!」
「え?」
驚いたように振り向く女性。クリーム色のエレベーターの扉の前にいた待ち人は、間違いなく篠田歯科の院長夫人だった。
「え、え? あらっ? えっと・・早渡さん?」
驚きに目をまん丸にした沙也加の隣に並ぶ。
「もしかして篠田さんもここにお住まいだったんですか?」
「ええ。先月7階に越してきたばかりなの」
聞けば、以前住んでいた場所は医院から遠く、それでも無理して通っていたらしい。しかし通勤時間が長いと家事はできないし疲労は溜まるしで、思い切ってここに移ったのだそうだ。
「気がつきませんでしたね~。ご近所さんだったなんて」
「え、ええ。そうね。偶然ってすごいわね」
到着したエレベーターに乗り込み、日菜子が7階と自身の住む3階のボタンを押す。
階に着くまでの僅かな間も、日菜子は偶然の出来事に興奮してずっと喋っていた。
チン・・
「それじゃあ。また医院の方に寄らせて頂きますね」
「ええ。よろしくお願いしますね」
日菜子の満面の笑みに、穏やかに笑って返す沙也加。ドアが閉まる瞬間、彼女がチラッと日菜子の手の中にある手紙を見たことに、日菜子は気がつかなかった。
◆ ◆ ◆
顔合わせの初日がハプニングの連続だった日菜子は、後日改めて坂村と共に篠田歯科医院へ行き、結局ロゴマークのデザインを担当することに決まった。
「よろしくお願いしますね」と柔らかい微笑みを向けてくる篠田夫妻と、言葉にせずとも笑顔で「やれ」と強請してくる坂村に断るタイミングを逃してしまい、日菜子は渋々ながらも引き受けてしまった。
「うあああ・・・・」
デスクで頭を抱えて突っ伏した彼女に、どうしたんだ? と坂村が声を掛けた。
「やっぱりあたしには無理です! 全っ然、いいデザインが思いつかないぃぃぃ!」
スケッチブックにいくつか描いてみたラフ画を手渡し、再びデスクに顔を伏せた。
「んんん? 悪くないと思うぞ。この真ん中のピンクのウサギなんか結構いいんじゃないか?」
日菜子の横にスケッチブックを置き、トントンとウサギをモチーフにしたマークを指さした。
中央にウサギのキャラクターの顔、左右にニンジンと歯ブラシを配置し、その下には平仮名で『しのだ』。
「それは可愛らしすぎるんです・・」
「篠田さんところは小児歯科に力を入れてるからな、これくらい可愛くても可笑しくないと思うぞ」
それはダメだと首を振ると、そんなことないと否定された。
「元々アチラさんの要望なんだろう? 子どもが喜ぶような、可愛らしい動物をモチーフにしたロゴマーク。・・・ま、なんにしても子どもは歯医者に喜んで来やしねーけど、篠田さんの拘りたい気持ちもわからなくもないし」
他にはゾウ・カバ・イヌ・キリン・ライオン。それぞれウサギと同じように象徴するアイテムと歯ブラシと『しのだ』の文字。日菜子にしてみるとどれもありきたりで、どうにもパッとしない気がする。
「まあ、とにかくだ。このラフ、篠田さんとこに行って見せてこいよ。この中で気に入ったのがあれば良し、イマイチって言われたら別のデザインを考えりゃあいいだろ?」
「う~~~・・」
グズっているとハイハイと追い立てられ、日菜子はノロノロと外出の用意をすると、スケッチブックを抱えて会社を出た。
◇ ◇ ◇
「やあ、僕としては、これがいいですね」
午前の診察が終わったばかりの篠田を捕まえて、決死の覚悟でラフ画を見せた。すると坂村の選んだウサギではなく、篠田はキリンを選んだ。
「キリン・・・ですか?」
「ええ。キリンなら男の子寄りでも女の子寄りでもないですし、子どもは皆んなキリン好きでしょう?」
篠田がニコニコと満足そうにスケッチブックを見ていると、お茶を運んできた沙也加が、それぞれの前に冷たい麦茶のグラスを置きながら、夫の手元を覗き込んだ。
「あら可愛い。ロゴマークの下書きですか?」
「あ。ありがとうございます。・・はい。でもなかなかシックリこないんで、篠田先生に見てもらおうと・・・」
緊張していたせいか喉が渇いていた日菜子は、遠慮なく一口含んで喉を潤すと、沙也加にもどんなものがいいかと意見を求めた。
「う~ん、そうねぇ・・・私はキリンさんがいいわ。つぶらなお目目が可愛いし、中間色だし、これなら大人の患者さんにも喜んでもらえそう」
日菜子としては、もっと歯を強調する動物のほうがいいと思っていたが、そう告げる前に夫婦がキリンのマークについて楽しげに話し始めてしまったため、言いそびれてしまった。
(でも、まあいいか。気に入ってくれたんなら)
散々悩んでいたのがバカらしくなるほどアッサリとデザインが決まり、あとはアイテムや文字の配色についてを話し合い、1時間後にはほぼ案がまとまった。
「お付き合いさせてしまって、すみませんでした」
「いいえ~。こちらにしても、あんなにも可愛らしいマークを考えてもらえて良かったわ」
玄関の先まで見送りに出てきてくれた沙也加に頭を下げると、彼女はいいのよーと笑ってくれる。ご主人の篠田も柔らかい印象だが、奥さんの方も保母さんみたいに優しい。
「じゃあ次に坂村さんが来るときに、デザイン画もキレイに清書して印刷したものをお見せしますね。もし気に入らないところがあれば、チェックを入れて彼に渡してください」
「わかったわ。早渡さん、よろしくね」
お互いにシツコイくらいペコペコとお辞儀をし合い、日菜子は篠田歯科医院を後にした。
前回は坂村が運転する社用車で訪問したが、運転免許証を持っていない日菜子は電車できた。篠田医院は駅前通りに面しているし、駅にも近いため通うのが楽だ。
「ホント、立地条件は最高なのになぁ」
周囲の景色を眺めながら、ゆっくりと駅に向かう。見れば見るほど便利な所に建っている篠田医院がどうにも歯がゆい。ちゃんと宣伝して、ここに医者さんがありますよーと主張すれば、患者さんの数もきっと・・ううん、絶対増えるはず。
(うっし! 頑張るぞー!)
内心でエイエイオー! と自身を鼓舞して歩いていると、後ろから車のクラクションが聞こえ、足を止めて振り返った日菜子は、見知ったばかりの顔があることに驚きの表情を浮かべた。
◆ ◆ ◆
「こんにちは。ケガの様子はいかがですかな?」
助手席の窓が開き、声を掛けてきたのは弓削。運転席にはもちろん相棒の富田が、相変わらずの無愛想な顔でハンドルを握っている。
「こんにちは。お仕事ですか?」
ハザードを出して路肩に停車させた車に近寄り、日菜子はペコリと会釈して挨拶した。
一昨日、町田に警察に相談したほうがいいと言われたばかりなのをお思い出し、密かに運命のようなものを感じた。
「ええ。・・早渡さんは篠田歯科へ?」
「はい。行ってきました。これから社に帰るところなんですが・・・・・・あのぉ、今お忙しいですか?」
渡りに船ではないが、せっかく刑事と知り合い、更にはこうして偶然にも再会したのだから、この機会に手紙のことを相談してみようと思った。
「えっと・・・もし時間があれば、少しだけお話できないでしょうか?」
遠慮がちに相談したいことがあると言うと、弓削は首を傾げた。
「相談ですか? ん~・・コチラも少々聞きたいことがあるし――――――じゃあ、どっかに入りますか。ま、とにかく後ろの席に乗って」
窓から腕を伸ばし、後部座席を指さす。
突然乗車するように言われて驚き、本当にいいのかとオロオロと縋るように富田へと視線を向けた。が、彼はイライラとハンドルを指先で叩いているのを見つけ、日菜子は慌てて後部座席に乗り込んだ。
「おじゃましまー・・す」
ちんまりとシートに収まった彼女は、居心地が悪いようで尻をもじもじとさせている。そんな様子がどうにも可笑しくて、弓削は気付かれないようにクスリと笑った。
「あまり時間が取れないので、コーヒーでもいいですかね?」
「あ、はい。すみません、お忙しいのに無理言って・・・」
恐縮する日菜子に弓削はいえいえと頭を振り、私ももう一度お会いしたかったんですよ、と、些か勘違いしそうなセリフを吐いた。
どう捉えればいいのかと狼狽える日菜子を、バックミラーで見ていた富田は肺が空っぽになるんじゃないかというくらいの溜息を吐き、疲れきった声で先輩刑事に呼びかけた。
「弓削さん。ナンパなら俺がいない所でしてください。いい年した男が若い女性を口説いてるとこなんて、見ていて気分いいもんじゃないんですよ」
言いたいことを言うと、彼は日菜子にシートベルトを着用するように言い、ハザードを切って車を発進させた。
本当は電車に乗るはずだった駅のロータリーをグルリと回り、車は日菜子が通ってきた道を戻る。車窓からさっき訪れたばかりの篠田医院を見遣り、やっぱり主張が弱いなと再確認した。
駅前通りと交差する大通りで左折をし、やや進んだ先の左手にあるドーナツショップの駐車場に進入する。二人と一緒に車を降りて店に入った日菜子は、先日のお詫びを兼ねてご馳走するという弓削の好意を断りきれず、躊躇いつつもホットブレンドを頼んだ。
「今日は特別に俺が運んであげますよ。弓削さんは彼女と先に座って待っていてください」
言葉だけなら親切なのに、低いトーンの声とブスッと顰めた表情からは、厚意なんてものは感じられない。彼はとことん慇懃無礼なタイプのようだ。
心が広いのか、はたまた慣れてしまっただけか、弓削は意に介した素振りもなくありがとうとお礼を言って紙幣を一枚彼に渡し、日菜子とともに窓際のテーブル席に着いた。
「悪いね、こんな所で。コーヒーぐらいじゃ割に合わないだろうけど」
「いえ! 仕事中に無理をお願いしたのはあたしの方なので」
向かい合って座るなり謝られ、日菜子は首を横にブンブンと振った。ではどうぞと改めて弓削に促されたが、いざこうして相談の場を与えられると、なんだか自分一人が大騒ぎしているだけのような気がしてくるから不思議だ。
なんて話始めればいいか逡巡していると、トレイに3つの飲み物を乗せた富田が近付いてきた。
「なに二人で見つめ合ってるんですか? お見合いじゃあるまいし。傍で見てて異様な雰囲気ですよ」
やれやれと溜息を吐きながら、彼はトレイをテーブルに置く。下から見上げている時はわからなかったが、トレイの上にはチョコレートのかかったドーナツが二つ乗っていた。
「・・・誰のだ?」
「もちろん俺と彼女の。なんですか? もしかして弓削さんも食べたかったとか?」
握り締めていたお釣りとクシャクシャになったレシートを手渡しながら、富田はフフンと鼻で笑った。
そんな言い方をされると食べたかったとは言い辛く、弓削はムスっと眉根を寄せて、目の前に置かれた紙コップの中身を一気に吸い上げた。
「グフッ! ゲホッゲホッゲホッ!」
「きゃあ! 弓削さん大丈夫ですか?!」
勢いが良すぎたせいで気管に入ったらしく、むせて咳き込む弓削に驚いた日菜子は、慌てて立ち上がると彼の後ろに回り、彼が落ち着くまで背中をさすった。
「あ~あ~・・もう気をつけてくださいよ。年なんですから」
弓削の咳が止み、日菜子が椅子に座ると、トレイの上のドーナツがひとつ消え、向かいではモッシモッシと口元を動かしている富田。二人分の呆れた視線を受けてもなんともなく、ゴックンと飲み込むとストローを咥えた。
「さあさ、早渡さんもどうぞ。コーヒー・・は冷めてしまったようですけど」
ケロッと勧めてくる彼の態度に弓削は溜息を吐いたが、日菜子は一瞬キョトンと目を点にしたもののジワジワと可笑しさがこみ上げ、次にはクスクスと笑い出した。
一頻り笑って涙を拭うと、再び富田にドーナツを勧められ、今度は素直にお礼を言った。
「すみません。じゃあイタダキマス」
トレイに残されたドーナツを手に取ると、2つに割って片方を弓削に差し出した。
「はい♡」
「え?」
今回目を丸くしたのは刑事二人。特にドーナツの半分を鼻先に突き出された弓削は、時が止まったように動かない。
「どうしたんですか?」
男二人が自分の行動に驚いているとは知らず、日菜子はどうして受け取らないのかと首を傾げている。
「あー・・・・・・いや、うん。ありがとう・・・」
弓削がソロソロと受け取ると、日菜子は嬉しそうに破顔してドーナツに齧り付いた。そんな彼女を不思議顔で見ていたが、弓削は指先につまんだドーナツの半分を見下ろし、パクンと一口で頬張った。
「で? 相談というのは?」
砂糖とミルクを入れたコーヒーで喉を潤す日菜子に、先にはべ終わっている富田が訊ねた。
「あ、そうでした。えっと、あの、コレについてなんですけど・・・」
実は会社帰りにでも警察に相談しに行こうと思っていたため、一通だけ持ってきていた。ゴソゴソとバッグの中を探って取り出したピンクの封筒を、手を伸ばしてきた弓削に渡した。
「スゴい色の手紙ですね」
宛名しか書かれていないそれを、裏表とひっくり返して確かめ、日菜子に中を見る許可を得ると、無骨な太い指先で折り畳まれた紙片を取り出した。
【死にたくなければ、早く出てゆけ】
「・・・死にたくなければ、ですか。物騒ですね」
弓削の手元を覗き込んでいた富田が呟く。
「こんな手紙が2~3日間隔で、マンションの郵便受けに入れられているんです。しかも見てもらってわかるように、切手や消印、差出人の名前もない。・・・なんだか気持ちが悪くて。あの・・これって脅迫でしょうか?」
ぞぞっと背中に悪寒が走り、日菜子はギュッと身を縮込めた。知らないうちに誰かに命を狙われているとしたら、どう気をつければいいのだろう。
「う~ん。富田、これどう思う?」
「そうですねぇ・・・アウト、でしょうか」
二人で紙面を睨みながら、顎に手を当て話し合う。何がアウトなのかわからない日菜子は、ただ黙ってその様子を見つめていた。
「早渡さん。率直に申し上げて、コレは脅迫には当たらないでしょうね」
「ええッ! なんでですか?! 死にたくなければとかって書かれているのにッ?」
明らかに害意があると訴えると、弓削はもう一度手紙を見下ろし、顔を上げて真っ直ぐに日菜子をとらえた。
「ええ。害意はあるんでしょう。多少は。しかし『殺す』ではなく、『死にたくなければ』ですからね。脅迫ではなく、忠告の可能性もある」
「忠告?」
「例えば、誰かがアナタに危害を加えようと企てていて、それを知った手紙の送り主が、それとなく危険を報せたいと思っての行動・・・とか?」
眉を顰めた彼女に、富田が例えばと前置きして説明した。
「え・・・と、その場合、どうして直接教えてくれないんですか?」
「公にできない場合もある。確信がなかったり、自身にも危険が向けられる可能性があったり」
前者なら万が一を考えて。後者は今現在危険な立場に居るにも関わらず、無理をして日菜子に報せてくれた。
差出人が誰なのか、どうしてこんなことをするのかがわからなくて相談したのに、ちっとも解決しないばかりか、謎が増えてしまった。
「まあ、とにかくちょっと調べてみましょう。コレ、お預かりしても?」
混乱しながらも頷く日菜子に微苦笑し、中身を戻した封筒を背広の内ポケットに仕舞った。
「私からも一つ。少々お訊きしたいことがあるんですが、よろしいですか?」
居住まいを直し、背すじを伸ばした弓削に真摯な眼差しを向けられ、日菜子の姿勢もピンと伸びる。コクりと頷いてどうぞと言うと、彼はテーブルの上で両手のひらを組み、重々しく口を開いた。
「もし違っていたなら、すみません。えー・・アナタは14,5年くらい前に、誘拐事件に遭っていませんか?」
ドキンと日菜子の心臓が、痛いくらいに強く脈打った。
続きます。