桜と新さん
千騎桜春が家に帰ると、鈴が出迎えた。
「おかえりなさいまし」
「今帰った。これをしまっておいてくれ」
「はい」
桜春が子供の玩具を渡しても、鈴は疑問ひとつ投げかけない。言われたことはきちんとするが、言われなければ理由は聞かない。出過ぎないひかえめな女だった。
「旦那様、お留守の間にご友人だという方がお見えになりました。旦那様を待たれております」
「誰だ?」
ここで初めて鈴は困惑した表情をうかべた。
「その、『遊び仲間の新さん』と申しておりましたが、おあげしてもよろしかったでしょうか?」
がたっと桜春が転びかけた。
「なにい!」
桜春は血相を変えた。
そういうふざけた偽名を使う相手に、心当たりがあったからだ。日頃ならば客のことはあれこれとくどく言わぬ鈴であったが、よほど判断に困る相手だったと見えて、こう続けた。
「西州のよい地酒が手に入ったから、旦那様におすそわけにきたと申しておりました。なにやら、高貴なのか、下賎なのか、よく分からないお方にございます。言葉遣いは下賎なのですが、心底品性卑しいものとは到底思えない、堂々とした方で──旦那様!」
桜春は鈴の言葉を最後まで聞かず、血相を変えて奥へ駆け込んだ。
どこにいると言われなくとも自分の家だ、見当はつく。いくつかの障子を開け放っては奥へ駆け込む。
見当をつけた部屋へ駆け込んだとき──予想していた相手が──あぐらをかいて手酌で呑んでいたらしい──肴つき──ぐい飲み片手に振り返った。
「桜、先に呑らせてもらってるぜ」
がたんっと音を立てて、桜春は膝をついた。
「……なにをしておいでです」
この男にしては珍しく、取り乱している。顔色さえもかなり悪い。
「手酌で呑ってんだ。安心しろ、ここで呑む分と、あとでおめえが呑む分と、持ってきた。西州の地酒だぜ。いい酒だぞ」
一升徳利を一本ずつ両手に掲げて見せる『遊び仲間の新さん』であった。
「お供の方は?」
「いねえよ。俺の呑む分が減るじゃねえか」
「御身をなんと心得まするっっ!」
「『遊び仲間の新さん』だ!」
『新さん』は胸を張って答えた。
桜春は目眩がした。
お忍び好きとは知っていたが、けっして一人で出歩いてもいい身分の人ではない。自分は決して五藤のように頭の堅い方ではないが、この人が、自分の家に、一人で来るなどと、考えたこともなかった。
天下の一大事になりかねない。
「旦那様、いかがなされました」
玄関に置き去りにした鈴が追いついてきた。
「……ぐい飲みを」
「はい」
言われると何も聞かずに鈴は下がり、やがて桜春の分のぐい飲みを、さりげなく肴を添えて差し出した。
「ごゆっくり」
言葉すくなに会釈して鈴は下がった。
「いい女だな。おめえの、これかい?」
『新さん』は小指を立てた。
「いいえ。遠縁の者で、身の回りの世話をしてくれております」
「手ぐらい、つけただろう」
『新さん』は桜春のぐい飲みに酒を注いだ。
「いえ、つけておりません」
桜春は酒に口をつけた。
「おめえ、あんないい女と、この家に二人っきりで、手えつけてないのか? 枯れちまったわけじゃねえだろうな」
「あの者をつけた親戚はそう願っているようですが、なんの、縄付きと分かっていては、その気にはなりませんな」
二月ほど前、両親が体の不調を訴え湯治と称して小角の庄に引っ込んでしまった。そのさい、女手がないとなにかと不便だろうと屋敷に上がってきたのが、くだんの鈴である。魂胆は見えていた。『早く身を固めて、孫の顔を見せてくれ』である。手などつけようものなら、即、祝言を上げさせられるだろう。
「まだまだ遊び足りねえってか? 桜、猛之に習うつもりじゃねえだろうな」
陽気に笑い飛ばす『新さん』だった。
小角宗家猛之は二十六のおり、十八の南戸葵の姫松江と祝言を挙げているが、事実上の妻、華菜を側室にしたのは四十を過ぎてからだ。余談ではあるが、桜春の父は猛之の末弟にあたり、桜春は猛之の甥ということになる。
猛之が猛流を得ていなければ猛之の養子となり、宗家の跡継ぎになるはずだった。
「あの女といい、おめえといい、小角の家は美男美女ぞろいじゃねえか。桜、あいかわらず女にしてえくらいの、いい男だな」
「想い人に操を立てておりますので、伽はご容赦ください」
「言いやがるぜ! 調子が出てきたじゃねえか。それでこそ、桜だ」
『新さん』は豪快に笑った。
「女にしてえといやあ、おめえんところの若な、元気か? あれこそ女にしてえべっぴんさんだけどよ、葉月と仲良くしてんだろうな。ありゃあ、気が強ええからな」
「二人で走り回っております。なにか?」
ぴんっと空気が張り詰めた。
「春日野の、水芝家、知ってるかい?」
「確か、大家の大名と記憶しております」
ここまでくれば『新さん』が酒にかこつけて、忠告しにきてくれた事は察しがつく。
「あそこはよ、前々から反小角の家だったんだがよ──おっと、んなもんめずらしくもねえが、話しは最後まで聞きな──八年前の婚儀についちゃあ、先代の当主が自分とこの孫にって、葉月が産まれたときからこれこそはと狙いをつけていやがったんだ。あそこは予備血統家でもねえし、開祖様の血をひく姫を一人を貰ったことがねえ。孫は四つ違いだから齢もあう。あんまり早くから話を持ちかけたんじゃ、卑しいって、大名仲間に笑われらあ。そこで話を切り出す機会をうかがってたところで、小角にもっていかれちまった。そんで、小春の扇動に乗って大騒ぎよ。だが、結果は知ってのとおりだ。ところがよ、この水芝の隠居が、ここんとこ急に小角の機嫌をとろうとしやがる。気をつけな」
「と、申しますと?」
桜春は『新さん』のぐい飲みに酒をそそいだ。『新さん』はぐいっと、一気に酒を干す。
「べらんめえ、敵に信用させて油断を誘い、そこを叩くってのが、兵法だろうがよ」
「詐術、のような気もしますが」
『新さん』は鼻で笑い、桜春に返杯する。
「戦なんざ、騙しあいよ。とくに太平の世のはな。腕っ節だけじゃあ、勝てねえ」
と言い切った。非常時になればなるほど腰のすわる御仁である。
「……産まれる時代を間違えましたな。動乱の時代に産まれていれば、名を成していたでしょうに」
「俺もそう思うぜ」
退屈な世に産まれちまったもんだ、と『新さん』は豪快に笑った。
「ここからは北張の隠居の情報だ。葉月の乳母の小春な、水芝に縁者がいやがる。頻繁に文をかわしているらしいぜ。まあ、中身は、おめえんとこの若の悪口ばっからしいがよ。ありゃあ、悪い女じゃねえが、目が利かねえ。利用されることはあるかもしれねえな」
「あの方は楽隠居なさるつもりはないのですか?」
「ねえ。棺桶に入るまではな」
縁者がどこにいるかは、調べれば分かる。しかし、個人的な文の中身など、どうやって調べたものか。不審な動きとみたから調べたのだろうが、そこまでの”目“をいまだ持っているという事自体が恐ろしい。
隠居自体が北張の統治を息子に任せ、自分は天下のために目を光らせるつもりでしたのだと、噂では聞いている。
「酒の肴にゃあ、ちょいと物騒だったかい? 気になったもんでな」
「いえ、ご忠告、ありがたく聞かせていただきます。お帰りは送りましょう」
「べらんめえ、俺がなんのために一人できてると思っていやがる。ここにきたのがばれるじゃねえか」
「しかし、夜道をお一人では……」
「へん、これでも腕にゃあ自信があるんだぜ」
「何かあったら、いかがなさるおつもりですか?」
「みんな清々するだろうさ。俺んとこの息子なんざ、年寄りはさっさと隠居しやがれ、と言いやがる。べらんめえ、こんな面白えこと、やめられるかってんだ」
「面白い……ですか?」
「桜よ、公に出来ねえ裏事情なんざ、隠居したら、わからねえじゃねえか。当主でいるだけで色々情報が入ってきやがる。たまらねえぜ」
動乱好き遊び好きの本性、丸出しである。
葉月の母親がこの人のいとこに当たることを思いだし、なんとなく納得してしまう桜春だった。
「……その語呂合わせ、やめません?」
「粋だろう」
けらけらと『新さん』は笑った。
「さあて、そろそろ帰るぜ。残りはおめえが呑ってくんな」
二人で八合ほど呑んで、『新さん』は腰を上げた。
「送りましょう」
「いらねえって」
「客が帰るのに、主人が玄関までいかないのは変でしょう」
「そうかい?」
桜春は『新さん』を玄関までおくった。鈴も玄関先まで出て頭を下げる。
夜道を一人で帰る『新さん』を見送り、鈴が桜春に聞いた。
「あの方は、どこの方なのですか?」
「……西州様だ……」
「西州葵様のご家来衆ですか」
ああ、それで、と鈴は納得し、桜春は視線を泳がせた。
西州葵家。皇帝様を入れても四家しかない皇族の一家である。
冷徹の北張、豪気の西州、気品の南戸といわれるように、源を同じくするはずなのに、気性というものが全く別れている。何度も婚姻を繰り返してもこうなのだから、生まれというよりは育ちのせいだろう。
豪放磊落、遊び好き、騒乱好きで知られる現当主は葵芳春。
幼名を『新之介』という……
……とりあえず、新さんで。でも将軍じゃありません。