化け物の業
一時の熱狂が醒めると、槌也は副椀をしまった。眼も黒に戻す。
土蜘蛛としての能力を開放するのはあまり好ましいことではない。あまり使いすぎると、槌也の制御を超える。
そうなれば、最悪の場合、土蜘蛛の性にのっとられてしまう。
やっと槌也は一息ついた。
息を飲む音がして、槌也は反射的に振り返った。
そこに柚月がいた。
見られた──と思う前に、体の奥からの衝動に槌也は耐えなければならなかった。
まずいことに、柚月は怪我をしているらしい。微かに人の血のにおいがする。
戦闘で昂ぶった気が、若い女と新鮮な血の匂いで、刺激された。静めようとしても、体の昂ぶりはおさまらない。
(だめだ──とまらねえ──)
「ぐうぅぅ! くうっ!」
体が妖化を始めた。
なまじ一部開放したばかりだったため、それは槌也の思い通りにはならなかった。槌也の制御を外れて蜘蛛の性が暴走を始める。
音を立てて体が変わり始める。
「きゃあぁぁぁぁあああ!」
柚月が絶叫した。
「……だから、来るなと言ったんだ……」
槌也は呆れたように呟いた。その右腕は黝い剛毛に覆われ、指先が鋭い鎌のように変化していた。それはじわじわと浅黒い槌也の肌を侵食するように広がっていった。
「なになになに、なんなのそれは!」
「……この邦のお偉いさん達が……隠してるもんだ……建国神話を知らんわけじゃあるまい」
顔を歪め、大きく肩でをしていた槌也はがくりと膝をついた。左手で変化の留まらぬ腕を掴む。
「でっ、でも、あれは、御伽噺で」
「御伽噺に真実が含まれていないと思っていたのか? あれは、警告を秘めた物語だ」
柚月は震えた。
御開祖とも初代とも呼ばれる最初の皇帝。妖怪に苦しめられる人々のため降臨し、成敗した妖怪を人に変え従えたという御伽噺。邦を築いた後、その元妖怪であった配下を大名にしたという伝説。
御伽噺──力ある者達が自分たちを神格化するための作り話だと思っていたそれは──真実なのか。では──自分たちがしようとしていたことは──
「わかったみてえだな。そうさ、皇帝と葵の御三皇家がなくなれば──この世は再び妖怪変化の跋扈する邦になっちまうのさ。そんな世の中が欲しいのか──それがあんたの言う開放か?」
ぎりっと槌也は唇を噛んだ。その歯さえ、牙に変化している。
「おせえ! 早くきやがれ鬼どもっっ! 戻れなくなっちまうだろうがぁ!」
槌也の性は土蜘蛛だ。人食いの、鬼を除けば最強の一族に当たる。先祖がえりである槌也の本性を押さえ込んでいるのは、皇帝の血に他ならない。
今にもその本性に立ち返り、目の前の人間。すなわち柚月、を襲ってしまいそうだった。
視界が紅く染まってゆく。
喰らいたい。
本能が叫ぶ。
だめだ。柚月を喰うわけにはいかない。
押し付けられたはずの人としての心が叫ぶ。
獲物。極上の獲物。
柚月だ。これは──俺の──
「逃げろ! 俺が俺でいるうちに! いや、殺せ! 早く! 俺を殺せ! 心が人のうちに! 柚月! 俺にお前を喰わせるな!」
半泣きの柚月の掌に力球の輝きが生まれた。槌也に柚月の力が効かないというのは、槌也にそれを防げる力があるということだ。あえて避けなければ、仕留めることもできる。その輝きを見て、槌也はむしろ救われた気分になった。
──柚月を喰わずにすむ──
しかしそれは柚月の手の内で霧散した。
「柚月!」
「やだ! やだ!やだあぁぁ! あたしに殺させないで! あたしに、あんたを殺させないでよおぉぉ!」
「柚月! 俺は化け物だぞ! 人食いの、化け物なんだ! 早く殺せ! さもないと、お前を喰っちまう!」
柚月は耳を塞ぎ、地面に突っ伏して泣き叫んだ。
「やだあぁぁ! 化け物だって、槌也だもん! 殺せない! 殺させないでよぉぉ」
すでに自分の目が紅く染まっていることを槌也は自覚した。脇腹がざわめくように波立ち人間にはありえない第三、第四の腕が生まれようとしている。一刻の猶予もない。
槌也は夜叉丸を掴むと、自らの喉に突きたてようとした。
いくら化け物でも、首をやれば死ぬ──その刃が掴み取られた。
「若!」
それは一瞬前にはいなかったはずの風丸だった。
その姿を認めた途端、槌也はものも言わず、風丸の手の甲に喰らいついた。
血がしぶいて、槌也の顔を染めた。そして、その喉が数度上下する。
槌也が風丸の血を啜っているのだと、柚月は気づいた。ついに槌也は土蜘蛛に成り果てたのか──風丸を喰らうつもりなのかと、柚月は全身の血が凍りついた。
劇的な変化が起こった。
黝い剛毛は、まるで肌を侵食したときを逆さにしたように消えうせてゆき、指が元の人のそれに変わる。新たな腕を生もうとしていた脇腹も人のそれに戻った。
柚月の脳裏に講談のある一説がよみがえった──その血をすすりますると摩訶不思議、たちまち鬼は姿を変え──それは鬼神の段の講話の一説だったが、今まさしく、柚月が目撃したものだった。
誰もが知っていながら、誰もが信じない御伽噺。それでも目の前で起これば、誰もがそのわけを知っている。
この話が広められたわけを柚月は知った。
槌也が風丸の手から口を離した。そこに覗く歯も、発達した犬歯以外は人のものだ。まぶたが開き、黒い瞳を覗かせる。
「遅い」
「申し訳ありません。そちらのお嬢さんの仕込みの後片付けに追われまして──間に合ってよかった」
「終わったのか?」
「いえ、終わりそうもなかったので、押し付けて、跳んできました」
風丸はそれだけを言うと、掌に青白い光を宿らせた。その手を傷にかざすと、見る間に傷が消えていく。風丸は〝癒し人〟でもあるのだ。
おそらくは、槌也の気配の変化を感じ取り〝跳んで〟来てくれたのだろう。
一先ずの危機は去った。
残るのは──槌也は風丸に向き直った。
「三弥、頼む」
──柚月が忌まわしい事柄──自分や天童教に関わる全てのことを忘れ、普通に暮らしていけるように──
「こういうときだけなんですから、わたくしの名を呼んでくださるのは──無理です」
風丸は拗ねてそっぽを向いた。
「三弥」
「超常能力者とか、皇家筋の方には〝楽人〟の能力は効きづらいのです。鬼成様もそうでしたでしょう。それこそ皇家筋の方に、曲がりなりにも力が効くのは、華菜様くらいなものです」
「誰だ?」
「若君の生母君であらせられます。〝楽人〟としては、当世一の力を誇る方で……まさか、華菜様にご足労願うわけにも行きますまい」
「だがよ……」
「心配ありません。その方は稀有な能力の持ち主。この度のこと、口外さえしなければ、いくらでも落ち着き先は見つかります」
槌也は返答に困った。
柚月がそれを納得するとは思えなかった。
「あんた──土蜘蛛の化身なの?」
「そうだ」
「だから、皇帝に仕えて、ここを護ってるの?」
──この地は妖の気配の濃い土地也。未来永劫、子々孫々まで、この地を守護し、人を守れ。されば人の心と姿を与えん──伝えられる初代と土御門の契約。それが未だに生きている。
「そうだ。俺の中には、人を旨そうだと思っちまう衝動と、それを嫌悪する倫理が同居してんだよ。後のほうは借り物で、本物の俺は化け物だ。俺は──それが恐ろしい」
己の中に潜む本性に乗っ取られ、いつ、心許したものさえ貪る妖怪変化に成り果てるか分からない、その恐怖。
「だから一人で、こんな所にいるの?」
間違っても人を襲わないよう、人のいない妖怪の棲家で、人の心を抱えている。
「一人じゃない。こいつがいる。俺も小角どもも、曲がりなりにも人の真似事をしていたいのなら、皇帝に仕えるしかない──いつ本性に戻るか分かったもんじゃねえからな」
柚月は涙を流していた。
「悪かったな。怖いもん見せちまって」
槌也は座り込んだままの柚月に手を伸ばしかけて──やめた。柚月が、化け物に触れられるのを嫌がると思い直したからだ。血塗れの化け物──それが槌也だ。
「忘れさせてやりたかったが、無理だそうだ。それでも天童教の事は忘れな。そうすればいくらでも生きる道はある」
「あんたは──ずっとこのままなの──」
「そうだな。くたばるまでは、このままだ」
柚月は──力を使わなければ、普通の人として暮らしていける。今なら力を隠すくらいの分別はある。その気になれば、全てを忘れたふりをして人にまぎれ生きていける。けれど槌也は──
「──泣くなよ。困ったな、悪かったよ、怖がらせて」
「違う──怖くなんかない──」
悲しかった。なぜか分からないが──ただ、悲しかった。
あ~封印とか隠された力とか……力が抑えきれないって……見方を変えたら厨二びょ……似てない?