乳母の愚痴と姫の乙女心
「また、葉月姫が逃げようとしたらしいの」
小角鬼神流の宗家小角猛之は四十三で息子猛流を得た。現在五十五の老人である。
白髪だが背もまだ曲がっておらず恐い気迫を漂わせた達人である。
「申し訳ありませぬ。姫にはきつく言ってきかせますゆえ、ご容赦を」
葉月の乳母が深々と頭を下げた。
「乳母どの。そなたを責めるつもりは毛頭ない。されど猛流には葉月姫がどうあっても必要じゃ。頼むぞ」
「はい。なんとしても言い聞かせまする」
しかしちらりとした上目使いの中にありありと不満の色があるのが猛之には分かった。しかし咎めることなく下がらせる。
小角鬼神流は唯一の血統お止め流である。小角の血を引かない者は門弟にしないのである。逆を返せば小角流の者は全て源を同じくする一族である。
その血筋に生まれた者は例外なく小角に召し抱えられ、一生食うに困る事はない。
宗家に生まれながら宗家を継げなかった者は総帥より姓が与えられ、家来として召し抱えられる。女であれば他の小角流門下の家に嫁ぐことが決められている。
例外はない。
病的なまでに血筋を抱え込むのである。
その宗家の正室は三皇家と呼ばれる皇帝の跡継ぎがいない場合、次の皇帝を選ぶ家の娘から決められる事になっている。それもかならず直系と決められていて、養女ではだめなのだ。皇族の開祖の血を引く者と限定されている。
開祖様には四人の息子があった。長男を次の皇帝と定め、残りの三人の息子には葵の姓を与え、西州、南戸、北張の地に封じられた。
それぞれ西州葵、南戸葵、北張葵と称されている。開祖の血を引く者は多いが葵を名乗れるのはこの三家のみであり、残りはどんなに近しい間柄であっても予備血統家と呼ばれる大名となる。
この三家と皇帝は現在に至るまで友好関係を保つため、複雑な婚姻関係を築き血の近さを維持している。
諸国の大名ですら滅多にもらえない皇族の姫を、かならずという破格の掟があるのだ。優遇などというものではない。各大名からは嫉妬と妬みの的である。
かくいう猛之の正室も、当時の皇帝の娘ではないが、三皇家の姫である。
しかし世が世ならば大大名の家にも嫁げたのに、寵愛深いとはいえたかが家臣にすぎない小角鬼神流に嫁がされたと、掟を恨んでいた。それゆえに、猛之との仲もよくはなかった。高すぎる自尊心が夫を蔑む気持ちに変わっていたのだ。
四十をすぎるまで猛之に子がなかったのが、その証しであろう。その間猛之は側室も持たずその血筋は絶えるものと思われた。
小角の末流の末流の家から本家の方に下女としてきた華菜に出会い、心を奪われ側室としたときも誰も子が成せるとは思わなかった。しかし華菜は不幸にも子を身ごもり、紛れも無く猛之の子である猛流を産み落とした。
猛流は小角流の血を継ぎながら、皇家の血を継いでいないのである。小角の血を引く者は皇家の血を持つものだが、あまりにも生母の身分が低すぎる。
唯一の宗家の子であるからには、嫌でも宗家を継がさなければならない。その不足分を、皇帝の娘である葉月で補おうとしているのだと乳母は思っているのだろう。
あのお相手では、あんまりにも姫がお可哀想だ。見栄の犠牲にされるのだ、とその目が言っている。
「そうではないのだ、乳母どの。あれは――猛流は――正真正銘の、小角なのだ。だからこそ、濃き開祖様の御血がいるのだ」
猛之はその場にいない乳母に、伝えてはならないことを独りごちた。
握り締めた拳に涙がしたたり落ちた。
子を残すつもりなどなかった。華菜を側室にしたときも、もう子はできないだろうと安心していた。
それでも猛流が『鬼降ろし』でさえなければ、これほど心を病むことはなかっただろう。
「……猛流……そなたを世に生み出させたこと、それ自体がこの父の罪じゃ……」
それを償うため――猛流が『人』であるために、葉月姫が必要なのだ。
反省室とは言っても、何度も入っていれば自分の部屋と変わりない。善部をたいらげて葉月は乳母の説教を聞いていた。
「姫、いくら許婚があのように情けないお方だといっても、皇帝の愛娘ともあろうお方が木登りまでなさって、逃げ出そうとなさるとは! この小春、姫をそのようにお育てした覚えはありません! やはり奥宮をお出になったことがいけなかったのですわ! 奥宮で嫁がれるまで、みっちりと婦女子のたしなみをお教えするべきだったのですわ! いくら皇帝様の仰せとはいえ、なにゆえ姫様を家臣の屋敷になど、お預けになったものか!」
泣き叫ぶ乳母の声を聞きながら、説教なのか、それとも乳母自身の愚痴なのか分からないと葉月は思った。
この後の展開は分かっている。延々延々、猛流に対する悪口と、奥宮を出されたことへの恨み言が続くのだ。
「そもそも! 小角家との婚儀は、皇帝様のお子にする必要などなかったのですわ! 三皇家のどこかから選べば良いものを、何故姫様に! それも、八つから寝食を共にして、友誼を結べと。今の世の中、一度も顔を見たこともない相手との婚儀など珍しくもありませんのに、何故、そのような沙汰を! それゆえ姫様がここについたその日から、逃げ出そうとなさるのですわ! それも凛々しく利発な方ならともかく、あのように、武家の跡取りとも思えぬ覇気の無さ! あのような凡庸な方では、姫様が嫌がるのは当然ですわ!」
葉月は聞いたふりをして別のことを考えていた。
葉月と猛流の婚姻は四つの時に決められた。皇帝の娘でちょうど齢が同じだったからだ。その縁談が出る寸前、小角流宗家猛之の正室が亡くなったという。跡を継ぐ猛流は側室の子で、三皇家との結び付きが欲しい猛之が申し出たという事だった。
直接聞いた訳ではないが噂とはどこにでも忍び込むものだ。
葉月は皇帝の正室の姫だから、三皇家か大大名のどちらかに嫁ぐものと小春は思い込んでいたらしい。それが寵愛深い一族とはいえ家臣の家、それも、小角の家は終身身分が決められていて出世は望めない。多いに嘆き、反対したらしい。
他の家臣たちからも、大名たちからも、寵がすぎるとか、様々な反対意見があったという。反対しなかったのは三皇家くらいなものだ。
決意は揺るぎないものと示すためか、葉月は婚礼前に小角の家に預けられた。八つの時である。
異例のことである。
皇帝の娘はふつう奥宮と呼ばれる城の奥深くある皇帝の家族のための宮で産まれ、嫁ぐまでそこを一歩も出ずに過ごす。
例外を作ってまでも、この婚儀は決行するつもりなのだと世間に示した。
小春の嘆きようは八つの葉月の目から見てもかなりのものだった。
そして葉月は──小角の家に初めてついたその日──胸を躍らせていた。
奥宮で産まれ奥宮以外を知らずに育った葉月にとって、小角の家は新鮮だったのだ。
城の外。庭の様子までもが全然違う。女ばかりで、非常に限定された人間しか踏み込めない奥宮と違い、なんと解放感にあふれた所だろう。
男も女も一緒くたになり、それが普通なのだ。出入りの町人もいる。下々の者たちが、小角の家の者に気軽に声をかけているのを見た。
堀もなく、物々しい厳しい警備もなく――ちらっとみたが、塀ひとつへだててもう外なのだ。ときおり物売りの声までもが風に乗って届く。
どきどきした。わくわくした。自分が全く知らない世界。そこが今から自分のいる場所なのだ。
そして塀や垣根を隔てた向こうに、武家以外の人間たちが生活する世界がある。
そこは一体どんな所なのだろう。
垣根の向こう側がすごく魅力的に思え、込み上げる好奇心に耐え切れず、ふとした拍子に一人にされた葉月は椿の垣根の隙間をくぐろうとした。
垣根の向こうに顔を出し──とても奇麗な顔を見た。
美人ぞろいの奥宮にも──全員の顔を知っているわけではないが──いないのではないかと思えるくらい、整った華やかな美貌。
奥宮は各大名や家臣達が、皇帝の寵を争い、競って美女を差し向ける。その中で育った葉月の審美眼はかなり厳しいものだったが、その目から見ても、けちのつけようのない美しい顔だった。
そんなに奇麗なのに男──子供だった。
葉月は一瞬、男の子にみとれた。
その子は不思議そうに聞いた。
「なにをなさっておられるのですか?」
「……逃げようとしているの」
外に出てみたかった、などととても言えなかったので、ごまかそうと葉月は試みた。
「なぜ、逃げたいのですか?」
「えっと、結婚が、嫌なの」
結婚が嫌かどうかなど葉月には分からない。ただ周りの人間が騒ぐから、自分がこの結婚を嫌だと言っても誰も疑わないだろうと思ったのだ。
男の子は微笑んだ。
「決められたことが嫌だから逃げるのですか。あなたはとてもお強いんですね」
そんなふうに言われるのは初めての事だった。誰かが決めた何かを、ちゃんとやって当たり前。嫌がればそれだけで、なじられ、諌められる。
「手をお貸しいたしましょう」
男の子は手を差し出し、葉月は無意識に手を重ねた。男の子の手に触ったのは初めてだった。
「姫! 何をなさっておられるのですか!」
「誰かある! 姫が! 姫がぁぁぁ!」
「若! 何をなさっておられまするうぅぅ!」
すぐに見つかり怒られた。
そして男の子が自分の許婚、小角猛流であることも知った。
これが二人の出会いである。
後で知ったのだが、葉月が越えようとした椿の垣根は庭を区切るためのもので、垣根の向こうも外ではなかったのだ。
あれから四年。何度逃亡を企てたか葉月は忘れてしまった。
結婚が嫌だから逃げる。とっさの言い訳だったそれは、いつの間にか定着してしまった。
(結婚は嫌だけど……猛流は、嫌いじゃない)
葉月は心のうちで呟いた。
奥宮=大奥+後宮でございます。
大奥のように公然の秘密ではありません。大名とか家臣が美女を差し出してきます。でもある特定の家からはもらいません。
手直ししていて思ったのですが、葉月ってツンデレじゃね?
結婚は嫌だけど猛流は嫌いじゃないとか。ツンデレ認定していいでしょうか?