ひそかな攻防
この時代、実は街道を外れなければ宿に不自由はしない。大名は皇都に屋敷を賜り、そこに妻子を住まわせることになっている。その屋敷と国許を、数年おきに行き来しているため、街道は整備され、大名に野宿をさせなくてもよいように宿場が設けられている。
街道を行き来するのは大名だけではなく、品物も多く運ばれ、商人などが南へ北へと特産品を忙しく商いしてまわる。
大名は威勢を誇示するため国許から様々なものを取り寄せたりするし、皇都のものは各地方で重宝される。各地方の物産品が直接やり取りされることも多い。
海のない地方へは、海のある地方から塩や海で取れたものが運ばれ、山からは材木や、木を使った細工物が運ばれる。絹を作る地方もあれば、良質の鉄を精製する匠もいる。刀鍛冶がいれば、よい馬を生産する土地もある。暮らしてゆくのに必要なものをすべてひとつの土地から造るのは難しい。
塩の取れる海側では塩の所為で作物をやられることが多く、材木が取れる山では田畑を作る平らな土地がない。平地では作物の作柄はよいが、塩や大量の材木が取れない。人の暮らしは持ちつ持たれつ、それを運ぶ商人は必要であり、それゆえに宿場に人が途絶えることはない。
夏姫御一行の行列がたどり着いたのは、皇都からそれほど離れていない宿場のひとつである。まだ陽のあるうちに入ったが、予定のうちだ。次の宿場へ足を伸ばせば到着は真夜中になってしまう。
余裕のある日程を組むならば、そこで泊りにしておいた方がいい。
予備血統家の姫が宿泊するとなれば、もちろん貸切だ。そのほうが警備には都合が良い。予め先行して人をやり、何時ついてもよいように準備をさせておく。宿場でも高貴な人に何か間違いがあってはと神経を尖らせている。
警備の重点は外へ向けられ、宿の中は比較的自由に行き来できるが、夏姫の回りには人がつけられしっかりと守っている。
護衛とはいえ、槌也も土御門の藩主の弟である。それなりの身分ということで、宿場での警備からは外された──実質の警護は他の家臣が受け持ち、槌也はこの婚礼を土御門が重要視しているという象徴──つまりは飾りということだ。
槌也には身分を考えてか、広い部屋を一人で使うことになっていた──随身は、最初は槌也にも宿直をつけようとしていたのだが、槌也自身がやめさせた。護衛が護衛されるなど、聞いたことがないと頑強に反対したのだった。
結果、槌也の回りには人気がなく、一人で休んでいた。
明日からのことも考え早めに就寝した槌也は、夜中にふと部屋の外に人の気配を感じて目が覚めた。
どれほど眠り込んでいても、何かあればすぐさま槌也は覚醒できる。そのまま身動ぎひとつせず、槌也は問いかけた。
「何かありましたか? 楓殿」
障子の向こうで影が硬直した。
楓は夏姫の側近であり、夏姫の身の回りを世話するのが役目だ。夏姫との最初の会見の場にも居合わせた。
夏姫とはまた違った楚々とした美女で、腰元の中では飛びぬけている。土御門からきた護衛のものの雑談にたびたび出てくる。
それほどの容色の持ち主だが、控えめでいかにも忠義一筋という感がある。
その楓が真夜中に夏姫の傍を離れ、男の寝所を訪ねるとは、ただ事ではない。ふつうなら色恋沙汰を連想するかもしれないが、その気がないのはにおいで分かる。むしろ緊張しているようだ。
「……中に入っても、よろしゅうございますか?」
槌也は跳ね起きた。慌てて夜着の乱れを直すが、人に会う姿ではない。
「いや、夜着ですので……」
「……人に見られるのは……困ります」
楓の声は震えていた。それほど切羽詰ったことかと、槌也は礼儀に目をつぶる事にした。真夜中に男の寝所を訪ねたことが知れたら、あらぬ噂を立てられることになる。それを覚悟してもこなければならなかったということは、よほどの事だ。
宿直のものではなく、わざわざ訪ねてくるということは、公に出来ないことなのか?
槌也は出来うる限り居住まいを正した。
「では、お入りください。夜着ですが、ご容赦を」
障子の向こうで楓が一礼し、障子を開けた。その姿を見て、槌也は腰を抜かしそうになった。
髪を下ろし肌着という、どう考えても夜伽に来たとしか思えない姿だった。
「な、なにごとですか! その姿は!」
障子を閉めた楓が両手を揃えて頭を下げた。
「お情けをいただきとうございます」
「────────は?」
どう考えてもそちらの筋の展開だが、相手にその気がないのは明らかだった。
「はしたないことは重々────されど、わたくしにはこうするしかっっ」
楓は恥らっていた。恥らってはいたが、情けを乞うのは本意ではないのは分かっていた。
「誰ぞに、何か言われましたか? あなたがそのようなことをする必要はありません」
槌也には根拠無根の噂が多い。先立っても日々呑んだくれているという噂を信じたものが、機嫌を取るつもりか夕食に酒を出させた。しかし、実は槌也は──下戸である。
昔はよくからかわれたものだ。匂いだけで酔っ払いそうになるのだ。
慌てて下げさせたが、今度のそれも、誤解によるものだろうと思った。
きっと楓が顔を上げた。すでに半泣きになっている。
「いいえ! わたくしがこうするしかないのです。どうか、わたくしを哀れと思うのなら、情けをかけてくださいませ」
ずいっと迫ってくる楓に、槌也は混乱した。
「か、楓殿」
思わず押し返そうとした手が止まった。それに気づいた槌也は一瞬硬直し、引き寄せるように楓に顔を寄せた。
覚悟はしていたものの、思わず体を硬くした楓だったが、槌也はそれ以上何もせず、うつむいて唸った。
「北の隠居~~~~~」
顔を上げた槌也の形相が変わっていた。
「北張の隠居のお指図か? わざわざ予備血統家の姫に女中の真似事までさせて、騙まし討ちとは、恐れ入る。そこまでされるは、心苦しいが、槌也にその気はござらん。お引取り願いましょうや、姫君」
怒りのあまり全身が震えるのを槌也は止められなかった。
迂闊にも、より血の気配の濃い夏姫に撹乱されていたが、こうして余人を介さず息がかかるほどの距離であれば疑いようもない。
楓──偽名でなければ楓姫か──からはっきりと初代様の血の気配がする。
(ここまでするかよ、北張の隠居! 陰険すぎるぜ!)
兄嫁との密通が嫌ならば、こちらを相手にしろといわんばかりの策だ。罪ではないが、人の心をはなから無視している。夏姫はともかく──本人があれだ──同情の余地はない──このような無茶をさせられる楓がかわいそうだ。
「ち、違います。真似事では──」
「では、その御開祖様の血の気配はなんだといわれる! この槌也、常人よりは鼻が利きますので」
槌也の剣幕に怯えた楓は必死に弁解した。
「み、認められておりませぬ。確かにわたくしは予備血統家の血をひいてはおりますが、母の身分低きゆえ、お殿様の子ではなく、母方の家の子として育てられました。その縁で同じ予備血統家にご奉公適いまして、姫様に仕えておりまする。決して謀ってはおりませぬ」
思わぬ伏兵であった。いわゆる落胤という奴だ。槌也と同類らしい。槌也のように子と認められそれなりの身分を得るものもいるが、大半は少々の援助のほかは捨て置かれる。
楓もそうした一人らしい。
「お腹立ちはごもっとも。さぞかしお怒りかと存じます。されど、そこをまげてお願いいたします。どうか、お情けを」
「どうして、あなたがそこまで」
きっと楓が顔を上げた。
「大恩ある水野の姫様に、このような事はさせられませぬ! ひ、姫様に罪を犯させたくなくば、わたくしがこうするしか──」
「俺をなんだと思っていやがるっっ!」
さすがに槌也も頭にきた。水野の姫を相手にするのも御免だが、その気もないのに逼って来る女にその気になれというのは、もっと無理なのだ。槌也の嗅覚は、人の感情すら嗅ぎわける。
泣きながら体を投げ出してくる美女に、恥をかかせるのは本意ではないが──
「御免」
槌也は楓を振り切って部屋を出た。楓に非があるわけではないが、それだけはできなかった。
一人残された楓は呆然としていた。
「しくじったようじゃの」
涼やかな声とともに襖を開けて夏姫が現われた。
「姫様」
楓は居住まいを正した。
「一度で落とせなんだは、残念じゃ。これで警戒させてしまったからのう」
楓は深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございませぬ。わたくしが至らぬばかりに」
「まあよい。焦るでない。まだ時はある。楓は焦りすぎじゃ。昨日の今日で、もはや行動に移るとはのう」
十五とは思えない落ち着きをみせ、夏姫は笑った。
「槌也殿とて馬鹿とは思えぬ。己が妖力を抑える必要はわかるはずじゃ。ならば手は一つしかない。いつかどちらかの手をとらねばならぬ。その道理、知っていよう」
身を固めるには御開祖様の血を引くものと契らねばならない。しかし、土御門の杜を離れられない槌也にはその機会がないのだ。
その機会を作らんがために御乗法を捻じ曲げ、身近にその血を引くものを放り込んだのだ。その餌に食いついてもらわなければ困る。
「姫様……」
夏姫は冷静に策を練り始めた。
「狙うのならば、行きか帰りよの。警備が手薄になるゆえ、領地内よりはやりやすかろう。まあ、守之殿の与力もあるゆえ、何とでもなろうがの。槌也殿は道義を尊ぶようじゃ、妾には手は出しにくいであろうな。楓はまだ不義にはならぬゆえ、妾よりはましであろう。後は槌也殿の覚悟よの。楓、そなたが確実とはいえぬゆえ、妾もあたるぞ。北張筋の予備血統家水野の名にかけて、なんの男の一人や二人、契ってみせようぞ」
「そればかりは、おやめください、姫」
楓は泣きながら訴えた。夏姫が本当にやると骨の髄まで知っていたからである。
恐るべし北血筋。
ちなみに、長田家は南血筋である。
夜這いかけられても嬉しくないよね?それともまっとうな男子としては応えるべきなんだろーか?