当主 土御門守之
「お召しにより参上仕りました。兄上」
槌也は深々と頭を下げた。
「槌也。許す。頭を上げい」
兄守之に促され槌也は顔を上げた。
短く切った髪はどうしようもないが、それ以外はごく普通の身なりである。
土御門守之は槌也とは腹違いの兄弟である。正室の子であり父亡き後、藩主を継いだ守之と、先代の落胤である槌也では身分が違う。顔を見るにも許しがいるといってもいい。礼儀は守らねばならない。
守之は常日頃城にこもって藩政を取り仕切り、槌也は杜を守っていて、会う機会はほとんどない。どちらも疎かには出来ない大事な役割だ。城からの使いがあり、槌也は堅苦しい正装に身を固め、久しぶりに登城した。
そうして顔をあわせた兄弟は、あまり似ていない。顔貌はよくよく見れば似通ったところがないでもないが、受ける印象がまったく違う。墨を刷いたように黒々とした髪を、僧でもないくせに結えないほどに切り、闇夜のごとき黒い目、よく日に焼けた浅黒い肌の弟と、抜けるように色が白く、髪や瞳の色も薄く、茶色がかって見える兄。
母親の血筋と、育ちの違いであろう。
優雅で繊細でそれでいて揺ぎ無い何かを感じさせる当主に、槌也は尋ねた。
「何用でございましょう」
「うむ、実はな、此度、わしは予備血統家の水野の三の姫を正室にするここと相成った」
「それは、吉報にございます。めでたきことに存じます」
予備血統家とは、皇帝と三葵家の分家のことである。皇族とは皇帝と葵を名乗れる三家だけであり、跡継ぎ以外の男子が姓を賜り予備血統家を名乗る。その血筋は御開祖様の流れを汲み、その家との婚姻が許されるというのは、皇帝の覚えがめでたいということであり、誉れとされる。真実はもう一つ在るが、なんにせよ名誉なことである。水野といえば、北張葵の流れで由緒正しき家である。
「うむ、そこで、そなたに頼みがある」
「何なりと」
「姫を迎えに行って欲しいのじゃ」
「迎えに……とは、如何なることにございましょう?」
守之は言い難そうな顔をした。
「皇帝の御厚意により、三年の間、姫をこの地に呼ぶことができるのじゃ。それで、道中の護衛に土御門からも人を出すことにしたのじゃが、槌也、そなたにも警護の一人として姫を水野まで迎えに行って欲しい」
槌也は非礼も忘れ守之の顔を注視した。
「しかし、わたしには、お役目が……」
槌也の役目はそうそう替えが利かない。決して欠かすことの出来ない大事な仕事だ。
「それについては、小角から人が来る手筈じゃ。何の心配もない」
「小角から?」
その瞬間、槌也の中ですべての歯車がぴたりとあった。顔が引きつるのを槌也は止められなかった。
「つまり……小角から人が来て……わたくしめが折り返し、水野まで姫を迎えに行く? そこまで手間をかけ、なおかつ正室のお国入りを許す? 異例中の異例でございますな! どなたの御厚意でございましょうや!」
声に咎める響きが混じるのはしかたない。
「槌也……そう怒るでない。どなたの意向が動いているかは、わしにも分かる。じゃが、それを拒むことなどできようか」
「……言葉が過ぎました」
槌也は非礼を詫びた。
悪いのは守之ではない。裏で何事か企んでいる者だ。守之が予備血統家の姫君を嫁に貰うのはおかしくない。しかし、本来なら皇都に住むべき正妻がお国入りできるというのは、どう考えてもおかしい。大名の正室と跡継ぎは、皇都に賜る屋敷に住まわせるものであり、特に正室は夫の領地に足を踏み入れることなく一生を終えることが少なくない。
誰が何を企んでいるのか、察することは簡単だ。誰がといえば、噂に聞く北張葵のご隠居だろう。何をといえば、口にするのもおぞましい事だ。
だが──そこまでしても警戒しなければならないのだ──槌也は〝先祖帰り〟であり、一度〝降ろし〟かかっている。おそらく自分以上に警戒しなければならないのは、本家本元の鬼、小角の跡継ぎ小角猛流だけだろう。猛流は、〝鬼降ろし〟をしたことがあるという。
そのときは、多くの犠牲を払い、『鬼人』に戻したというが、その犠牲の意味を考えると、身の毛がよだつ。
だが、もしも槌也が〝降ろし〟てしまったその時は、この地に〝還す〟ことのできる御開祖様の血筋のものはいない。せいぜい鬼が後始末をつけるだけだ。
それとて確実ではない。
だからこそ、人の道を踏み外させてでも槌也の身を固めようというのだ。
そこまで分かっていたが、やはり嫌悪は感じる。何よりも腹が立つのは、守之を巻き込んだことだ。
企みが分かっていても、拒否することは出来ない。皇帝の命に従えないとあればどのような沙汰が下りるか。罰しなければ大名の手前収まりがつかない。穏便に済ますには従うしかない。それが分かっていての沙汰だ。
(根性悪いぜ、北の隠居っ!)
槌也にできるのは、兄の命に従うことと、腹の中で北張の隠居を罵ることだけだった。
「この身にあまる大役ではございまするが、水野の姫様が何事もなく、お国入りできるよう、この槌也、誠心誠意を持って勤めさせていただきます」
槌也は深々と頭を下げた。
「……うむ、頼んだぞ。槌也」
殊勝に頭など下げてはいるものの、槌也の全身からは不本意だといわんばかりの気配が立ち上っていた。
守之はそれを察していたが──気づかぬ振りをして黙殺した。この程度の腹芸は、当主ならできて当たり前なのだった。
「よろしいのですか? あのような者に任せて。間違いがあってからでは遅いのでございますよ」
「かまわぬ」
守之は内心溜息をついた。
槌也が下がって直ぐ口出ししてきたのは家臣の一人だが、土御門の真の姿を知らぬものである。
槌也の存在については、様々な噂があることを守之も知っている。好意的な噂は何一つない。だが、家臣の言葉は、噂を鵜呑みにしているのではない。むしろ家臣の誰かが槌也を貶めるべく流した噂だと守之は知っている。
妾腹ですらない一度の間違いで産まれた槌也に好意を持つものは皆無だといってもいい。あからさまに陰口を叩くものもいる。
そもそも落胤であること自体を疑うものまでいるが、槌也はむしろ土御門の血が強く出た。土御門の業を一人で背負っているような存在だ。
土御門とはいえ、守之はふつうの人間と何一つ変わらない。守之では杜の守護は務まらないのだ。
皇家の血をたびたび取り入れてもなおかつ、一族の者の大半が何らかの能力を持つ小角と違い、土御門では六、七代に一人その能力を持つものが産まれるかどうかだ。
このたび六代ぶりにその能力を持って生まれたのが槌也であり、完全に祖先の能力を受け継いだ『先祖帰り』であった。
守之は槌也に対して負い目がある。後で生まれた槌也が土御門の業を引き受けてくれたような気がする。土御門の血を受けて生まれてこなければ、槌也の生涯はどれほど心安らかなものであったことか。その力のない自分に代わり、修羅のごとく、魑魅魍魎と戦うことなどなかっただろう。
「しかし、やはりここは、信頼の置ける古参のものに任せられた方がよろしいかと」
相手の腹積もりはわかっている。このような大役を任せられるのは名誉なことだ。その名誉をどこの馬の骨とも分からぬ槌也に取られたくはないのだ。名家のだれそれに行かせるべきだと続けるつもりなのだろう。
「わしは槌也を信頼しておる。そなたが槌也を信頼できぬというのなら、その根拠を申してみよ」
「それは……お耳汚しではございまするが」
「噂ならば、聞かぬぞ。そなたがしかと確かめたことのみ申せ」
守之はぴしゃりといった。
槌也の生母は下級武士の出である。誰の子か言わなかったために槌也は伯父の二人目の子供として育てられ、幼いうちに皇都に剣の腕を磨くため行っている。
その先で騒ぎを起こし、先代の落胤と分かったのだが、国許に戻ってからは杜にこもっていて、顔を合わすのもめったにない。その所業など知るはずがないのだ。
「……槌也様は御落胤とはいえ、下級武士の子として育てられたとか。それでは礼儀や約束事も心もとないかと。水野の姫様にご無礼があっては。ここは礼儀を心得たものをいかせるべきかと」
「かまわぬ。槌也は我が弟じゃ。それが迎えにいくことで、天下に土御門がどれほどこの婚姻を大事に思うておるか、知らしめることができようぞ。水野の姫も不快には思わぬはずじゃ。そなた、このような大役、ほかの誰にできると申す?」
この程度のこじつけは想定のうち。それに対する策も講じてある。藩主の弟という身分を考えれば、頭を下げなければならないのは家臣どもの方なのだ。
「そ、それは……」
「槌也は我が舎弟じゃ。先代の子じゃ。下級武士の次男坊ではない。それを忘れるでないぞ。よいな、柿崎」
守之はきっぱりと言い切って論議を終わらせた。
「すぎたことを申し上げました」
筆頭家老は頭を下げた。
守之は溜息をついた。
心無い噂まで立てられ、日々命を削る不憫な弟を思えば、北の隠居の謀に乗ることなどどれほどのものか。
皆は生まれも定かではない槌也が間違いを犯すのではないかと心配しているようだが、それこそが、夏姫を御国入りさせる目的だとは言えない。
すでに夏姫には話を通してあるという。後はなりゆきに任せるしかない。まさか、命じるわけにもいかないのだ。
(許せ、槌也。兄にはこうするしかないのじゃ。すべてはお前自身のため、土御門のため、ひいては天下のためじゃ)
お兄ちゃん、実は弟のことを溺愛しております。誰も気づいていません。……そ、そういうのもありだよね?