夢幻
琴の音で目が覚めた。
きれいな音曲……誰かしら。
起こしてしまいましたか、と誰かが言った。
直接頭に聞こえるような、不思議な声音だった。誰だろう、と葉月は思った。
お初にお目にかかります。猛流の母、華菜と申します、とその人は言った。
ふいに姿が見えた。霧の中に、自分とその人だけが浮かんでいるような、不思議な感覚だった。
奇麗な人、猛流にそっくり、と葉月は思った。
それにしても、ここはどこだろう。
小角の屋敷にございます、とその人は言った。
姫様は、水芝の家でお倒れになったのでございます。
そうだったかしら……なにか、べつのことがあったような気がするのに、思い出せない。
姫様は強運にございます。水芝は疫神に入り込まれ、幾人も人死にが出ました由。聞くところによれば、嫡男の若君まで疫神にやられ、大殿のご隠居が、失意のあまり自害なされましたとか。姫様はお会いになったこともない者共でありますが。
そうなの。あったこともない人達だけど、可哀想だわ。
そうかしら……本当に、会ったこともなかったかしら……
どうかなされました?
なんだか、とても嫌なことがあったような気がするの。
夢でございます。
夢?
もう一眠りなさいませ。起きたときには、悪夢など、きれいさっぱり忘れておりまする。
そうね、そうするわ。ああ、そういえば。
なにか?
疫神って、鬼よね。
はい。そのとおりにございます。
鬼を見たわ。あれは猛流だった。
……恐ろしゅう、ございましたか?
ううん、全然。だって、猛流だもの。
食われるとは、思いませなんだか?
食べられちゃうと思ったわ。
それでも恐ろしゅうないと?
汚く食い荒らされるのは嫌、食べるんなら、奇麗に食べて欲しいと、思ったわ。
答えはなく、その人が笑っている気配がした。
気丈な姫とは聞いておりましたが、ここまでとは思ってもおりませなんだ。猛流のことはお嫌いですか?
嫌いじゃないわ。
小角の家は?
嫌いじゃないわ。結婚は嫌だけど。小角の家も、猛流も、嫌いじゃないの。
それを聞いて安堵致しました。猛流をよろしくお願い致します。
うん、任せといて。
葉月が晴れやかに答えると、その人は頭を下げ、その姿は霧の中に飲まれていった。
後はもう、夢も見ない眠りの中。
琴を抱えた妖艶な美女が離れを出ると、千騎が待っていた。
「終わりましたか?」
「はい。わたくしの力が要るときには、いつでもお呼びください」
「……殿と若には、お会いになられぬのですか?」
「……あの子をあのように産んだは、わたくしの科。会わせる顔がありませぬ。わたくしは松江様の菩提を弔っていきたいと思います」
「……あの方は、あなたを、殺そうとなさったのですよ」
「それでも、猛流を戻してくださいました」
「華菜様」
「嫌ですわ。昔のように、華菜従姉と呼んでくださいませ。春ちゃん」
華菜は千騎の、母方の従姉にあたる。猛之に見初められるまでは、姉弟のように育ったのだ。猛流は千騎の、父方でいえば従兄弟だが、母方でいえば従姉の子という事になる。
「春ちゃん、は、やめてください。もう、元服もすませたのですよ」
「そうでしたわね。叔母様がいつまでも身を固めないと、嘆いておりましたわ。わたくしにとっては、いつまでも小さな男の子でありますのに」
「何年前の話ですか」
華菜はしばらく笑い、千騎に頭を下げた。
「猛流のこと、よろしくお願いします」
「お任せください」
琴を抱えた華菜は、千騎に背を向けて静かに立ち去った。
千騎はその背に頭を下げた。
猛流ママン登場。もちろん神通力の欠片を持ってます。かなり強力な能力ではあります。