鬼の赫怒
「葉月姫を返せだと?」
大勢の家来に守られ、幸尚は猛流をあざ笑った。みれば、衆道好みが目の色をかえそうな小僧である。
雪のように白い肌も、紅を引いたような形のよい唇も、蠱惑にみちた黒い瞳も、美しさなど弱さの印にしか思えない。
どうやって忍び込んだものかは分からないが、無腰である。恐れるような相手ではない。
「小僧、どうやってここまで忍び込んだ?」
「神出鬼没という言葉をご存じですか? 鬼はどこにでも入り込めます。ぼくは鬼神流ですから」
「大きくでたものよな。ここをどこだと思っている! ここまで忍び込んだのは褒めてやるが、それで取り返せると思うてか!」
「いかようにも」
さらりと猛流は口にした。その落ち着きぶりが、幸尚の癇にさわった。
「あの小娘は小角には帰りたくないそうだぞ」
「閉じ込めておられるのでしょう? 葉月さんの意志であるのなら、そのような必要はないはずです」
あっさりと否定され、幸尚は逆上した。
「と、閉じ込めてなどおらん。そもそも、皇族方が悪いのじゃ。小角ばかりを贔屓にしおって。小角はたかが家来じゃ。我が水芝は大名じゃぞ! 小角より上じゃ! 我が水芝が、姫の一人も貰って、どこが悪い!」
理屈にも言い訳にもならない暴言を垂れ流す幸尚を猛流は無視した。
「御託はけっこう。小角には、小角の、事情があります。それに、葉月さんを物のように言うのは気に入りません。葉月さんには、葉月さんの考えがあり、気持ちがあります。それを踏みにじるような人に渡せません」
「あの利かん気のお転婆が、そんなに大事か。あやつ、そなたを嫌っておるそうだぞ」
「あるいはそうやもしれません」
動揺もなく、猛流は袖に手を入れたまま、一歩すすむ。
「人に決められたものになるのが嫌ならば、何に成りたかったのですかとお聞きしたところ、ぼくの妻以外のものと言われてしまいましたから」
滑るような足取りに、ある程度の腕の者は警戒した。丸腰とはいえ、袖に隠された手に、何を握っているか分からない。流派の宗家を継ぐべきものである。事前の情報は、悪意を持った罵りだけであった。しかし、それだけの動きで、それがまったく当てにできないことを男達は確信した。
「でも、それだけは、きいてあげられません。葉月さんでなければ駄目なのです。だから、他のことは、何でもきいて差し上げたい。そう思います」
猛流の歩みがとまる。それが猛流の間合いらしい。力みはない。しかし、いつでも、その働のための一歩が可能である。そういう構えだ。いつ猛流が動き出すか、護衛たちは緊張した。
「あなたがたは、葉月さんの意に反して、閉じ込めておられる。返していただきます。たとえ、あなたがたをすべて屠っても」
「言いおったな。殺せ! 殺してしまえ! 賊じゃぞ、何をしておるか!」
幸尚に叱咤されても、なまじ腕利きばかりであるために、猛流の隙のない動きに機がつかめない。
侮れない、猛流の秘めた何かに気づき、男達は踏み出せなかった。あえていえば、それは鬼気とでも呼ぶべきものだった。
「世迷い言はここまでです」
「たわけ! ようもほざきおったな! であえ、であえ! 曲者じゃ!」
相手の力量などはかれない幸尚は、皆が臆病風に吹かれたものと思い、他の家来を呼ぶべく吠えた。その声に応じて他の家来たちが駆けつけてくる。
びっしりと人垣に守られ、幸尚は猛流を罵った。
「どうじゃ、これでも返せというか? 取り返せるものなら、取り返してみよ。ここでその方が死のうとも、我らは屋敷に忍び込んだ賊を退治したまでよ! ふんっ、女子の機嫌などとりおって女々しい奴よの! 言う事をきかぬ女子など、仕置きしてやればよい」
「なにぃ、貴様、まさか……」
猛流が喉の奥から唸った。眦が切れ上がる。
ここまでくれば、売り言葉に買い言葉だ。幸尚は今までの鬱憤をこめて言い放った。
「おお、仕置きしてくれたとも! 言うことを聞かぬ女子など、殴ればよいのだ!」
「貴様ァ!」
次の瞬間、猛流は幸尚の後にまで駆け抜けていた。跳んだのではない。水芝の者達は若君を守るべく、猛流と幸尚の間に立ち塞がり一歩も動いてはいない。にもかかわらず、幻のように人の体を通り抜けて、猛流はそこまで駆けたのだ。その右手は節槫立ち、そこにぶら下げているのは──
「わ、若君!」
「ひいぃぃ! ばっ、化け物!」
己の失言を、首で償わされた幸尚の胴体が、血を吹き上げて、どうっと倒れた。
生首を投げ捨て、それが振り返った。髪は逆立ち、切れ上がった眦、赤光を放つ目。口は耳まで裂けて獣の牙が生えている。手は節槫立ち、五本の長く鋭い爪を備えている。その姿──角こそ見えないものの──それは──まさしく──伝説の──
「おっ鬼じゃあぁぁぁあ!」
「化け物じゃあぁぁぁあ!」
「ひいぃぃいい! お助けを!」
守るべきものをいの一番になくし浮足立った男達に、それは躍りかかった。
受けようとする刀ごと、その爪は持ち主を両断した。別の男が体勢を変える前に、屍を足掛かりにし、その喉をかき切る。くるりと体がひるがえり、別の男の顔面を簾にする。
一瞬のことだった。
もとより人は早さで獣に勝てぬ。力においても、同じ大きさの獣に劣る。それは、その獣の力と、人の技を備えていた。
いくら怒りに我を忘れようと、その身に染み付いた武道の動きを忘れることはない。足さばき、身のこなし、何代にも渡って、極めるための試行錯誤が繰り返され、生み出されたものだ。
人の形をした獣が技を極めたとき、その姿は、人の目にも写らない。
勝負など、最初からついている。一方的な虐殺だった。
化けた。でもまだ『生なり』ですぇ。