怪異
小角と事を構えようとするからには、それなりの備えが必要だった。
一説によれば、家来の一家に過ぎない小角の家に毎度皇族の姫が降嫁し、それでも大名に叙されないのは、皇族が小角を抱え込んでおきたいからだと言われている。
実は小角は忍びの元締めで、皇族の公にできない汚れ仕事を引き受けているからだ、それも、間諜というよりは刺客などの荒仕事が専門であるらしい、とまことしやかにささやかれている。
そうでなくとも血統お止め流という、他に例を見ない流派なのだ。剣術だけでなく柔術のような組み打ちや、手裏剣術などもあるらしい。
他家の者では入門できず、剣術の大会などにも出てこない。出稽古もやんわり断り、果たし合いを申し込んでも、しきたりを楯に頷かない。卑怯、臆病との謗りも、涼しい顔で受け流す。それで弱いのかといえば、弱い流派を皇族が抱え込むわけもない。
謎の流派なのだった。
塀を背にし、内側から裏木戸を守る男は、緊張しつつ立っていた。
土塀であるからには後からの攻撃は心配しなくていい。塀を乗り越えてくるか、木戸を開けようとするか、どちらかである。
塀を乗り越えればすぐにでも、木戸を破壊しようとすれば閂をかけて、呼び子を鳴らす。
そう身構えていた男だったが、まさか、塀から人の腕が生えてこようとは、考えもしなかった。
頭の両側から人の腕が伸びてきて口をふさぎ、ぐいっと後ろにひかれた。塀を背にしていたのである、ぶつかるっと咄嗟に見張りは思ったが、衝撃はない。
塀は確かにそこにある、にもかかわらず、見張りの男の体は衝撃を覚えることなく塀の壁に沈み込む。いやさ、体と塀が、重なる。
それだけでも信じがたいというのに、重なった体と塀を擦り抜けて──あるいは重なって──人の体が塀の内側に現れた。
己の体から、人の後頭部が抜け出て行くなどという経験を、男は初めてした。
幻とは、思わなかった。幻であれば、自分のこの口をふさぐ手の感触は、なんだというのだ。
それは若い男のようだった。くるりと振り向いたそれは、女のように美しい顔に無邪気な笑みを浮かべた。
晴れやかに、優しく、おどけた調子で男はささやいた。
「喋るなよ。喋ったら、殺すぞ? 分かったら、目を閉じろ」
体は塀にめり込んだまま動かない。怪異の恐怖がかちかちと歯を鳴らす。見張りは必死に目を閉じた。手の感触が遠ざかっても、声を上げる気などはなかった。
木戸の開く、馴染んだ音がした。
「そなた、わざと脅したろう」
聞き覚えのない低い声がした。
「おけ、そなたがおらねば、このような苦労はせん」
木戸の閉まる音。再び口がふさがれる。
「目を開けろ」
声が命じる。見たくなどなかったが、目を開けなければ、何をされるか分からない。見張りはそっと目を開けた。
見上げるような大男が増えていた。男らしい美男だが感心する余裕はない。
「お前に聞きたいことがある。喋ってもよいが、騒ぐなよ? 仲間を呼べば殺すぞ?」
最初の男が、顔を近づけにこにこ笑って囁いた。手がどけられる。
「あ、あやかしか。貴様らは、なんなんだ、幻か?」
男が口をふさいだ。
「困った者よのう。聞いているのは、こちらの方。答えてくれぬのか? それとも、答えたら教えてくれるのか?」
男はおどけて首をかしげ、片方の手を見張りの肩においた。その手が肩の中に沈み込む。なんの感触もない。
口をふさがれていなければ、見張りは悲鳴を上げていた。
「おや? 幻かな?」
男は不思議そうに言い、手を引き抜いて、見張りの胸をぽんっと触る。
今度は感触があった。
「どうだ? どっちだ?」
くすくすと男は笑う。
「遊ぶな。刻がない」
大きな方の男が言う。
「そうそう、我らには刻がない。喋って貰おうか? 葉月姫はどこだ? 場所を知らなければ、人を閉じ込めておける場所でもいい。見当くらいつくだろう?」
男は手を放し、見張りは恐怖のあまり、己の知る限りのことを喋り始めた。
葉月姫の居場所。首謀者が隠居の大殿であること。嫡男の若君が加担していること。殿はまったく、企みを知らないこと。家督を譲っても、実権は先代が握っていること。若君がとんでもないろくでなしであること。先ほど大殿と若君が、葉月姫の閉じ込められているところへ渡っていったこと。これは、葉月姫を意に添わぬ婚礼からお救いするためだと、言われていること──などなど──聞かれてもいないことを喋り続けた。
拷問などの覚悟はできても、このような怪異に対する覚悟はまったくできていなかったと見える。
「ご隠居の企みか。人は暇になるとろくなことを考えん」
「まだ騒ぎは起きておらんようだ。若はまだきておられぬのやもしれん」
「いや、分からんぞ。若はおれと同じで『神出鬼没』だからな。もはや深部にまぎれこんでおられるやもしれぬ」
くわえて『舞人』でもあるからな、と千騎はこぼした。
「やっかいな、力よのう」
「聞きたいことはすべて聞いたな。さて、お主」
男はやけに晴れやかに笑って言った。
「これが最後だ。そのまま生きるのと、死ぬのと、どっちがましだと思う?」
ひぃっと見張りは小さく悲鳴を上げると、白目を向いて気を失った。
「おや? 脅しすぎたかな?」
「可哀想に。わざと脅したろう?」
「手っ取り早いだろう? 口封じをする必要もない」
「出してやれ」
千騎は微笑むと、見張りの体に手を突っ込んだ。肘近くまで入れてしまうと、見張りの体を引いた。見張りの体は千騎の腕を生やしたまま塀から抜け出た。塀には何の後もない。千騎は見張りの体を寝かせると、手を引き抜いた。
むろん、見張りの男の体にも、何の後もない。見張りは、生涯この事を口にしないだろう。たとえ口にしても誰も信じない。
そもそも正気でいられるか、怪しいところだ。
千騎は男の体と塀を検分し頷いた。
「よし、なにも残してないな」
うっかりすると、何かを残したままにしてしまう事があるのだ。
これが千騎の力だ。
これが、小角が血統お止め流である理由だった。元から大柄で強力、人並み成らぬ反射神経の持ち主ばかりだが、時折、猛宣の鬼の力の片鱗を受け継ぐ者が現れる。
千騎は物質と重なり擦り抜けられる。ものとものとを重ねておくことも可能だ。そんな者に狙われたら、城の奥深く守られていてもなんの助けにもならない。
わずかな力の片鱗を受け継いだ千騎でさえこうなのだ。ほぼ先祖返りである『鬼降ろし』など、開祖様なき今、誰が止められようか。
あやかしを討てる者は限られている。
だからこそ小角は血を外に出すわけにはいかないのだった。外に出した血に、神通力の片鱗が受け継がれ、悪意を持って暴れられたら被害は甚大だ。
恐ろしい力だが利用価値は高い。
そして、小角が人であり続けるためには、開祖様の血統がいる。唯一、『鬼降ろし』となった者でさえ人に戻す力を、皇族の血肉は秘めているのだ。
それゆえに血統自体を抱え込み、監視する意味も含めて、小角は皇族の家来でいる。




