神出鬼没
「おやめください、若!」
「相手は皇帝様の姫ですぞ! なんと恐れ多いことを!」
気を失った葉月の体を引き起こし、さらに平手をみまおうとした幸尚を、飛び込んできた家来たちがとめた。
手荒くなるとは思っていたが、先程からのあまりに大きな物音に仰天し、飛び込んでみれば、ぐったりした葉月を引き起こし顔に手を上げようとしている若君を発見し、こらえきれずにとめたのだった。
まさか、その大きな物音が、自分たちの若がか弱き姫君にコテンパンにやられていたのだとは考えもしなかった。
一方的に、幸尚が葉月に暴力をふるっていたのだとしか思えなかった。これ以上は、あまりにも酷すぎる。あまりにも、恐れ多すぎる。
企みを知ってはいたが、これを無視することは男としてできなかった。
「止めるな! この小娘、我を愚弄しおった! 目にものをみせてくれる!」
小娘にしてられた己が不覚を棚にほうり上げ、幸尚は怒り狂った。
「大殿のお叱りを受けますぞ!」
びくんっと、幸尚の手がとまった。
「さよう、あまりに手酷く扱われては、取り返しのつかないことになるやもしれませぬ」
「今日のところはおしずまりを」
「医者を。姫の手当を」
幸尚には、皇帝の怒りより、祖父の怒りの方が恐ろしかった。
偉い人だとは分かってはいるが、それよりも、身近で叱り付ける御祖父様の方が、もっと恐い。誰も彼もが従う家で、幸尚が恐いのは、祖父と父、母くらいなものである。
それ以外に自分より上のものがいるとは思わない。
その祖父も父も、皇帝の命ひとつで、どうにでもなるものだとは分かっていなかったのである。
皇族への恐れより、祖父への恐れにより、幸尚は葉月への仕置きをあきらめた。
「しかたあるまい。医師を呼べ」
憎々しげに言い捨て、幸尚はきびすを返した。近従の者があわてて後を追う。
その背を見送る見張りの目は、好意的なものではなかった。
この馬鹿君が、と目が言っている。
それよりも、哀れにも狼藉を受けて気を失う花の蕾のような、皇族の姫君に向けるまなざしの方が暖かかった。
幸いにも厚い壁に阻まれ、彼らの耳には、葉月の啖呵は届かなかったのである。
怒りながら廊下を歩く幸尚に、近従の者は小言を言った。
「若様、あれはあまりにも、酷すぎまする」
「さよう、姫君を虜にせねばならぬところ、嫌われてはぶち壊しにございます」
「顔を打とうとは以っての外。傷でも残ろうものなら、いかがいたします」
「傷だらけでは、姫が偽りを口にしようと、誰が信じましょう」
この計画について、もともと懸念を抱いていたのだ。この若君が姫の心を奪えるものかと。先代はものにしてしまえばいい、と言ったが、もとより幼い姫にそのような狼藉を働くのは良識あるものとして気が進まなかった。
それが、若君の暴挙に一気に噴出した。
「ええい! うるさい! うるさい! 黙れ! あの小娘は、我を愚弄したのだ! 仕置きをしてなにが悪い!」
さすがに恥じてやられた内容を口にしない幸尚だが、暴露しても誰も信じないだろう。誰が、か弱き姫君が、大柄な幸尚を殴りつけ、肘打ちを入れた後、投げ飛ばしたなどと考えようか。それゆえにさらに怒り狂うのだ。
「悪うございます!」
「黙りませぬ!」
「大殿も聞けばお怒りになりましょう」
「どいつもこいつも、御祖父様の傘にきおって! 我はあの小娘に愚弄されたのだぞ! 貴様らは、あの小娘の味方をするか!」
するに決まっている。
なおも言い募ろうとした近従が、はっとして若君を庇うように背にして抜刀し、廊下の先を睨んだ。いかな大馬鹿者と言っても、お家の跡継ぎなのだ。
守る義務がある。
「何者だ!」
誰何の声に応えるように、すうっと、闇から人影が出てきた。
凄絶な色香を湛えた美貌の小姓──にしか見えなかった。しかし、その発散する何かに気圧され男達は息を飲んだ。
一度見れば忘れられない、しかし、見たことのない顔であった。
「小角鬼神流宗家が息、小角猛流にございます。葉月姫を返していただきに参りました」
若君は馬鹿君。教育を間違えたねぇ。
そんなわけで猛流登場。ヒーローぽい?