葉月姫異変
葉月と猛流が外出して以来、脱走騒ぎがおさまった。やはりときには場所を変えての気晴らしが効くのだと家来一同が納得してしばし後、小角家に一枚の書状が送られた。差出人は、春日野に領地を持つ水芝家である。かいつまんで読めば──
いわく、我が家と小角家は長きにわたり不仲との噂あり。我が家としてはこの噂を払拭し、小角家との友好を望んでいる。つきましてはその手初めとして、奥の茶会に葉月姫を招待したいと思う。我が家と小角との確執は手ごわいものがあり、まずは柔らかいところ(女性同士の付き合いの意)から始めたい。本来ならば猛之どのの正室をお招きするのが本筋ではあるが、正室様は亡く、側室様も公の場から身を引いている。そこで次期当主である猛流どのの許婚を、奥方の名代として招待するものなり。聞くところによれば葉月姫は花がお好みとか。桜の花の盛は過ぎてしまいましたが、他に見ごろの花もありますゆえ、野立の趣向にいたします。どうか、おいでいただきたく候。
というものだった。
大名家からの友好の証しとしての招待である。断れば小角から交友を拒否したということになる。
水芝家との確執はどうでもいいが、体面を考えれば、非公式なものであっても断ることはできない。
しかし猛之には野立に嫌な思い出があり、ためらった。
そこで、葉月の乳母である小春と、猛流の教育係である千騎、五藤の三人を集めて相談したのだった。
「……お断りできませぬか?」
めずらしく渋い顔をして千騎がいう。
「なにをおっしゃいます! 相手は大名家でありますよ? 特別待遇とはいえ小角は皇帝様の家来にすぎませぬ。格式がちがいます! その大名家の方から、友好を申し出ておりますのに、それを無下にお断りすると言うのですか! 小角はいつからそんなに偉くなったのですか! 相手にも恥をかかせます! そうなれば小角に非難が集まるは必定。是が非でもお受けなさいませ!」
しまった。小春の悲鳴のような進言を聞き、猛之は自分の非を悟った。
小春に知れたからには受けるように進められるに決まっている。これで断ろうものなら、あちこちに触れ回るに違いない。
これでは断るわけにはいかなくなってしまった。迷っているのなら、千騎一人と相談するべきであったのだ。
甥に当たる千騎桜春は頭がよく、意外に顔が広い。この男が嫌な顔をするからには、なにか情報を掴んでいるに違いない。しかし、他はともかく、小春の前では披露できない類いの情報元なのだろう。渋い顔で黙り込んでいる。
後で聞き出しておくべきであろう。
「姫様を小角の代表として名指しするからには、あちらも威信をかけてのこと。よほど小角と近付きになりたいのだと察しまする。なんと申しましても、小角に降嫁なさる事が決まっているとはいえ、姫様は皇帝様の姫。あちらさまも粗末には扱えないはずでありますわ。そうそう、小角のためにもなりますわ。そうでございましょう。両家の橋渡し。きっと姫様は立派に大役をつとめてみせますわ」
うっとりと己の言葉に酔っているような小春に、別の心配をしてしまうものがいてもしかたないだろう。
千騎と五藤の脳裏に、木に登って塀を乗り越えようとする葉月の姿が蘇った。猛之も思うことがあるのか渋い顔で黙り込んでいた。
そして五藤はただ一人、別のことで悩んでいた。
姫は茶の作法を知っておられるだろうかと。
……皇帝の姫に対して、あまりにも失礼な疑惑であった……
どちらにしろ断れない招待である。小角はこの招待を受けた。
非公式とはいえ、『皇帝の姫』が『大名屋敷』に招かれたのだ。それなりに体面をとりつくろう必要がある。
日取りが決められ、警備や手筈などが相談された。当初、小角はこちらからも警固の者を出すと言ったのだが、水芝は非公式のものであり、こちらから申し出たものなのだから、責任を持って全ての警固をすると聞かなかった。皇都の屋敷はいわば城である。その中に他家の者を入れ警備させるなど、以っての外、という事だ。
姫の乳母であり教育係でもある小春などは、『水芝様のおっしゃるとおりでございます』と贔屓もはなはだしい。
身内にこのような敵がいるからには不利もはなはだしく、万事水芝の意見が通ってしまった。
かくて葉月は水芝家を訪れることになったのである。
水芝の家より迎えの駕籠がきて、姫と乳母である小春のみをのせ、しすしずと一行は小角の屋敷を出た。
姫は奥方の茶会に出席し、しばし野立を楽しんだ後、水芝の屋敷を辞去。水芝の駕籠に送られ小角の屋敷にもどる。これだけのはずであった。
これほど厳密に手筈が整えられた堅苦しい茶会が気晴らしになるとは思えないが、何事も儀式のようなものである。
水芝が招き、小角がこれを受けたという事実が必要なのだ。
事前の練習によって見事な作法を見せ、五藤を安心させた葉月は夕刻前には帰るはずであった。
しかし、水芝からの帰りの駕籠はほとんど早駕籠であった。そして葉月は帰らず、小春のみが『葉月姫、不快をもよおし、水芝にて臥せる』という知らせを運んできた。
「姫様が! 姫様があぁぁ! 姫様にもしもし事あらば、この小春も喉をついて、お供いたしまするうぅぅ! 賽の河原で姫様のかわりに石をつみまする! それゆえ、姫様のお命だけはお助けを! ああ、神様仏様あ!」
「落ち着きなされ! なにがあったというのじゃ。姫がいかがなされた」
「小春さま、水を。落ち着きなされませ、水でございます」
「ささっ、飲んで気を落ち着かせ、子細をお教えくだされ」
衝撃のあまり支離滅裂な言葉を発し、自分の方がいまにも卒倒しそうな小春を正気づかせ、なんとか子細を聞き出そうと小角一同は手を尽くした。
ことのしだいは、小春と、送ってきた責任者から語られた。
小春は涙ながらに訴えた。
「かねてよりの手筈どおり、姫様は水芝の奥方様の茶会に行かれました。小春は身分の低いものと、別室で控えておりました。ええ、皆様、皇帝様の姫君を御屋敷にお招き出来て光栄だと、姫様はお美しいと、お喜びで。小春も誇らしゅうございました。そうしておりましたら、医者だ、なんだと、お庭の方が騒がしくなり……」
わなわなと震えていた小春がいきなり天を仰いで絶叫した。
「ああ! この小春がついておれば! 姫様に万が一のことあらば、皇帝様に顔向けできませぬ! 水芝様にもお咎めがありましょう! ああ、一太、ゆき、小三太、母を許しておくれ! 母は姫のもとにいきまする! 父者のいうことをよく聞くのですよ! 母は、母は、母わあぁぁ!」
「小春さま、お気を確かに! 姫様は亡くなっておりませぬ!」
「医者じゃ、医者を呼べ!」
小春は小角一同に抱えられ、奥へと連れて行かれた。
再び錯乱した小春にかわり、責任者である水芝家の者が子細を伝えた。
「姫様は野立においでになり、優雅に茶の湯を楽しんでおられました。それはもう、幼いとはいえ皇族の姫にふさわしく、優雅で気品にみちたお方で」
──この刹那、複数の(いろいろな意味での)疑惑の目が向けられたことに使者は気づかなかった──
「しかし、急に不快をもよおされ、お倒れになったのであります。すぐに屋敷の中に運び込まれ、我が家お抱えの医者が見ておりますが、まずは小角様にお知らせをと思い、小春どのをお連れしたしだいで」
「して、容体は?」
「急ぎ参りましたので、しかとはわかりませぬ。されどおって人をよこしますので、その者にお聞きいただきたく。大切な姫をお預かりしたというのに、このような事になり、小角様には申し訳なく。これ、このとおり、平にご容赦くだされ」
使者は土下座して詫びた。
猛之はこれを許し、いったん使者を水芝の家に帰らせた。
しかし表情を引き締め――
「千騎と五藤を呼べ」
と、近従の者に申し付けた。
これを予想していたらしく、千騎と五藤はすぐに猛之の下に馳せ参じた。
そして、再び水芝の家から使者がやってきたが、吉事ではなかった。
「葉月姫は突如病にお倒れになり、我が家で伏しておりまする。医者の話では、動かすのはよくないと、このまま治癒するまでここで養生するべきと申しております。こちらとしても、お預かりした姫を病でお返しするは、我が家の恥。快癒なさるまでしかと養生していただき、こちらにお返ししたいと存じます。どうか、御了承を」
じっと話を聞いていた猛之は、重々しく口を開いた。
「よう分かった、使者どの。我が家としても、姫の命にかかわるとあっては、すぐ返せとは言えぬ。したが……姫の乳母小春が姫の身を案じ、側で看病したいと──」
「あ、いや、しばらく、しばらく――お気持ちは察しいたしますが、小春どのは己が倒れそうなご様子。あれで看病などは。我が家の者がついておりますので──」
「さよう、あれはいま伏せっておる。姫につけてやりたいが、無理じゃと、言おうとしたのじゃ。姫のこと、そちらに一任いたす」
このときの使者のほっとした顔を猛之は見逃さなかった。
「ありがたき仰せ。必ずや姫を快癒させましょうとも」
使者は礼を述べて帰っていった。
千騎は猛之(御当主)の弟の息子です。お父さんの代に千騎の苗字をもらって家臣になりました。実は一人っ子。
猛流が生まれる前は当主の養子候補筆頭でした。
実は猛流の母親は桜春の従姉。母親の兄弟の子供なのです。猛流とは父親の系統では従兄弟、母親の系統では従姉の子というややこしい関係。血統でいえばなかり近い……のかな?