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私の性格について

最近自分の性格が見出せなくなっている。


幼い頃の私について、親は「愛想のいい子だった」と言っていたが、それは違うであろう。きっと「我が子に対する愛情」という名の目には見えない眼鏡を掛けていたから、そういう具合に見えたのだと思う。子を持つ大人は大概その眼鏡を掛けているが、八割方それは壊れているものだ。残りの二割は不良品である。

記憶の箪笥(どこかの引き出しを勢いよく閉めると予想もしない場所の引き出しが飛び出すタイプ)を片っ端から開けても、残念ながらその幼い頃の記憶というのは埃とあまり変わらない程度にしか残っていない。というかもう埃に等しい。

だからあれこれ考察は出来ないが、きっと「愛想がいい」なんていう何処かの子役のような子供では無かったはずなのだ、私というのは。


今の時点では、とりあえず「地味で根暗」を自称しているが、それだけでは無いであろう。

最近ではコミュニケーションというモノの難しさをまるでビーフジャーキーを食うが如く噛み締めた。

私はテレビをあまり見ないが故に致命的なほど世間遅れしていて、しかもかなり耳が遠いらしいから、一般的な女の子――好きなアイドルグループがいて、最近の芸能界の動きも世間並に知っていて、会話中に相手に対しごく自然に疑問や意見などが思い浮かんで、これまたごく自然にその会話中笑顔を出せる子――との意思の疎通はほぼ不可能に近い。同じ人間であるにも関わらず。

同じような趣味を持つ子となら、まだいくらかは通じるのだが、それでもやっぱり一般的な「会話」は成り立たない。なぜなら盛り上がる話のネタはお世辞にも「一般的な女の子」がにこにこしながらするモノとは言えないから。湿っぽくてじめじめしている上になんだか変なかほりが漂ってきそうな、一般ピープルの方が聞いたら全身に鳥肌が立つくらいの気色の悪い妄想をたっぷりと盛り込んで、アニメやらマンガやらについて語り合ったり世界の中心で愛を叫んだりしているのである。因みにこれを「をたく」という。


私はどちらかと言えば「言う方」では無く「聞く方」の部類に入るのだが、そのこみゅにけえしょんというモノのコツを心得ていないので、相手の言葉に対し気の利いた疑問や意見の類もろくに思いつかず、ただ「ふん、ふん、へえ、なるほど」とこくりこくりと相槌をうつくらいしか出来ないのだ。

かと言って「さあなんでもどうぞ」とでも言わんばかりに会話の主導権を握らされるのもほとほと困ってしまう。根が「聞く方」なのだからこれはしょうがないであろう。

しかし相手が無口な子であれば、「これは私から喋らなければ」と思うのだから不思議なモノだ。だけれど悲しき「聞く方」の血。「自分から喋る」と偉そうに(自分の中で)宣言したのはいいが、頭の中でどんな話題がいいか一生懸命に考えているうちに喋る機会を失ってしまうのだ。そのパターンは一回やってしまうと後は道端の小石のようなモノ。つまずきにつまずいてますますその子と言葉を交わすのが困難になる。私はこれを「悪夢のような無限ループ」と名付けた。


また、私の幼い頃について、親は「誰に対してもニコニコしていた」とも述べている。要するに先程の「愛想がいい」とさほどかわらないのだけれど、私にとってそれら二つは違った意味を持っている。

注目すべき所は「誰に対しても」だ。私はこれを「幼い頃の私は、誰に対しても同じように振舞っていた」と捉えている。これが、今の私にとって――

とても羨ましい。

なんと私は普段の生活において、相手によって態度を変えるという世にも卑怯な手段を使っているのだ。私を人間の屑だと罵るか。何とでも言えばいい。私はMなのだから。

普段優しくしてくれる友達には、出来るだけ自然な態度で接するよう心がけているつもりだ。しかし、相手が苦手な人となると、どこかよそよそしい態度で接してしまうのだ。友達といる時と同じような態度でいるんだと自分で自分に言い聞かせようとするのだが、やはり一刻も早くその人との関わりを断ち切りたいという思いの方が強く、視線はふらつき口調はおぼつかなくなる。完全なる挙動不審状態だ。相手からすれば、ただ私と会話したいだけなのに、その私はなんだかおかしな具合になっているのだから、これは苛つかずにはいられないだろう。そう思うとますます恥ずかしくなり、ますます挙動不審になってしまう。私はこれを「悪夢のような無限ループその二」と名付けたのだが、単に考え過ぎとも言えよう。


そうだ。考え過ぎなのだ。

私は、それこそ大人たちの半分も生きてはいないけれど、いろんなモノを知った。そして多分これからもいろんなモノを知っていく。

無知なのは幸せな事だと何かで見たが、幼い頃の私は正にそれだろう。時に余計な知識というのは邪魔になる。なんだか禅宗の教えみたいだ。


話が逸れてきたので、ここらで軌道修正をする。

要するに私は自分の性格を知りたいのだ。だからこんなくだらない誰も得しない事をだらだらとここまで書いた訳だが、それでもやはり分からない。ますます謎が深まっていくだけである。

それなら周りの友人やら家族に聞けばいいじゃないと思うだろう。私の場合はそうはいかない。

顔のつくりが雑であるほど、心はまるで伝統工芸品のガラス細工並に繊細であることが多い。私なんかはまるっきりそれである。

「私ってどんな性格ですか」と人に尋ねた所で、私と相手の間に気まずい雰囲気が渦巻くのが関の山だ。そんな恥ずかしい事出来る訳が無い。だからもちろんネット上で親しくしてもらっている方達にも聞くことも出来ない。文字を打つのは簡単だが、向こうは現実世界での私を知らないのだし、私だって現実世界の相手の事は知らない。そんな質問されたって「知るか」の一言に尽きる。


こういう具合に考えていくと、いよいよどうしようも無くなってくる。

だから私は、このやり場のないもやもやした何かをここにぶつけてみたのだが、だからと言って何かが分かった訳でも無い。

だがしかし、解決した訳ではないけれど、ここにもやもやを思いっきり叩きつけたおかげで気分がスッとした。ストレスが溜まった時はとっととそれを発散するに限る。


きっとこれからは、「自分の性格」というのは、「バナナはおやつに入るか否か」の疑問と同じくらいの大きな謎として残るだろうが、もうそれでもいい。

私は私なのだから。


さあ、今日も元気にいくとしよう。


あらすじにある通り、森見先生にハマって、自分も作風真似てみようと

最低な事を思いつき、できた短編です。

題材は自分の性格についてという誰も得しないモノ。

ごめんなさい。とにかくごめんなさい。問題があるのなら削除します。

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