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第二話


 森の雪がやがて小川の流れとなる頃、男に守られ姫は森で無事でおりました。

 ある時男は森の奥に姫を誘いました。そこにはいつ建てられ、そして捨てられたのかもわからないあばら屋があり、屋根も腐って方々穴が開いていましたが、暗く湿気て狭い洞穴よりは、よほど姫の気に入りました。

 着ているものは汚れて擦り切れ、素顔にはひとすじの紅さえ差してはおりませんでしたが、姫は変わらず、いえ、城で暮らしていた時よりもずっと、かがやくばかりの愛らしさでした。

 そうです。元もとたいそう美しい姫でした。

 小さなこの国では王家といえど豪奢な暮らしができるはずもありませんでしたが、民と触れあう機会も多く、見目も心根も優しい姫はみなに愛され、慕われてもいたのです。


 男は姫に対しいつまでも不躾ともいえる態度でしたが、決してぞんざいに扱っているのではないことは、姫にもちゃんとわかっていました。

 男は最初に出会ったときから、一言も口を利きませんでした。

 姫の言葉を理解しているものかどうかもわかりませんでしたが、姫は特段にそれをいぶかしいとも思いませんでした。男の大柄でたくましい体つき、この辺りでは見ることもないうす水色の瞳、そして不思議な銀色の髪に、姫は男をどこか異邦人のように思っていたのです。

 ましてやここは国境くにざかいの森。国境を越えて異郷へと迷い込んだのは、もしかしたら姫のほうなのかも知れないのでした。


 季節が変わり男に守られた森での暮らしに慣れてくると、姫の心にかすかな不安が芽生えました。

 自分は、このまま森で朽ちてしまうのだろうか……、という思いです。国が今どうなっているのかも心配でした。

 冬の間、ことに男に出会った当座は生きのびることのみを必死に考えていた姫でしたが、こうして日増しに暖かくなり心にもゆとりが生まれると、懐かしい城での暮らしやこれからのことも思わずにはいられないのでした。

 しかし姫は、その思いを男に伝えることはしませんでした。「町へ私を連れて行ってほしい……」、そう伝えようと思ったことは何度かありましたが、そのたびに踏みとどまりました。

 森では王のごときこの男も、町では剣を佩いた兵士たちに敵うかどうかわかりません。そうでなくても、姫は心のどこかで男を町へやってはいけない気がしていたのでした。

 それで姫は、己れの思いは胸にしまったまま、森の奥で男とともに暮らしておりました。


 夏の終わりのことです。森に数人の男たちがやって来ました。

 矢と斧を携えた猟師がふたり、それから身なりのよい騎馬のふたりです。彼らはそれぞれに鳴り物を鳴らし、姫の名を呼ばわりながら、森の中をもう何日間も歩き回っていました。

 太陽が中天に差しかかる頃、一行は馬の様子がやたらに落ち着かないことに気がつきました。獣のうなり声を間近に聞き、四人の頬はさっと緊張しました。

 振り向いた猟師の目の端に、灰色の大きな獣が映りました。それは本当に、一行の間近におりました。

 襲いかかってきた狼に咄嗟に矢を射たのは、さすがは貴人に選ばれた猟師であったというほかありません。それは狼の右目を貫きました。

 ぎゃっ!と恐ろしい悲鳴をあげ、もんどり打って地面に落ちた狼はその場から駆け去ろうとしました。

「手負いだ! 仕留めるぞ!」

 容赦なく矢を射かけながら猟師が奮い立って駆けだそうとした時、

「追うな!」

 と、騎乗のひとりが叫びました。

「今は姫をお捜し申し上げるのが先だ。かような狼もいようとは、姫の御身が心配だ。早く見つけて差し上げねば……」

 猟師たちは残念そうな表情になりましたが、その言葉に納得したのでしょう、矢を矢筒にしまうと騎馬に従いました。

 それから半時。

 一行はついに目指すそのひとを見つけたのです。そのひとは川べりで、なにやら洗い物をしておりました。

「姫様!」

 男の叫びに姫ははっと振り返りました。

「よくぞ……、よくぞ御無事で……!」

 馬を降り駆け寄ってきた男は、姫も見知った隣国の家臣でした。姫の姉姫は隣国へ嫁いでいたのです。

 姫は知らぬことでしたが、叔父が乱を起こし国を乗っ取ったと知った姉姫──すなわち隣国の王妃は、ただちに夫である王に挙兵を願ったのでした。

 王はその言葉を容れ、幾月かに及ぶ戦の後、この国を掌握したのです。そのおり「森の佳人」の噂を聞き、もしや姫が生きのびたのでは……と一縷の望みを抱いて、こうして森へ探しに来たのでした。

「我らは姫様をお迎えに参ったのです。もう何も心配ありません、我が王が逆賊を滅ぼしました。どうぞ城へお戻りなされませ」

 姫の瞳から、喜びと安堵の涙があふれました。けれども姫は、すぐに気づきました。

「ま、待って……。すぐには、私は行けません」

 いぶかる家臣に姫は言いました。

「私を助けてくれたひとがいるのです。そのひとに黙って出て行くことはできません」

 家臣も納得しました。それでみなで日が傾くまで待っていましたが、男は現れませんでした。

「姫様……」

 と、とうとう家臣が言いました。

「もう日が暮れてしまいます。この辺りには狼もいて危のうございますし、お会いできたからには一刻も早く、姫様をここからお連れするのが我らの務めです。その者には手紙を書き置けばよろしゅうございましょう。城へ来るよう書いておきます」

「あのひとが来たら、私にも会わせていただけますか? きちんとお礼をしたいのです」

「必ずそういたします。褒美もきっと取らせましょう」

 姫はまだ不安げでしたが、そう約束されてようやく頷きました。

 ようやく人らしい暮らしに戻れる……それはたまらなくうれしいことでしたが、半年以上を男と暮らした森も、離れるとなると淋しい気持ちにもなるのでした。


 森を抜けようとしたとき、狼の咆哮がかすかに空気を震わせました。一行はいっそう馬を駆り立てましたが、姫の心はなぜか締めつけられるようでした。

 その夜、森では全ての生き物が息をつめ、なりを潜めておりました。夜通し悲痛な声をあげ続けた、一匹の獣を除いては──。



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