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第一話


 それはひどい冬でした。

 北の辺境の小さなその国に吹き荒れた冬の嵐は、風と雪ばかりではありませんでした。王と王妃が殺され、ただひとり姫だけが、わずかな近従に守られて城から逃げおおせたのでした。

 国に嵐を巻き起こした張本人である王弟は、姫の逃亡を知るとすぐさま追っ手を差し向けました。

 猛り狂った雪はまるで地の底から吹雪いてくるようで、追っ手もまた北風に乗ったかのごとき早さと冷酷さで一行にせまりました。頼るものとてない落人達は追っ手を逃れ、森へと逃げ込むしかなかったのです。しかし森の入り口で、ついに追っ手がせまりました。


 ひとり、またひとりと討たれる中、最後まで姫のお側にいた近従が剣を抜き、姫に向かって叫びました。

「走りなさい、姫! 必ず生きのびるのです。我らの命を、決してむだにはなさいますな!」

 姫の大きな瞳から、涙が幾重にもこぼれ落ちました。かじかみ、凍えた手で笞を入れると、姫を乗せた馬はその場から駆けだしました。

 遠くに怒号と悲鳴を聞いた気がしましたが、きっとそれは幻でありましょう。灰色の夜が森に訪れようとしていました。

 ですが姫は、寒さと森の獣から身を守れそうな洞穴を見つけたのです。それは僥倖でした。姫の心に、ほんの小さな灯りが点りました。

 馬から下り、その背の大きくはない荷も下ろして質素な寝床をしつらえようとしていた時です。恐ろしい獣の遠吠えが聞こえ、怯えた馬は姫を置いて走り去ってしまいました。

「待って……!」

 姫は悲痛な声で叫びましたが、その声はむなしく闇に吸い込まれていきました。

 恐ろしくなった姫はあわてて荷物から火打ち石を取り出すと、洞穴に散らばっていた枯れ枝をかき集め、火を熾しました。

 暖かな光が熱とともに姫を照らしましたが、姫の心は暗く絶望に閉ざされていました。

 寒さに震え、心細さに涙しながら焚火を掻き立てていた姫は、闇の奥から自分を見つめる目に気づきました。

 やがてそれは、闇と姫の間に姿を現しました。

 大きな銀色の狼──。

 姫は恐ろしさに気を失いそうになりながら、ただそれを見つめていました。

 狼もまた、まばたきもせずそれ以上近づくこともせず、ただ青く光るほの白い双眸で姫を見つめ続けているのでした。


 森の中では追っ手たちが血に汚れた剣をぶら下げて姫を探しておりましたが、狼の遠吠えを聞き、やにわに自分たちが暗い夜の森にいることを思い出しました。

「どのみち娘ひとりでは、この森で生きのびることなどできぬ」

 ひとりがそう言い、追っ手たちは轡を返しました。


 夜が更け、そして明け、姫が目覚めた時、陽はもう随分と高いところにありました。

 焚き火は消えてはいませんでしたが、細く小さくなっていて、それで寒さに目が覚めたのだとわかりました。

 誰も戻っては来なかった……。 姫は涙ぐみました。昨夜の「我らの命を無駄にするな」という近従の叫びは胸に重く残っておりましたが、冬の森にひとり取り残されては、命も尽きたも同然でした。


 その時です。

 前方に気配が動き、姫は身体をこわばらせました。

 追っ手かも知れない。生きのびた近従かも知れない。しかし姫の心には、昨夜見た狼の姿がまざまざと蘇っていたのです。

 しかし姿を現したのは、そのいずれでもありませんでした。

 ひどく質素な身なりの大柄な男が、手に兎を持ち姫へと近づいてきました。男は姫の傍らに座ると、荒々しい手つきで兎を捌きはじめました。

 その血と肉の生々しさに思わず姫は目を背けましたが、ひどく空腹でしたし、そうして命を屠って食べなければ、自分が死んでしまうのだということもわかっていました。

 姫は吐き気を堪えつつ、火を掻き立てました。男は捌き終え、今は肉片となった兎を無造作に姫へと押しやると立ち上がり、また木立の中へと消えていきました。


 あの男は何者なのだろう……、と、姫は思いました。

 敵か、それとも味方なのかもわかりませんでした。

 しかし自分を捕らえようともせず、こうして食べ物も恵んでくれたのだから──それはひどいやり方で、でしたが──きっと「敵」ではないのだろう、と、姫は思いました。


 森にやがて夜の帳が下りようとした頃、男が再び現れました。

 今度は兎ではなく、柴や薪を手に持っていました。思わず腰を上げた姫には頓着せず、男はそれらを洞穴の隅に積み上げました。

 それから姫と、焚き火からも少し離れたところに座りました。

「あなたは誰ですか……?」

 短くはない沈黙のあと、ようやく姫は訊ねました。

「私を捕らえにきたのですか……?」

 男は黙ったまま、ただ姫を見つめているだけです。

「私を、助けてくれるの……?」

 男はやはり答えません。それどころか眉ひとつ動かさず、何を考えているのかすら姫にはわからないのでした。

 しかし姫は、なぜかしらこの男を恐ろしいとは思いませんでした。

 それはこの男がいなければ、いずれ森で生きていくことはできないと心の底でわかっていたからかも知れないし、男のうす水色の瞳が、限りなく静かだったからかも知れません。

 男は獣を狩り薪を集め、凍える夜には姫を抱いて眠りました。

 不思議なことに、この男といると、凍てつく寒さも夜の暗さも姫に這い寄ることはなく、森の獣さえ近づいても来ないのでした。


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