硝子(がらす)の庭の残像
硝子の庭の残像
築四十年になる木造平屋の縁側は、初秋の陽射しを浴びて飴色に沈んでいる。
午後三時をまわると、庭の隅に植えた無花果の葉影が畳の端に長く伸び、微かな風が吹き抜けるたびに、まるで誰かが指先で床板を撫で回しているような頼りない音を立てた。
伸一は、爪の間にこびりついた黒土を、爪楊枝の先で丁寧にこそげ落としていた。
指先が微かに震えるのは、朝から裏庭の土を掘り返し、古い素焼きの鉢を幾つも水洗いしたせいだった。土の匂いが皮膚の皺の奥に染みついている。かつて父が「土は死んだ生きものの抜け殻だ」と言っていたのを、伸一はふと思い出す。乾けば灰のように軽くなり、水を吸えば臓腑のように重たくなる。伸一にとって、庭の土を弄る時間は、時間そのものの重みを計量する儀式のようなものだった。
台所から、カチャリと茶碗の重なる音が響いた。
息子の透が起き出してきた合図だった。今年で三十になる透は、夜間に物流倉庫の仕分け作業をしており、昼間は雨戸を締め切った北側の六畳間で泥のように眠っている。生活の位相がまるで噛み合わないまま、二人はこの傾きかけた家で、音を立てずにすれ違うようにして暮らしていた。
「父さん、これ、捨てるのか」
擦り切れた綿のシャツを羽織り、寝癖のついた頭を掻きながら、透が勝手口の敷居を跨いで現れた。その手には、伸一が今朝のうちに縁側の隅へ積み上げておいた、古い木箱が握られていた。
箱の中には、薄茶色に変色した原稿用紙の束が入っている。
「捨てるんじゃない。陰干しだ」
「カビ臭いよ。もう何年も開けてないだろ。紙が湿気て波打ってる」
透は不機嫌そうでもなく、ただ平坦な声で言い、木箱を縁側の端に置いた。その無感情な響きは、父親に対する敬意でも反抗でもなく、ただそこにある物体を観察する昆虫の触角に似ていた。
伸一は爪楊枝を灰皿に置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。腰の関節が微かに軋む。
「お前が生まれる前、二十代の終わりに書いていたやつだ。賞に出して、一次選考に残ったきり、そのままになっていた」
「ふうん。小説か」
「小説というほどのものではない。ただ、言葉の並びを確かめていただけの紙屑だ」
透は興味を失ったのか、それ以上追求することもなく、縁側の縁に腰を下ろして庭を見やった。
狭い庭には、伸一の手によって雑草一本残さず手入れされた畝があり、春菊と小松菜の青い芽が整然と並んでいる。その傍らには、透が高校を中退した年に植えた金木犀の木が、まだ固い蕾をびっしりと抱えて沈黙していた。
「今日、夜勤の前に役所へ行ってくる」
透が足の指を丸めながら言った。
「何をしに」
「保険証の切り替え。それから、少し調べたいことがある」
「何の調べものだ」
「……べつに。仕事の、資格のこととか」
透の嘘は、いつも輪郭が曖昧だ。嘘をつくこと自体に熱意がないため、問い詰めればすぐに崩れることを互いに知っている。伸一はそれ以上何も訊かず、手近にあった茶を一口すすった。冷え切った番茶が喉を滑り落ち、胃のあたりを冷たく刺激する。
二十年前、妻が出て行った日の夕暮れも、今日のように無花果の葉が影を作っていた。
妻は「あなたといると、言葉が全部干からびていくの」と言った。その時、伸一は書斎の机に向かい、原稿用紙の四百字詰めの升目を万年筆のインクで埋めていた。妻が荷物をまとめる衣擦れの音も、玄関の引き戸が閉まる乾いた響きも、伸一にとっては原稿用紙の上に落ちる影の一種に過ぎなかった。
言葉で世界を掬い取ろうともがけばもがくほど、掌の隙間から現実の手触りが零れ落ちていく。残されたのは、母を喪った幼い透と、幾千枚もの書き損じの紙束だけだった。
伸一はやがて筆を折った。
小さな印刷会社に校正係として勤め、他人が書いた広告の文字や、教科書の誤植を赤ペンで拾い上げるだけの日々を送った。定年を迎え、退職金で家の借金を返し終えたとき、伸一の指先からは何かを表現しようとする熱が完全に抜け落ちていた。
代わりに始めたのが、土を弄ることだった。
土は裏切らない。言葉のように二枚舌を使うことも、意味の深淵で人を溺れさせることもない。種を蒔けば芽が出、踏み固めれば固くなり、放置すれば草が生える。因果律の明快さだけが、伸一の乾いた老後を支えていた。
透が部屋に戻り、水道の蛇口を捻って顔を洗う音がした。
伸一は木箱に手を伸ばし、一番上にあった束を膝の上に取った。表紙には、褪せた青いインクで『微光の輪郭』と題が打たれている。
頁をめくると、若い頃の自分が選んだ、気取った語彙が並んでいた。
「――硝子窓の向こうで揺れる柘榴の実は、裂開の痛みを予感しながら、静かに自らの重みに耐えている。光は無機物のように冷たく、私の皮膚を侵食すること叶わず……」
伸一は小さく息を吐き出し、自嘲の笑みを浮かべた。
痛々しいほどの自意識と、世界から拒絶されることを恐れるあまり先回りして世界を拒絶するような、青白い怯えがそこにあった。ここには、汗の匂いも、土のぬくもりも、空腹の切実さもない。ただ、辞書から引き写したような観念の骸骨が、紙の上で骨組みを晒しているだけだ。
だが、その稚拙な文章の行間から、不意にある記憶が立ち上がってきた。
その原稿を書いていた冬、伸一はまだ赤ん坊だった透を左腕に抱き、右手だけでペンを走らせていた。透の柔らかな頭頂部からは、甘い乳の匂いと微かな体温が立ち上り、伸一の鎖骨のあたりを温めていた。原稿用紙の隅に、透が誤って握りつぶした蜜柑の果汁が小さな黄色い染みとなって残っている。
伸一はその染みを、親指の腹でそっと擦った。
消えるはずのない染みは、三十年の時を経てもなお、そこに淡く留まっていた。
「出かけてくる」
身支度を整えた透が、玄関でスニーカーの踵をトントンと鳴らした。
伸一は原稿から目を離し、立ち上がって玄関へ向かった。
「透」
「ん?」
透は戸口に手をかけ、振り返った。逆光の中に立つその横顔は、伸一が忘れようとしていた妻の輪郭と、伸一自身の若い頃の骨格を、奇妙な均衡で継ぎ合わせた形をしていた。
「夕飯はどうする。秋刀魚を買ってあるが」
「……食べるよ。八時前には戻る」
「そうか。大根をおろしておく」
透は一瞬、何か言い淀むように視線を泳がせたが、やがて短く「じゃあ」と言って引き戸を開けた。
外の熱気が一気に玄関の三和土へと流れ込み、引き戸が閉まると再び静寂が戻った。
伸一は台所へ行き、大根を手にとった。
重たく、瑞々しい青首大根の皮を剥く。包丁の刃が繊維を断ち切るシャクシャクという小気味よい音が、静まり返った家の中に響く。陶器のおろし器に大根を押し当て、円を描くように手を動かす。すりおろされる大根から、ピリッとした辛みを帯びた青い香りが立ち上った。
自分が書いていた小説は、何の役にも立たなかった。
妻を繋ぎ止めることもできず、息子に豊かな暮らしを与えることもできず、ただ自分の傲慢な孤独を慰めるためだけに消費された紙の墓標だった。
だが、あの日、蜜柑の果汁をこぼした赤ん坊は、いま三十の男になり、不器用な足取りで社会の片隅を歩いている。親が言葉に詰まり、立ち止まった場所から、それでも生きることを投げ出さずにいる。
大根をおろし終えた伸一は、再び縁側へと戻った。
風が少し冷たさを帯び始めていた。
伸一は膝をつき、木箱の中の原稿用紙を一枚一枚、風に飛ばされないよう丁寧に揃え直した。捨てようと思えば、いつでもゴミ袋に放り込めるものだ。焼却炉の煙となって空に消えてしまえば、伸一の人生の蹉跌の証拠などどこにも残らない。
だが、伸一は箱の蓋を閉めなかった。
秋の薄い光が、紙の縁を柔らかく照らしている。
彼は庭に目を向けた。畝の脇にしゃがみこみ、春菊の株元に生えた小さな名もなき草を、指先で一本だけ摘み取った。土は湿り気を帯び、冷たく、確かな質量をもって指にまとわりつく。
「書くことなど、何もなかったのだ」
伸一は声に出して呟いてみた。
庭の無花果の葉が、カサリと小さく鳴った。
初めから世界には意味など満ちていて、それを言葉という狭い檻に閉じ込めようとしたこと自体が、若さという名の驕慢だったのだ。土があり、水があり、夕暮れには誰かが帰ってくる。そのことの重みに比べれば、原稿用紙の四百字など、雀の羽毛よりも軽い。
遠くで、踏切の警報機がカンカンと鳴り始めた。
透が乗ったであろう電車が、鉄橋を渡っていく重い振動が、地奥を伝って微かに縁側を揺らした。
伸一は立ち上がり、井戸のポンプに向かった。
冷たい地下水を汲み上げ、両手を浸す。爪の間に残った黒土が水に溶け、澄んだ水がたちまち濁っていく。その濁りがやがて排水口へと吸い込まれ、再び清らかな水だけが手首を洗い流すのを、伸一はずっと見つめていた。
秋刀魚を焼く煙が、間もなくこの庭を包むだろう。
伸一は濡れた手を拭うこともせず、空を見上げた。青く澄み渡った秋の空の向こうに、名前のつかない大きな光が、ただ静かに広がっていた。




