第4話「約束」
『虚実の狭間に立つ者』
第4話「約束」
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速い。
僕は横に跳んで躱した。
女の手が、僕がいた場所を通過する。その手は、鋭い爪のように尖っていた。
「——祓わせてもらいます」
僕は構えを取った。
正眼の構え。剣先を相手に向け、全身の力を抜く。
女が、再び襲いかかってくる。
今度は躱さない。
僕は一歩踏み込み、刀を振るった。
——斬れない。
刀は確かに女の体を通過した。しかし、手応えがない。まるで、霧を斬っているようだ。
「無駄、よ」
女が笑った。
「私は、ここの、一部。斬っても、斬っても、消えない」
女の体が、揺らいだ。
霧のように拡散し、僕を取り囲むように広がっていく。
「さあ、同じに、なりましょう」
霧が、僕に迫ってくる。
触れたら終わりだ——直感がそう告げていた。
どうする。
斬れない相手を、どう祓う。
考えろ。冷静に、考えろ。
きさらぎ駅は、都市伝説だ。人々の噂と恐怖から生まれた存在。
ならば——
「——あなたは、何者ですか」
僕は問うた。
「は?」
「あなたには、名前がありますか。きさらぎ駅という場所に、最初に来た人。あなたは——誰ですか」
霧の動きが、止まった。
「私は——」
女の声が、揺らいだ。
「私、は——」
「あなたは、きさらぎ駅そのものではない。この場所に囚われた、最初の犠牲者だ」
僕は確信を込めて言った。
「違いますか」
沈黙が流れた。
やがて、霧が収束していく。女の姿が、再び形を成した。
その目に——かすかな、人間らしい色が戻っていた。
「——思い出せない」
女が呟いた。
「私が誰なのか、思い出せない。ずっと、ここにいる。ずっと、一人で。だから——」
「だから、他の人を引き込んだ」
「寂しかった、の」
女の声が、震えていた。
「ずっと、一人で。誰も来なくて。だから、呼んだの。誰かに、来てほしくて」
僕は、刀を下ろした。
「……彼らは、どこにいますか」
「駅員室の、奥。私が、眠らせてる」
「眠らせて?」
「怖がるから。泣くから。だから、眠らせた。夢を、見せてる。幸せな、夢を」
女は——泣いていた。
涙のない、しかし確かな悲しみを湛えて。
「——わかりました」
僕は言った。
「彼らを返してください。そうすれば、僕はあなたの話を聞きます」
「話を——?」
「あなたが誰なのか、一緒に思い出しましょう。一人では思い出せなくても、誰かと話せば、思い出せるかもしれない」
女は、僕をじっと見つめていた。
「嘘、じゃない?」
「嘘じゃありません」
「また、来てくれる?」
「約束します」
女の顔に、微かな——本当に微かな、笑みが浮かんだ。
「……わかった」
女が手を振ると、周囲の空間が歪んだ。
気づくと、僕は駅員室の前に立っていた。
扉を開けると、五人の男女が床に横たわっていた。目を閉じ、穏やかな表情で眠っている。
生きている。全員、生きている。
「——よかった」
僕は安堵の息を吐いた。
◇
五人を起こし、状況を説明する時間はなかった。
彼らは混乱していたが、「助けに来ました」とだけ伝えると、大人しく従ってくれた。
ホームに戻ると、女が待っていた。
「送って、あげる」
「ありがとうございます」
「でも、約束。忘れないで」
「忘れません」
女は頷いた。
次の瞬間、世界が白く染まった。
意識が、遠のいていく——
◇
「——真夜! 真夜!」
声が聞こえる。
目を開けると、凛太郎の顔があった。
「おい、大丈夫か!」
「……ここは」
「渋谷駅のホームだ。お前、急に意識を失って倒れたんだよ」
周囲を見回す。
確かに、渋谷駅のホームだった。深夜のはずだが、駅員や警備員が集まっている。
そして、僕の隣には——五人の男女が、同じように倒れていた。
失踪者たちだ。
「あいつら、お前と一緒に現れたんだ。いきなり、虚空から」
「そうですか……成功したようですね」
「成功って——何があったんだ、中で」
僕は、きさらぎ駅での出来事を手短に話した。
凛太郎は、難しい顔で聞いていた。
「つまり、お前はその『女』と取引をしたってことか」
「取引というより、約束です。また会いに行くと」
「正気か? 都市伝説と約束なんて、何が起こるかわからないぞ」
「わかっています。でも——」
僕は、きさらぎ駅の女の顔を思い出した。
あの悲しみは、本物だった。
「彼女は、ただ寂しかっただけです。人を傷つけたかったわけじゃない」
「だからって——」
「凛太郎」
僕は、友人の目を見た。
「全ての怪異が、祓われるべき存在とは限りません。中には、対話で解決できるものもある。今回は、それがうまくいった。それだけです」
凛太郎は、しばらく黙っていた。
やがて、大きく息を吐いた。
「……お前らしいな」
「そうですか?」
「ああ。相変わらず、考え方が俺とは違う」
凛太郎は苦笑した。
「でも、嫌いじゃないぜ。そういうところ」
「ありがとうございます」
僕たちは、救急隊に引き継ぎを行い、支部に戻った。
◇
翌日、僕は鎮守院・東京支部で報告書を提出した。
「きさらぎ駅の件、ご苦労だった」
鷹取さんが言った。
「失踪者五名、全員無事保護。完璧な結果だ」
「ありがとうございます」
「しかし——」
鷹取さんの目が、鋭くなった。
「お前、都市伝説と『約束』をしたそうだな」
「はい」
「それは、報告書には書いていない内容だ。凛太郎から聞いた」
僕は黙って頷いた。
「正直に言え。どういうつもりだ」
「どういうつもり、とは」
「都市伝説と約束を交わすなど、前例がない。危険な行為だ」
「承知しています。しかし——」
僕は、鷹取さんの目を見た。
「今回の都市伝説は、単純に『祓う』だけでは解決できませんでした。実体がなく、あの空間そのものと一体化していた。力で押し通そうとすれば、僕も失踪者と同じ運命を辿っていたでしょう」
「だから、対話を選んだと」
「はい。結果として、全員を救出できました」
鷹取さんは、腕を組んで考え込んだ。
「……お前の判断は、間違っていなかったのかもしれない。しかし、組織としては容認できない手法だ」
「わかっています」
「今後、同様の手法を取る場合は、必ず事前に報告しろ。独断は許さない」
「了解しました」
鷹取さんは立ち上がり、窓の外を見た。
「柊真夜。お前は優秀だ。技術も、判断力も、同年代の中では群を抜いている」
「恐縮です」
「だが、優秀であるがゆえに、危うさもある。自分の判断を過信するな」
「肝に銘じます」
「次の任務は、追って連絡する。今日は帰って休め」
「はい。失礼します」
僕は一礼して、部屋を出た。
◇
支部の廊下を歩いていると、見覚えのある顔とすれ違った。
銀髪に、銀縁の眼鏡。鷹のような鋭い目つき。
本部の重鎮、榊原だった。
「やあ、柊くん」
榊原は足を止め、僕に声をかけた。
「きさらぎ駅の件、聞いたよ。見事な手腕だったそうじゃないか」
「ありがとうございます、榊原様」
「謙遜することはない。失踪者五名を全員救出、しかも怪我人なし。これは快挙だ」
榊原は微笑んだ。
しかし、その目は——笑っていなかった。
「しかし、都市伝説との『約束』は、いささか軽率だったのではないかな」
「……」
「鎮守院は、妖を祓う組織だ。妖と交渉し、約束を交わすなど、本来あってはならないことだ」
「仰る通りです。しかし——」
「しかし?」
榊原の目が、僅かに細くなった。
「今回は、それが最善の手段でした。僕は、任務を完遂することを最優先にしました」
「任務を完遂するためなら、手段を選ばないと?」
「状況に応じて、最適な手段を選ぶべきだと考えています」
沈黙が流れた。
榊原は、僕をじっと見つめていた。
品定めするような、値踏みするような目だ。
「……面白い考え方だ」
やがて、榊原は言った。
「君の父親——柊厳とは、だいぶ違うな」
「父上とは、違いますか」
「ああ。厳は、規律を重んじる男だ。組織の方針に従い、命令を忠実に遂行する。それが彼の強みであり、弱みでもある」
榊原は、意味ありげに微笑んだ。
「君は違う。柔軟で、独創的だ。それは——使い方次第では、大きな武器になる」
「……」
「期待しているよ、柊くん。君の今後の活躍を」
榊原は去っていった。
僕は、その背中を見送りながら考えていた。
あの男は、何を考えている。
「期待している」という言葉の裏に、何があるのか。
今は、わからない。
——第4話「約束」完——




