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「私、綺麗?」って聞かれたら、あなたはどう答える?——僕は斬る  作者: ベリーブルー
『虚実の狭間に立つ者』

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第1話「血脈の宿命」

『虚実の狭間に立つ者』


第1話「血脈の宿命」


───────────────────────────────────



 人は、見えないものを恐れる。


 暗闘の中に潜む影、夜道で聞こえる足音、誰もいないはずの部屋から響く物音。


 それらは「気のせい」として片づけられる。そうでなければ、人は正気を保てないからだ。


 しかし、この世界には——見えないからこそ、存在するものがある。


 人々の恐怖が形を成し、噂が実体を持ち、都市伝説が闘を歩く。


 そんな理不尽な世界で、僕は生まれた。



          ◇



 最初の記憶は、血の匂いだった。


 幼い僕は、それが何を意味するのか理解していなかった。ただ、鉄錆のような匂いが鼻腔を刺し、目の前には赤黒い染みが広がっていた。


 三歳の冬のことだ。


「柊。こちらに来なさい」


 父の声が聞こえた。


 低く、落ち着いた声。しかし、その奥には隠しきれない緊張が滲んでいた。


 僕は——柊真夜ひいらぎ しんやは、父に手を引かれて歩いた。


 古い日本家屋の廊下は、冬の冷気で凍えるように冷たかった。裸足の足が床板に触れるたび、体温が奪われていく。


「父上、あの赤いのは何ですか」


「見てはいけない」


 父は振り返らずに答えた。


「あれは、お前がいずれ対峙するものの爪痕だ。今はまだ、見る必要はない」


 幼い僕には、その言葉の意味がわからなかった。


 ただ、父の背中がいつもより小さく見えたことだけを、覚えている。



          ◇



 柊家は、古くから続く「祓い」の家系だ。


 一般には知られていないが、この日本には——いや、世界には——人ならざるものが存在する。


 妖、怪異、都市伝説。


 呼び方は様々だが、本質は同じだ。人々の恐怖や信仰、噂や伝承が形を成したもの。それらは目に見えぬ形で人間社会に寄生し、時に害を成す。


 柊家は、それらを「祓う」ことを生業としてきた。


 江戸時代以前から続く血脈。戦国、幕末、明治、大正、昭和——どの時代にも、柊の名を持つ者は闇と戦い続けてきた。


 そして今、令和の世においても、その責務は変わらない。


 僕が物心ついた頃には、すでにそのことを理解していた。



          ◇



 五歳になった年、僕は初めて「鍛錬」を受けた。


「真夜、構えなさい」


 道場の中央で、父が木刀を手にしていた。


 父の名は柊厳ひいらぎ げん。四十代半ばでありながら、その体には一切の弛みがない。鋭い眼光は、獲物を狙う猛禽を思わせた。


「はい、父上」


 僕は小さな木刀を握り、教えられた通りに構えた。


 正眼の構え。剣先を相手の喉元に向け、全身の力を抜く。


「祓いの基本は、剣術にある」


 父が静かに語り始めた。


「妖を斬るためではない。己の精神を研ぎ澄ますためだ。妖と対峙する時、恐怖に囚われれば死ぬ。迷えば死ぬ。躊躇えば——」


「死ぬ、ですね」


「そうだ。よく覚えておけ」


 父の木刀が、一瞬にして僕の視界から消えた。


 次の瞬間、衝撃が腹部を襲った。


「ぐっ——」


 僕は後方に吹き飛ばされ、道場の壁に背中を打ちつけた。肺から空気が押し出され、呼吸ができなくなる。


「立て」


 父の声に、感情はない。


「祓いの戦場では、誰も手加減してくれない。立て、真夜」


 痛みで涙が滲む。息ができない。体が動かない。


 それでも——僕は立ち上がった。


 足が震えている。視界が揺れている。それでも、木刀を握り直し、構えを取った。


「……もう一度、お願いします」


 父の目が、僅かに細められた。


 それが父なりの「評価」だったと気づいたのは、ずっと後のことだ。



          ◇



 柊家の本邸は、京都の山中にあった。


 人里から離れた場所に、広大な敷地を持つ古い屋敷。周囲には結界が張り巡らされ、妖の侵入を防いでいた。


 僕はそこで、兄と姉と共に育った。


 兄の名は、柊蒼真ひいらぎ そうま。僕より五歳年上で、幼い頃から「天才」と呼ばれていた。剣術、体術、祓いの技法——何をやらせても一流だった。


「真夜、また父上に打たれたのか」


 鍛錬の後、縁側で座り込んでいると、兄が声をかけてきた。


「……はい、兄上」


「傷を見せろ」


 僕が着物をめくると、腹部に大きな痣ができていた。紫色に変色し、触れると鈍い痛みが走る。


「ふむ、まあこの程度なら大したことはない。冷やしておけ」


「はい」


「しかし、父上も容赦がないな。五歳の子供相手に、本気で打つことはないだろうに」


 兄は苦笑しながら、僕の隣に座った。


「でも、仕方がない。俺たちは柊の人間だ。弱さは、そのまま死に繋がる」


「兄上も、同じように鍛えられたのですか」


「ああ。俺の時はもっと厳しかったぞ。骨を折られたこともある」


 兄は笑って言ったが、その目は笑っていなかった。


「真夜。お前は、なぜ自分が鍛えられているか、わかるか」


「……妖を祓うため、です」


「それだけではない」


 兄は空を見上げた。


 夕暮れの空が、茜色に染まっている。


「俺たちは、人を守るために戦う。だが、それだけではない。俺たちの血を、次の世代に繋ぐためでもある」


「血を繋ぐ——」


「祓いの力は、血脈に宿る。俺たちのような者が絶えれば、誰が妖から人を守る? だから俺たちは、生き残らなければならない。どんな手段を使ってでも」


 兄の言葉は、幼い僕には重すぎた。


 でも、その重みを感じていた。


「兄上」


「何だ」


「僕も、強くなれますか」


 兄は僕を見た。


 その目には、優しさと——どこか悲しみのような色があった。


「なれるさ。お前は柊の人間だ」


 その言葉が、僕の支えになった。



          ◇



 姉の名は、柊雪華ひいらぎ せつか。僕より三歳年上で、兄とは対照的に穏やかな性格だった。


「真夜、お茶を淹れたわ。飲む?」


「ありがとうございます、姉上」


 鍛錬の後、姉はいつもお茶を用意してくれた。


 姉は武芸よりも、結界術や治癒の術に長けていた。直接戦うことは少ないが、後方支援においては欠かせない存在だった。


「また、お父様に厳しくされたのね」


「大丈夫です。もう慣れました」


「慣れちゃダメよ。痛いものは痛いって、ちゃんと感じなさい」


 姉は僕の痣に、そっと手を当てた。


 淡い光が灯り、痛みが和らいでいく。治癒の術だ。


「ありがとうございます」


「いいのよ。私にできるのは、こんなことだけだから」


 姉は柔らかく微笑んだ。


 しかし、その笑顔の奥に、何か影があることを——僕は幼いながらに感じていた。



          ◇



 七歳の時、僕は初めて「妖」を目にした。


 正確には、その「残骸」だった。


「これが、妖ですか」


「ああ。低級の妖だ。人に害を成す前に祓った」


 父の足元には、黒い霧のようなものが漂っていた。形を失い、徐々に空気に溶けていく。


「低級の妖は、このように形を持たないことが多い。人の負の感情——恐怖、怒り、悲しみ——それらが凝集して生まれる」


「これが、僕たちの敵なのですね」


「そうだ。だが——」


 父は僕を見下ろした。


「これは雑魚だ。真に恐ろしいのは、もっと上位の存在。人々の間で語り継がれ、恐れられてきた怪異。口裂け女、八尺様、くねくね——それらは、遥かに強大で、遥かに狡猾だ」


「都市伝説——」


「そうだ。人々の噂が、恐怖が、信仰が——それらを実体化させる。SNSが普及した現代では、噂は瞬時に日本中に広がる。つまり——」


「都市伝説が、より強く、より早く生まれる」


 僕の言葉に、父は僅かに頷いた。


「理解が早いな。そうだ、真夜。現代は、妖にとって楽園だ。人々は噂を拡散し、恐怖を共有し、そして——妖を育てる」


 父は空を見上げた。


「俺たちの戦いは、終わることがない。むしろ、これから激しくなる一方だ」


 七歳の僕は、その言葉の重みを——まだ完全には理解できていなかった。



          ◇



 柊家は、単独で活動しているわけではない。


 日本全国には、同じように妖を祓う家系が存在する。それらを束ね、情報を共有し、大規模な脅威に対処するための組織がある。


 その名は、「鎮守院ちんじゅいん」。


 表向きには存在しない、影の組織。政府とも繋がりを持ち、時には警察や自衛隊とも連携する。しかし、その存在を知る一般人はほぼいない。


 鎮守院の本部は東京にあり、全国に十二の支部が存在する。京都、大阪、福岡、仙台——各地域を管轄し、妖の脅威から人々を守っている。


 柊家は、京都支部に所属していた。


「真夜、今日は本部から客人が来る」


 八歳の春、父にそう告げられた。


「本部から?」


「ああ。お前も同席しろ。将来のための勉強だ」


 その日、柊家の応接間には、見知らぬ男が座っていた。


 五十代くらいだろうか。灰色の髪をきっちりと撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけている。一見すると、どこかの企業の重役のようだった。


「これが、三男の真夜くんですか」


 男は僕を見て、品定めするように目を細めた。


「噂は聞いていますよ。柊家の秘蔵っ子だとか」


「過分なお言葉です、榊原殿」


 父が頭を下げた。珍しく、父が敬語を使っている。


「榊原殿、こちらが三男の真夜です。真夜、ご挨拶を」


「初めまして。柊真夜と申します」


 僕は深く頭を下げた。


「ほう、礼儀正しい子だ」


 榊原と呼ばれた男は、満足そうに頷いた。


「柊殿、本題に入りましょう。先日の件ですが——」


 そこから先は、僕には理解できない話が続いた。組織の予算、人員配置、各支部との連携。政治的な駆け引き、利権の分配。


 妖を祓うだけが、この世界ではないのだと——僕は初めて知った。



          ◇



 九歳の時、僕は初めて「同世代の仲間」と出会った。


 鎮守院には、次世代の祓い手を育成する機関がある。各地の家系から集められた子供たちが、共に訓練を受ける場だ。


 僕もそこに参加することになった。


「お前が柊真夜か」


 訓練所で最初に声をかけてきたのは、黒髪の少年だった。


 僕と同い年くらいだろう。鋭い目つきで、既に戦士としての気配を纏っている。


「はい、そうです。あなたは?」


橘凛太郎たちばな りんたろう。橘家の長男だ」


 橘家——柊家と並ぶ、祓いの名家だ。


「よろしくお願いします、橘さん」


「堅いな。凛太郎でいい」


「では、凛太郎。僕のことは真夜と呼んでください」


 凛太郎は僕をじっと見つめた。


「お前、噂通りだな」


「噂?」


「柊家の三男。兄二人の陰に隠れているが、実は一番の才能を持っているとか」


「そんなことは——」


「謙遜するな。俺は見ればわかる」


 凛太郎は不敵に笑った。


「俺と勝負しろ。それで実力を見せてもらう」


 その日から、僕と凛太郎は——良きライバルであり、良き友となった。



          ◇



 訓練所には、様々な家系の子供たちがいた。


 その中で、もう一人、印象に残る人物がいた。


「あなたが、柊真夜さん?」


 声をかけてきたのは、長い黒髪の少女だった。


 同い年くらいだろうか。大きな瞳が、好奇心に輝いている。


「はい、そうです」


「私、神楽坂紬かぐらざか つむぎ。よろしくね」


「神楽坂——」


 神楽坂家も、古くから続く祓いの家系だ。ただし、柊家や橘家とは異なり、直接戦闘よりも「封印」や「結界」を得意とする。


「真夜さん、強いって聞いたわ。いつか手合わせしてほしいな」


「僕は、それほど強くありませんよ」


「謙遜しないで。強い人ほど、そう言うのよね」


 紬は笑った。


 その笑顔は、道場で見る険しい顔とは違い、どこか温かみがあった。



          ◇



 訓練所での日々は、厳しくも充実していた。


 剣術、体術、呪術、結界術——様々な技術を学び、実践を重ねる。


 そして、仲間との絆も深まっていった。


 凛太郎とは、何度も組み手をした。彼は攻撃的なスタイルで、僕は防御から反撃するスタイル。正反対だからこそ、学ぶことが多かった。


「お前、また受け流したな」


「君の攻撃は直線的だから、読みやすいんだよ」


「くそ、次は読ませねえ」


 紬とは、座学で一緒になることが多かった。彼女は知識欲が旺盛で、僕の知らない呪術や歴史を教えてくれた。


「ねえ、知ってる? 室町時代に、都市伝説が大発生したことがあるのよ」


「室町時代に?」


「ええ。戦乱の世で、人々の恐怖が最大になった時期。百鬼夜行と呼ばれた現象は、実際に起きていたの」


「興味深いですね」


「でしょう? もっと調べてみましょうよ」


 彼らとの日々は、僕にとって——かけがえのないものになっていった。



          ◇



 しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。


 十歳の冬、僕は初めて「本物の死」を目にした。


 訓練所の先輩が、任務中に命を落としたのだ。


「嘘だろ……」


 凛太郎が、呆然と呟いた。


「山岸先輩が、死んだ……?」


 山岸という先輩は、僕たちの二年上だった。優秀で、面倒見がよく、皆に慕われていた。


 その人が——都市伝説「八尺様」との戦いで、命を落とした。


「遺体は——」


 僕は聞いた。


「なかったそうだ」


 教官が、重い声で答えた。


「八尺様に『連れていかれた』者は、二度と戻らない。魂ごと喰われるからだ」


 訓練所は、重い沈黙に包まれた。


 僕たちが相手にしているのは、そういうものなのだ。


 負ければ死ぬ。それも、普通の死ではない。魂すら残らない、完全な消滅。


「……覚えておけ」


 教官が言った。


「これが、俺たちの世界だ。甘い覚悟で生き残れるほど、妖は優しくない」


 僕は、拳を握りしめた。


 恐怖は、確かにあった。でも、それ以上に——


 ——強くならなければ。


 その思いが、胸の奥で燃えていた。



          ◇



 十二歳の時、僕は初めて「実戦」を経験した。


 低級の妖——人の恐怖から生まれた、形のない怪異。それを祓う任務に、父と共に参加した。


「真夜、下がっていろ。今回は見学だ」


「はい、父上」


 現場は、東京郊外の廃工場だった。


 深夜、人気のない場所に、黒い霧が漂っている。霧の中から、微かに——呻き声のようなものが聞こえた。


「低級とはいえ、数が多いな」


 父が刀を抜いた。


 柊家に伝わる霊刀「氷月ひょうげつ」。妖を祓う力を持つ、特別な武器だ。


「見ていろ、真夜。これが祓いの実戦だ」


 父が踏み込んだ。


 一閃。


 黒い霧が、斬り裂かれた。断末魔のような音が響き、霧が霧散していく。


 二閃、三閃——


 父の剣は、まるで舞のように美しく、そして恐ろしいほどに正確だった。


 数分後、全ての妖が祓われた。


「終わりだ」


 父が刀を納める。


「どうだ、真夜。実戦は」


「……すごいです、父上」


「すごい?」


 父は振り返った。


「何がすごいと思った」


「父上の剣技は、道場で見るものとは全く違いました。無駄がなく、迷いがない。一撃一撃が、必殺の意志を持っている」


「ほう」


 父の目が、僅かに和らいだ。


「お前は、見る目がある。その通りだ。道場での鍛錬と実戦は違う。実戦では、相手を殺す——いや、祓う意志が必要だ」


「祓う意志——」


「迷うな。躊躇うな。それが、生き残るための鉄則だ」


 父の言葉を、僕は胸に刻んだ。



          ◇



 しかし、実戦は——いつも上手くいくとは限らない。


 十三歳の春、僕は初めて「敗北」を知った。


 任務中に遭遇した妖は、低級ではなかった。中級の妖——人の姿を模した、不気味な存在。


「真夜、下がれ!」


 一緒にいた先輩が叫んだ。


 しかし、妖の動きは予想以上に速かった。


 先輩が斬りかかる。しかし、妖はそれを躱し——先輩の胸を、鋭い爪で貫いた。


「——っ!」


 血飛沫が舞った。


 先輩が倒れる。妖が、僕に向かってくる。


 動けなかった。


 足が、震えて動かない。


 恐怖で、体が凍りついていた。


「——真夜!」


 誰かの声が聞こえた。


 次の瞬間、炎が妖を包んだ。凛太郎だった。


「ぼーっとしてんな! 逃げろ!」


 凛太郎の声で、僕は我に返った。


 二人で、なんとか撤退した。先輩は——重傷だったが、一命を取り留めた。


 しかし、僕は——


「くそっ……」


 帰還後、僕は拳を壁に叩きつけた。


 動けなかった。恐怖に負けた。先輩を助けられなかった。


 これが、僕の実力だ。


「真夜」


 凛太郎が、声をかけてきた。


「気にすんな。誰だって、最初はそうだ」


「……ありがとう、凛太郎。君が来てくれなかったら、僕は死んでいた」


「当たり前だろ。仲間だからな」


 凛太郎は、僕の肩を叩いた。


「次は、お前が俺を助けろ。それでチャラだ」


「……ああ、必ず」


 この日から、僕は更に鍛錬に打ち込むようになった。


 もう二度と、恐怖に負けないために。


 仲間を守れる強さを、手に入れるために。



          ◇



 十五歳——中学三年の時、僕は一つの転機を迎えた。


 都市伝説「テケテケ」との遭遇だ。


 テケテケ——下半身のない女性の姿をした怪異。猛烈な速度で迫り、獲物の下半身を奪うという都市伝説。


 深夜の学校で、目撃情報があった。


「今回は、お前が主導しろ」


 父にそう言われた。


「僕が?」


「ああ。もう十五だ。そろそろ、一人で任務をこなせるようになれ」


 僕は、一人で現場に向かった。


 深夜の学校は、不気味なほど静かだった。月明かりが廊下を照らし、長い影を作っている。


 空気が、変わった。


 ——来る。


 僕は刀を抜いた。


 廊下の奥から、「それ」が現れた。


 長い黒髪。白い肌。上半身だけの女——その目は、虚ろで、しかし確かな殺意を宿していた。


「テケテケ——」


 都市伝説が、こちらを見た。


 次の瞬間、凄まじい速度で突進してきた。


 速い。噂通り——いや、それ以上だ。


 僕は横に跳んで躱した。テケテケが通り過ぎた場所の床が、鋭い爪で抉られている。


「——っ」


 反撃する暇もなく、テケテケが再び襲いかかってくる。


 攻撃を捌き、躱し、距離を取る。しかし、こちらの攻撃は当たらない。


 速さが、違いすぎる。


 どうする——


 考えろ。冷静になれ。


 テケテケの特徴は、直線的な動き。方向転換に一瞬の隙がある。


 ならば——


 僕は、わざと隙を作った。


 テケテケが、その隙に食いついてくる。


 予想通りだ。


 僕は体を捻り、テケテケの突進を紙一重で躱した。そして——


「——祓」


 刀が、テケテケの首を捉えた。


 断末魔の叫びが響き、テケテケの体が霧散していく。


「……終わった」


 僕は、荒い息を整えた。


 初めて、一人で都市伝説を祓った。


 しかし、これは——まだ、始まりに過ぎない。



          ◇



 十五歳の夏、僕の人生を変える出来事が起きた。


 姉の雪華が、行方不明になったのだ。


「姉上が——」


「ああ。任務中に、消息を絶った」


 父の声は、いつになく硬かった。


「相手は、『口裂け女』だ」


 口裂け女——日本で最も有名な都市伝説の一つ。マスクをした女性が「私、綺麗?」と尋ね、答えによっては顔を裂かれるという怪異。


 その知名度ゆえに、非常に強力な存在だ。


「捜索は——」


「している。だが、手がかりがない」


 父は、拳を握りしめていた。


「口裂け女は、狡猾だ。獲物を攫い、どこかに隠す。そして——」


 父は言葉を切った。


 その先を、僕は知っていた。


 口裂け女に攫われた者は、やがて「同じもの」に変えられるという噂がある。真偽は不明だが——


「僕も、捜索に参加させてください」


「駄目だ」


 父が即答した。


「お前はまだ若い。口裂け女は、お前の手に負える相手ではない」


「でも——」


「これは命令だ。真夜、お前は日常を続けろ。高校に進学し、普通の生活を送れ」


「普通の生活など——」


「それが、雪華の望みでもある」


 父の言葉に、僕は黙った。


 姉は、いつも言っていた。「真夜には、普通の幸せも知ってほしい」と。


 だから、僕は——


「……わかりました」


 従うしかなかった。


 しかし、心の奥では、決意していた。


 必ず、姉を見つけ出す。


 口裂け女を、この手で祓う。


 そのために——もっと、強くなる。



          ◇



 そして、現在。


 僕は十六歳になり、東京の高校に通っている。


 表向きは普通の高校生。しかし、夜になれば——妖を祓う任務をこなしている。


 鎮守院・東京支部に所属し、都内で発生する怪異に対処する日々。


 姉の行方は、まだわからない。口裂け女の手がかりも、掴めていない。


 でも、諦めるつもりはない。


 いつか必ず——


「柊くん、おはよう」


 教室に入ると、クラスメイトが声をかけてきた。


「おはようございます」


 僕は、いつも通りの笑顔を返した。


 これが、僕の「表の顔」だ。


 真面目で、礼儀正しい、普通の高校生。


 しかし、夜になれば——


 僕は、妖を祓う者。


 都市伝説と戦い、人々を守る者。


 虚実の狭間に立つ者。


 それが——柊真夜という人間だ。



          ◇



 この日の放課後、僕のスマホに一通のメッセージが届いた。


 鎮守院からの指令だ。


『東京都渋谷区にて、不審な失踪事件が連続発生。都市伝説「きさらぎ駅」の関与が疑われる。至急、調査を開始せよ』


 きさらぎ駅——インターネットで広まった、比較的新しい都市伝説。実在しない駅に迷い込み、二度と戻れなくなるという怪異。


 SNS時代に生まれた、新しい形の都市伝説。


 僕は、スマホを閉じた。


「——始まるか」


 呟いて、僕は教室を出た。


 日常と非日常の境界線。


 僕は今日も、その線の上を歩いていく。



 ——第1話「血脈の宿命」完——

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