教室にて~
教室に戻ると、朝と同じ光景が広がっていた。
黒く塗りつぶされたクラスメイトたちが、それぞれの席に座り、黒板の前には教師と思しき影が立っている。
授業は、普通だった。
――少なくとも、昨日までとまったく同じ手順で進んでいた。
黒板に文字が書かれ、ノートを取る音がして、教科書をめくる気配がある。
ただ、それらすべてが「影の動き」としてしか認識できない。
昭はそんなことを考えながら、ノートを開いた。
黒板に書かれた文字をそのままノートへ写す。
文字を書く手は動いているのに、書いた内容が頭に残らない。
横を見ると、陽菜が頬杖をついて黒板を見ている。
髪の毛の色、制服のしわ、瞬きをするたびに揺れるまつげ。
すべてが、現実のものとしてそこにあった。
彼女だけが、色を持っていた。
ただ、その色が――ほんの一瞬、遠のいたような気がした。
それは不思議と安心できる光景だった。
だが同時に、強い違和感も伴っていた。
他のクラスメイトたちは、確かにそこに「いる」。
笑っているようにも見えるし、ノートを取っている気配もある。
けれど、色がないだけで、ここまで“遠い存在”になるものなのか。
昭は無意識のうちに、黒い影のひとつに視線を向けた。
すると、その影が――ほんのわずかに、こちらを向いたような気がした。
目が合った、という感覚はない。
それでも、背中に冷たいものが走る。
慌てて視線を逸らし、再び陽菜を見る。
彼女は何も気づいていない様子で、ペンを回していた。
その事実が、逆に落ち着かない。
――この世界で、色があるのは俺と陽菜だけ。
そう思った瞬間、教室の空気がひどく薄っぺらく感じられた。
音も、光も、温度さえも、紙の上に描かれたもののように頼りない。
まるで、この教室そのものが、
「本物の世界の写し」にすぎないような気がした。
昼休みのチャイムが鳴ると、陽菜がこちらを振り向いた。
「ねえ、食堂行こ!」
軽い調子に、少し救われる。
昭はうなずき、二人で教室を出た。
食堂もまた、異様だった。
列を作る生徒たちは皆、黒い影で、トレーや食器だけがぼんやりと形を持っている。
二人は食券を買い、並んで席に座り、黙々とごはんを食べた。
味は、ある。
不思議なことに、カレーの辛さも、熱さも、ちゃんと感じる。
「ねえ昭君」
陽菜はカレーを一口食べてから、少し間を置いた。
「……昭君はさ、なんでこの世界に来たかわかる?」
――どういう意味だ?
昭が口を開きかけると同時に明るく続ける
「ごめんごめん、今のは忘れて!」
――忘れられるわけがない。少し影を落としたような表情で言われると無性に気になる。
「……どういう意味?」
「ううん……なんでもないの!」
昭が尋ねても、陽菜は困ったように笑うだけで返事はあいまいだ。
陽菜は笑っていた。
けれど、その笑顔が、
どこに向けられているのか、
昭にはわからなかった。
――これ以上追及しても意味がないな。
この世界は奇妙なことばかりだ。今の陽菜の言動もそう。
黒い影だって。
授業一つだって、さっきの授業は、妙なほど見覚えがあった。
黒板に書かれる順番も、教師の間の取り方も。
――昨日までの、あの教室の続きのように。
午後の授業は、気づけば終わっていた。
記憶に残っているのは、チャイムの音だけだ。
放課後。
昭と陽菜は、廊下を並んで歩いていた。
帰ろうか、それともこの世界を案内しようか。そんな他愛もない話をしていた、そのときだった。
別のクラスの教室の前を通りかかったとき、昭は足を止めた。
中に、淡い影がいた。
完全な黒ではない。
灰色に近い、輪郭のはっきりしない影。
そして、その前に――
真っ黒な影が立っていた。
淡い影が、口を動かしている。
何を話しているのかは、聞こえない。
だが次の瞬間、昭は息をのんだ。
淡い影の腕が、
じわり、と黒く染まった。
まるでインクが水に溶けるように、ゆっくりと、確実に。
ふと、淡い影が、こちらを向いた。
いや、向いたような気がした。
次の瞬間、その口が、確かに動いた。
声は聞こえない。
それでも、昭の耳の奥で、
「――」
何かが囁いた気がした
「……行こう」
陽菜が、震える声で言った。
昭は何も言えず、うなずいた。
昭は、もう一度だけ振り返りたい衝動を、
歯を食いしばって押し殺した。
家に帰ると、玄関は静まり返っていた。
「ただいま」
返事はない。
玄関に立っても、スリッパの音がしない。
洗面所の蛇口も、回されない。
居間にも、キッチンにも、誰もいない。あれだけ帰ったら手を洗うようにうるさかった母が、今はいない。
テレビは消えたまま。いつもなら並んでいる食事が、何も並んでいなかった。
昭は一人で冷蔵庫の中から余っていた食事を引っ張り出し、シャワーを浴び、布団に潜り込んだ。
暗闇の中で、目を閉じる。
あの淡い影が、
少しずつ黒くなっていく光景が、頭から離れなかった。
――明日も、同じ世界だろうか。
そう考えた瞬間、
心臓が、また一拍だけ強く鳴った。




