黒い影と謎の少女
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
目覚まし時計は鳴る前に止めていた。今日も、昨日と同じ一日が始まるだけだとわかっていたから。
昭は制服のボタンを留めながら、鏡に映る自分をぼんやりと見つめた。
「……変わらないな」
髪も、顔も、気分も。何も変わらない。
食卓では母がテレビを見ながらパンをかじり、父は新聞の影に顔を隠している。あるのはたわいもない会話と静寂。なんら面白味はない。
「行ってきます」
声をかけても、返事は曖昧なうなずきだけだった。
「ああ、今日も暑いな……」
照りつける日差しに、アスファルトがじりじりと焼けている。
夏にはまだ早いはずなのに、鼻の奥に熱い匂いが残った。
思い足を前に運び、いつもの道を踏みしめる。
通学路は見慣れた景色。すれ違う同級生の笑い声も、もうBGMのように耳を素通りしていく。
昭は、今日も始まる騒がしい日を思いながら一つ溜息を吐く。
ふいにあたりを見回すと、不思議と声は聞こえるのだが同級生の姿が見当たらない。
少しのめまいとともに、胸の奥がどくんと跳ねた。
心臓の音が、やけに近くで鳴っている。
苦しさはない。ただ、世界が一瞬だけ遠のいたような感覚があった。
少し時間が経つと、心臓の音もなりを潜め、気持ち悪さも薄れてきた。軽く手を握って体の状態を確かめつつ、何事もなかったかのように歩を進める。
校の門をくぐり、下駄箱へ。靴を履き替え教室へむかう。
いつも合うはずの同級生が今日はなぜかすれ違うことがない。
ただ声は聞こえる。少しの胸のざわつきを感じながら教室のドアを開けた瞬間、昭は立ち止まった。
教室の中が、真っ黒だった。
いや、黒く“見えた”のだ。
机に座るクラスメイトたちの輪郭が、墨を流したように黒く塗りつぶされている。濃い影と薄い影が入り混じり、ざわめきが頭の奥に響いた。
「……なんだ、これ」
心臓が一拍遅れて跳ねた。
現実なのか、夢なのか。
誰も気づいていない。誰も騒いでいない。
昭は足を動かせず、ただ立ち尽くした。
そのとき、黒く塗られた教室の奥で、ひとりだけ色がついている少女が、まっすぐ昭を見つめていた。
「……やっと見つけた」
彼女は小さくつぶやくが、昭には届いていない。再度、彼女が言葉を紡ぐ。
「おはよう!」
大きな声でとても快活な声だ。
「お、おはよう」
現状について脳が処理できていなかった昭はびっくりして思わず返事をする。そして、その少女に疑問を投げかける。
少女の声に反応したように、教室の空気が揺れた。
黒い影のいくつかが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
足音はない。ただ、影が“にじむ”ように近づいてくる。
――見られている。
そう感じた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
呼吸をしようとすると、喉の奥がひくりと痙攣する。
話しかけてはいけない。
理由はわからない。けれど、本能がそう告げていた。
ただ、今は声の主である少女に返事を返す。
「君は誰?」
少女は微笑むように、控えめに笑いながら答えた。
「誰って、クラスメイトでしょ!忘れたの?」
答えるやいなや、別の話題に話が移る。
「そういえばさ、昨日のテレビは……」
少女が話す回りで黒い影もあたりに散らばっている。あまりに不思議な光景に昭はぼーっとしながらからあいまいな返事を続ける。
やがてひときわ大きな影が教室に現れ、そして教壇に立っている。
「話してるとこごめん。あれは何?」
その少女は言いづらそうにうつむくとともに、答えの代わりに手を差し出してきた。
その手は、あまりに白く、細く、しかし確かに温度を持っているように思えた。
「ここじゃ話せない。ついてきて」
気づけば、黒く塗りつぶされたクラスメイトたちが一斉にこちらを向いていた。
表情はわからない。目も口も影に溶けている。
けれど、視線だけは感じる。背中に突き刺さるような、冷たい視線を。
昭は息をのむ。
心臓が暴れている。足が動かない。
少女が一歩、昭に近づく。
その瞬間、影たちがゆらりと立ち上がった。
「行こ!」
少女の声と同時に、昭の腕が強く引かれた。
逃げるように走りながら、昭の頭に奇妙な考えが浮かんだ。
――もし、ここが夢なら。
――もし、ここが現実じゃないなら。
学校に行かなくていい。
家に帰らなくていい。
昨日と同じ一日を繰り返さなくていい。
そんな場所なら。
少しだけ、悪くないと思ってしまった。




