第2章 最初の改善活動(カイゼン)
地下室の扉を開けた瞬間、鼻を突いたのはカビと獣脂の腐った臭いだった。 暗闇の中、松明の明かりを頼りに進むと、その「患者」は部屋の中央に鎮座していた。
木製の足踏み式織機。 構造は、産業革命以前の地球のものに近い。 だが、その状態は悲惨の一言だった。 経糸は千切れ、筬には脂ぎった埃が詰まり、杼は床に転がっている。
「……ひどいもんだ」
私は松明を壁の金具に固定し、腕まくりをした。いや、腕まくりをする袖すらなかった。 ボロ布を肩に巻き直し、まずは織機に近づく。
指先でフレームをなぞる。 木の状態は悪くない。腐ってはいない。 問題は、メンテナンス不足による可動部の固着と、セッティングの狂いだ。
「まずは清掃(Seiso)からだ」
私は近くにあったボロ切れを探し出し、徹底的に拭き掃除を始めた。 部品の隙間に詰まった糸くずを、細い棒を使って掻き出す。 固まった油汚れを削ぎ落とす。
繊維工場の基本は5Sだ。 埃は糸の大敵。油汚れは製品汚染の元凶。 こんな基本的なことすら守られていない環境で、まともな品質の布が織れるはずがない。
半日かけて掃除を終えると、次は調整(Adjustment)だ。 経糸を巻き取るビームの平行が出ていない。これでは張力が偏り、糸切れの原因になる。 私は落ちていた木片をクサビにして噛ませ、ハンマー代わりの石で叩いて微調整を行った。 水平器などないが、三十年現場を見続けてきた私の目は、ミリ単位の歪みを見逃さない。
「よし……次は原料だ」
部屋の隅に積まれた麻袋を開ける。 中には、羊毛らしき原毛が詰め込まれていた。 だが、それは枝葉や泥が絡みつき、フェルト状に固まった汚い塊だった。
「これをそのまま紡いでいるのか? 信じられん……」
混打綿(Mixing & Blowing)の工程が完全に欠落している。 ゴミが混ざったまま撚りをかければ、そのゴミが起点となって糸は切れる。 それを防ぐために糸を太くせざるを得ず、結果としてゴワゴワの重い布になる。悪循環だ。
私は床に座り込み、原毛を少しずつ手にとって解きほぐし始めた。 手作業によるカーディング(梳毛)。 ゴミを取り除き、繊維の方向を一定に揃える。 気が遠くなるような作業だが、これをサボれば全てが台無しになる。
「アルカス? ご飯だよ……って、何をしているんだい?」
院長がスープの皿を持って降りてきた。 彼女は、美しく解きほぐされ、ふわりと空気を含んだ羊毛の山を見て、言葉を失った。
「これ……本当にあの汚い羊毛かい? まるで雲みたいだ」
「ただゴミを取って、繊維を揃えただけだ。院長、この国には『櫛』はないか? もっと効率よく解きたい」
「櫛ならあるけど……あんた、まさかこれを織るつもりかい?」
「ああ。僕たちが生き残るためにね」
スープを流し込み、私は作業を再開した。 夜が更け、指先から血が滲んでも、私は止まらなかった。 前世での過労死の原因となった仕事への執着。 それが今、この異世界で唯一の希望の光となっていた。
翌朝。 私は調整を終えた織機の前に座った。 経糸には、私が一晩かけて手紡ぎした、均一な太さの糸が張られている。
深呼吸。
「第一ロット、生産開始」
ペダルを踏む。 ギィ、という音と共に綜絖が上がり、経糸が開く。 その間に杼を通し、筬を手前に引いて緯糸を打ち込む。
トントン、カシャン。トントン、カシャン。
リズミカルな音が地下室に響き始める。 私の体は子供だが、タイミングを計る感覚は熟練工のそれだ。 一定のリズム、一定の力加減。 張力を一定に保つことこそが、品質の命。
一センチ、また一センチと、布が織り上がっていく。 それは、今までこの世界に存在しなかった布だった。 目が詰まり、表面は滑らかで、光沢さえ帯びている。
そして、奇妙な現象が起きた。 織り上がった布が、淡い光を放ち始めたのだ。 私の体から流れ出る微量な魔力が、高密度に織り込まれた繊維のループの中で増幅し、温かな熱となって還ってくる。
「……暖かい」
私は手を止めた。 織機にかかったままの布に頬を寄せる。 チクチクしない。滑らかで、優しい感触。 そして何より、カイロを当てているかのような確かな温もりがあった。
「成功だ……」
過労死して以来、初めての安堵。 目から涙がこぼれ落ち、織りたての布に吸い込まれていった。 私が作ったのは、ただの平織りの布だ。 だが、この世界においては、それは伝説級のアーティファクトの誕生だった。
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