利害の一致
翌日、アイザックは早速ファルクを自室に招き入れた。
「……それで、ビジネスとやらを学ぶにあたってまずは何から始めればいい」
アイザックは相変わらず不機嫌そうな顔つきではあるがその瞳には昨日のような絶望の色はなくかわりに何かに挑もうとするような硬質な光が宿っていた。
ファルクは一瞬わずかに口元を緩ませたように見えたがすぐにいつもの無表情に戻った。
「まずは経済の基本からでございましょう。殿下はこれまでご自身の生活がどのように成り立っていたかご存知でいらっしゃいますか?」
アイザックは眉をひそめた。
「何を馬鹿なことを。金は金庫にあって必要な時に従者が持ってくる。それだけのことではないか」
ファルクは小さくため息をつき首を振った。
「失礼ながらそれこそが殿下のこれまでのご認識の甘さでございます。まずこの世界の経済は基本的に魔導エネルギーを基盤として成り立っております」
ファルクは傍らにあった書見台に広げられていた地図を指差した。
「各国に点在する魔導炉から供給されるエネルギーは産業の根幹を成し、例えば魔導列車による高速輸送あるいは魔導工房での大量生産を可能にしています。これにより物品の生産コストは劇的に低下し、以前は貴族しか手にできなかった品々も今や一般市民の手にも届くようになりました。それだけではありません。この魔導エネルギーは新たなビジネスの種を生み出しこれまでは存在しなかった新興企業が次々と台頭しています」
ファルクの言葉はアイザックにとって初めて聞く話ばかりだった。
貴族の彼にとって経済とは縁遠いまるで別世界の出来事のように感じられていたのだ。
「新興企業だと? そんなものがこの国の経済に影響を与えているとでも言うのか?」
「左様でございます。例えば近年急速にその名を上げている『蒼天の翼』という空運会社をご存知でしょうか。彼らは魔導飛行船を開発しこれまでの陸路や海路では考えられなかった速度で物資や人員を輸送することで流通に革命をもたらしました。その結果、遠隔地でしか採れなかった特産品が都市部でも容易に手に入るようになり新たな市場が生まれています」
アイザックは驚きに目を見開いた。
空運会社など聞いたこともなかった。
自分の知っている世界がいかに狭かったかを痛感させられる。
「……お前はなぜそんなことに詳しいのだ? お前のような者がなぜビジネスについて教えることができる?」
アイザックの疑問はもっともだった。
ファルクは教会関係者のような質素な身なりをしている。
貴族の間に広く認識されている「教会」という存在は世俗の経済活動とは一線を画した神聖な場所であるはずだ。
ファルクはそこで初めてフッと鼻で笑った。
それは先ほどのわずかに緩んだ口元とは違い嘲りともとれる乾いた笑いだった。
「私の自己紹介がまだでしたね。私はファルクと申します。元々はとある教会の孤児院で育ちました」
アイザックの顔にさらに疑問符が浮かぶ。
教会にいた者がなぜ金儲けの話をと。
「まさか教会がそんな金儲けのような卑しいことに手を出しているとでも言うのか?」
ファルクは再び鼻で笑った。
「殿下はやはりお坊ちゃまでいらっしゃる。教会が清貧を旨としているとお思いですか? 確かに表向きはそうでしょう。しかしこの身分社会において何の後ろ盾もない者が己の立場を向上させるには教会に入るのが最も手っ取り早い道なのです。多くの者が私利私欲のために教会を利用しているに過ぎません。清い心で神に仕える者などごく一部の純粋な人間だけ。私のような者がこの世で生き残る術を身につけるにはそうするしかなかったというだけの話です」
ファルクの言葉はアイザックにとって衝撃的だった。
彼の知る「教会」とはかけ離れた冷徹な現実が語られたのだ。
貴族社会の裏側だけでなく教会という聖域と信じていた場所の隠された本質までもが剥き出しにされたようでアイザックはただ茫然とするしかなかった。
(この男は俺が知らない世界をいくつも見てきている……)
ファルクの言葉は貴族のお坊ちゃまであり、現実を知らない自分に対する痛烈な皮肉のように聞こえた。
しかしそれは同時にアイザックの知的好奇心を刺激するものでもあった。
「……そうか。ならばお前は俺にとって最適な指南役ということだな」
アイザックはファルクの過去に触れ彼がこれまで経験してきたであろう苦難の道のりを想像した。
そしてその経験がこれからの自分にとって何よりも貴重な知識となるであろうことを直感した。
ファルクはアイザックの言葉にわずかに驚いた顔を見せた。
彼はアイザックが自分の過去を嘲笑うか、あるいは、蔑むだろうと予想していた。
しかしアイザックの言葉はそれとは全く違うものだった。
「……そうですな。殿下」
ファルクはそう言って初めて心からの笑みを浮かべた。
その笑みは嘲りでも、皮肉でもなく、ただ純粋な喜びの笑みだった。
「殿下はご自身の地位を守りたい。貴族社会という古くから続く世界でヴァルアール家という家名を高みへと引き上げたいと願っていらっしゃる」
アイザックはファルクの言葉に静かに頷いた。
それは彼の紛れもない本心だった。
「そして私は自分の力を示し地位を向上させたい。この身分社会で、何の後ろ盾もない私が自分の才覚だけでどこまで登りつめられるか試したいと願っております」
ファルクはそう言ってアイザックにまっすぐな視線を向けた。
「殿下と私の目的は一見、全く違うものに見えるかもしれません。しかし、私たちは同じゴールを目指している。お互いの目的を達成するためには互いの力が必要不可欠です」
ファルクはそう言ってアイザックに手を差し出した。
「私たちは二人でこの国を、そしてこの世界を変えることができます。殿下の地位と私の才覚を合わせれば不可能なことなどありません」
アイザックはファルクの言葉に、深く頷いた。彼はファルクという男がどれほどの才覚を持っているのか、そしてどれほどの野心を抱いているのかを肌で感じていた。
「わかった、ファルク。僕たちは一緒に頑張ろう。この国の、そしてこの世界、誰も見たことのない景色を一緒に見に行こう」
アイザックはそう言って、ファルクの手を力強く握り返した。
二人の間には主従関係を超えた、新たな絆が生まれた瞬間だった。
それは貴族と庶民という、決して交わることのない二つの世界が一つになった瞬間でもあった。
「それでは次からはより具体的なビジネスの事例について学んでいきましょう」
ファルクはそう言って再び書見台の地図に目を落とした。
その視線の先にはアイザックがまだ見ぬ広大な経済の世界が広がっていた。