突然の来訪
翌日
ヴァルアール子爵家の古城には前日の騒動が嘘のように穏やかな午後の陽光が降り注いでいた。
アイザックは広々としたテラスで母と共にアフタヌーンティーを楽しんでいた。
由緒あるヴァルアール家の伝統に則り銀のティーセットが上品に並べられ香り高い紅茶の湯気が静かに立ち昇る。
しかしアイザックの心は未だ荒れ模様で、紅茶の香りも彼には届かない。
その絵に描いたような平穏は突然の来訪者によって破られた。
窓の外遠くから一台の馬車が近づいてくるのが見えたかと思うとその馬車から降り立った人物の姿にアイザックは思わず目を奪われた。
「あらどなたかしら?」
母が小さく呟く。だがアイザックはそれどころではなかった。
その来訪者は普段この領地や自宅で目にするような人々とは明らかに異なっていた。
仕立ての良いしかし決して派手ではない簡素な衣装に身を包み背筋をすっと伸ばした立ち姿はまるで王都の宮廷から抜け出してきたかのようだ。
顔立ちも整い、都会的な洗練された雰囲気を纏っていた。
その鋭い眼差しには知性が宿っている。
これまで見てきたどんな貴族ともまた執事とも異なる雰囲気を纏っていた。
(一体何者だ?)
アイザックはまるで磁石に引き寄せられるかのように来訪者と父が言葉を交わしている広間の奥へと無礼を承知でそっと耳を傾けた。
「アイザック、品がありませんよ。お客様との会話を盗み聞きするなど……」
背後から母の諫める声がしたがアイザックはそれを無視した。
来訪者の存在が彼の心に刺さった棘のように彼の好奇心を掻き立ててやまなかったのだ。
「……ヴァルアール子爵殿。私は国王陛下より遣わされたファルク・ローウェと申します」
ファルクと名乗る男の声が静かな広間に響いた。
「陛下は貴殿の家の現状を深く憂慮されております。このまま借金を増やし続ければ債務は雪だるま式に膨らみ、もはや財政が回らなくなるでしょう。その場合王家としては貴族としての権限を剥奪することも考えております」
ファルクの言葉は氷のように冷たく、しかし現実を突きつけるものだった。
アイザックの呼吸が止まる。
貴族の権限の剥奪――それはヴァルアール家が全てを失うことを意味する。
しかし父である子爵の反応はアイザックを苛立たせるものだった。
父は相変わらずテーブルに置かれた装飾品を眺めたり執事に目配せをしたりとどこか心ここにあらずといった様子で、ファルクの言葉に真剣に耳を傾けているようには見えなかった。
「ほう王命とは大層な。しかしヴァルアール家が権限を剥奪されるなど冗談にもほどがある。そのような恥辱を受けるはずがなかろう」
父の無関心な態度にアイザックの堪忍袋の緒が切れた。
王都での屈辱ルークの冷たい言葉、馬車の中の請求書そして目の前の両親の現実逃避。全てが混ざり合い彼の頭の中で爆発した。
「父上! 母上! 何を悠長なことを言っているんですか! 貴族としての権限を剥奪されるんですよ! これのどこが冗談なんですか!」
アイザックは思わず広間に飛び出し父に詰め寄った。
彼の声は怒りに震えている。
「お父様はなぜそんなにも無関心なのですか!王都では我が家が破産寸前だと噂され僕はパーティーでどれほど恥をかいたか!借金取りまで堂々と家に来ているのですよ!このままでは本当に……っ!」
アイザックの剣幕にもかかわらず父は眉ひとつ動かさない。
むしろ迷惑そうに目を細めた。
「アイザック大声を出しては品がないぞ。それにそんな子供じみた噂に惑わされるものではない。ヴァルアール家が没落などありえない話だ。我々は代々この土地と富を築いてきたのだからな。多少の借金など名門の証のようなものだ。いちいち騒ぐことではない。それに……」
「名門の証ですって!? 父上は現実が見えていない! バルト男爵家がどうなったかご存知ないのですか! 彼らは全てを失った! 僕も同じ道を辿りたくない!」
アイザックは絶望的な気持ちでファルクに向き直った。
父に何を言っても無駄だと悟ったのだ。
「あなた! どうすればいいんですか!? この問題を解決する方法はあるんですか? 教えてください!」
アイザックの必死の問いかけにファルクは冷静な瞳で彼を見据えゆっくりと口を開いた。
「問題は他ならぬ借金でございます。であれば単純な話お金を稼げばよろしい」
その言葉にアイザックは息をのんだ。
「お金を……稼ぐ? まさか商売でもしろと?」
貴族にとって商売は卑しい行為の一つとされていた。
商売は貴族としての誇りを汚すことであると彼は幼い頃から教えられてきた。
しかしファルクの表情は微動だにしない。
「左様でございます。ビジネスをなさるのです。この国の財政を立て直し、没落しかけている貴族を救うため国王陛下は新たな道を模索されておられます。そしてそのために私は国王陛下から使命を受け貴家へとやって参りました。貴族の権威を守るためこれまでの常識にとらわれている場合ではございません」
アイザックは愕然とした。
脳裏をよぎるのはこれまで周囲からチヤホヤされ何不自由なく生きてきた自分の立場がルークの忠告や今回の出来事でまるで砂の城のように一瞬にして崩れ去ってしまった現実だ。
その喪失感と父の無関心に対する怒りが彼の心を支配した。
商売など考えたこともなかった。
だがこのままでは本当にすべてを失う。
貴族の権限を剥奪され社会の底辺に落ちるかもしれない恐怖が彼の胸を締め付けた。
「……分かった。ビジネスをやる。やってやるさ!」
彼の胸に宿ったのは悲痛な叫びにも似た強い決意だった。
「こんな僕を侮辱した貴族ども。そして僕をヴァルアール家を馬鹿にした庶民たち。貴族の力をビジネスという土俵で分からせてやる! 見せてやるさ貴族の俺の底力というものを!」
アイザックは自らの宿命と未来への激しい怒りを原動力にこれまでとは全く異なる世界へと立ち向かうことを決意した。
彼の瞳にはまだ見ぬ未来への不安とそれ以上の不屈の炎が宿っていた。