敗走
その日アイザックは体調が優れなくなり貴族のパーティーからはすぐに自宅に戻った。
あの冷たい視線と友人たちから聞かされた秘密の夜会の衝撃が、物理的な不調として彼を襲ったかのようだった。
豪華な屋敷のきらめきが彼にはただ虚ろな光にしか見えなかった。
そして翌朝、彼は王都から遠く離れた彼の実家ヴァルアール子爵家の領地へと向かうことを決めた。
まだ薄暗い早朝馬車に乗り込んだアイザックの表情は憔悴しきっていた。
王都を離れるにつれて道は悪くなり揺れる馬車の中で彼は堪えきれない吐き気に襲われ何度も窓から身を乗り出して胃の中のものを吐き出した。
彼の専属メイドであるリリアン・ウッドは馬車の片隅で心配そうに主人の様子を見守っていた。
栗色の三つ編みがわずかな揺れに合わせて静かに揺れる。
ヘーゼルブラウンの瞳は普段の冷静さを保ちながらも、その奥に深い憂いを宿していた。
質素ながらも清潔に整えられたメイド服に包まれた華奢な体は、しかしどんな時もアイザックの傍らでしなやかに動く。
「アイザック様、大丈夫でございますか? お水をお持ちしましょうか」
リリアンはそう言って慣れた手つきで冷たい水と手巾を差し出した。
その声には彼女自身の不安が滲んでいるのがわかる。
アイザックは力なく首を振り、乱れた息を整えながらかろうじて掠れた声で答えた。
「ああ……大丈夫だリリアン。ただの乗り物酔いだろう……」
その言葉は彼自身に言い聞かせているかのようだった。
しかしリリアンは知っていた。彼が乗り物酔いになることはありえない。
彼の顔色は青ざめ額には冷や汗がびっしょりと浮かんでいる。
そしてその瞳の奥にはパーティー会場で感じた疎外感が色濃く残っているように見えた。
外は相変わらず厚い雲が垂れ込め雨こそ降っていないものの世界全体が重く淀んでいるようだった。
馬車の車輪が泥濘を跳ね上げる音がアイザックの心のざわめきと重なり彼の未来への不安を一層掻き立てるのだった。
10日後アイザックが実家の領地に着く頃には体調は少し良くなっていた。
馬車が王都の喧騒を遠ざけ緑豊かな田園地帯へと深く分け入っていくにつれて彼の胸を覆っていた重い鉛のような感情は薄れていった。
窓の外には広大な畑が広がり、のどかな農村の風景とポツリポツリと集落が点在する。
そんな見慣れた土地に足を踏み入れたとき彼の心は久方ぶりに晴れやかな気分になっていた。
ここではすべてが自分の味方である。
何があってもヴァルアール家はこの土地と歴史に守られている。
そう信じていた。
彼は父に相談しようと決めていた。
厳格なところのある父だが幼い頃から非常に頼りになる存在だった。
その父に現状を伝え、共に考えれば今からでも没落を免れることができるのではないか。
王都での不安な日々から解放されるような思いでアイザックは馬車を降りた。
ヴァルアール子爵家の古城は周囲の豊かな自然に抱かれるように佇んでいた。
陽光が降り注ぐ午後の日差しは城壁に生い茂る蔦をきらきらと輝かせ城全体に古き良き時代の穏やかさを纏わせている。
城内に入ると一目見て高級品とわかる調度品が至る所に置かれ磨き上げられた床は光を反射しどこか時代遅れながらも品のある空気が満ちていた。
しかしその平穏は長くは続かなかった。
アイザックが自室に戻る間もなく騒がしい声が広間から聞こえてきた。
嫌な予感がしてそちらに向かうと見慣れない男たちが数人父と母に向かって大声で何かを叫んでいる。
彼らの手には請求書が握られていた。
「子爵様、いい加減にしていただきたい! この借金はいつになったら返済されるんですか! 我々も慈善事業をやっているわけではありませんぞ!」
男の一人がテーブルを叩きながら声を荒らげる。
その横でアイザックの父であるヴァルアール子爵は相変わらず優雅にティーカップを傾け、どこか暢気な笑みを浮かべていた。
子爵はかつて歴戦の戦士として名を馳せたというに相応しい引き締まった体躯と深い眼光の持ち主だった。
その顔には幾多の修羅場を潜り抜けてきた証拠のようにうっすらと傷跡が刻まれていたが、今の彼は戦場での獰猛さとは無縁のどこか浮世離れした雰囲気を纏っている。
「おお君たちか。いつもご苦労なことだ。だが私は今母上から伝わる至高の茶葉で淹れた紅茶を愉しんでいるのだ。もう少し後にしてもらえないか。ヴァルアール家が返済できないなどということがあるはずがないだろう。心配せずともいずれきちんと支払うさ。なにしろ我が家は古くからの名門だからな」
母であるヴァルアール子爵夫人もまた優雅に扇子を広げ口元を隠しながらくすくす笑っている。
「そうですよ。このヴァルアール家がたかがお金ごときで困るはずがございませんわ。あなた方ももう少し心にゆとりを持たれたらいかがです?」
借金取りの訪問。
そして目の前で繰り広げられる両親の理解不能なほど楽観的な態度。
ルークの忠告パーティーでの疎外感や馬車の中で見た請求書の山。
これら全てがアイザックの中で一気に繋がり激しい怒りとなってこみ上げてきた。
「父上! 母上! 何を悠長なことを言っているんですか!」
アイザックは声を荒らげ二人の間に割って入った。
貴族のパーティーで周囲から馬鹿にされ仲間外れにされた屈辱が怒りの燃料となって燃え上がる。
「王都ではヴァルアール家が破産寸前だと噂されています! 僕がパーティーでどれほど恥ずかしい思いをしたかご存知ですか! 借金取りまで家に来る始末で一体どうするつもりなんです!」
品の良い部屋の隅々までアイザックの怒声が響き渡る。
だが彼の剣幕にもかかわらず両親の表情は驚きこそすれ根本的な危機感を帯びることはなかった。
父はただ眉をひそめて言った。
「アイザック大声を出しては品がないぞ。それにそんな子供じみた噂に惑わされるものではない。ヴァルアール家が没落などありえない話だ。我々は代々この土地と富を築いてきたのだからな。それに国王がヴァルアール家を裏切るなんてありえない」
その言葉にアイザックの焦りは一層募った。
友人からの忠告と両親の現状認識の間の途方もないギャップが彼の心を絶望へと突き落とす。
このままでは本当にすべてを失ってしまう。
彼はこの豪華な部屋でこれまでの人生で最も深い不安に苛まれていた。