社交界
満点の星空を厚い雲が覆う夜ヴァルアール子爵家嫡男アイザック・ヴァルアールは華やかな貴族のパーティーに招かれていた。
そこはまさに彼が主役とでも言うべき場所だった。
完璧なまでに整った容姿生まれながらに備わる気品そして何一つ不自由ない立場。それらすべてが彼を取り巻く人々の羨望の的となっていた。社交場では彼がわずかに微笑むだけで同年代の貴族令嬢たちは頬を紅潮させ、若き貴公子たちはその一挙手一投足に熱い視線を注ぐ。
アイザックはそうした周囲からの賞賛を当然のこととして受け止め、むしろ自らの存在がこのきらびやかな世界に溶け込むかのように心地よさを感じていた。
彼は同世代の友人であるシュヴァルツ子爵家の嫡男ルーク・シュヴァルツと談笑していた。ルークはいつものように軽薄ながらも愛嬌のある笑みを浮かべ近頃の流行りや貴族間のゴシップそしてそれぞれの家の近況について淀みなく語り続ける。
アイザックはその話に半分耳を傾け、半分はきらめくシャンデリアの下で華やかに舞う人々の様子を楽しんでいた。
「――そういえば最近森の中の古城を買ったんだって? アイザックのところは相変わらず羽振りがいいな。本当に羨ましいよ」
ルークがそう言ってシャンパンのグラスを傾けた。アイザックは上機嫌に答える。
「当たり前だろう。ヴァルアール家は古くからの名門だ。それにうちの領地は豊かだからな。君のところこそ最近は新しい事業に手を出していると聞いたがどうなんだ?」
ヴァルアール家は遠い昔隣国の帝国との戦争でその名を轟かせた武門の家系だった。おびただしい数の武功を上げ、爵位は子爵。その功績と代々受け継がれてきた豊かな領地によって彼らは確固たる地位を築き上げてきたのだ。
ルークは一瞬顔を曇らせたが、すぐにいつもの調子に戻した。
「ああそれがさ、最近は大変だよ。ほらここだけの話最近は借金が増えて首が回らなくなっている貴族が増えているらしいじゃないか。中には屋敷を手放したなんて話も聞く。まあお前の家は古くからの家系だし大丈夫だとは思うけどな。それにしてもお前、最近ずいぶん派手に金を使っているように見えるが本当に大丈夫なのか? まさかうちみたいに綱渡りなんてことにはなってないだろうな? 近々国王の使者が介入するって噂になってるぞ」
その言葉はアイザックにとって晴天の霹靂だった。
彼はこれまでお金について深く考えたことなど一度もなかった。ヴァルアール家は常に豊かで望めば何でも手に入った。それはまるで空気のように当たり前のことだったからだ。
借金に苦しむ貴族など遠い世界の出来事でありまさか自分の家とは関係ないと思っていた。
内心で激しい動揺が走る。胸の奥で何かがざわつき冷たい汗が背中を伝うのを感じた。しかしこの華やかな社交場でそんな醜態を晒すわけにはいかない。
アイザックは努めて平静を装いルークに向けて薄く笑ってみせた。
「全く問題ないね。そういえば男爵家のバルト様は今日見ていないけどどこに行ったんだろう。挨拶しようと思ったんだけどね」
アイザックの言葉にルークはふっと鼻で笑った。その表情にはほんのわずかだが憐憫とそして明確な嘲りが混じっていた。
「バルト? ああ、あのバルト男爵のことか。彼ならもうこの手のパーティーには顔を出せないだろうさ。知らないのか? 彼の家はもうとっくに没落したよ。莫大な借金が嵩んで領地も屋敷も差し押さえられた。今ではどこかの片田舎でひっそりと暮らしているそうだ。パーティーどころか王都で彼の姿を見かけることすらもうないだろうな」
ルークはわざとらしく声を潜めて続けた。
「それにたとえ彼がここに来たところで誰が彼と話したがる? 没落した貴族など感染症のようなものだ。誰もが眉をひそめ遠巻きに避ける。下手に近づけば自分たちまで落ちぶれるとでも思われるからな。哀れなものだよ。貴族としての体面を保てなくなれば、もはやただの庶民と変わらない。いやむしろ庶民以下だね」
そのルークの言葉はアイザックの胸に冷たい鉛となって落ちてきた。親交のあったバルト男爵がその渦中にいたとは。しかも以前は様々な話で盛り上がっていたにも関わらず没落した途端この扱いである。
社交界から完全に締め出され存在すら許されないという現実が容赦なく突きつけられた。
そしてアイザックの完璧な笑顔が一瞬凍りついた。ルークの軽薄な口調の裏に潜む貴族社会の冷徹な現実が氷のように彼の心に刺さる。自分をちやほやする周囲の眼差しがまるで薄氷の上に立っているような危ういものに感じられた。
もしヴァルアール家もバルト男爵と同じような道を辿れば……。
想像することすら恐ろしい未来がアイザックの脳裏をよぎった。
彼は再び努めて平静を装い別の話題に切り替えようとした。
「そうか、そんなことになっていたんだな。それよりもあの新しいオペラの話でもしないか?」
ルークは疑わしげな視線を向けたもののすぐに興味を失ったように別の話題へと移っていった。アイザックは残りのパーティーの間も笑顔の仮面を被り続けた。しかしその耳にはルークの言葉がこびりつき脳裏を巡り続ける。彼の言うことは本当なのだろうか?
パーティーが終わり自宅へと向かう馬車の中。きらびやかな社交場の喧騒から離れ静寂に包まれた空間でアイザックはぼんやりと窓の外を流れる夜景を眺めていた。
ふと膝の上に置いてあった鞄が目に入った。それは執事が今日のパーティで受け取ったいくつかの請求書が入ったものだった。
これまで執事に一任していたためまともに目を通したことなど一度もなかった。しかしルークの言葉が頭から離れず妙な胸騒ぎを感じたアイザックは意を決して鞄を開けた。中には無造作に放り込まれた請求書が何枚も重なっていた。
それらを手に取り一枚一枚に目を通していく。
最初は理解が追いつかなかった。並べられた数字の羅列がただの記号のように見えた。だがいくつかの請求書に目を凝らした時彼はその金額の桁数に息を飲んだ。
一桁二桁……そしてこれまで想像もしなかったような大きな数字が彼の目に飛び込んできた。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。動揺が全身を駆け巡り手が震えそうになるのを必死で抑え込んだ。これは一体どういうことだ? 自分の知っているヴァルアール家とはまるで違う姿がそこにはあった。信じられない信じたくないという思いとルークの言葉が妙な真実味を帯びてくる感覚にアイザックはひどく困惑していた。
馬車の揺れが彼の心の動揺とシンクロしているようだった。