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46.ハンカチの想い

 エドワードは苦悶に満ちた表情で、森の奥深くを駆けていた。


 枝という枝が彼の頬を引っ掻き、足音が絶望の響きを立てる。息は荒く、心臓は破裂寸前だ。


(ああ、一体どうして……リリアナ様があのような卑しい男と……)


 答えは見つからない。


 あまりにも唐突で、あまりにも残酷で、


 彼の思考は混沌の渦に呑み込まれていく。


 キスの映像がよみがえっては消え、……エドワードはついにひざから崩れ落ちた。吐き気に抗えず、地面に向かって胃の内容物を戻してしまう。


「ぜえ……はあ……ぜえ……はあ……」


 荒い呼吸。


 ……人気は人を変えるという。だが、あれでは別人ではないか。あの気品に満ちたリリアナ様が、見知らぬ男と……。


(別人……?)


 その瞬間、エドワードの瞳に光が宿った。


(もしや……誰かが化けていたのではないか? 私が早とちりしたのではないか?)


 エドワードは震える手で額の汗を拭い、近くの岩に腰を下ろした。呼吸を整えながら、記憶を辿らせ始める。


 冷静になって考えてみると、確かに妙な点があった。


(リリアナ様に失礼を申し上げるつもりは毛頭ないが……)


 彼の脳裏に、掲示板で散々書かれていた心ない言葉が蘇る。リリアナ様の慎ましやかな体型について、揶揄やゆする書きこみだ。


(だが、先ほどの女はどうだ? 下品にむくんだそうきゅうを、恥じらいもなく見せびらかしてきたではないか)


 それだけではない。


(リリアナ様に想い人があったとしても、人前で行為に及ぶような方では断じてない! あの厚顔こうがん無恥むちな態度には、心当たりがある!)


 だが、さきほどの衝撃的な光景を目の当たりにした今、更なる確証が欲しかった。


 ふと、彼は自分の腕に目を向ける。


 そこには、若草色のハンカチが巻かれていた。


 カレイドとの激闘の際、リリアナ嬢が自らの手で巻いてくれた包帯代わりのハンカチ。あの時の彼女の優しい指先の感触が、今でも鮮明に蘇る。


 エドワードは震える手でハンカチを慎重にほどいてみた。


 すると——





『愛しております』





 糸で丁寧に縫われた文字が、ハンカチの裏側に隠されていた。


 エドワードの瞳から、ポツポツと大粒の涙が零れ落ちる。


(リリアナ様……)


 彼女がこっそりとメッセージを残してくれていたのだ。


 エドワードは自分のほおを思い切り叩いた。


(なぜあの化け狐をリリアナ様だと勘違いしたのだ! あれはきっと、リリアナ様の天敵の誰かに違いない!)


 奥歯を強く噛みしめ、彼は勢いよく立ち上がる。


 もしもリリアナ様に成りすます敵がいるのであれば、一刻も早く始末しなければならない。でなければ、本物のリリアナ様の身に危険が及んでしまう。


「正体を暴いてやる!」


 エドワードは森を駆けて引き返した。


 洞窟が見え、彼は剣を構える。


「リリアナ様に変装する敵め! その卑劣な正体を現せ!」


 勇んで洞窟に向かって駆け出した——が。


 洞窟の前には、十数名を超える重装備の兵士たちがずらりと並んでいた。彼らは既に臨戦態勢を整え、エドワードの到着を待ち構えていた。


 洞窟の入り口には、先ほどまでリリアナ嬢に化けていた女が立っている。


「ふふ。やはり来たか」


 彼女はしゅうあくな笑みを浮かべながら兵士たちに合図を送った。


「さあ! 反逆者エドワードを捕らえよ!」



 ♢ ♢ ♢



『私は随分とリリアナ様……あなたという方を、勘違いしていたようです! とても残念です! あなたのようならちな女性など、断じて好みません! さようなら!』


 エドワード様がそう言い放たれる瞬間──わたくしの世界は音を立てて崩れ落ちました。


 どういうことでございましょう!


 エドワード様がわたくしに、このような残酷な言葉を投げつけられるなんて!


 腰の力が抜け、ぺたりと工房の床に座り込んでしまいます。


 涙も出ません。脳が現実を受け入れることを拒否しているのでしょう。ただ呆然と、手鏡を握りしめているだけでした。


 あの優しい瞳で見つめてくださったエドワード様が、あの温かな声で励ましてくださったエドワード様が──まさか、わたくしをこれほどまでに嫌悪されていたなんて。


「リリアナー! 調子はどう? 私の仕事着を染めて、動物の模様を入れてほしいんだけど──」


 扉が勢いよく開かれ、宮廷画家のロゼリア様が陽気に入ってこられました。肖像画対決で火花を散らした相手でございますが、今では良き仕事仲間として親しくしています。


 ロゼリア様は、もぬけの殻になったわたくしを見て、


「ひっ!」


 と小さく悲鳴を上げ、


「どうしたのリリアナ! 顔色が真っ青よ!」


 駆け寄って背中をさすってくださいました。けれど、恋の悩みをお話しするほど親密ではございません。わたくしは無理に微笑んで、


「ちょっと貧血かもしれませんわ。少し休ませていただきますね」


 ふらつく足取りで工房を後にいたしました。



 ♢ ♢ ♢



「元気をお出し」


 こういう時、心の支えとなってくださるのは大家のドスナ様だけです。


 彼女の温かな笑顔を見た瞬間、せきを切ったように感情が溢れ出してまいりました。母親の懐に飛び込むように、わんわんと声を上げて泣いてしまったのです。


 ドスナ様はわたくしの頭をやさしく撫でながら、穏やかな声で励ましてくださいます。


「あの騎士がお前さんに見切りをつけたのかい。人生、何が起こるかわからないものだねえ。山あり谷ありが世の常さ。私も若い頃は、たくさん恋をしてたくさん傷ついたものだよ。


 騎士の坊やも酷いことをするじゃないか。こんなに可愛らしいアンタを、動画一つで振り捨てるなんて。今度顔を見たら、頬っぺたを思いっきりはたいてやるからね。任せな!」


 ドスナ様の飾らない物言いが、すさんだ心に灯りをともします。





 しばらく泣き続けていると、パタパタと軽やかな足音が近づいてまいりました。


「ねえねえ! リリアナちゃんが来てるって本当?」


 子犬のような無邪気な笑顔で現れたのは、ドスナの息子様でございます。彼を助けて以来、すっかり懐いてくださっているのですが……。


「女同士の話だよ! お前は入ってくるんじゃない!」


 ドスナ様が手をひらひらと振って追い払おうとなさいますが、


「ねえ、リリアナちゃん! 僕とデートしない?」


(はい?)


 ドスナの息子様──名前はジル様でしたっけ?──は、裏表のない瞳で、まっすぐわたくしを見て微笑まれたのでした。

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